古典的ノイマン鎖の最初は最後と同等に特別である
通常、ノイマン鎖の議論は、小澤さんが
と書いているように、ハイゼンベルグカットを鎖のどこまでも後ろに持ってくることができて、どこかで射影が起こったとすることができないという話になる。
ところで、人の活動は古典力学に従っているし、実験装置もそうであるから、ノイマン鎖の後ろの方(脳に近い方)は、古典力学に従っている。この古典力学に従っている鎖のどこかで射影が起こる理由はない(理由を思いついた人がいない)ので、無限後退して、射影が起こるのは鎖の終わりの先にある意識のためだという意見になるのである。
鎖の始まり
しかし、発想を逆転してみれば、鎖には始まりがある。途中で波束が収束する理由がなく、意識により波束が収束するのが気持ち悪いなら、古典的ノイマン鎖が始まる時点で射影が起きると考えればよいだろう。
古典的ノイマン鎖の始まりは、シュレディンガーの猫の場合、ガイガーカウンターである。もう少し具体化すると、ガイガーミュラー管の電極からである(電極近傍の空間からという意見もあるかもしれないが、哲学を主たる関心事とする本稿ではそうした微妙な違いは無視しよう)。電極から流れる電流は、古典電磁気学に従っている(それを疑う人はほとんどいないだろう)。その時に射影が起こると考えても、実験結果と矛盾することはなにもない(正確には私は知らない)。
2つの電子のエンタングルメントの実験においても同様である。電子検出器から古典的ノイマン鎖は始まる。そのことを理由に、電子検出器において射影が起こると考えることにしても実験結果と矛盾することはなにもない(正確には私は知らない)。単に遠隔地(空間的に離れた時空)での射影結果に射影の結果の確率が依存するため光速を超えて情報が伝わったように感じて気持ち悪いというだけで、何か矛盾があるというわけではない。
このようにして、実験結果と矛盾しない射影がいつ起こるかを特定した量子力学の解釈を作ることができる。ここではそれを、最早コペンハーゲン解釈と呼ぶことにしたい。
コペンハーゲン解釈のバリエーション
もちろん、古典的ノイマン鎖の最初に射影が起こると考える理由がないので、古典的ノイマン鎖の最初では射影は起こらず、途中でも理由がないので起こらず、意識で起こると考える人がいてもよい。そう考えても、実験に矛盾することは何もない。こうした解釈を認識論的コペンハーゲン解釈と本稿では呼ぶことにしたい。
古典的ノイマン鎖に最初と最後があるなら、そのど真ん中(中心)で射影が起こると考えるのが良いと考える人もいるかもしれない(中庸が好みの人は多い。)。これは空間的な中心と時間的な中心で射影が起こるというバリエーション考えられる。それぞれ、空間中心コペンハーゲン解釈、時間中心コペンハーゲン解釈と呼ぶことにしたい。
いつ射影が起こるかは決まっておらず、古典的ノイマン鎖の中でランダム位置で射影が起こるという考えもありえるだろう。それをランダムコペンハーゲン解釈と呼ぼう。
最早コペンハーゲン解釈も、認識論的コペンハーゲン解釈も、空間中心コペンハーゲン解釈も、時間中心コペンハーゲン解釈も、ランダムコペンハーゲン解釈も実験結果と整合的であり、どの解釈を採用しようとその解釈は誤っているという理由はない。どの解釈を採用するかは、科学ではなく、哲学・形而上学的考察の結果であり、人により考察結果は異なるだろう。私は、この中では、最早コペンハーゲン解釈と認識論的コペンハーゲン解釈を特別な解釈で科学的な志向に合致しているように感じる。
多世界解釈のバリエーション
同じことは多世界解釈でもいえる。それぞれの射影が起こるタイミングで世界が分岐する解釈がありえる。多世界解釈解釈の特定の推奨者は、あるタイミングで分岐が起こると主張しているかもしれないが、多世界解釈という表現に分岐のタイミングを指定する言葉は含まれていない。最早多世界解釈も、認識論的多世界解釈も、空間中心多世界解釈も、時間中心多世界解釈も、ランダム多世界解釈も実験結果と整合的である。哲学・形而上学的考察の結果、ランダム多世界解釈が最良の解釈であると主張する人がいても実験結果からそれは誤っていると指摘することはできない。
まとめ
最早コペンハーゲン解釈も、認識論的コペンハーゲン解釈も、空間中心コペンハーゲン解釈も、時間中心コペンハーゲン解釈も、ランダムコペンハーゲン解釈も、最早多世界解釈も、認識論的多世界解釈も、空間中心多世界解釈も、時間中心多世界解釈も、ランダム多世界解釈も実験結果と整合的であり(今後も整合的であり続けると見込まれ)、どの解釈が正しいかを考察することは科学ではなく形而上学である(正確には科学に含まれると考える根拠を私は知らない。)。どの解釈が良いとか悪いとかという意見は、非科学的な意見である。
最後に少し物理的なこと
「電極近傍の空間からという意見もあるかもしれないが、哲学を主たる関心事とする本稿ではそうした微妙な違いは無視しよう」と書いたが、少し物理学的なことを書くならば、古典的ノイマン鎖の開始場所は、古典電磁気学で記述できる(古典電磁気学の運動方程式に従う)場の量(c数の場の物理量、すなわち時空をパラメータとするc数の物理量)が存在すると考えてよい場所(部分系がある時空間)といえるだろうと私は思う。
古典的でない量子力学が必要なノイマン鎖の段階(測定対象から脳までのノイマン鎖の中で、測定対象が量子状態の場合には途中までは量子的なノイマン鎖であり途中からは古典的なノイマン鎖になる)において射影が起こるとしても特段実験結果と矛盾するわけではないと思われるが、それを解釈の選択肢の中に含めていない理由についてはまた別の機会があれば書いてみたい。
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