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三浦芳聖伝 42、日本再建活動・徳山会(串呂哲学研究ノート№164)

日本再建活動・徳山会

三浦芳聖が天照大御神の御神諭のまにまに、スメラミコトになり切る修行の傍ら、昭和21年(1946年)から始めた主な日本再建活動について、その概略を述べることにします。

1、徳山会について

厄年の明けた昭和21年(1946年)早々、三浦芳聖は、「徳山会・とくざんかい」という組織(大政翼賛会の愛知県の各郡市村団長を支部長にして会員三千名)を作り、兵庫県加西市青野町の西山聖地を活動の精神的な拠点として日本再建活動を開始しました。(数えの43才でした。)

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【参照】播州西山聖地(兵庫県加西市青野町)

西山聖地を活動の精神的な拠点としたのは、ここに「神鏡」が存在し、天照大御神をはじめ皇霊が御降臨になる霊地であったからで、芳聖は、月に一回はこの西山聖地に幹部を集合せしめて祭祀を行い、訓示をするなど日本再建に向けて門人を指導していました。

ところが神命により、「三浦家は神皇正統家であり、三浦芳聖は、大宝天皇の祈念に依ってこの世に出現した、神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の再現、八幡大明神である」と公表した為、長年共に活動してきた維新運動の同志から批判されたり、脅迫されたり、占領軍GHQの妨害(解散命令)が入ったりしました。

その為、最も頼りにしていた会の中核だった半田支部長・N氏が脱退したのを切っ掛けに、かつての門人が次々に離反し去り、手足をもぎ取られた蟹のようになって解散を余儀なくされ、徳山会は数ヶ月で消滅してしまいました。

占領軍GHQの妨害があったという事は、占領軍GHQの日本占領政策に不都合だと恐れられるほどの組織であったという事です。

そこで芳聖は、昭和21年6月、神命により、門人の中から、81名を選りすぐって別の組織を作り、それ以外の方々とは交流を絶ち、再出発することになりました。(この件の詳細は次回お話しします。)

こうして、芳聖は、長年にわたって共に歩んできた維新運動の同志とも絶交の止むなきに至り、同志らに「時来らば何時かはとけん峯の白雪 大鵬の飜ぶまで待たん天の龍」という歌を送り、将来必ず分かる時が来るとの考えを表明して、交流を絶つことにしました。

*コラム・超世志のここだけの話
 三浦芳聖が、戦前、皇国維新運動や大政翼賛会で国家民族の為に活躍した事が、返ってあだになったのだが、そうなった根底に、田中光顕の「明治維新は南朝革命であった」という告白が不充分であった事を指摘しなければなりません。
 「明治天皇は南朝の子孫であるが、大正天皇で断絶した」という情報を宮内大臣(明治31年/1898年2月9日〜明治42年/1909年6月)だった田中光顕が知らないはずはなく、結局彼らの権力維持の為、芳聖は騙されていたのだ。
 平成25年(2013年)に出版された、鬼塚英昭著『日本の本当の黒幕』は、田中光顕の生涯を描いた書物である。田中光顕も死後74年も経ってから、このような書物が出版されるとは思いもよらなかったと思う。
 上記、皇統断絶の情報が信じられない方は、鬼塚英昭著『日本のいちばん醜い日』『日本の本当の黒幕』『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』(DVD)をご覧になる事をお勧めします。

2、大鵬と尾三遠南朝史論の出現

三浦芳聖が、皇国維新運動を戦ってきた同志に「時来らば何時かはとけん峯の白雪 大鵬の飜ぶまで待たん天の龍」という和歌を送ってから、15年後の昭和36年(1961年)10月、大鵬幸喜が、柏戸と共に横綱に昇進した。

三浦芳聖と大鵬幸喜の共通点は、六白金星の辰年、名前(幸喜知と幸喜)の二つですが、大鵬横綱の出現は偶然とは思われません。

また、大鵬幸喜が、母親と樺太から引き揚げてきた時の経緯は、特別に神の御加護があったように思われます。

太平洋戦争末期、日本への米軍による原爆投下後、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。

同じく、昭和36年(1961年)11月、南朝史学会の藤原丸山氏が『長慶天皇の伝説と木地屋民ー尾三遠南朝史論』(1961年/南朝史学会)を発表し、三浦芳聖の主張を裏付ける研究論文を発表した。

その論文中には「三浦家の史伝」「長慶天皇の伝説」「富士谷南朝秘蹟」「花山院師賢の子孫青山家と三浦家」「浪合戦死の宮を大宝天皇とする伝説的史証」などの章が設けられている。

南朝正統皇位継承論

更に、昭和41年(1966年)4月には、藤原石山著『南朝正統皇位継承論 :  日本史の盲点南北朝時代の謎を解く』(南朝史学会)が発行され、南朝に正副二統が存在したことが考証されています。

3、預金封鎖・新円切り替え

昭和21年(1946年)2月17日に実施された預金封鎖や同年3月1日からの新円切り替えという経済政策のため、芳聖の戦後の経済的基盤であった大政翼賛会時代の退職金はその預金封鎖に遭い、ほとんど使うことができず、芳聖一家は経済的に大変困窮したことと思われます。

三浦芳聖は、こうした、苦難を乗り越えて、勇猛果敢に修行に励み、天下国家の為に祭祀を厳修し、日本の再建のために精進しました。

この萩村時代に、芳聖の外祖母・河合まつの里「大林家」に大正12年(1923年)癸亥年生まれの芳聖の又従妹(はとこ)の「綾」という娘さんがいて、戦災で屋財家財を失くして不自由をしている芳聖一家に何くれとなく親切にお世話をして下さったことが記録に残っています。

4、公職追放

三浦芳聖は、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令「公職追放」の為、昭和27年(1952年)4月28日まで、公職に就くことが出来ませんでした。貯金しておいた退職金は預金封鎖と新円切り替えで引き出せず、公職にもつけなかった芳聖一家は、経済的に大変だったと思います。

 昭和21年(1946年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。
 戦争犯罪人、陸海軍の職業軍人、超国家主義団体等の有力分子、大政翼賛会等の政治団体の有力指導者、海外の金融機関や開発組織の役員、満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官、その他の軍国主義者・超国家主義者

公職とは「国会の議員、官庁の職員、地方公共団体の職員及び議会の議員並びに特定の会社、協会、報道機関その他の団体の特定の職員の職等」です。


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№163)       
🟢次号(№165)

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。