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そば屋に「庵」の付く屋号が多いのは、なぜ。 (役に立たないそば屋の話2)

 

 名前を決めるのは、とかく苦労するもの。
 
だから、その世界で名を上げた人や、価値の定まった呼び名などから、
 その功績にあやかるように、と願って付けることも多い。

 この頃だったら、「翔平」と名付けられた男の子も多いことだろう。
 私の時代には、人気の映画から「真知子」「小百合」と名付けられた女性も多かったなあ。(いつの時代の話だろう?)

 そば屋の名前も同じ。
 賑わっているそば屋と似たような屋号をつけて、その人気にあやかりたい、という気持ちが見える店がある。

 そんな気持ち、昔から変わらないのだね。
 そば屋に○○庵と「庵」という名多く付けられていたのも、そんな気持ちからだったのだ。

 ということで、今回は江戸時代は中頃のお話。

 「おいおい、熊さん。」
 「おう、なんでえ、八つぁん。」

 「聞いたかい。浅草の観音様の近くに、
  なんでも、えれえ評判のそば屋があるっていうじゃねえか。
  おめえ、知ってるかい。」
 「おう、あたぼうよ。食い物屋の話なら、おいらに任せろって。
  観音様の近くって言えば、ああ、あそこだな。」

 「どんなそば屋だい。」
 「あそこはそば屋じゃねえな。」
 「そばが評判なんだぞ。そば屋でなくて、何なんでえ。」
 「ああ、そばを出しているが、そば屋じゃねえ。」
 「そばを出せばそば屋だろう。」
 「いや、あそこは寺だ。」

 「えっ、寺だって」
 「おおそうとも、念仏講の時に、そばを振舞ってくれるんだ。」
 「ええ、それじゃ、ナムアミダブツって唱えないと、
  そばにあり付けないのかい。」
 「それが、そばを目当てに来る奴が多いんで、
  今じゃ、お念仏の時だけじゃなくて、
  頼めばいつでも喰えるようになったんさ。」

 浅草にあった一心山極楽寺称往院(しょうおういん)なるお寺。
 この境内に、道光庵(どうこうあん)というお堂があった。

 庵というからには、きっと本堂よりは小さかったのことだろう。
 そうでなければ、釣り合いが取れないものね。

 ここの庵主が信州の出身で、檀家にそばをふるまった。
 浅い椀に、真っ白なそばを盛り、辛み大根の絞り汁を添えて出したという。
 さすがにお寺だから、魚の出汁は使わなかったのだね。

 このそばが、江戸っ子のあいだに大ブレーク。
 門前には、このそばを目当てに、人々が押し寄せたんだ。

 この時代の川柳にこんなものがある。

  道光庵草をなめたい顔ばかり

 この句は、落語の「そば清」の話を枕にしている。
 どんな話かと言うと、、、。

 そば好きの清兵衛は、信州の山奥で、大蛇が人を飲み込むのを目撃する。
 さて、その腹の膨れた蛇が、ある草をぺろぺろと舐めると、あら不思議、腹がすっとへこんだのだ。

 これは強力な消化薬だと早合点した清兵衛、その草を摘んで江戸に持って帰ったのだ。
 実は、その草は、人間の体を溶かしてしまう、「蛇含草(じゃがんそう)」という恐ろしい草だったのだ。

 そうとも知らぬ清兵衛は、お金を賭けて、そばの大食いに挑戦する。
 そして、あと少しのところで、苦しくなってしまう。
 そこで、懐に入れておいたこの草をぺろりと舐めたのだ。
 すると、、、、、、、、、、。

 、、、、、というような話。
 つまり、腹がいっぱいになるまで食べて、苦しくなる。
 もしあるのなら、そんな草でも舐めてみたいような顔をしている、ということ。

 そんなになるまで食べられるほど、この道光庵のそばはおいしかった、ということだ。

 さて、評判はどんどん高まり、この時代のミシュラン、じゃなかった食べ物屋ランキングの、上位入賞を果たすことになる。

 面白くないのは他のそば屋さん。
 そらならこっちも、道光庵をまねて、庵の字を屋号にいれてみようか。

 ということで道光庵の賑わいにあやかって、そば屋の屋号に、○○庵というのが使われるようになったのだ。

 ちなみに1,800年前後の江戸の名所案内には、こんな名前が載っている。
 東向庵、東翁庵、紫紅庵、雪窓庵、長寿庵、松月庵、大村庵、萬盛庵、、、

 なかなか風流な名前だ。
 中には今に続いている屋号もあるね。

 こうして、道光庵のそばを目当てに大勢の人が訪れる。
 道光庵の名前は知れ渡る。
 でもね、本堂の称往院の方はちっとも名が売れない。
 当たり前だ。こっちは真面目なお寺だからね。

 つまり、人気では、「庵」が「本堂」より大きくなってしまった。
 こういう風になると、黙っていられない人がいるんだ。

 「おおい、熊さん。てえへんだ。」
 「なんだい、八つぁん。そんなに慌てて。」

 「あの、そば食い寺の入り口に、石が立ったんだ。」
 「ばか言うな。石が自分で立ったり座ったりするけぇ。」

 「いや、そうじゃないんだ。
  字が書かれた、石の柱が立ったんだ。」
 「へえー、それで、なんて書いてあるんでぇい。」
 「それが難しい字で、なんて書いてあるのか、よく分かんねえんで。」
 「それじゃしょうがねえな。」

 「人の話では、そばは境内に入っていけねえって、
  そう書いてあるって言うんだ。」
 「それじゃ道光庵はどうなったんだい。」
 「そうよ、もうあそこでは、
  そばは喰えないことになっちまったらしい。」

 そば屋稼業にうつつを抜かし、寺としての務めがおろそかになった道光庵に、ついに親寺の称往院の住職が、切れてしまった。

 門前に「不許蕎麦」と書かれた石柱を立て、境内でのそばの販売を禁じてしまったのだ。
 こうして、「庵」の名を他のそば屋に残して、道光庵のそばは終わったのだ。

 関東大震災の後、称往院は世田谷に移った。
 そして、今でも門前に、「不許蕎麦」の石柱が立っているとのことだ。



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