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ジェンダー・フルイディティ・レポート(男湯/成人映画館/個室ビデオボックス)

Die Farben sind Taten des Lichts, Taten und Leiden.
色彩は光の行為である。行為であり、受苦である。

ゲーテ『色彩論 - Zur Farbenlehre

ジェンダー論を構成している論理成分は、主観的で文脈依存的な対象の研究として嘗て色彩論が辿ったそれと多くの部分において共通している。したがって、もしあなたがジェンダー論を数多く紐解きながらも期待したような<きづき>に到達できないフラストレーションを抱えているならば、それらを脇において色彩論を学ぶことが存外手助けになるかもしれない。

ジェンダーと色彩の社会的処遇における決定的な差異は、ジェンダーの場合はバイナリー(白黒二値)な認知のほうが常識的で正常だとされてきた点にある。周知のように、少なくとも現時点では、ヒトは雌雄どちらかであることが当然であると信じて疑わない人が大半だ。しかし、光学におけるプリズムに匹敵する発見が成されることこそないにしろ、ジェンダーのスペクトラムやフルイディティー(流動性)に関する生物学的研究は少しずつ成果をあげてきている。

おそらく、特定のジェンダー・ステートと個人のアイデンティティーが固く結びついてしまう原因は<うつわ>としてのソリッドな社会環境だけである。特定のジェンダー・ロールに強固に束縛する他者の集団が無く、環境のほうが柔軟かつ多様に変容するならば、ジェンダー・ステートもそれに応じて如何様にも変化しうる。それは元来無色透明であり、ある<べき>姿を持たない。わたしは生物学的な研究の専門家ではないので生物学的な見地から独自の見解を述べるのは差し控えるが、その代わりにわたしの身を多様な環境においた場合どのようにジェンダー・ステートが変容するのか、というサンプルの提供を試みてみようと思う。

Ⅰ : 男湯

女性が入ることを禁じられている男湯は極めてシスジェンダーな環境である。わたしはジェンダー・ステートがF(女性)寄りになっている時は男性の肉体に欲情することが確かにあるのにもかかわらず、陰部を露出して歩き回る男性たち、という性的刺激を目の前にしながら、自分でも不思議なほど欲情しなかった。わたしのジェンダー・ステートがM(男性)側に大きく振れた原因は以下のように推定できる。男湯という環境をわたしと共有する男性たちは、わたしの股間にペニスがついているのを認識したうえで、わたしを男性であると判断し、わたしに股間を見られても何とも思わないという態度を示すのである。わたしは実は<女性に間違われる>という身体的特徴を持っているが、それでもなお<ついている>ことによって生物的にはかろうじて男性であり、そのことが当事者全員が全裸である男湯という環境によって視覚的に明瞭に裏付けられることによって、ヘテロセクシャルな男性としての居場所をついに獲得するのである。

Ⅱ : 成人映画館

成人映画館は女性の身体への強い欲求が渦を巻きながらも、それを充足させる手段が限られているために、生物的に男性の当事者でも、女性としてその場で振る舞う気さえあれば、実際にそうできる可能性が高い場である。女装家の間で<パス率>と呼ばれるパラメータ、女性として周囲が認めうるかどうかの閾値は、ポルノ映画鑑賞のための暗い照明、コロナ対策のためのマスク、そして眼前の巨大なスクリーンに投影され続けるセックス映像によって焚き付けられた男性たちの見境ない性欲によって極限まで引き下げられる。前述のように、平時から女性に間違われやすい身体的特徴を持つわたしは、初めてこの場を訪れた際、ノー・メイクでパーカーと長ズボン姿のまま、つまり女装に相当することを何もしていない身なりで座席に着いていたにもかかわらず、5分もしないうちに周囲を痴漢に囲まれ、その慰みものとなってしまった。複数の男性に一度に欲情されたわたしは、今までに経験したことないほどF寄りのジェンダー・ステートを体感した。この暗転空間の中にいる限りは、生物的な男らしさが希薄である故に男としてのジェンダー・ロールを全うするに至らない中途半端なわたしの「女として生まれてきたらよかったのに」という願望が擬似的に叶う。現在その成人映画館は、わたしと同様の境遇を抱えるトランス女性が集う場所として定着しており、トランス女性同士の連帯はさらにわたしのジェンダー・ステートを女性へと固定してゆく。

