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重箱の隅を突くコーナー 1

はじめに

 私の色々と興味のあることを適当にいってみるコーナーです。私なんてのは正直いって歯牙にも掛けない存在ですので、気に食わないと感じたらすぐにブラウザバックしていくださいね。

1.メモ

 フェミニズムという運動に向かって進む私たちの社会によって、性別は錯綜し、入り乱れて、その境目が若い世代を中心に、あるいはその社会に迎合するという形を伴っていよいよその輪郭線をはっきりさせようとしている。その中で、フェミニズムという運動そのものは男性として生きている私にとっては非常に触れづらいものであると思っていた。なぜならその学問で問われているのは女性であるからである。しかし、それらを俯瞰して、火傷のしない場所で眺めているうちに不思議と吸い寄せられて、その揺れ動く炎に違和感を感じるようになってきた。まるで飛んで火に入るしでの虫で醜く飛行していると自覚せざるを得ないわけだけれど、それでも、飛び込んだ以上は、火傷をするつもりで触れ合ってみよう。そうしなければ、その炎が狂った動きをしだすような気がして。

 フェミニズムにおける達成とは何かを考えてみる。女性第一主義といえども、昔から洒落としてのレイディーファーストという言葉があるわけだけれど。にもかかわらず、女性を学問するというところまで昇華させたのだから何か問題があるはずなのだ。そしてその問題を解決するための達成という、今は程度のほうが良さそうではあるけれども、概念や満足、納得の域があるはずである。ここで、女性の生理現象や生物学的な観点をと入りれるのはNGである。なぜならそれについてはすでに学問として成立しており、さらにフェミニズムという観点からも考察する必要性は正直いって感じられない。その点において、やはりフェミニズムとは一種のプロパガンダであると邪推しているのだ。女性の活躍という神話を用いてあらゆるところで女神を誕生させようとしているというか。そこには実際に生活する私たちの中の女性と、理論、思想の中で語られる女性との中で乖離が生じているように思う。言ってしまえば、18世紀ごろの人類学。西洋至上主義の中の西欧の世間体の中での西洋人がフェミニズムのニュアンスに含まれている。これは非常に危惧するところであって、理論が足をつかずに先に言ってしまっている。それでは1980年代、ポストモダニズムの失脚と同様の理由につながってしまうだろう。

とにかく今のフェミニズムには女性そのものを問うということの神話の成立に酔いしれている学者と物語の主人公であると錯覚して熱狂している女性本人が牽引しているのだろうと思われる。しかし、彼ら彼女ら自身もその中での女性という概念の何を問うかをしっかり定めていないのではないだろうか。女性としてどう生きるかという問いは社会がその枠組みを取り去って自由にさせてしまったことで路頭に迷った人間どもの妄想と神話である。もちろん成立してしまった以上、いわゆる動物としての本能を忌避し、真に女性らしいものは何かを何もない机の上で妄想しているのだ。フェミニズムの発展と社会や街、共同体の崩壊が彼女らの気品を保つために生まれた学問的側面であろう。また学問的であることと、勉強は少しニュアンスが異なる。学問として問うことがそのまま勉強というものにつながるとは限らない。私たちは試験のために数学について勉強することがあるが、数学自体を学問的に問うことはない。解き方を学びそれらはテストに向けられる。どちらも行為として共通部分が多く、勉強から学問への問いへ発展という形で繋げることが可能であるけれども、しようとしなければ繋がらない。

 またフェミニズムを問うことは同時に男性とは何かをも問うことにつながる。この社会はあるいは世界は女性のみで成り立ってはいない。フェミニズムの中で議論されとわれている内容を男性によっても聞き入れ軌道修正は必要なものである。しかし、その指摘というものは男性の立場からは非常に厳しい状態にあると言える。ここがフェミニズムが非常に厄介な思想であることの証左であり、彼女らがバッカイの踊り狂う巫女と諭される所以でもある。これは通説や俗説、いわゆる言うに及ばないものであったことであるけれども、元来として男性側からの意見というのは反対されてしまうものである。父の発言は娘には聞き入れずむしろその逆を唆すことにつながるし、それによって、違うことをしているという罪悪感と離反に一種の快感を覚えるのが我々人間というものであろう。しかし、私たち男性は立ち向かっていかなくてはならない。

 理論とは得てして現実を超えてしまうものであって、私たちが理性的でいられるのは、いわゆる動物を忌避し真に向かう先のない人間としての振る舞いを獲得しようとするのも、理論を私たちの頭の中で考えることができるからに他ならない。しかし真に人間であるというものを自然界の何からにも得られることがないために、その行く末には分岐が多く、数々の神話が生まれている。

