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宵のまじない師

 昨晩ものみすぎたのだろう、寝覚めの気分は最悪だ。見あげれば、白亜の列柱。俺はその陰で横になっていた。暑い。入道雲のずっと先の、さらなる高みで、太陽がギラギラと輝いている。あと小一時間もすれば、南中するだろうか。しかし、ここは、どこだろう。よくわからぬまま、それでも俺は立ちあがった。もう少し、涼しいところへゆかねば敵わない。そして、人々の足を縫うようにして歩きはじめた。けれども妙だな。なにが妙かって、じぶんの足音がまったく聞こえないじゃないか。そう思って足もとを見ると、俺の手にはみっしりと白い毛が生えていた。
「まあ、かわいい猫ちゃんだこと」
 背後からそう聞こえて振りむけば、老齢の女がカメラを構えている。俺は、とっさにこの毛むくじゃらの手で顔を覆った。カメラはどうも苦手なのだ。
「まあ、なんてかわいい猫ちゃんだこと」
 猫ちゃんだと? 俺はいったん毛づくろいをした。いま、こうして顔に寄せた手のひらを見れば、ピンク色のそれは、まごうかたなき肉球であった。なんてこった! どうやら俺は猫になっちまったらしい。夢なら良いが、この頭痛は現実のそれだ。酒のみの俺がいうんだからまちがいない。しかし、どうにも記憶があやふやで、顛末が判然としないのだが。
 とにかく、ここは人が多くて落ちつかない。もう少し、静かなところで記憶をたどることにしよう。そう決めるが早いか、俺は駆けだしていた。しかし、どこへゆけばよいのだろう。
「きみ!」
 今度は、若い女の声が俺を呼び止める。声の主は、俺の数倍はあろうかという長毛種の犬だった。
「そんなに急いでどこへゆくの?」
「ちょっと、困ったことになって」
 俺は手短かに事情を説明すると、彼女は舌をだして笑った。
「この辺では、そう珍しいはなしでもないわ。その昔、ヘカベというトロイアのお妃さまは、犬になってしまったのよ、ご存じ?」
 そういうと、俺に尻を向け、ふさふさのしっぽをひとつ、大きくふって、ついてきなさいと合図をくれた。こなれた足取りで道をゆく、そのうしろから声をかける。
「のどがからからだ」
「もうすぐ公園だから」
「公園?」
「本式には、アテナ国立庭園というの」
 俺はいったん毛づくろいをした。そうして背後を振りかえると、さっきまでいた神殿が、丘に建つパルテノン宮殿だということに気づいた。
 さて、その緑豊かな庭園につくと、彼女は小さな池まで案内してくれた。池の水はいくらか匂ったが、ぜいたくもいっていられない。
「なにか、思いだせたかしら」
 まったくもってダメだ。二日酔いで頭が痛い。だから、分かるのは、昨晩、酒を相当量のんだということだけだ。けれども、二日酔いは毎日のことだ。従って、なにも思いだせないのとおなじだ。それを聞いた彼女は、また長い舌をだして破顔した。
 そこへ白と黒の一羽の小鳥が飛んできて、地面に降り立った。
「やあ、こんにちは」
「あら、セキレイさん、ごきげんよう」
「そちらの白猫くんは、お友だちかい?」
「ええ、ついさっきお友だちになったのだけど、彼も、もともと人間だったのよ」
 セキレイはさして驚くようすもなく、ただそのいきさつを問うた。
「それが、思いだせないらしいの」
「じきに思いだせるさ、ぼくたちもそうだったんだから」
 俺はいったん毛づくろいをした。彼らも人間だったのか。彼女は、先に触れたヘカベの末裔だそうだ。それからセキレイは、だいたい次のごとく語った。
 彼は、プロパジディコの客を相手に予想屋をやっていた。プロパジディコはいろいろの賭けごとを商売にする店だ。ところで、彼には恋人がおり、結婚も考えていたが、彼女の両親にはこれを反対されていた。定職にも就かない男だ、安心して娘を任せることはできない。
 さて、あるうすら寒い宵のこと、酒に酔った彼は、辻に立つ女と目があう。女は黒いドレスに金のうすぎぬを羽織っていた。波打つ黒髪は腰にまでかかり、その目は沈んだ海のような色をしていた。その妙齢の女が「お困りでしょう」と赤い口もとで笑って見せた。聞けば、まじない師をしているのだという。セキレイは、これをおもしろがって、身のうえばなしを聞かせた。彼女は大きくうなずき、「それなら、皆と同じようにスーツでも着て、毎日決まった時間に会社へゆけばよいのです。そういう仕事をお探しなさい」と告げた。「たとえそれが、自由でありたいというあなたの理想に反するとしても、群衆のひとりとして埋もれることが恐ろしいことであったとしても、彼女を愛するのであれば、困難にはならないでしょう」。そのとおりだ。彼は、明日にでも彼女の両親にあいさつにゆこうと決めた。まじない師は、「そのひとりになるのですね」と念をおした。彼は、もちろんだとも、と力強く応じた。
