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読解力の謎をスピリチュアルに考える #1

話し言葉から意味を聞き取るために、私たちは霊能力を使っています。

会話の現場においては、お互いが「今ここ」に同調し、具体的な振る舞いや表情を手がかりに、共有したい意味が思い出せるように、霊的に、導かれているのです。だから、言葉遣いが下手でも意味が分かるようになりますし、上手い言葉遣いであってもその嘘に気づけるようになるのです。

ところが、書き言葉では、そうはなりません。

たとえば、図書館をイメージしてください。そこにある書物のほとんどは、その書き手に先立たれています。私たちは死者たちの言葉に触れるのです。同調せずに、意味が、霊的に、思い出されることはありません。

読み手が、共有したい意味を偶成するのです。

話し言葉の感覚で、文章を音読しても、意味が自然に分かるようにはなりません。読解力は、各個人が独自に構築するものです。構築しないことには、下手な文章をフォローできないし、上手い文章にだまされます。

まれに、五次元以上の(時空を超える)意識と常につながれる人がいます。彼らは、生まれてから出会ったことのない言葉も発します。集合的無意識の英知が個人に流れ込むのです。だが、意識化する態度や、無意識への姿勢、日本語に特有な節操(フィルター)を整えつつも、個人的な思考を脇に置いて言語化する彼らに、発言の責任が取れるだろうか。人権に配慮しない悪質な電磁的知性体が、発言に干渉するかもしれないのに・・・。

私のように自由意志で五次元以上の意識とつながれない人は、書き言葉から意味を読み取るために、霊的サポートがない分、読解力を高めなければなりません。しかし、多くの日本人は、読書の習慣を身につけずに義務教育を卒業してしまいます。会話の現場にある霊的サポートに依存して、読解力を構築せず、言語社会を綱渡りしているのです。

世に溢れる情報を消費するのに忙しく、社会を作る余裕がないのだ。

そういう私は、義務教育によって勉強が嫌いになりました。とくに、国語科は、何をどう勉強したらいいのかわかりませんでした。が、21歳頃、読書が習慣となり、28歳頃、文脈を発見しています。

スピリチュアルな見解も併せて考えるなら、読解力を身につけるための自助努力は、個人の確立を促すだけでなく、霊的サポートの有り難さにも気づかせてくれます。感謝せずにはいられません。

以上、この記事のつづきはまた別の機会に。