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リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』にて

この書物では、ニスベットが、心理学実験を紹介しながら、西洋人が分析的(木を見つめる)思考をもち、東洋人は包摂的(森全体を見渡す)思考をもつことを、西洋人の立場から、描き出しています。

今回の記事では、人権の考え方に触れるところを取り出しておきます。

 人権……西洋人は、個人と政府の適切な関係はひとつしかないとかたくなに信じているように思われる。個人は周囲から切り離された社会単位であり、個人と個人、または個人と政府の間には、ある種の権利、自由、義務を伴った社会契約が結ばれている。
 しかし、東アジア人を含めた多くの人々は、社会を個人の集合とは考えず、それ自体を有機的な組織体として捉えている。個人に付与される権利の概念は希薄であるか、まったくないかのどちらかである。中国人にとって、あらゆる権利の概念は「一対多」ではなく社会における「部分対全体」という発想にもとづく。個人が権利をもっているという場合、中国人はそれを全体の権利のうちの個人の「持ち分」として規定する。
 西洋人の眼には、東アジアでは個人の人権が無視されているように映ることがあるが、それは単に倫理の問題として受け止められていることが多い。たしかに私自身も西洋流の個人的人権を重視しているし、東アジアではそれが守られていないことがあると思っている。しかし、東アジアの官僚の行動が倫理的に適切かどうかはさておき、彼らが異なった行動をとるのは倫理観が違うからであるとは限らず、個人のあり方についての概念が違うためかもしれない。われわれはこのことを理解しておく必要がある。また、個人の概念の違いは、世界を個体の集まりと見るか連続体と見るかという、最も基本的な形而上学メタフィジックスの違いとも関連している。
 さらに、東アジア人やその他の「相互協調的」な人々の眼には、西洋人の行動が非倫理的なものに映る場合があることも認識しておく必要がある。東アジアの学生は、西洋の教室で躊躇なく言いたいことが言えるようになると、西洋のメディアから受ける当惑について語ることが多い。あまりにもたくさんの騒乱や犯罪、露骨な暴力と性のイメージが氾濫しており、西洋人はそれを自由の名の下に放置しているというのである。アジア人はこうした問題が人権に関わると考えている。なぜなら、権利は個人ではなく集合体に内在するものとして捉えられているからである。――pp.221-222

第8章「思考の本質が世界共通でないとしたら」

さて、心理学実験によって、中国人も日本人と同じように、森全体を見渡す思考をもつ傾向にあることが改めて分かったのですが、それでも、私には、言語学的な違和感があります。

東洋人なら、状況を把握してから動作する主体を思考する傾向にあるので、文末に動詞をもってきた方が素直な言語活動ができるのに、なぜ、中国語の語順は、日本語ではなく、英語と同じなのか。

ただ、この違和感を解消する仮説があります。

秦の始皇帝はバクトリア人だったという仮説です。

バクトリアという国は、アレクサンドロス大王に植民地化され、焚書坑儒を経験しています。バクトリアは後に独立して、混乱していた中国を侵略したのです。ローマ帝国がヨーロッパに統一性をもたらしたように、秦は中国に統一性をもたらしました。その際、始皇帝は漢字を統一しただけではなく、西洋人が分かりやすい語順にしてしまったのではなかろうか。

それで、中国人は言語活動によって素直な思考ができずにいるのでは?

以上、言語学的制約から自由になるために。