フェミニズムの共通の観念あるいは達成項目とは、彼女ら自身がなんらか「自由」になる。あるいは解放されることである。




・・・

 ここからかく文章は上の文章とは少し時間をおいているので、上はメモ程度でそのまま残しておこうと思う。

 フェミニズムについて考えるということは、男性が考えるには取るに足らないという意識があるように感じているというのは変わらず事実だと思う。というのは、フェミニズムという単語と概念をわざわざ引用して、主張する人間のほとんどは過激思想であったり、極端である場合が多いのではないかという直感が働いているから。実際歴史的事実に基づいてみれば、女性は男性より低く見られていたという事実は文字に起こされなくてもその環境で理解できる場合が多いし、ヒステリーは女性の専売特許であるという感覚もあって、時にはそういう支離滅裂な発言もあるよねという多少の狂気に目を逸らす風潮があるのも否めないはずなんです。かといって、男性と同じように接してもらえなかったというだけで、差別であると糾弾し、その立場を改めるように忠告するということが、あるいは、その扱いを平等という概念で持って成立させるあるいは、それ以上に権力を持ち合わせることを目的とすることが、フェミニズムという、言い換えれば女性(第一)主義の目的には見えないと感じることが多く、では何をもってフェミニズムなんだろうかというちょっとした疑問があったことは正直に告白する所であります。
 私たち男性は女性のことが何にも変え難く好きなはずなのに、どうして彼女らは差別を受けていると感じているのか、憤りがあるのかと考えてしまうのです。多分この物言いも彼女らを苛立たせてしまいそうだと直感が告げているけれども。

 冒頭でも書いたように、私が思う直感での、フェミニズムのゴールとは、女性万歳賞賛神話を彼女らなりの言葉で確立させたいのではないだろうかというが、私のもつ答えです。神話とあるように例えば日本国であれば、それに相応しい物語としての建国神話が伝えられ、その日本という国のルーツ、存在の重みを簡単に理解することができると思います。国という存在の重みが、書物によって確かめられるように、彼女らもまた、女性であることの意義や、存在のありがたさを彼女らのうちから理解のできる形、激励だったり、応援のように、その根幹を支えるものを再定義したいのだろうなと感じています。つまりそれは国の神話のように、女性の神話を作ることが目的なのだろうなと思うのです。

 なので、私のような男性サイドから提出されるこのフェミニズムってこうなんじゃない?というような意見は実は、必要とされていないはずだと思います。この過程にたてば、彼女らは彼女らから出てくる言葉を紡ぐことでしか、その学問を成立させることができないはずで、出来上がったものの過激度を宥めることしかできないんだろうなとか考えてしまいます。
 ただ一方で、私たち男性と同様の言葉でそれらが作られていく時、考えなければならない事は、出来上がった神話が、既存の神話のようであってはならないと考えるはずです。なぜなら彼女らは、他でもない女性という概念が、おんなじような言葉で形容されることを望んでいないはずだからです。それは現実の色々な男女の違いをみても明らかで、男がいることに対して、女性はその差別化を自ら選んでいるように見えませんか。

 かくして、女性の神話は語られる。ここで語られるのは質量の持たない抽象的な女性性。言葉なく、貧弱であった私たちを歴戦の戦乙女に変えていくための魔法の言葉たち。

 私たちってこうだよね。だからここをこうすれば、男性とかいう私たちを縛っている象徴のような人たちはいらないよね。だって邪魔だと思わない?

 私たちって何かと不自由だよね。男と比べると明らかに生きづらい。でもこれって私たち自身のことを全く理解できていないからなのかな。だから私たちのもつこの女性であることについて、言語化してみようよ。

彼女らの生まれ持ったそれを概念として学問として問うことは、それだけ女性という立場で不満をもった経験をもつ人間が多いからに他なりません。そうでなければ学問として思索に耽らないし、概念的に問うという手法に至らないはずです。

 それらは、彼女らの映えない日常を塗り替えるには十分な応援歌であることは間違い無いのですが、それが概念的にとわれていること、つまり物理的現実の自然のから離れたところからの思想であるということを理解できていれば、そのような緩慢さにはつながらないはずです。人より、あるいは男より恐ろしい何かが現れていれば、そのような考え方には至らないはずだと考えています。

 私は、フェミニズムのかかえる問題点として二つあり、一つは女性性を考える際は男がその考えの対極として捉えられているという点と、もう一つの点は街の中というか、人が安全に暮らしている環境というか、そういう自然から離れたところでしかフェミニズムが捉えられていないという点です。そこがあるので、私の視点からすると、非常に机上の空論で、なおかつ、概念的、形而上的であると感じるし、男がその論点の敵になりやすいのだろうなと思っています。その意識と視野の狭さが、本来人間が捉えるべき自然環境や地球の問題に向いていかないことを憂いています。必要かもしれないが、そこまで性について厳密性を必要としないはずです。しかし、余裕がないのか、そればかりに目が向いてしまっているということなのだと思います。

 先ほども述べましたが、男性側から見たフェミニズムという言葉の所感ですので、私の言説は虚空に投げかけるようなものです。
 しかしながら、その過激さを自由の名の下に野放しにする事は、女性性を概念的に捉える行為は、人の認識として非常に危ういと感じることが最近は多いと感じるようになりました。それらがつまり詰まって、しまいには極左に至っては危険思想となってしまいます。彼女らが参照する女性性がマイルドな、けれども聞き甲斐のある言説となるように、いわゆる人という存在全体で、その性を考えることが有意義な選択と言えるのでは無いでしょうか。私は少なくともそういう学問であってほしいとおもいます。

 最近はミソジニーとかいう、男性優勢思想とも訳されそうな、考えを公言する人間も現れて、社会のフェミニズムという概念の広がりを感じずには居れません。それだけ、極端化することが迎合されている社会に今いるのだろうなと感じますが、かといってその思想には調和が見て取れないので、私は非常に危ういと感じています。

 さらに言えば、この教育や、考え方というのが現場によって実践されて、現実に落とし所のある、機知に富んだものになって欲しいとは思います。それ自体は多分私たちも理解可能で、なおかつ興味深いものになっているはずです。

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