【ホラー】お顔が見えないわね
ちょうど一日暇だったので、バイクで山の方へ走りに行く事にした。
別に峠を攻めたいわけじゃない。ただ静かで誰もいないところに行きたかったのだ。本当は北海道あたりに行ければ最高だったのだけど、昨今の感染症のせいでおおっぴらな旅行には行きづらく、気がついたら秋になってしまっていた。
なに、近場でも行ったことが無い場所はたくさんある。案外楽しいかもしれないぞ。そう前向きに考えて、山に向けバイクを走らせた。
家を出たのがやや遅かったせいか、山の近くについた頃には夕方近くになっていた。まだ一応は昼ではあるけど、すぐ夕方になるという時間だ。そして秋の夕方はとても短い。夕方をすぎればすぐ夜になってしまう。
ここにたどり着くまでも小さな山をいくつか越えてきたから、もう完全に山奥だ。初めて走る道ということもあって若干の躊躇いがあったが、結局は大丈夫だろうと思って先に進む事にした。下調べによれば1時間もせずに隣の集落にたどり着けるはずだし、そこから少し先には高速道路のインターチェンジだってある。問題ないだろう。
片側一車線の県道から逸れ、細く薄暗い山道に入っていく。舗装こそされているが周囲は完全に山と林だけで、人家もない。いわゆる林道というやつだ。それでもまだ最初はキャンプ場がひとつふたつあって安心できたのだけど、じきにそれもなくなった。響くのは自分のバイクのエンジン音だけになった。
走り始めてすぐ感じたのは、『やたら暗いな』ということだ。
林道を走るのははじめてではない。山道、とりわけ背の高い木々が多い林道は総じて薄暗いものだと理解しているのだけど、ここは特に暗い。バイクのメーターについている時計を見るとまだ夕方の5時前だったが、周囲の暗さは明らかに日没近くのそれだった。
対向車は全くおらず、人通りもない。いや一度だけ、2・3匹の犬をまとめて散歩させている女性を追い抜いたが、それくらいだ。犬の散歩に来れるくらいなんだから人里が近いのだろう、この道で合っているはずだとたかを括って走り続けたのだが、まったくの間違いだった。
古びたトンネルの前にたどり着いたところで、さすがの僕もバイクを止めた。下調べではこの山越えルートにはトンネルなんて存在しなかったし、そもそもトンネルは半分くらい通行止めになっていたからだ。色々な意味で道を間違えたのだと、ここでようやく理解した。
半分くらい通行止め、というのは文字通りの意味だ。ボロく錆びた通行止めの看板がトンネルの入口わきにちょこんと置かれている。
通行止めなら道の真ん中に堂々と置くだろうと思うのだが、なぜか道のわきにどかされていた。しかも看板が横向きになっていて、バイクを止めて回り込んでみて、そこではじめて『通行止め』の文字が読めたくらいだ。
それだけなら引き返せば済む話だったのだけど、僕が混乱したのは通行止め看板のすぐ上にあるもう一つの看板だった。
それは日本中どこでも見れる、青背景に白文字が特徴的な……つまり、道路案内図だった。直進の白矢印に『国道**号』の表記は、このトンネルをまっすぐ抜ければ目的地にたどり着ける事を意味している。
下調べの時はルート上にトンネルなんてなかったはずだけど、単に見落としていたのかもしれない。僕はスマートフォンを取り出してGoogleマップを起動し、そしてすぐに落胆することになった。表示が明らかに狂っていたからだ。
地図上で『現在地』とされている場所は、だいぶ前に通り過ぎた場所だった。林道に入って間もない、まだキャンプ場などがあったあたり。そこで現在地マーカーはストップしていた。いろいろとスマホを弄っても表示は全く変わらない。山の中でGPSが狂うとこうなるのだろうか?
