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閉じられた場所での過去の継承、未来の模索ー李琴峰「彼岸花が咲く島」

 ※初めて読書日記を書いてみます。

 SF小説。
 作者の李琴峰はこの小説をそう位置付けている。確かに、存在しない空想の〈島〉を舞台とし、時代設定は過去のようでも、現在のようでも、未来のようでもある。登場する人たちが使う言葉は、日本語のようでありそうではない、不思議な言葉。そうでありながら、物語の中の人々の生き生きとした感覚は、私が現実世界で接している感覚と何度もリンクした。
 比較的薄い本ではあるが、スラスラとは読み進められない。謎めいた言語や現代世界とはかけ離れた生活の姿に、想像力を駆使しながら読む必要があるからだと思う。それでいて、人物や風景の描写は色や熱が触れられるように豊かだ。そのような鮮やかな〈島〉で生きる游娜、記憶を失って島に流れ着いた宇実という2人の少女を軸に、物語は進んでいく。

 のちに宇実と名付けられる少女は、全く記憶を失い、身体のあちこち気絶するほど痛む状態で、彼岸花の咲き誇る〈島〉の海岸に横たわっている。そこで、游娜と「オヤ」の晴嵐(この島では血縁関係の親子は存在しない)に見つけられ、命を救われる。
〈島〉には「ノロ」と呼ばれる島の指導者がおり、頂点には「大ノロ」がいる。この指導者は女性のみしかなれない。〈島〉の子どもは血縁のない〈オヤ〉のもとで育つが16歳で成人となり、住む場所も生活の糧・仕事も全てノロから割り当てられる。
 宇実の話す言語は現実世界で日本語とされる言葉だが、物語では「ひのもとことば」といい、漢字が使われない言葉である。游娜たちが話す〈島〉の言葉は「ニホン語」であり、琉球語や中国語や日本の古語が混じったような言葉だ。そして、〈ノロ〉だけが使う「女語」が、ほぼ私たちが使う日本語である。この言葉はノロを目指す少女しか学べない。しかし、游娜の友人である少年拓慈は、密かに「女語」を身につけ、女性にしかなれない〈ノロ〉になりたいと思っている。游娜や拓慈たちと過ごし、心を通わせる中で〈大ノロ〉に面会した宇実は、次第に游娜とともに〈ノロ〉を目指すようになる。しかし、〈ノロ〉となった者にしか明かされない島の歴史で、〈ノロ〉の立場が何故女性だけに限られているかの残酷な理由を知る。そして、拓慈にその歴史を伝えるか否か躊躇ったとき、これまでのような3人の無垢の友情にひびが入る。  

 〈ノロ〉を頂点とした女性が支配する排他的世界は、緩やかで穏やかで、好天の下の海の凪のように平和だ。しかし、宇実という「よそ者」を受け入れ、その異質な者に〈ノロ〉という地位ある立場を与えようとしたことで、心地よい水面に小さな石を投げ入れたときのように、波紋が広がっていく。世界はそれまでと同じままではいられなくなる。しかし、その変化によってこそ、より大きな前進をもたらす。それは、「よそ者」を受け入れた者と、受け入れられた者の交差するところでしか生まれない文化、という化学反応があるからだと思う。どこの者かも分からない宇実を1人の人間として親身に助け、言葉の障壁があるにも関わらず、互いに分かろうとする。宇実は自分がどこでどう生きていたのか思い出せないままだが、そんなことは構わずに、今ここにいる宇実に游娜は心を寄せる。その心からの人の優しさの伝導が、他では起きえない化学反応を引き起こす。
 翻って、現実世界はどうだろう。
 世界中をヒタヒタと覆いつつある破壊、排除、暴力。物質的には一見豊かだが、資本主義が限界を迎え様々な壁に苦しむ人々が、非寛容になり、怒りの矛先を弱き人たちに向ける光景が、そこかしこで散見される。人は、そんなことで幸福になれるばずはないのに。
 この「彼岸花が咲く島」は、そんな不幸も経験した先の世界だ。失敗に疲れた人々は、指導的立場を女性に受け渡す。物質的豊かさとは一線を画し、分配と共存によって社会が成り立つ。SFとして描かれた世界に、仄暗い未来しか見えない現実世界を重ねた。大胆に既存の構造を変えることを想像してみると、未来への希望が開かれるかもしれない。

 物語の中では、ひびの入った拓慈との関係の先を見届けることはできない。
 「そんな万が一のことを、考えていても意味はないんじゃないかな?」 
 「その時はその時に考えればいい」
 海の細波を眺めながら、平穏で穏やかな未来を語る游娜と宇実。その夢が現実になることを、心から願う。もちろん、わたしに生きるこの世界にも。


 










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