 以上が、彼がセキレイに転じた顛末だという。俺はいったん毛づくろいをした。まるで合点がゆかないな。いったいサラリーマンになるという約束で、どうして鳥になんてなってしまったんだろう。
「つまり」
 セキレイは尾羽をリズムよく上下させた。
「つまりだね、まじない師の言葉をもう一度見てみようか。彼女は、『そのひとりになるか』と訊いたわけだが、ぼくはそれを、群衆の中の『その一人になるか』という意味で理解した。しかしこれがちがっていたんだ」
 これに、ヘカベの末裔が補説する。
「まじない師はね、セキレイさんが、彼女のご両親へあいさつにゆく『その日、鳥になるか』と、そういう意味でいったのよ。それにしたって、いつ聞いてもおもしろいおはなしだわ」
 雲をつかむような小話だが、いっぱいくわされたということだけは知れた。気の毒にとこぼすと、セキレイは首を傾げた。
「なに、ぼくはちっとも不幸ではないよ。こうして自由に空を飛べる。この羽さえあれば、いつでも彼女のもとへ飛んでゆける。それから、毎朝、毎晩、彼女の寝室の窓をくちばしでつつくんだ。いつだって、彼女はぼくをあたたかく迎えてくれる。ぼくは、より自由に、彼女を愛せるようになったんだ」
 セキレイくんはオプチミストだ。ものは考えようだと、妙に得心してしまった。
 それより、俺は、ついに思いだしたぞ。俺も昨晩、そのまじない師に逢っていたのだ。いつものように倉庫番の仕事を終え、ゆきつけの酒場に寄ったのだが、普段より乱暴なのみかたをしたかも分からない。上長とケンカをして気が立っていたからだ。俺は作家志望だが、この退屈な、パイプ椅子に座ってさえいればよい仕事を選んだのにはキチンとしたわけがある。社長からは、暇なら時間を好きにしろとの許しを得ていたんだ。だから俺は勤務中に、ノート・パソコンで小説を書いていた。だのに、上長はいい放ったのだ、無意味なものを書くなと! なんてこった、平素、極めて温厚な俺が、そのときばかりは激昂してね、まあ、つまりだ、それで痛飲したわけさ。
 だいぶん酔ったせいかも知れない、隣に、若い女のいるのに気がつかなかった。この店にしては上等のボトルワインをのんでいる。装いの記憶はあやふやだが、長い黒髪だったはずだ。そして瞳は青かった。「お困りでしょう」。目があうなり女はいった。知らない彼女のひと言が、どこか耳に心地よかった。俺は、実に困ったものだと応じた。事実、俺の書いた小説は、いっかな賞がもらえない。近ごろは、もう才能がないんじゃないかと、半ば弱気にもなっていた。確かに俺は、そう吐露したのだ。するとまじない師は「それはとても難しいわね。才能と、運とが両立しなければ叶わぬ夢かも知れないわ」と微笑んだ。この情け深いひと言は、俺を、酔いと現実の残酷な交差点に立たせた。「もし」女は再び口を開く。「もし、あなたに、あてないのけものになる覚悟があるなら、その願いを叶えてあげてもよいわ」。
 俺には親しい友人もいない。両親も疾くに亡くした。きょうだいもいない。もとより当てないのけ者だ。何をいまさら、かまうもんか。頼む、俺を作家にしてくれ。と、まあ、藁にもすがる思いだったわけさ。
「なるほどね」
 流浪の末裔は、ことの次第を理解したようだ。
「どういうことだい」
 セキレイくんは首を傾げる。
「アテナの古名をアテナイというわね」
「そういうことか、きみは、ここ『アテナイの獣』になったわけだな。なかなかおもしろいじゃないか。小説にでもしてみたらどうだい」
 俺はいったん毛づくろいをした。簡単にいうな、世のどこに猫の作家がいる? こんな手でキーボードが叩けるか。それにだ、俺のアパートはペット禁止だ。もう、戻る家もない。俺はやはり、作家になんかなれないんだ。
「簡単にあきらめるなよ」
 セキレイはつづける。
「ぼくだって、絶望を経て、ようやく真実の愛にたどり着いたんだから。きみもなんとかなる。ぼくの彼女の家の子になればいい。もう五匹も猫がいる。一匹増えても変わらないだろう。パソコンも彼女のを借りればいい。やってやれないことはないさ」
「それは名案ね!」
 末裔は舌をだして笑った。

 俺はいま、セキレイくんの彼女の家で、他の猫どもに邪魔されつつも、懸命に原稿を書いている。
 ——宵の酒場に女学生がひとり。まだ仕事が見つからない。全部不景気が悪いのよ。もしこのまま仕事が見つからなかったら、ああ、どうしたらいいの。そこへ、山高帽の老紳士があらわれた。
「お困りですか? 便所そうじ、皿洗い、飛び込み営業、ブラック居酒屋。望みさえすれば、なんでもあなたの好きなものになれますよ」
「良いのマジないし」

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