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太平記巻17の12「瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事」

1、口語による書き下し文

主上坂本を御出で有りし時、「尊氏若し強いて申す事あらば、休む事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚ゆるぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事然るべからず。春宮に位を譲り奉りて万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と仰せ下さり、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦い先帝の綸旨とて、尊氏申し成したり共、思慮あらん人は用うるに足ぬ所なりと思うべし。

2、原文

瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
同十四日、義助・義顕三千余騎にて、敦賀の津を立て、先杣山へ打越給ふ。瓜生判官保・舎弟兵庫助重・弾正左衛門照、兄弟三人種々の酒肴舁せて鯖並の宿へ参向す。此外人夫五六百人に兵粮を持せて諸軍勢に下行し、毎事是を一大事と取沙汰したる様、誠に他事もなげに見へければ、大将も士卒も、皆たのもしき思をなし給。献酌順に下て後、右衛門佐殿の飲給ひたる盃を、瓜生判官席を去て三度傾ける時、白幅輪の紺糸の鎧一領引給ふ。面目身に余りてぞみへたりける。其後判官己が館に帰て、両大将へ色々小袖二十重調進す。此外御内・外様の軍勢共の、余に薄衣なるがいたはしければ、先小袖一充仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千取出して、俄に是をぞ裁縫せける。斯る処に足利尾張守の方より潜に使者を通じ、前帝より成れたりとて、義貞が一類可御追罰由の綸旨をぞ被送ける。瓜生判官是を見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍より謀て被申成たる綸旨とは思も寄ず。さては勅勘武敵の人々を許容して大軍を動さん事、天の恐も有べしと、忽に心を反じて杣山の城へ取上り、関を閉てぞ居たりける。爰に判官が弟に義鑑房と云禅僧の有けるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押へて被申成候綸旨を誠と存て、忽に違反の志を挿み候。義鑑房弓箭を取身にてだに候はゞ、差違て共に死ぬべく候へ共、僧体に恥ぢ仏見に憚て、黙止候事こそ口惜覚候へ。但倩愚案を廻し候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ぬと存候。若御幼稚の公達数た御坐候はゞ一人是に被留置進候へ。義鑑懐の中、衣の下にも隠し置進せて、時を得候はゞ御旗を挙て、金崎の御後攻を仕候はん。」と申も敢ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是が気色を見給て、偽てはよも申さじと疑の心をなし給はず、則席を近付て潜に被仰けるは、「主上坂本を御出有し時、「尊氏若強て申事あらば、休事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚るぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事不可然。春宮に位を譲奉て万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と被仰下、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦先帝の綸旨とて、尊氏申成たり共、思慮あらん人は用るに足ぬ所也と思ふべし。然れ共判官この是非に迷へる上は、重て子細を尽すに及ばず、急で兵を引て、又金崎へ可打帰事已に難儀に及時分、一人兄弟の儀を変じて忠義を顕さるゝ条、殊に有難くこそ覚て候へ。御心中憑もしく覚れば、幼稚の息男義治をば、僧に預申候べし。彼が生涯の様、兎も角も御計候へ。」と宣て、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大夫義治とて、今年十三に成給ひけるを、義鑑坊にぞ預けらる。此人鍾愛他に異なる幼少の一子にて坐すれば、一日片時も傍を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労り哀み給ひしに、身近き若党一人をも付ず、心も知ぬ人に預て、敵の中に留置き給へば、恩愛の別も悲くて、再会の其期知がたし。夜明れば右衛門佐は金崎へ打帰り、越後国へ下んとて、宿中にて勢をそろへ給ふに、瓜生が心替を聞ていつの間にか落行けん、昨日までは三千五百余騎と注したりし軍勢、纔二百五十騎に成にけり。此勢にては、何として越後まで遥々と敵陣を経ては下べし。さらば共に金崎へ引返てこそ、舟に乗て下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける。爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶、此道より落人の多く下る由を聞て、打留めん為に、近辺の野伏共を催し集て、嶮岨に鹿垣をゆひ、要害に逆木を引て、鏃を調へてぞ待かけたる。義助朝臣是を見給て、「是は何様今庄法眼久経と云し者の、当手に属して坂本まで有しが一族共にてぞ有らん。其者共ならばさすが旧功を忘じと覚るぞ。誰かある、近付て事の様を尋きけ。」と宣ひければ、由良越前守光氏畏て、「承候。」とて、只一騎馬を磬て、「脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候を、旁存知候はでばし、加様に道を被塞候やらん。若矢一筋をも被射出候なば、何くに身を置て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ甲を脱で通申され候へ。」と高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、「親にて候卿法眼久経御手に属して軍忠を致し候しかば、御恩の末も忝存候へ共、浄慶父子各別の身と成て尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所をば支申さで通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一仕り候はんずるにて候。是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人出し給り候へかし。其首を取て合戦仕たる支証に備へて、身の咎を扶り候はん。」とぞ申ける。光氏打帰て此由を申せば、右衛門佐殿進退谷りたる体にて、兎角の言も出されざりければ、越後守見給て、「浄慶が申所も其謂ありと覚ゆれ共、今まで付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば彼等が命に義顕は替るとも、我命に士卒を替がたし。光氏今一度打向て、此旨を問答して見よ。猶難儀の由を申さば、力なく我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向て此由を申に、浄慶猶心とけずして、数刻を移しける間、光氏馬より下て、鎧の上帯切て投捨、「天下の為に重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替らんとし給ぞかし。況や義に依て命を軽ずべき郎従の身として、主の御命に替らぬ事や有べき。さらば早光氏が首を取て、大将を通し進らせよ。」と云もはてず、腰の刀を抜て自腹を切んとす。其忠義を見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、「御自害の事怒々候べからず。げにも大将の仰も士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でか情なき振舞をば仕り候べき。早御通り候へ。」と申て、弓を伏逆木を引のけて、泣々道の傍に畏る。両大将大に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵に没すとも、若一家の内に世を保つ者出来ば、是をしるしに出して今の忠義を顕さるべし。」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主の危を見て命に替らん事を請、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何れも理りの中なれば、是をきゝ見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり。

