義貞自害事(『太平記』巻20の9)

1、口語による書き下し文(一部)

朝敵征伐の事、叡慮の向う所、偏に義貞の武功に在り、選んで他に求めず、殊に早速之計略を運(めぐ)らすべき者なり。

2、義貞自害事


燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為鼷鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。

3、読み仮名付き

義貞自害(じがいの)事(こと)
燈明寺(とうみやうじ)の前にて、三万(さんまん)余騎(よき)を七手に分(わけ)て、七(ななつ)の城を押阻(おしへだて)て、先(まづ)対城(むかひじやう)をぞ取られける。兼(かね)ての廃立(はいりつ)には、「前なる兵は城に向ひ逢(あ)ふて合戦を致し、後(うしろ)なる足軽は櫓(やぐら)をかき屏(へい)を塗(ぬつ)て、対城(むかひじやう)を取(とり)すましたらんずる後(のち)、漸々(ぜんぜん)に攻(せめ)落すべし。」と議定(ぎぢやう)せられたりけるが、平泉寺(へいせんじ)の衆徒のこもりたる藤島(ふぢしま)の城、以外(もつてのほか)に色めき渡(わたつ)て、軈(やが)て落つべく見へける間、数万の寄手(よせて)是(これ)に機を得て、先(まづ)対城(むかひじやう)の沙汰をさしおき、屏に著(つき)堀につかつてをめき叫(さけん)でせめ戦ふ。衆徒も落色(おちいろ)に見へけるが、とても遁(のが)るべき方のなき程を思ひ知(しり)けるにや、身命を捨(すて)て是(これ)を防ぐ。官軍(くわんぐん)櫓を覆(くつがへし)て入(いら)んとすれば、衆徒走木(わしりき)を出(いだし)て突(つき)落す。衆徒橋を渡(わたつ)て打(うつ)て出(いづ)れば、寄手(よせて)に官軍(くわんぐん)鋒(きつさき)を調(そろへ)て斬(きつ)て落す。追(おひ)つ返(かへし)つ入れ替(かは)る戦ひに、時刻押移(おしうつつ)て日已(すで)に西山(せいざん)に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負(ておひ)の実検(じつけん)してをはしけるが、藤島(ふぢしま)の戦(たたかひ)強(つよく)して、官軍(くわんぐん)やゝもすれば追立(おつたて)らるゝ体(てい)に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)の勢を相従へ、路をかへ畔(くろ)を伝ひ、藤島(ふぢしま)の城へぞ向はれける。其(その)時分黒丸(くろまる)の城より、細川出羽(ではの)守(かみ)・鹿草(かくさ)彦太郎両大将にて、藤島(ふぢしま)の城を攻(せめ)ける寄手共(よせてども)を追払(おひはら)はんとて、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢にて横畷(よこなはて)を廻(まはり)けるに、義貞覿面(てきめん)に行(ゆき)合ひ給ふ。細川が方には、歩立(かちだち)にて楯をついたる射手共(いてども)多かりければ、深田(ふけた)に走(はし)り下(お)り、前に持楯(もつたて)を衝双(つきならべ)て鏃(やじり)を支(ささへ)て散々(さんざん)に射る。義貞の方には、射手(いて)の一人もなく、楯の一帖(いちでふ)をも持(もた)せざれば、前なる兵(つはもの)義貞の矢面(やおもて)に立塞(たちふさがつ)て、只的(まと)に成(なつ)てぞ射られける。中野藤内左衛門(とうないざゑもん)は義貞に目加(めくはせ)して、「千鈞(せんきん)の弩(ど)は為鼷鼠(けいそ)不発機。」と申(まうし)けるを、義貞きゝもあへず、「失士独(ひとり)免(まぬが)るゝは非我意。」と云(いひ)て、尚敵の中へ懸入(かけいら)んと、駿馬(しゆんめ)に一鞭(いちべん)をすゝめらる。此(この)馬名誉の駿足(しゆんそく)なりければ、一二丈の堀をも前々輒(たやす)く越(こえ)けるが、五筋まで射立(たて)られたる矢にやよはりけん。小溝(こみぞ)一(ひとつ)をこへかねて、屏風(びやうぶ)をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起(おき)あがらんとし給ふ処に、白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、真向(まつかう)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)にぞ立(たつ)たりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢(ひとや)に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、抜(ぬい)たる太刀を左の手に取(とり)渡し、自(みづか)ら頚をかき切(きつ)て、深泥(じんでい)の中に蔵(かく)して、其(その)上(うへ)に横(よこたはつ)てぞ伏(ふし)給ひける。越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)氏家(うぢへ)中務丞(なかづかさのじよう)重国(しげくに)、畔(くろ)を伝(つたひ)て走(はし)りより、其首(そのくび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、鎧・太刀・々(かたな)同(おなじ)く取持(とりもつ)て、黒丸(くろまる)の城へ馳(はせ)帰る。