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「あなたがたは世の光」その意味


あなたがたは世の光
    マタイ5:14

『あなたがたは世の光。山の上にある街は隠されることはない』。
この言葉は、あの有名な「山上の垂訓」の中で語られた中にあります。
イエスはそのときの聴衆に『あなたがたの光を世に輝かせるように』と言われました。

しかし、なぜ『山の上の街』を『光』に含めて語られたのでしょうか?
実は、この『街』を知る事は、その『光』がどのようなものであるかを知る手掛かりでもあるのです。

そこでまず、この講話を聴いていた人々がイスラエル人であったことを考慮する必要があります。
なぜなら、イスラエルの人々であれば、この『山の上の街』*というのが彼らの首都エルサレムであることがすぐに分かったに違いないからです。

*(この概念は、後の北米マサチューセッツ植民地に宗教的意味を付与したジョン・ウィンスロップ(1587-1649)に唱えられ、清教徒的道徳国家を目指す思想の標語とされましたが、本来の意味はそれを遥かに超えています)

イエスの言葉を聴いていた人々に、その「街」がエルサレムだと分かった根拠には彼らの祭りがあります。イスラエルに与えられたモーセの律法の中で、すべての男子は年に三度の祭礼の度にエルサレムに上るよう求められていましたが、女性も子供たちも同行して祝祭を共にしていました。
ですから、当時の神殿の中心にある『聖所』と呼ばれたイスラエル人だけが入ることの許された建物の中の前室に「婦人の中庭」という女性のための場所もあったのです。

その祭礼一つである、秋の『仮小屋の祭り』(スッコート)は『収穫の祭り』とも呼ばれ、一年の収穫も終わることで人々は神の祝福である産物を喜びつつエルサレムとその周囲に小さな小屋を建て、七日間その中で食事をするという定めがありました。
その収穫祭の特徴は神の恵みへの「歓喜」であり、神殿聖所には夜の間も大きな16の明かりが掲げられたことをユダヤ人の伝承であるミシュナーが伝えています。

神殿の聖所の「婦人の中庭」には巨大な四基の燭台が据えられていました。
ユダヤの教典の「タルムード」の伝えるところでは、金で被覆されたそれらの燭台は高さが22メートル(50アンマ)もあったとされ、頂上にはそれぞれ四つの金製の大皿が有り、その祭りの間は祭司たちの職服の古びた内衣や帯を裂いて灯心とし、燭台に付属する階梯を若者が油壷を持って登っては、油を追加したとのことです。(タルムード/スッカー篇)

イスラエルの男たちは、夜通しそれらの間で歌い踊り、それは多様な楽器で伴奏されたともあります。
その光明は周囲を明るく照らし出したので、神殿そのものがエルサレムでも特に高いモリヤ山上に位置していたので、その高く掲げられた光明はエルサレムからかなり離れたところからも見えたと伝えられています。
ですから「山上の垂訓」をイエスがガリラヤの丘陵で語られたとき、この『世の光』の講話に聴き入っていたイスラエルの人々は、仮小屋の祭りでの聖都エルサレムの輝く姿を思い描いていたことでしょう。

◆諸国民の光
そのようにイスラエルが輝くべきもう一つの理由に、この民族に課せられた果たすべき役割がありました。
今日のユダヤ人に、ユダヤ教の目的は何ですかと尋ねれば「諸国民の光となることだ」との答えを得ることでしょう。
確かに、聖書の中には『諸国民の光』という言葉が出てきます。

イザヤ書の預言の第49章には、捕囚から買い戻されるイスラエルについて予告し、『あなたがわたしの僕となり、ヤコブの諸部族を再興し、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。むしろ、わたしはあなたを諸国民の光とさせて、わたし救いを地の果にまで至らせるであろう』とあります。(イザヤ49:6)
つまり、神が何者か任命した者、つまり当時のメシアとなったキュロス大王を通して捕囚に散らされたイスラエル(ヤコブ)の民を集め出し、元のパレスチナに帰らせることは実現しました。(イザヤ48:14)
しかし、さらに重要な働きがあると神はイザヤを通して言われるのです。
それは「次なるメシア」、後のナザレの人イエスを待つことになります。