3、読み仮名つき

瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)義鑑房(ぎかんばう)蔵義治事
同十四日、義助・義顕(よしあき)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敦賀(つるが)の津(つ)を立(たつ)て、先(まづ)杣山(そまやま)へ打越(うちこえ)給ふ。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)保(たもつ)・舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)、兄弟三人(さんにん)種々の酒肴(さかな)舁(かか)せて鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参向(さんかう)す。此外(このほか)人夫五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて諸軍勢(しよぐんぜい)に下行(げぎやう)し、毎事(まいじ)是(これ)を一大事(いちだいじ)と取沙汰(とりさた)したる様、誠(まこと)に他事(たじ)もなげに見へければ、大将も士卒(じそつ)も、皆たのもしき思(おもひ)をなし給(たまふ)。献酌(けんしやく)順(じゆん)に下(くだつ)て後、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の飲(のみ)給ひたる盃(さかづき)を、瓜生判官席を去(さつ)て三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、白幅輪(しろふくりん)の紺糸(こんいと)の鎧一領(いちりやう)引(ひき)給ふ。面目身に余(あま)りてぞみへたりける。其(その)後判官己(おのれ)が館(たち)に帰(かへつ)て、両大将へ色々(いろいろの)小袖(こそで)二十重(にじふかさね)調進す。此外(このほか)御内(みうち)・外様(とざま)の軍勢共(ぐんぜいども)の、余(あまり)に薄衣(はくえ)なるがいたはしければ、先(まづ)小袖一充(ひとつづつ)仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千(すせん)取出(とりいだ)して、俄に是(これ)をぞ裁縫(たちぬは)せける。斯(かか)る処に足利尾張(をはりの)守(かみ)の方より潜(ひそか)に使者を通(つう)じ、前帝より成(なさ)れたりとて、義貞が一類(いちるゐ)可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被送ける。瓜生判官是(これ)を見て、元より心遠慮(ゑんりよ)なき者なりければ、将軍より謀(たばかり)て被申成たる綸旨(りんし)とは思(おもひ)も寄(よら)ず。さては勅勘(ちよくかん)武敵の人々を許容(きよよう)して大軍を動(うごか)さん事(こと)、天の恐(おそれ)も有(ある)べしと、忽(たちまち)に心を反(へん)じて杣山(そまやま)の城へ取上(とりあが)り、関(きど)を閉(とぢ)てぞ居たりける。爰(ここ)に判官が弟に義鑑房(ぎかんばう)と云(いふ)禅僧の有(あり)けるが、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参じて申(まうし)けるは、「兄にて候保(たもつ)は、愚痴(ぐち)なる者にて候間、将軍より押(おさ)へて被申成候綸旨(りんし)を誠と存(ぞんじ)て、忽(たちまち)に違反(ゐへん)の志を挿(さしはさ)み候。義鑑房弓箭(きゆうせん)を取(とる)身にてだに候はゞ、差違(さしちがへ)て共に死ぬべく候へ共、僧体(そうたい)に恥ぢ仏見(ぶつけん)に憚(はばかつ)て、黙止(もだし)候事こそ口惜(くちをしく)覚(おぼえ)候へ。但(ただし)倩(つらつら)愚案(ぐあん)を廻(めぐら)し候に、保(たもつ)、事の様(やう)を承(うけたまは)り開き候程ならば、遂には御方(みかた)に参じ候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候。若(もし)御幼稚(ごえうち)の公達(きんだち)数(あま)た御坐(ござ)候はゞ一人是(これ)に被留置進候へ。義鑑懐(ふところ)の中(うち)、衣(ころも)の下にも隠し置進(おきまゐら)せて、時を得候はゞ御旗(おんはた)を挙(あげ)て、金崎(かねがさき)の御後攻(ごづめ)を仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)も敢(あへ)ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是(これ)が気色(きしよく)を見給(たまひ)て、偽(いつはつ)てはよも申さじと疑(うたがひ)の心をなし給はず、則(すなはち)席を近付(ちかづけ)て潜(ひそか)に被仰けるは、「主上(しゆしやう)坂本を御出(おんいで)有(あり)し時、「尊氏若(もし)強(しひ)て申(まうす)事(こと)あらば、休(やむ)事(こと)を得ずして、義貞追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)をなしつと覚(おぼゆ)るぞ。