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神は終末に現れるエサウを憎む

本記事には前編あり無料、そちらは以下のリンクから
https://quartodecimani.livedoor.blog/archives/52015958.html


◆「慰めの預言」の中でのエドム
イザヤ書の第四十章以降は『慰めよ、慰めよ』で始まるために「慰めの預言」として知られている。ここからイザヤ書の内容も文体も変化しているために、近代から識者の間では「第二のイザヤ」が記したものとさえ捉えられてきた。イザヤの預言期間は、ユダ王国のウジヤから始まり、ヨタム、アハズ、そしてヒゼキヤに至るまでの永きに及んでおり、第四十章以前にヒゼキヤ王の晩年が対話の形で記されているので、神の陳述が専らに続く「慰めの預言」は確かにそれ以前とは異なったものであり、その後第六十六章まで「神の語り」として続き、これら27の章は当時のシリアやアッシリアとのユダ王国の事情を語ることを離れ、神のモノローグの中に神秘性の高い事柄について言及されていることが分かる。

そこには、夫と子らを失った女シオンが語られているが、『暗きは地を覆い、濃い闇は諸国民に臨まん、なれど、そなたの上にはYHWHが輝き出で給いて、その栄光輝きわたらん。』 とは、やはり徒ならぬ事態の中に在る女シオンを語っていることを感じさせ、そこに黙示録第十二章の冒頭から語られる『太陽、月、星』という天空の光のすべてをまとった女が出現し、しかも子を生み出すところにはイザヤ書の女シオンとの関連を認めないわけにゆかないほどである。確かに独り子イサクはモリヤ山上での雄羊によって買い取られた形で終わっており、黙示録の女も生んだ男児を神の許に挙げる理由にも見えるものがある。即ち、キリストという羊の犠牲による聖徒らの買い取りである。 

そうであるから、終末の『シオンの娘』、即ち石女であったアブラハムの正妻サラからの子らの誕生というテーマを通して示されるのは、やはりアブラハムの裔、真実のイスラエル、キリストの『新しい契約』により『水と霊から生み出される』者ら、即ち『聖徒』と彼らを生み出すところの母なる『信徒』の集団『シオン』を指し、しかもそれらが『終わりの日』という我々のなお将来に関わるものであることを黙示録の記述が明らかに指し示しているのである。

これらイザヤ書第四十章以降に、そのすべてではないものの、終末の事象を想定することは的外れでなく、そこには聖徒らを生み出す女シオンの母なる姿が何度も語られ、また、メシア王国の到来による地上の至福も描かれている。それに加え地上が神の裁きに直面した後に、神の是認に入った人々が新たな天地の中に踏み出す姿までがそこにある。それが千年期の幸福の場であることまでもイザヤ書は告げる。

従って、イザヤ書のこれらの言葉はメシア=キリストの福音を包含しているのであり、その中では初臨のキリストの姿も予告されている。加えてメシアの働きにより、バビロンから解かれ、シオンに帰還するユダヤ人の姿もそこにあり、神は彼らの前衛となり後衛ともなり、拓かれた大路を何者にも妨げられることなく進むアリヤーの民の歓喜さえそこにある。これらの事柄を理解した上で「慰めの預言」以降を繙く者には一つの事柄を除いて意味を悟りつつ読み進めるのに然程の障碍は残されていないと思われる。

だが、そこで意味を捉え兼ねる一つのこととは、第六十三章に記されたボズラに関する一連の記述であり、ここに何故エドムの事象が語られるのかに妙な唐突さを感じるとしても前後の内容からすれば無理もない。
しかし、ここでエドムが語られることについては、『終わりの日』に起こると旧新の聖書中に警告されている事柄、そしてエドム人とその祖エサウについてこれまで語られてきた事柄に照らすことにより、終末に於いてエドムが重大な存在として台頭することが理解されることになる。

問題のイザヤ書第六十三章は、エドムからまたその首都ボズラから上って来る人物、血を滴らせる剣を持ち、服に血を染め尽くした何者かが語られている。このエドムへの復讐者については『わたしは怒りによって、もろもろの民を踏みにじり、憤りによって彼らを酔わせ、彼らの血を、地に流れさせた』とあり、諸国民への勝利者キリストであることは示されている。だが、この章で『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった』というのは、黙示録の諸々の冠を得た勝利者キリストが自らの天軍を従えてい記述とは合致しない。即ち、終末での神と人との最終的戦いとは異なるものと言える。

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