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読解力の謎をスピリチュアルに考える #6

今回の記事では、形容詞と神聖幾何学とをつないでみせます。

西洋人が「何を(WHAT)」という問いを多用するのは、名詞で知識を体系化したいからであり、東洋人が「どのように(HOW)」という問いを多用するのは、動詞で知識を体系化したいからです。

そして、名詞と動詞のどちらにも片寄らない形容詞で知識を体系化したいなら、「なぜ(WHY)」という問いを多用することになります。

そのニュートラルな問いを体現すると、
それ相応の幾何学模様が存在感を増してきます。
神聖幾何学は「なぜ」という問いの結晶ではなかろうか。

人間の身体には、神聖幾何学を保管する能力があります。しかし、その保管に未熟な自我がかかわると保管が所有に変質してしまいます。神聖幾何学は所有するものではありません。一時的に預かるものです。

神聖幾何学は人間と共存し、同じ問いを生きる者の体験内容を共有します。恥ずかしい行為であっても容赦なく共有されます。恥ずかしいかどうかは、自我の基準によるものです。それも併せて共有されます。

幾何学 △ 体験 ▼ 形容詞

形容詞の意味はその現場を体験しなければ定まりません。なおかつ、当事者次第で、意味が異なります。ゆえに、たとえば、現場を追体験できない新聞記者は、うかつに形容詞を使うわけにはいかないのです。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

このように気づけるのは、私が言語意識を探究しながら、スピリチュアルな世界にも片足を突っ込んでいるからです。ただ、この気づきが絶対に正しいのではありません。こうしないと納得できない自分がいるのです。自分専用の教科書を自分で創作しながら、改訂を繰り返す独学です。

以上、この記事のつづきはまた別の機会に。