汝かりにも朝敵(てうてき)の名を取らんずる事不可然。春宮(とうぐう)に位を譲奉(ゆづりたてまつり)て万乗の政(まつりごと)を任(まか)せ進(まゐ)らすべし。義貞股肱(ここう)の臣として王業再び本(もと)に複(ふく)する大功を致せ」と被仰下、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を春宮(とうぐう)に渡し進(しん)ぜられし上は、縦(たとひ)先帝の綸旨(りんし)とて、尊氏申成(まうしなし)たり共、思慮(しりよ)あらん人は用(もちゐ)るに足(たら)ぬ所也(なり)と思ふべし。然(しか)れ共(ども)判官(はうぐわん)この是非(ぜひ)に迷へる上は、重(かさね)て子細(しさい)を尽(つく)すに及ばず、急(いそい)で兵を引(ひい)て、又金崎(かねがさき)へ可打帰事已(すで)に難儀に及(およぶ)時分、一人兄弟の儀(ぎ)を変(へん)じて忠義を顕(あらは)さるゝ条、殊に有難(ありがた)くこそ覚(おぼえ)て候へ。御心中憑(たの)もしく覚(おぼゆ)れば、幼稚の息男(そくなん)義治をば、僧に預申(あづけまうし)候べし。彼(かれ)が生涯の様、兎(と)も角(かう)も御計(おんはからひ)候へ。」と宣(のたまひ)て、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の子息に式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)とて、今年十三に成(なり)給ひけるを、義鑑坊(ぎかんばう)にぞ預(あづ)けらる。此(この)人鍾愛(しゆあい)他に異(こと)なる幼少の一子(いつし)にて坐(おは)すれば、一日片時(いちにちへんし)も傍(そば)を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労(いたは)り哀(あはれ)み給ひしに、身近き若党(わかたう)一人をも付(つけ)ず、心も知(しら)ぬ人に預(あづけ)て、敵の中に留(とめ)置き給へば、恩愛(おんあい)の別(わかれ)も悲(かなし)くて、再会の其期(そのご)知(しり)がたし。夜明(あく)れば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は金崎(かねがさき)へ打(うち)帰り、越後国(ゑちごのくに)へ下(くだら)んとて、宿中(しゆくちゆう)にて勢をそろへ給ふに、瓜生(うりふ)が心替(こころがはり)を聞(きい)ていつの間(ま)にか落行(おちゆき)けん、昨日までは三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)と注(しる)したりし軍勢(ぐんぜい)、纔(わづか)二百五十騎(にひやくごじつき)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にては、何(なに)として越後まで遥々(はるばる)と敵陣を経(へ)ては下(くだる)べし。さらば共に金崎(かねがさき)へ引返(ひつかへし)てこそ、舟に乗(のつ)て下(くだ)らめとて、義助も義顕(よしあき)も、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)より打連(うちつれ)て、又敦賀(つるが)へぞ打(うち)帰り給(たまひ)ける。爰(ここ)に当国の住人(ぢゆうにん)今庄(いまじやう)九郎入道浄慶(じやうけい)、此(この)道より落人(おちうと)の多く下(くだ)る由を聞(きい)て、打留(うちと)めん為に、近辺の野伏(のぶし)共(ども)を催(もよほ)し集(あつめ)て、嶮岨(けんそ)に鹿垣(ししがき)をゆひ、要害に逆木(さかもぎ)を引(ひい)て、鏃(やじり)を調(そろ)へてぞ待(まち)かけたる。義助朝臣是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は何様(いかさま)今庄法眼久経(いまじやうほふげんきうけい)と云(いひ)し者の、当手に属(しよく)して坂本まで有(あり)しが一族共(いちぞくども)にてぞ有(ある)らん。其(その)者共(ものども)ならばさすが旧功(きうこう)を忘(わすれ)じと覚(おぼゆ)るぞ。誰かある、近付(ちかづい)て事の様(やう)を尋(たづね)きけ。」と宣ひければ、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、只一騎馬を磬(ひかへ)て、「脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の合戦評定(ひやうぢやう)の為に、杣山(そまやま)の城より金崎(かねがさき)へ、かりそめに御越(おんこし)候を、旁(かたがた)存知候はでばし、加様(かやう)に道を被塞候やらん。