その二度目の成就で、イスラエルは真に『諸国民の光』となるのです。
しかしキリストの時代、捕囚からの帰還が起ってすでに五百年が経つ中で、この「諸国民の光となる」という事が何を意味するのかはっきりとは分からず、ユダヤ教の指導者らの中には、いずれはダヴィデのような強力な王が現れ、メシアとなって世界を統べ治めることであろうと信じる者が多く、イエスの御許に集まった使徒たちも、自分たちの主がそのような栄光の王と成られることを心待ちにしていた様が福音書に何度か記されています。

その期待は、彼らの主イエスが復活した後でも変わらず『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか』と使徒たちは天に戻ろうとするイエスに尋ねてもいます。

そのときイエスは『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない』と答えられましたが、メシアとして世界を治める時が来ることは否定されませんでした。(使徒1:6-7)

ですから、やはり『イスラエル』と名の付く民が、メシアによって集め出されるだけでなく、『諸国民の光』となって世界の果てにまで神の救いをもたらすということでは変わることはないのです。

この点を裏付けるのが、イスラエルに与えられた律法契約というものの目的でもあります。

◆律法契約の目的
「律法契約」というのは、イエスより千数百年前のこと、神は預言者モーセを遣わしてエジプトの奴隷身分に在ったイスラエル民族を導き出し、パレスチナの地に向かわせる途上の荒野で、この民を一つの国家として整えるために与えた法律、六百に及ぶ定めからなる「律法」を彼らが守るという契約です。特に最初の十ヶ条は、神自らが二枚の石の板に書き記したもので「十戒」とも呼ばれました。

こうして、多くの定めからなる律法を守る事が以後のイスラエル人に要求されたのですが、その目指す目的が何かを神はこう言われました。
『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしとの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民の間でわたしの宝となる。全地はわたしのものだからである。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となるのである』(出エジプト19:5-6)

ここにイスラエルの民が「律法契約」を守る契約の最終目的が書かれています。それはつまり『あらゆる民の間で』『祭司の王国、聖なる国民となる』とあるのです。また、神にとって『宝となる民』とはどれほど高貴な人々でしょうか。イエスは『女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者はいない。だが天の王国の最も小さな者であっても、彼よりは偉大である』と言われます。(マタイ11:11)

では、世界の人々にとっての『聖なる国民』となり、また『祭司の王国となる』とは、いったいどうなることを意味しているのでしょうか。
また、そのためにイスラエル民族が選ばれたのは何故なのでしょう。

もちろん、イスラエルが神との特別な関係に入るよう招かれたのには理由があります。それは、彼らの父祖アブラハムに対する『神の約束』であったのです。(ローマ4:16/創世記22:15-18)

モーセから更に四百年以上前のこと、イスラエルの民も存在していない昔に、メソポタミアの遊牧民であったアブラハムに神は一つの事を申し出ました。
それは彼の子孫が増えて国民となること、またパレスチナの土地を彼らに与えるということでありました。
彼の一族はその言葉を信じてパレスチナまでの長い旅をし、そこで老いた石女である正妻サラから奇跡のように独り子を得ました。

神はその独り子イサクからイスラエル民族を作り出し、その民をいよいよパレスチナに迎えるに際して「律法契約」を与えたのです。
かつて、神はアブラハムにこうも約束していました。
『あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』(創世記22:17-18)

ですから、アブラハムの子孫の民に対する神の意志は「あらゆる国民を祝福する」ということであったのです。
そして、それが律法契約の目的として、更に具体的に『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが示されていたことになるのです。

