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ゼカリヤ書の黙示が予告する終末

これはお目出度い内容ではない。しかも、これらの言葉は未成就である。
終末に於いて『聖なる民』の受ける試練の重さ、凄まじさは、ご利益信仰の暢気な信者の与るところではなく、この内容が世間に広められるべき理由もない。この結末を予め知る必要があるのは、当の聖徒らだけであろう。

たとえこれら黙示的な内容を知った者であっても、かつて暗唱するほどタナハを熟知したユダヤの宗教指導者層が、結果的にメシアを退け、神の子羊を屠るという、だれも進んで行わないような事に手を染める最悪の悪人と変じていったように、この預言書の黙示部の警告の意味を知ったからといって、その者に益となるか否かは別問題となろう。

これは極めて重い現実ではあるが、やはり、終末にも祭司長派のように屠る者が現れ、またイスカリオテのユダのように裏切る者も居なければならない。
問題は、そのとき、その各個人は内に秘めた自らの価値観に照らして、何を選び取るかとなろう。やはり、どれほど聖書を知っているかはこの種の選択に意味を成さない。
それはメシア到来のユダヤ体制の顛末が新約聖書に記され今日まで警告として置かれている通りのことである。
かつての聖書を知るユダヤの民に下された裁きと云えば、即ち『火のバプテスマ』という恐るべき酬いであった。それはもう一度世界に対しても繰り返されるであろう。

さて、このゼカリヤの預言の意義と言えば、捕囚身分を解かれ神殿祭祀の復興を託されたはずのユダとイスラエルのパレスチナ帰還民ではあったが、キュロス大王の勅令を忘れ、周囲の諸民族からの反対に遭うと神殿再建の業を放棄してしまい、それぞれが自分の生業にかまけいた時期に臨んだ預言であった。
その事態に対し、ペルシアの新王ダレイオスⅠ世の登壇を契機に、彼らを本道に戻すべく、もうひとりの預言者ハガイと共に民を奮い起こすための言葉として神から与えられたのがゼカリヤ書に込められた啓示の数々であった。

ユダヤの帰還民団による神殿再建の業は中断しており、モリヤ山上は荒廃したままに打ち捨てられ、前537年のパレスチナ到着以来、既に十七年が経過し、エレミヤに予告された『七十年』の終りが前516年に近付いていた。
ゼカリヤが預言者として興されたのは、ダレイオスの治世の第二年、前520年のことであり、ゼカリヤはハガイの預言の後も啓示を受け続けたことで、その預言書は十二小預言書の中に在って14の章を持ち、ホセア書と共に長い分量を持っている。

従って、そこに込められた内容には、それなりの分量に相応しい情報があるに違いないのだが、今日までその要旨でさえ曖昧にされたまま二千五百年もの歳月を経てきたのである。
しかし、ある観点からこの書を読むなら、そこにはメシアの二度目の臨御の時期の出来事を指し示していることが理解できる。これはどうしても『新しい契約』を擁するキリスト教からの観点を必須とするものであり、律法の観点からだけでは古代の出来事の確認で終わるばかりとなってしまう。

だからといって、「クリスチャンの祝福」を求めてやまない諸教会の教えにその理解の鍵が備わっているわけでもない。『新しい契約』もそれに参与する『聖徒』についても蒙昧の中に居れば、ゼカリヤの終末への黙示部分から理解を得ることなど到底無理である。
そこで本稿は、その終末の激動を予告する書としてのゼカリヤ書を読み解くための講解である。

なお、このゼカリヤ書に関する基本的な情報、預言者個人や時代背景などは以下の無料記事にされており、本稿はその続編となっているので、ゼカリヤ書の概要から第八章までの理解を望む向きは以下の記事から閲読なさるようお勧めしたい。

背景と概要 ⇒ [ゼカリヤ書の構成と内容]

将来の聖なる者らに関するゼカリヤ書の驚嘆を誘う内容からして、本稿がそれなりの解釈とはいえ、意義を悟らず関心薄い方々にまですべてを明かしてしまうのが適切とも思えないので、以下は少額とはいえ価値を覚える方にだけお知らせしようと思った次第で有料とさせて頂くが悪しからず。
(新十四日派同志、賛助の方々には別途に全文を開示する)

これらゼカリヤ書の内容はエゼキエルやホセアやアモスなど他の幾つかの預言書中でも述べられている論題でもあるが、ゼカリヤはユダ王国の終焉と喜ばしいばかりではない回復を示唆して独特の視点を添え、一時的にはハバククやエレミヤ哀歌ほどの緊張感を帯びるが、最後に大団円を迎え、黙示録の千年期へと向かう連なりを見せている。
しかし、これらを知ったからといって読者の益になるとは限らず、その以前に、そもそも神の霊感を持たない本稿の筆者の解釈であるゆえに間違いがあるかも知れない。いや、一つや二つは必ず有るように思うし、ご指摘されるなら有り難い。
それゆえ、よほどにご関心の有る方に限りお読み頂きたい。

では、それら最終部分に書かれた文言についての概要、また章毎の事象の検討、また聖書中の他の部分との照合から浮かび上がる終末の聖徒の置かれる状況、またその後の諸国民についての記述への考察を以下から始める。

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