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三浦芳聖伝 18、日曜院の住職時代(7)

1、錦旗会三河支部を結成

🟡昭和維新運動に邁進

昭和4年(1929年)2月、田中光顕みつあき伯爵から明治維新の真相秘話を聞き出し、頭山満翁から空前絶後の御教訓を得て、国体問題への懊悩おうのう雲散霧消うんさんむしょうした芳聖は、

同年6月、錦旗会三河支部を結成して支部長に就任し、「皇政復古こうせいふっこ神政維新しんせいいしん皇国体こうこくたい真姿開顕しんしかいけん」を標榜ひょうぼうする昭和維新運動に立上がり、三河各地で、国体明徴こくたいめいちょう講演会を実施するなど啓蒙けいもう活動に邁進していました。

「昭和維新」というのは、王政復古の旗印の下に行なわれた明治維新を更に徹底しようというもので「皇国体の真姿開顕」という言葉に象徴される民族精神への復興運動である。

分かりやすく言うと、西洋かぶれした精神では、日本の建国精神に基いての国際社会への貢献は出来ないので、本来の日本民族精神に立ち帰ろうという精神復古運動である。

🟡芳聖の維新運動の行動原理

昭和維新運動に邁進まいしんしていた芳聖の行動原理は、下記のようなものでした。芳聖の著書から引用します。

 「まさに一心が天に通ずる人間になって一切衆生いっさいしゅじょう済度さいどしよう」と云う目的に変わって行ったのであります。

もう明治天王の王統は万世一系の天皇である。欽定きんてい憲法が定められ、明治天王の御聖徳ごせいとくによって、かくの如く日本は世界の三大強国となった今日、唯皇道ただこうどうの本義を発揚はつようして以て、真に我々民族祖先の伊邪那岐之命いざなぎのみことが「くらげなすただよえる世界を修固つくりかため成し」、神武天皇の「六合りくごうを兼ねて以て都を開き、八紘はっこうおおいていえむ」という建国の大御理想、また歴代の天皇の「万邦をして各々その処を得せしめ、そのに安んぜしめん」というこの皇道を世界に宣布せんぷするためには、日本は決して外国の侵略主義的、帝国主義的なことを真似まねてはいけない。

真に日本を皇道国家こうどうこっかたらしめなければならないと言って、この維新運動に全身全霊をささげたのであります。

(三浦芳聖著『神風串呂』第161号13頁)

🟡昭和維新の春の空

「昭和維新」というのは、王政復古を旗印に行なわれた明治維新を更に徹底しようというもので「皇政復古、神政維新、皇国体の真姿開顕」という言葉に象徴される民族精神の復興運動であります。

分かりやすく言うと、西洋かぶれした精神では、建国精神に基いて国際社会への貢献が出来ないので、本来の日本民族の精神、日本的生命観に立ち帰ろうという精神的復古運動であります。

🟡不安定な当時の世相

当時の世相は、「権門上けんもんかみおごれども、国をうれうる誠なし、財閥富をほこれども、社稷しゃしょくを思う心なし、ああ人栄え国亡ぶ、めしいたるたみ世におどる、治乱興亡ちらんこうぼう夢に似て、世は一局のなりけり」の「青年日本の歌」の歌詞ように、

貴族・財閥等の特権階級は物欲のとりこになって堕落し、政治家は党利党略に明け暮れ、中産階級の思想的頽廃たいはい及び経済的逼迫ひっぱくは深刻であり、

外交は、非主体的で、ワシントン及びロンドン軍縮会議における屈辱くつじょく的な妥協など、欧米的世界秩序に盲目的に組み込まれ、国民の思想は個人主義・マルクス主義など反国体思想に満ちており、