しかし、実はアブラハムへの約束に関わる神の意志は、それよりずっと以前から明らかにされていたことでした。
それは何と、あの『エデンの園』での場面であったのでした。

◆『女の裔』という謎
この『女の裔(すえ)』というのは、早くも創世記の3章15節に出てきます。
その場面はというと、アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまった後のこと、創造の神から、蛇にも、エヴァにも、アダムにもそれぞれにその後の処置が言い渡されたところです。そこで人間は永遠の命から遠ざけられ、苦労して生活し、子供を生んでは世を去って行くというこの世の空しい有り様の始まりが宣告されています。

そこで害の元凶となった蛇について神はこのように宣言されました。
『神YHWHは蛇に向かって言われた。「お前はこのようなことをしたので、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らうことになる』。

しかし、神は蛇にもう一つ言葉を加えてこう言われていたのです。
『お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」。』(創世記3:14-15)

この『蛇』というのが、元は天使として人間に先立って存在し、このときには利己心によって創造の神に逆らう者に堕していた『悪魔、またサタン』と呼ばれる者に操られていたことは、聖書末尾の黙示録に明かされている通りです。そこにこうあります。『初めの蛇で、悪魔とかサタンとか呼ばれ全人類を惑わす者』。(黙示録12:9)

そこで神の宣告の言葉にこれを当てはめると、悪魔と女、また悪魔の子孫と女の子孫との間に神は敵意を置かれた、また、女の子孫(裔)は悪魔の頭を砕き、悪魔は女の子孫(裔)のかかとを砕くことになるということになります。

これはつまり、悪魔の誘惑によって人間には大きな害が及ぶことになりましたが、男ではなく「女の子孫」という何者かによって、悪魔は致命傷を受けます、しかし、悪魔も女の子孫の何者かに傷を負わせることになるというのです。

その悪魔を死に至らせるほどの存在、男アダムの系統にはない「女の子孫(裔)」とはいったい誰のことなのでしょうか。
この原初の謎を追って、聖書のその後の内容が黙示録に至るまで展開してゆくことになります。しかも、それは今日までも未完であるという偉大な神秘を含んでいるのです。

この悠久の神の計画が、まずアブラハムへの約束となり、彼の信仰の深さのためにアブラハムの子孫からその『女の裔』が来るということであれば、実際にアブラハムの嫡流の子孫がイスラエルと呼ばれる一民族となって、モーセの「律法契約」に入り、その目的が『祭司の王国、聖なる国民となる』ことであった意味が通じてきます。

そして、遂にイスラエル民族は、モーセ以来約束されてきた偉大な預言者、またダヴィデのように強力な王となるべきメシアを迎えることとなりました。つまり、ナザレ人イエスその人であったのです。

このイエスは、自ら『天から下って来た』と言われました。つまり、アダムの子孫ではなく、その『罪』を持たない方として『処女が妊娠して子を産む』という奇跡の誕生によって来られたことに於いてエデンの園でも「男の裔」とは呼ばれなかった理由があるのです。(ヨハネ6:38/マタイ1:23)
 (ホクマーの謎

◆女の裔は清められる
しかし『蛇』と呼ばれた悪魔は現れたメシア『女の裔』の『かかとを砕く』ことに成功します。
それがつまり、キリストを磔にして処刑することでもあったわけです。
ですから、ナザレ人イエスを殺そうと躍起になっていたユダヤの宗教家らに対して、キリストはこう言われています。
『あなたがたは自分たちの父、つまり悪魔から出てきた者らであって、その父の欲望通りの事を行おうとしている』。(ヨハネ8:44)
こうして真理を愛さず偽りを愛する当時の宗教家らは、自分たちに遣わされたメシアを退けるというこれ以上ない悪行に手を染めてしまいます。
つまり彼らは同じ神の崇拝者であったのに、他ならぬメシアを「魔術を行って民を惑わした」と主張し、イエスへの宗教上の嫉妬を募らせ、ついに『蛇の子孫』となってしまったのです。(マタイ23:33-34/27:18)

しかし、キリストの死は敗北とはなりません。神への忠節を全うしたキリストの死は、神に逆らう事が悪であることを永久に証明してしまいました。
ですから新約聖書にはキリストの死についてこう書かれています。
『それは死の力を及ぼす者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした』.(ヘブル2:14-15)

