「自分の為にのみ動く人」について

「自分の為になること」しかしない人々のせいでこんな目に遭うんならそいつごと自分も殺した方が幸せだ、生きてるだけで存在悪だ、悪意と何も変わらない。言ってることに微塵も共感できない、支離滅裂さしかないのに何故私は安安と受け入れている?「従っている」のと変わりがない。

「自分の為になることしかしない」とは誰かが泣いてもそれは考慮しないという意味だ、見て見ぬふりをして自分のためになることを優先している、そして彼は自分の為に文を読んで考慮にいれる、私には彼の目的や動機、優しさや何を展望としているのかすらわからない。お互いそれを感じているのにそれを無視するというのは私との関係はどうでもいいということになる。ジェスチャーや口調、トーンや目付き、表情全てが自分だけの為になる悪意に満ちたものに見えてしまって仕方がない、(私的な病状も絡んでのことなので)これを本人の前で書いていると思うと少し同情せざるを得ないが、私も同じ気持ちだろう。


と思っていた、だが怒りと共に論理的に考えてみると


「自分の為になることしかしない人」は人間が皆同じように自分の為に「も」動いていることを知らない、純粋に利己的か純粋に利他的かで他人にコミュニケーションしていることを理解していない、恐く信じているせいでこのことを理解できない、利己的と利他的が統一された概念ならそれを理解できるだろう。

「個人は他者の利益や行動も考慮する」と考える、社会的選好という経済学の概念に当てはめれば自己に信頼している何かに相当するものを他者に信頼していないという結論に至る、それに通ずる私なりの概念として利他の概念を他者の存在を補填している概念である。

彼等は自己の存在を補填する物事に信頼を寄せる、他者に対する自己の存在を補填するものを補填することも利他的行動として見ていることを感じているがそれを彼等の利他的行動の中に見出している。彼等は自己を担保する事が彼等の善行を補完する行為になっている、そこが私との大きな違いとなる

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