義貞の前に畷(なはて)を阻(へだ)てゝ戦(たたかひ)ける結城(ゆふき)上野(かうづけの)介(すけ)・中野藤内左衛門(とうないざゑもんの)尉(じよう)・金持(かなぢ)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)馬より飛(とん)で下(お)り、義貞の死骸の前に跪(ひざまづい)て、腹かき切(きつ)て重(かさな)り臥す。此外(このほか)四十(しじふ)余騎(よき)の兵、皆堀溝(ほりみぞ)の中に射落されて、敵の独(ひとり)をも取(とり)得ず。犬死(いぬじに)してこそ臥(ふし)たりけれ。此(この)時左中将(さちゆうじやう)の兵三万(さんまん)余騎(よき)、皆猛(たけ)く勇める者共(ものども)なれば、身にかはり命に代(かは)らんと思はぬ者は無(なか)りけれ共(ども)、小雨(こさめ)まじりの夕霧(ゆふぎり)に、誰を誰とも見分(わか)ねば、大将の自ら戦ひ打死(うちじに)し給(たまふ)をも知らざりけるこそ悲(かなし)けれ。只よそにある郎等(らうどう)が、主の馬に乗替(のりかへ)て、河合(かはひ)をさして引(ひき)けるを、数万の官軍(くわんぐん)遥(はるか)に見て、大将の跡(あと)に随(したがは)んと、見定(みさだ)めたる事もなく、心々にぞ落行(おちゆき)ける。漢(かんの)高祖(かうそ)は自ら淮南(わいなん)の黥布(げいほ)を討(うち)し時、流矢(ながれや)に当(あたつ)て未央宮(びあうきゆう)の裡(うち)にして崩じ給ひ、斉宣王(せいのせんわう)は自(みづから)楚の短兵(たんぺい)と戦(たたかつ)て干戈(かんくわ)に貫(つらぬか)れて、修羅場(しゆらば)の下に死し給(たまひ)き。されば「蛟竜(かうりよう)は常に保深淵之中。若(もし)遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云(いへ)り。此(この)人君の股肱として、武将の位に備(そなは)りしかば、身を慎(つつし)み命を全(まつたう)してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴(おもむい)て、匹夫(ひつぶ)の鏑(やじり)に命を止(とど)めし事、運の極(きはめ)とは云(いひ)ながら、うたてかりし事共(ことども)也(なり)。軍散じて後(のち)、氏家(うぢへ)中務(なかつかさの)丞(じよう)、尾張(をはりの)守(かみ)の前に参(まゐつ)て、「重国こそ新田殿(につたどの)の御一族(ごいちぞく)かとをぼしき敵を討(うつ)て、首(くび)を取(とつ)て候へ。誰とは名乗(なのり)候はねば、名字(みやうじ)をば知(しり)候はねども、馬物具(もののぐ)の様(やう)、相順(あひしたがひ)し兵共(つはものども)の、尸骸(しがい)を見て腹をきり討死を仕候(つかまつりさふらひ)つる体(てい)、何様(いかさま)尋常(よのつね)の葉武者(はむしや)にてはあらじと覚(おぼえ)て候。これぞ其(その)死人のはだに懸(かけ)て候(さふらい)つる護(まぶ)りにて候。」とて、血をも未(いまだ)あらはぬ首(くび)に、土の著(つき)たる金襴(きんらん)の守(まぶり)を副(そへ)てぞ出(いだ)したりける。尾張(をはりの)守(かみ)此(この)首を能々(よくよく)見給(たまひ)て、「あな不思議(ふしぎ)や、よに新田左中将(さちゆうじやう)の顔つきに似たる所有(ある)ぞや。若(もし)それならば、左の眉の上に矢の疵(きず)有(ある)べし。」とて自ら鬢櫛(びんくし)を以て髪をかきあげ、血を洗(すす)ぎ土をあらひ落(おとし)て是(これ)を見給ふに、果して左の眉の上に疵(きず)の跡(あと)あり。是(これ)に弥(いよいよ)心付(つい)て、帯(はか)れたる二振(ふたふり)の太刀を取寄(とりよせ)て見給(たまふ)に、金銀を延(のべ)て作りたるに、一振(ひとふり)には銀を以て金膝纏(きんはばき)の上に鬼切(おにきり)と云(いふ)文字を沈(しづ)めたり。一振(ひとふり)には金を以て、銀脛巾(ぎんはばき)の上に鬼丸(おにまる)と云(いふ)文字を入(いれ)られたり。是(これ)は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝(つたへ)たりと聞(きこゆ)れば、末々(すゑずゑ)の一族共(いちぞくども)の帯(は)くべき太刀には非(あらず)と見るに、弥(いよいよ)怪(あやし)ければ、膚(はだ)の守(まぶり)を開(ひらい)て見給ふに、吉野の帝(みかど)の御宸筆(ごしんぴつ)にて、「朝敵(てうてき)征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也(なり)。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違(さうゐ)なかりけりとて、尸骸(しがい)を輿(こし)に乗(の)せ時衆(じしゆ)八人にかゝせて、葬礼(さうれい)の為に往生院(わうじやうゐん)へ送られ、頚をば朱の唐櫃(からひつ)に入れ、氏家(うぢへ)の中務(なかづかさ)を副(そへ)て、潜(ひそか)に京都へ上(のぼ)せられけり。


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