若(もし)矢一筋(ひとすぢ)をも被射出候(さふらひ)なば、何(いづ)くに身を置(おい)て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏(ふ)せ甲(かぶと)を脱(ぬい)で通(とほし)申され候へ。」と高らかに申(まうし)ければ、今庄(いまじやう)入道馬より下(お)りて、「親にて候卿法眼(きやうのほふげん)久経(きうけい)御手(おんて)に属(しよく)して軍忠を致し候(さふらひ)しかば、御恩の末(すゑ)も忝(かたじけなく)存(ぞんじ)候へ共、浄慶父子(じやうけいふし)各別(かくべつ)の身と成(なつ)て尾張(をはりの)守(かみ)殿(どの)に属(しよく)し申(まうし)たる事にて候間、此(この)所をば支申(ささへまう)さで通し進(まゐら)せん事は、其(その)罪科難遁存(ぞんじ)候程(ほど)に、態(わざ)と矢一(ひとつ)仕り候はんずるにて候。是(これ)全く身の本意にて候はねば、あはれ御供(おんとも)仕(つかまつり)候人々の中に、名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人出(いだ)し給(たまは)り候へかし。其首(そのくび)を取(とつ)て合戦仕(つかまつり)たる支証(ししよう)に備(そな)へて、身の咎(とが)を扶(たすか)り候はん。」とぞ申(まうし)ける。光氏打帰(うちかへつ)て此(この)由を申せば、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)進退(しんたい)谷(きはま)りたる体(てい)にて、兎角の言(ことば)も出(いだ)されざりければ、越後(ゑちごの)守(かみ)見給(たまひ)て、「浄慶が申(まうす)所も其謂(そのいはれ)ありと覚(おぼ)ゆれ共(ども)、今まで付纏(つきまとひ)たる士卒(じそつ)の志、親子よりも重(おも)かるべし。されば彼等が命に義顕(よしあき)は替(かは)るとも、我(わが)命に士卒(じそつ)を替(かへ)がたし。光氏今一度(いちど)打向(むかつ)て、此(この)旨を問答して見よ。猶(なほ)難儀の由を申さば、力なく我等も士卒(じそつ)と共に討死して、将の士(し)を重んずる義を後世に伝(つた)へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向(むかつ)て此(この)由を申(まうす)に、浄慶猶(なほ)心とけずして、数刻(すこく)を移しける間、光氏馬より下(おり)て、鎧の上帯(うはおび)切(きつ)て投捨(なげすて)、「天下の為に重(おも)かるべき大将の御身(おんみ)としてだにも、軍勢(ぐんぜい)の命に替(かは)らんとし給(たまふ)ぞかし。況(いはん)や義に依(よつ)て命を軽(かろん)ずべき郎従(らうじゆう)の身として、主(しゆ)の御命に替(かは)らぬ事や有(ある)べき。さらば早(はや)光氏が首(くび)を取(とつ)て、大将を通し進(まゐ)らせよ。」と云(いひ)もはてず、腰の刀を抜(ぬい)て自(みづから)腹を切(きら)んとす。其(その)忠義を見(みる)に、浄慶さすがに肝(きも)に銘(めい)じけるにや、走寄(はしりよつ)て光氏が刀に取付(とりつき)、「御自害(ごじがい)の事怒々(ゆめゆめ)候べからず。げにも大将の仰(おほせ)も士卒(じそつ)の所存も皆理(ことわ)りに覚(おぼ)へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当(あて)られ候(さうらふ)共(とも)、争(いか)でか情(なさけ)なき振舞をば仕り候べき。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。」と申(まうし)て、弓を伏(ふせ)逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、泣々(なくなく)道の傍(かたはら)に畏(かしこま)る。両大将大(おほき)に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵(ちり)に没(ぼつ)すとも、若(もし)一家(いつけ)の内に世を保つ者出来(いできたら)ば、是(これ)をしるしに出(いだ)して今の忠義を顕(あらは)さるべし。」とて、射向(いむけ)の袖にさしたる金作(こがねつくり)の太刀を抜(ぬい)て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主(しゆ)の危(あやふき)を見て命に替らん事を請(こひ)、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何(いづ)れも理(ことわ)りの中なれば、是(これ)をきゝ見る人ごとに、称嘆(しようたん)せぬは無(なか)りけり。


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