Ⅲ : 個室ビデオボックス

わたしが訪れたある個室ビデオボックスは、薄暗い廊下の大きな姿見、個室どうしを繋ぐ謎めいたのぞき穴、ある許可を示すためのドアノブの鈴、より明確なメッセージを示すためのホワイトボードなど、象徴的なアイテムを駆使して構築した世界観によって、多様な性的マイノリティの出会いの場として独特な存在感を持つに至った空間である。どちらかといえばネット掲示板などにおいてあらかじめコンタクトを取って「〇番の部屋にいます。」というアポイントを取ったうえでコトに及ぶというマナーが定着しているので、そのようなアポイント無しで不意に入っていった場合、単に個室でビデオ鑑賞をしながらひと晩過ごしたいだけなのか、より積極的な性交渉を求めているのかは周囲に対して定かでない。意外なことと思われるかもしれないが、このようなアブノーマルな空間を構成している当事者は、そこへ実際に訪れたことのないまま、ネットの海の中で膨らませ続けた勝手な思い込みの中にいる<彼ら>よりずっと常識的な人間たちであり、それゆえに、たいていの場合何事も起こらない。しかし、この<のぞき>的な交渉もまたフェティッシュな快楽をもたらす。女装家とゲイが同居しているこの色彩豊かな空間では、ジェンダー・ステートはひとつ処に定まることを強要されることもなく、常に流動的なままでいつづける。服を着ていないといけないはずの場所で裸でいても許され、ジェンダー・ロールにも縛られず、いつの時代のものかも定かでない色褪せたVHSテープから流れるポルノ・ビデオをテレビに投影しながら、なにものでもなくなることができる。それはうっとりするような開放感だ。

わたしは(あなたたちと違って特別に)ジェンダー・フルイドである、とは思っていない。生い立ちの違いによってそれに気が付いていないだけで、<もともとは誰でも>少なからずジェンダー・フルイドなのだと思う。伝統的な社会においては、シスヘテロを全うしながらジェンダーの流動性についてなど見なかったことにするほうが遥かに有利だ。生まれついた性の<それらしさ>に恵まれ、見目麗しい異性のパートナーと結ばれた者が勝者と見做される。しかし、何らかの理由や事情によってその道から逸れてしまった者だけが見える色彩豊かな世界というものもまた、存在するのである。

ジェンダー・フルイドは社会秩序を乱すだろうか。少なくともわたしはそうは思わない。もちろん、交通事故から戦争に至るまで、あらゆる社会的リスクはゼロにはならないので、ある極めて低い確率において<望ましくない事象>は必ず発生するだろう。しかし、例えば女子トイレにトランス女子を許容すべきかといった、シスヘテロな社会と性的マイノリティの軋轢に関する議論については、ジェンダー・フルイディティーを社会秩序を保つためポジティヴに援用することも可能だと思う。あなたの周囲のトランス女性が<問題を起こしかねない>と思うのならば(わたしは前述のように性的マイノリティーの持つごく常識的な行動規範からそれはほぼ起こらないと思うが)、あなたは彼女を否定/排斥するのではなく、彼女を男性として強く容認し、彼の男性としてのジェンダー・ロールが満足のいくものであるような合理的配慮を行うことによって、秩序を保つことができるかもしれない。あるいは、あなた自身にも内在するであろうジェンダー・フルイディティーを開放しようと試みてみてもよいだろう。そうすれば、トランス女性の<きもち>が幾らかは理解できるようになり、より前向きなコミュニケーションが取れるようになるだろう。

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