幸いネット接続は生きていたのでもう一度最初からルートを調べ直してみみたが、やっぱり山越えのルートにトンネルは存在しなかった。現在地マーカーが役に立たない以上、自分の場所も『おおよそこのへん』という程度にしかあたりをつけられない。
どうしたものだろう。明かりすらろくについていない真っ暗なトンネルは目の前でぽっかりと口を開け続けている。道路案内図は『このトンネルで合っているよ』と言っている。
ガソリンはすでに半分を切っている。ここまで結構走ったが、仮に引き返したとしてガソリンは持つのだろうか。今日ほど燃費の良いバイクに乗っておけばよかったと後悔した日はないかもしれない。気分転換に走りに来たのにガス切れでレッカーなんて最悪だ。
迷っている間にもどんどん日が暮れてくるので、僕は先に進んでみる事にした。通行止めという雰囲気でもないし、ちょっとトンネルを通って向こう側の様子を見てみればいいのだ。集落が近そうならそのまま進めばいいし、まだ山の中だったら素直に戻ればいい。そうしよう。
考えをまとめ、ヘルメットを被ってバイクにまたがり、エンジンをかけた。その時だった。
「こんにちは」
真横から声がかかった。
思わずそっちを見ると、先ほど追い抜いた、犬を散歩させている女性がにこやかな笑顔を浮かべていた。あまり大きくない柴犬を三匹ほど連れている。追い抜く際、後ろ姿から感じたよりもだいぶ年配の女性で、こんな山道を犬連れでよく歩けるなあというのが第一印象だった。こちらも挨拶を返し、率直に事情を話す事にした。
「△△△に行きたいんですけど、この道で合ってるんですかね?」
「はい大丈夫ですよ。まっすぐ行けばすぐです」
お婆さんはとても上品な喋り方だった。静かで声量も控えめだけど、ボソボソとした感じではなく、はっきりと声が聞こえる。優しく気品のある口調だった。
「迷っちゃったのね。たまにいるのよ、そういう人は」
「そうなんですよ。誰もいないから心細くて」
「この時期はすぐ暗くなっちゃうものね」
ほんの少しそんなとりとめのない会話をした後、トンネルを通って先に進む事にした。走り出す寸前、その女性……お婆さんは「お顔が見えないわね。お気をつけて」と笑って僕を見送ってくれた。
一瞬、強烈な違和感があった。何かがひっかかる。しかし周囲が本格的に暗くなりはじめていたので、僕は構わずアクセルを捻った。お婆さんは少しの間ミラーに映っていたが、すぐに見えなくなった。散歩途中で親切に道を教えてくれたのだし、名前くらい聞けばよかったかもしれない。
トンネル内は思った以上に暗かった。人工的な明かりが一切なく、ひんやりしている。どこかから地下水が漏れているのか、トンネルの床に小さな水たまりが幾つも出来ている。バイクのエンジン音が反響してとてもうるさい。大して長くもないトンネルの出口が近づき、
「あ」
思わず声が出た。
くぐもった『あ』が、ヘルメットの中のクッションに吸収された。
僕が被っているのは顔を完全に覆うフルフェイスヘルメットだ。これは安全面では最高だが、一つ大きな欠点がある。それは、被ったままだと会話がかなり難しいということだ。
なにせ口元まで完全に覆われてしまっていて、しかも内部は分厚いクッションに覆われているのだ。会話はできないこともないが、相当大きな声を出さないと相手には伝わらない。以前旅行先で駐車場の整理員が話しかけて来た時など、あちらが何を言ってるのかろくに聞き取れないし、僕の言っている事も伝わらないしで散々だった。あれ以来、話す時は多少面倒でもヘルメットを脱ぐようにしている。
今回はどうだったろうか。
お婆さんは間違いなく、『お顔が見えないわね』と言った。おばあさんと話しているあいだ、僕はずっとメットのシールドを閉じていたのだ。普通なら反射的にシールドを開けようとするはずだが、何故かそんなことはしなかった。シールドはミラー加工されているし、なるほど、お婆さんから僕の顔は見えないだろう。
それだけではない。僕は一度もバイクのエンジンを止めていなかった。会話に支障があれば止めていたかもしれないが、お婆さんの声は驚くほどクリアに聞こえていたし、僕の声も問題なくあちらに届いていたから、特に止めようも思わなかった……会話? エンジン音が鳴り響き、分厚いフルフェイスヘルメットを被ったままだったのに?
トンネルを抜けた先は相変わらずの林道だった。
秋の夕暮れは早い。周囲はだいぶ暗くなっている。トンネルの中が真っ暗だった事もあって、トンネルをくぐったら夕方から夜に一気に移り変わったかのようだった。
迷わずバイクをUターンさせた。道路幅はギリギリだったし、傾斜していて転倒する可能性もあったが、そんな事は気にせず即座にUターンした。そして来た道を真っ直ぐ戻り、トンネルをくぐり抜けた。さっきは通るのにだいぶ長いことかかった気がするが、今度はスピードを出していたせいか、せいぜい10秒もかからなかった。
トンネルを抜ける。
一本道だというのに、お婆さんはどこにもいなかった。
それからどうしたか。来た道をまっすぐ戻り続けて、ガス欠になる前になんとか県道まで引き返すことができた。自宅に帰ってGoogleマップのストリートビューで詳しくルートを調べてみたが、やっぱりトンネルなんてあのルートには存在しなかった。
……おそらく、Googleマップでは表示されない・ストリートビューでも入れないような細い脇道か何かがあったのだろう。僕は偶然そこに入ってしまったに違いない。
曲がりくねった林道の奥深く、人家もない山奥を犬の散歩コースにしているというのも、まあ100%ありえない話ではない。年配の人は現代人よりよく歩くと言うし。
ホラーやオカルトではなかったはずだ。そう自分に言い聞かせながらも、今なお、『お顔が見えないわね』というお婆さんの優しい声が耳から離れない。
しばらくの間は、静かな場所には行く気がしない。
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