キリストの死は悪魔には勝利であるかのようでいて、実は悪魔の全き敗北の原因ともなったのです。
イエスは、ご自分の死によって神を高め、あらゆる被造物の中でも最初に『完き義』つまり倫理的完全性に到達され、モーセの律法を完全に成就されることになったのです。

この点を新約聖書はこう述べます。
『多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の帰すべき方、万物を造られた方にとってふさわしいことであったからです』(ヘブル2:10)
この言葉に『多くの子らを栄光へと導くために』とあるように、『救いの創始者』となられたキリスト・イエスの到達した『完き義』の『栄光』を分け与えられる人々がいます。

その人々については、『自らを聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元はひとりの方(神)から出ます。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしません』と続けて書かれています。(ヘブル2:11)

つまり、その人々は「キリストの兄弟たち」であり、全人類をその『義』の清さによって救い出す『祭司』の働きを『大祭司キリスト』と共に天の神殿から行う人々『神のイスラエル』を指しています。それは地上の神殿での祭司団が動物の犠牲でイスラエルの人々の罪の執成しを行っていたようにです。(ガラテア6:16) 

さらにパウロは『平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう』と当時の弟子に述べ、彼らが『女の裔』の一員であることを思い起こさせています。キリストと共に悪魔に勝利する彼ら祭司団は、天の神殿からの清めを人類にもたらして悪魔の死の影響力は終わりを迎えるのです。

この清い祭司の民がどのような人々であるかについても、使徒パウロはその人たちに向けた手紙で
『キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ』と呼びかけています。
つまり、キリストの弟子たちが、『キリストによって・・聖なる者とされた』と言うのです。(コリント第一1:2)

これについては使徒ペテロもこう書いています。
『あなたがたは、父である神が予め立てられた計画に基づいて、聖霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけて頂くために選ばれたのです』(ペテロ第一1:2)

加えてペテロは同じ手紙で聖霊ある人々にこう書いているのです。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神につける民です。それによって、暗闇から驚くべき光に招き入れて下さった方のみ業を、あなたがたが語り伝えるためであるのです』。(ペテロ第一2:9)
この『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民』とは、まさしくモーセの律法がアブラハムの子孫イスラエルに与えられた目的を指しているではありませんか。その民の目的は人類の救いとなることにあるのです。

そこで神のアブラハムへの約束も、エデンの園での宣言も、キリストに信仰を懐き、キリストの『義』の清めを通して聖霊を注がれた弟子たちの上に成就していたということになります。
ですから、使徒パウロが当時の弟子たちについて『キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのです』と述べていることがよく理解できるでしょう。つまり、『聖なる民』がキリストの義を土台として現れたのであり、『アダムの罪』にある彼らも苦難を受けることでキリストの道に従って契約を地上で全うし、ついに清められて天に召されることになります。(ローマ8:17/マタイ10:38)

このキリストの義を分け与えるのが『新しい契約』であり、『律法契約』に代り「新しいイスラエルの民」を『水と霊から』生み出しました。
パウロはそれを『神のイスラエル』と呼んで、血統のままのイスラエルではないことをガラテア書の中で丁寧に説明しています。(ガラテア4章)
その人々は、キリストの兄弟として主と同じ道を歩んで、狭い門から入るよう努め、共に迫害を受ける覚悟が必要になるのです。(マタイ10:38-39)

ですから『外面のユダヤ人がそのままユダヤ人ではありません』。また「クリスチャン」がそのまま『聖なる者』でもありません。
キリストによる『新しい契約』に入った人には、奇跡を行う聖霊が注がれ、その聖霊がその人に『相続財産に与る保証』を与えるのであり、この聖霊についてはイエスが公生涯の終わりに至って、『もうしばらくの間、光はあなたがたと共にある』と言われたように、使徒時代に聖霊を受けた人々が去っていった第二世紀を最後に、過去1800年間、聖霊は誰にも注がれた形跡がないのですが、キリストの再臨の時には再び注がれることが知らされています。その人々はキリスト再臨の日に「王や高官の前に引き出され、聖霊で語る」とイエスは一度ならず予告されました。(ローマ2:28/エフェソス1:13-14/ヨハネ12:35/マタイ10:18)

