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シーナ・アイエンガー『選択の科学』にて

今回の記事は、過去の記事「グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』にて(大要)」で取り出した「ランダムな要素から選択しなければ、新しいものは生まれない」ことを気にしながら遭遇した『選択の科学』に触れます。

 わたしは目が見えないが、目が見える人の言葉を多用して、この視覚主導の世界でコミュニケーションを図ろうとしている。「見なす」「見守る」「視線を向ける」等々。家族や友人、同僚が、わたしのためにいろいろなものを描写してくれるおかげで、目の見える人たちの世界を歩むことができる。この本を書くこともできるし、それによって、自分が一度もこの目で見たことがない世界を、鮮やかに描き出すことができればと願っている。わたしはこの世界の少数派だから、やむを得ず大勢に合わせるしかないのではと思われるかもしれないが、それは違う。わたしは「視覚言語」に通じているおかげで、穏やかで豊かな生活を送ることができるのだ。この世界の支配的言語を使うことで、目の見える人たちの経験に触れられるからこそ、自分の経験もうまく伝えることができる。この方法を今すぐに拡大適用して、多文化に精通する方法を編み出すことはできないが、まずは選択の語りの違いを知ることが大切だ。さしあたってはまず、見知らぬ土地と見知らぬ言語に、足を踏み入れてみようではないか。

――pp.126-127 第2講「集団のためか、個人のためか」

この書物で最もスピリチュアルな選択に触れるところは次の引用です。

 ジャズ界の巨匠で、ピューリッツァー音楽賞受賞作曲家でもあるウィントン・マルサリスは、ある時わたしにこう話してくれた。「ジャズにも制約が必要だ。制約がなければ、だれにだって即興演奏はできるが、それはジャズじゃない。ジャズには制約がつきものだ。そうでなきゃ、ただの騒音になってしまう」。マルサリスによれば、即興演奏の能力は、基礎知識を土台としているのだという。そしてこの知識が、わたしたちが「選択できること、実際に選択することを制限する」のだという。「選択しなければならないとき、知識は重要な役割を果たすんだ」。その選択がもたらす行動は、情報に基づく直感、つまりかれの言葉で言えば「超思考」に基づいている。ジャズにおける超思考は、ただ単に「正しい」答えを決定するだけのものではない。ほかの人には同じ音の繰り返しにしか聞こえないものの中に、新しい可能性を見出し、ほんのわずかしかない「有用な組み合わせ」を構築する能力でもあるのだ。
 わたしたちはこの超思考を通して選択の成り立ちを学び、この知識を利用して、それまでノイズしか聞こえなかった場所に音楽を生み出すことで、難しい選択を乗り越えることができるかもしれない。すでに多くの選択肢があるのに、さらに多くを要求すれば、強欲の現れと見なされる。選択に関して言えば、それは想像力の欠如の現れなのだ。これを回避するか、克服しなければ、多すぎる選択肢の問題を解決することは決してできない。

――pp.310-311 第6講「豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」

なお、その「有用な組み合わせ」とは、次の引用の意味で使っています。

フランスの数学者、科学思想家のアンリ・ポアンカレはこう言った。「発明とは、無益な組み合わせを排除して、ほんのわずかしかない有用な組み合わせだけを作ることだ。発明とは見抜くことであり、選択することなのだ」。わたしなら後の文をちょっと変えて、違う説を唱える。「選択とは、発明することなのだ」。選択は、創造的なプロセスである。選択を通じてわたしたちは環境を、人生を、そして自分自身を築いていく。だがそのために多くの材料を、つまり多くの選択肢をやみくもに求めても、結局はそれほど役に立たない組み合わせや、必要をはるかに超えて複雑な組み合わせをいたずらに生み出すだけで終わってしまうのだ。

――p.308 第6講「豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」

以上、言語学的制約から自由になるために。