しかも国民の生活は貧しく、特に農村部の疲弊ひへいのひどさは、その子女を身売りするほどで、日本は漂流する難破船のような不安定な状況でした。

2、住職辞職・僧籍離脱を勧告される

🟡特高の常時尾行が付く

こうして、芳聖が昭和維新運動に乗り出すや、昭和4年(1929年)の5~6月頃から、危険人物・特別要視察人として検察当局の弾圧を受け、特高警察の常時尾行が付くようになった。

常時尾行が付くようになった原因は、山口鋭之助や田中光顕に三浦家の系図を見せた為、その筋から「内務省警保局」に指令が行き、そこから全国の警察に連絡が行ったのだろうと芳聖は述べている。

南朝正統の皇孫である芳聖が、堂々と「国体明徴論」を振りかざして「皇国体の真姿開顕」「皇政復古・神政維新」と獅子吼して東奔西走すれば、芳聖が後醍醐天皇の嫡皇孫である事を知っていた中央の「お偉方たち」にとっては、芳聖は、さぞや「危険人物」に見えた事だと思う。

なぜなら、・・・いや書くのは止めておこう。代わりに、鬼塚英昭著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を熟読するようお勧めしたい。
日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル(鬼塚英昭)

🟡住職免職・僧籍離脱を勧告される

さて、芳聖に特高警察の常時尾行が付くようになって暫くすると、西山深草派総本山「誓願寺」の宗務当局執事の松井慶厳氏(楠林山安楽寺時代の芳聖の兄弟子)が管長(深空富永慶法法主)の特使として日曜院にやって来て、

三浦慶定には多年寺門の経営をおこた蠢動しゅんどうし、危険人物として、検察当局の常時監視を受くる身分となりたるは不届至極ふとどきしごく、宗派の体面たいめんけがす事はなはだしく僧侶にあるまじき仕儀しぎなれば、宗制しゅうせい宗規しゅうきに依りここに住職を免職し僧籍を離脱せしむるもの也 
浄土宗西山深草派管長

という宗制しゅうせい宗規上しゅうきじょうの最も重い処分を言い渡されたのです。

当時は、何の事情聴取もなく、一方的に処分されるという人権無視の時代であったのです。この「住職免職・僧籍離脱」を勧告された日時は記録に無いので不明だが、昭和4年(1929年)6月~7月頃だろうと推察します。

🟡出山還俗・飛躍の前兆

その当時、日曜院に、高齢で病の床に伏している先住職のお庫裏くりさんが居たので、芳聖は「済南事変から帰還してまだ間がないのに、今すぐこの処分を執行すれば、監督官庁の文部省からおとがめがあるやも知れず、かえって富永慶法師匠に迷惑が掛かるといけないから、

時期が来るまでしばらく待ってくれ」と言って、時を稼ぎ、大正2年(1913年)8月24日、数えの10歳で仏門に入ってから満16年目の昭和4年(1929年)8月24日に出山しゅつざん還俗げんぞくした。数えの26歳だった。

*コラム・超世志のここだけの話
住職の芳聖に特高警察の常時尾行が付いたため、驚いた日曜院の檀家総代だんかそうだいが本寺の安楽寺にご注進するや、安楽寺では、本当の理由を知る由もなかったが、国家権力者からにらまれるのを恐れて、芳聖を一方的に処分したのだと思う。トカゲの尻尾しっぽ切りですね。

芳聖には、昭和16年7月の第三次近衛内閣が始まるまでの12年間尾行が付いていた。山口鋭之助にも、昭和20年7月、亡くなるまで16年間尾行がついていたそうだから、犯人は田中伯爵しかいない!

出山還俗した芳聖は、岡崎市十王町の「中根」という家の離れを借りて転居した。日曜院の住職に未練はなかった。収入も受験参考書「英語訳学」の印税が入ったので生活費には困らないし、本心は住職を辞めたかったのだと思う。

表面的には苦難と見える「住職免職・僧籍離脱」は、串呂主宰神の計画通りで、飛躍の前の予兆であった!


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🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№131)
🟢次号(№133)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。