彼らの相続物とはイスラエルの父祖アブラハムに『地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得る』とされた約束であり、それこそは空しいこの世にあっても『諸国民の光』となる人々を意味していたのです。

その働きは、最終的に悪魔の『頭を砕いて』亡きものとし、その人類に対する『死の力』を無効としてしまうのです。彼らはエルサレムの神殿が模式的に表していた律法の祭司団が予型していたところの天の祭司団となり、キリストの血つまり『完き義』を用いて人類の『罪を清め』、遂に『罪』を悔いるすべての人々から『罪』を除き、創造されたままの『神の子』とすること、それが『世の光』の意味であったのです。(ヨハネ1:12)

◆光を掲げる『神のイスラエル』
キリスト・イエスは『あなたがたは世の光です』と当時のユダヤ人に言われ、また『灯りを点けてからそれを升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。あなたがたの良い働きを見て、あなたがたの天の父を人々が崇めるようになるために』と続けて言われました。(マタイ5:15-16)

メシアが到来したときに、ユダヤ人には『聖なる民』としての行いによって『世の光』となる道が拓かれました。
この言葉が語られた「山上の垂訓」の時期は、イエスの活動を始めてから一年半が過ぎていた頃で、未だユダヤの体制はナザレ人イエスの奇跡の業を見てはいても、はっきりと判断は下していない状態でありましたから、アブラハムの民としての働きをするようにとのイエスの言葉に応じる機会は民の全体にとって残されていたと言えるでしょう。

結果として、イエスをメシアとして認めた人々は僅かでしたが、それでも、あのペンテコステの日から『諸国民の光』となる人々が聖霊を注がれて現れています。ですから、ただ道徳的であるようにと「あなたがたの立派な行状を見た人々が神の崇拝者になるようにしなさい」との意味はありません。もし、そうなら単純に敬虔さを装うことを勧めていたことになり、それではパリサイ人と変わりません。世の光となるとは、山上の垂訓に見られるほどに高い倫理基準、『キリストの丈の高さを目指す』人々が、主の足跡に従って歩むことを意味しています。

ですが、キリスト・イエスが現れた当時のユダヤは、アブラハムの子孫であるために招かれたその『世の光』となるようとのイエスの言葉に応じたでしょうか。また、聖なる都の明かりが遠くまで輝いたように、血統にあったイスラエル人がその光を輝かせて彼らの神をほかの人々も崇めるように行動したでしょうか。

まして、『世の光』の灯火の種火となるメシアがそこに到来されていたのですから、諸国民の光となるべきアブラハムの血統の子孫として、選ばれた民となることは当然に求められたのです。

イエスは亡くなる前の晩に父である神に祈り、『世の光』となるべき弟子たちについて見守ってくださるようにと願いましたが、それと同時にこうも願われました。『また、彼らだけでなく、彼らの言葉を聴いてわたしを信じる人々のためにもお願いがあります・・』(ヨハネ17:20)この『人々』とは、キリストの聖なる弟子たちが光を輝かせることで『天の父を崇める』よう信じる諸国民を指していたことでしょう。

こうしてこの「ともしびを高く掲げる」という意味は、エルサレムの収穫の祭りの灯りが遠く広く輝いたように、聖霊注がれるキリストと結ばれた『聖なる者たち』である「真実のイスラエル」の人々がキリストの福音を聖霊を用いて世界に知らせ、同時に彼らの『聖なる行状と敬虔な精神』に世界が触発されるべきであることが教えられていたのです。

