三浦芳聖伝 19、昭和維新運動に邁進
1、昭和維新運動の講演筆記
日曜院の住職を辞職し出山還俗した三浦芳聖は、昭和4年(1929年)8月24日、愛知県岡崎市十王町に住居を移し、翌年の昭和5年2月頃まで「日本危うし国民醒めよ!」と獅子吼して愛知県内各地を巡講し、昭和維新運動に邁進していた。
その頃、親交のあった同志は、「伊藤武雄」「井箆 節三」「千家尊建」「水野満年」などの方々がいる。
この頃、芳聖は、錦旗会の機関誌『日本思想』(無水庵刊)を始めとする民族主義の機関誌に、皇国体の真姿開顕、皇政復古、神政維新などのテーマで盛んに論文を投稿していた。
昭和4年(1929年)11月頃、昭和維新運動で芳聖が三河地方で講演した演説要旨を、同志の平松成斌氏が御講演筆記として印刷したものが残っている。
平松成斌氏は、岡崎市宮崎町の方で、芳聖の母の里・河合家の親戚縁者ではないかと思います。
当時の芳聖の若き血潮の一端に触れる事が出来ると思うので、転載させて頂こう。数えで26才の若き芳聖の憂国の至情と、日本の将来を見通す見識・慧眼がよく伝わってくる講演筆録だ。
2、見えない敵(カバール)との闘い
(1)錦旗会を追放される
昭和5年(1930年)の3月、芳聖は錦旗会の総指導となった遠藤友四郎(号無水)氏と意見が衝突し、錦旗会を追放されてしまった。
その時、「遠藤友四郎(号無水)」氏より「三浦慶定を錦旗会より追放する。」という辞令が送られて来たばかりか、約2万枚の葉書で全国各方面に通報された。芳聖は、「意見の衝突」の他に追放されるような理由が思い当らなかった。
🟡遠藤友四郎に関する資料
下記のデーターを見れば、当時の「皇国維新運動」に携わっていた活動家の思想的な背景が見えてくる。
🟢遠藤友四郎 著(Webcat Plus)
尊皇国史詠歎 産業経済社 昭和18年
純忠足助公を偲びて其の無幣祀を慨く 錦旗会 昭和14年
皇民孝道篇 錦旗会 昭和12年
錦旗会パムフレット 筆錦旗会 昭和12年
陸軍部内に於ける非皇魂悪思想の徒等 錦旗会 昭和10年
孝明天皇聖徳記 : 附・会津の勤王 錦旗 昭和8年
我が民族生命の本質 : いざなぎ・いざなみ・対・アダム・ヱヴ 我が古典神代巻と聖書創世記の比較 錦旗会 昭和8年
我が民族生命の本質 : いざなぎ・いざなみ・対・アダム・ヱヴ 我が古典神代巻と聖書創世記の比較 錦旗会 昭和8年
国体原理天皇親政篇 昭和8年
(2)刺客に襲われる
そればかりか、その月に、芳聖は初めて刺客に襲われた。至近距離から拳銃で三発撃たれたが、間一髪のところで難を免れた。
芳聖は、この時、その刺客に「そんなヒョロヒョロ弾に当たる様な私ではない!弾はもうそれだけか!警察には届けないから足元の明るいうちにとっとと帰れ!」と一喝して追い返した。
この時芳聖は、『田中光顕伯が、宮内省へ話されたのが洩れて「憂国の士?」が芳聖を生かしておいては国家の為にならんとでも思って襲ったものか?』と思ったようだが、『日本の本当の黒幕』(鬼塚英昭)を読むと、田中光顕伯が、この事件に積極的に関わっていたのではないかという気がする。
その後、芳聖は、昭和12年(1937年)までに数回襲われたが、いつも天佑神助に依り不思議に難を逃れた。
その頃、芳聖は、政府の如何なる弾圧にも屈せず、ロンドン海軍軍縮条約反対運動に全身全霊を打ち込んで居た。
(3)政府から徹底的な弾圧を受ける
芳聖はワシントン海軍軍縮条約 の「米5、英5、日3」という主力艦の軍縮条約は、裏を返せば「米英10に対して日本3」という決定的な不平等条約であり、
更に駆逐艦や巡洋艦にいたるロンドン海軍軍縮条約は、「米10、英10、日本6.975)。裏を返せば「米英20に対して日本7」という決定的な不平等条約だとして、猛烈な反対運動を展開していた。
これらは、アングロサクソン人種が目の上のたんこぶの日本を陥れる罠であり、返って戦争の原因になるから絶対反対という運動であった為、芳聖は、経済的な面から軍縮を意図していた政府から徹底的な弾圧を受けました。
下記は、その辺りの事について述べた芳聖の著書からの引用です。
(改行を加え、数字をアラビヤ数字に変換しました。)
これらの闘いは、「太田龍」を始めとする先達の、血のにじむような研究努力により、今では、敵はカバール・イルミナティーである事が判明しましたが、昭和5年(1930年)当時、芳聖と言えど分からなかったと思います。
3、維新運動の限界を悟る
芳聖の必死の努力にも拘らず、結局、昭和5年(1930年)4月、米英の思惑通りロンドン条約は結ばれ、芳聖は、無残にも不平等条約反対運動に惨敗したのです。芳聖には、この不平等条約がもたらす結果が分かっていただけに、絶望感が大きかったのです!
また、長慶天皇他の遠祖の御陵を調査していた芳聖は、文献・資料による解明には限界があることを痛感していた。長慶天皇の崩御埋蔵の地は、三浦家の系図には「播州西山に葬る」とだけ書かれていて、まるで雲をつかむような困難な壁が横たわっていたのです。
芳聖は、播磨の国(兵庫県)の「西山」と名のつく所には全て出かけて行ったが、その糸口さえつかむ事が出来なかったのです。
こうした状況の中で、芳聖は、維新運動の限界を悟り、その壁を打開する為に、往昔・建武中興の時、土佐の畑に流された遠祖・尊良親王の先蹤に倣い、「一心が天に通ずる人」になるのを目指して、土佐の仙人、太玄洞紫陽道人について神仙道を学ぶ決心をした。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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