神はイスラエル民族を選び取り、そこにメシアを送り、この世の諸国民を救い出すための手立てとされました。
イスラエル民族のすべてがイエスをメシアとして受け入れたわけではありませんでしたが、ナザレの人イエスを信じてメシア信仰に至ったユダヤの人々は、イエスの復活の後に聖霊を注がれ、キリストの奇跡の業を受け継ぐことになりました。(ヨハネ14:12)
その結果、さらに多くの「信仰によるイスラエルの民」がユダヤを越えて集め出され、彼らはいよいよ諸国民へと光を輝かせてゆきました。その成果が今日の新約聖書に結実しています。

この「神の選民イスラエル」は、キリストを通して『新しい契約』に入った人々であり、ユダヤ人と異邦人の混成の民となり、奇跡を行う聖霊の証と聖なる行状に裏付けられた人々で、キリストが再び世に来られる『終わりの日』にも聖霊が注がれ、キリストの言葉を語って世界に光を輝かせるために現れることを新約聖書が度々予告しています。(マタイ10:18~20)

そのときこそ、彼らには「ともしびを高く掲げる」というイエスの言葉に従うクライマックスとなることでしょう。それは、彼らの照らす福音の光明の広がりにより、世界中のあらゆる宗教や思想の人々が分け隔てなく輝く光を見て心を動かされ、信仰を働かせるあらゆる人々を苦しみ満ちる空しいこの世からの救いに至らせる『収穫』のためです。まさしくそれは神にとって「人類の収穫」と言えるものです。ですから『聖なる民』が自らを『創造物の初穂』と呼ぶ理由があるのです。彼らは人類に先立って祭司として集められるからです。(ヤコブ1:18)
その最終的な収穫には大いなる喜びがあり、それは悪魔の誘惑によって陥った『この世』という『罪の奴隷』からの解放が近づいた証拠です。ですから、やがて世界はその輝かしい聖霊の光明を見るでしょう。

キリスト教の『救い』とは、これほどまでに外に向かって押し広げられる利他的なものであり、『天のエルサレム』の輝きは全人類を救済する『天の王国』に宿り地の果てまでがそれを見ることでしょう。(ヘブル12:22)
その『キリストの王国』は、ただ信者が行くという安楽な「天国」などではないのです。


さて、全人類のための「神の選民イスラエル」について
あなたの価値観は何を選び取るでしょうか?
- 個人の安逸か、キリストに倣う公共善への大志か -
人の光が実は光でないとすれば、その闇とはどれほどのものでしょうか?


本記事は、以下の書籍「キリストの例え話」第一集 (16話) からの抜粋です
amazonで電子版を刊行してから三年半、閲読される方々が多いので、早めに紙本を出そうとしつつ、今日になってしまいました。

『耳有る者は聴くが良い』と言われて話を終えられるキリストには、誰にでも真相を明かそうとの意思がないことは明らかで、まして古代のユダヤの様子を知らない現代人ともなれば、分からない事が多くても無理もないことです。本書は、当時の事情やイエスの言葉の背後にある旧約聖書の内容や、歴史上の出来事を絡めてキリストの例え話の真意を探ってゆきます。
キリストの言葉に多くのヒントが得られる一書となることでしょう

アマゾンから発売中

この第一集で扱う例え話は以下の通りです
1.種まく人の例え 2.あなたがたは世の光 
3.放蕩息子の例え 4.あなたがたの義がパリサイ人に勝らなければ 
5.水と霊から新たに生まれる  6.あなたがたは地の塩
7.後の者が先になる 賃金の例え  8.枯れたいちじくの木  
9.からしの木とパン種の例え  10.ゲヘナの裁きを逃れられようか
11.富んだ者とラザロの例え  12.神の王国はあなたがたのただ中に
13.あなたの罪は赦された  14.人の子は安息日の主
15.わたしと共に集めない者は散らす 16.よきサマリア人の例え

この度は事情により縦書きと致しましたが、読みやすさを考え二段書きと致しました。

A5版 203頁 ¥1866

第二集(18話)は電子書籍のみの発行ですが、ご好評いただき紙媒体もご用意したく存じております。
両巻併せ皆さまのお役に立ちますよう願っております。

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