怪獣歌会
愛と殺しのショータイム──凡庸な現実とドラマティックなフィクション
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愛と殺しのショータイム──凡庸な現実とドラマティックなフィクション

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アドベント交換日記、二番目は自称「妖怪・猫檀家」吉田瑞季です。山城周曰く「論理的サイコパスラブ実践主義者」。そっかー。

 山城氏は愛について書いて、「シリアルキラーどうですか?」という問いを投げてくれました。わたしも愛と殺しについて考えていたところですので、どんどん書いていきたいと思います。

 言っちゃうと、フィクションのシリアルキラーは好きなんですけど、現実のシリアルキラーは嫌いです。これは倫理とか実際に被害者がいるとかそういうことを置いておいても、実在の殺人犯ってそんなに、というか全然面白くないと思うから。山城氏はつまらない人間はいない、と書いていたけれど、わたしは実在の人間はみんな凡庸でつまらなくて、ままならない人生をなんとかやり過ごして生きている、そういう存在だと思っています。みんながシリアルキラーや英雄(多くの場合人を殺しているという点ではシリアルキラーと英雄は同じようなものです)に期待しているようなストーリーを、現実の彼らはもっていません。

 文楽が好きなので文楽によく行くのですが、文楽の人たちは実によく死ぬし殺します。先日も大阪の国立文楽劇場で「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」と「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」を見ました。どちらもよくかかる演目なんですが、「桂川~」は心中の話、「女殺~」は殺人の話です。
 文楽の特に「世話物(江戸時代の庶民について書いた話)」というジャンルがすごいなと思うのは、英雄的でない人間の弱さをものすごく冷徹に描いていることです。弱さというとよく言い過ぎていて、「しょうもなさ」のほうが適当かもしれない。とにかく、心中にしても殺人にしても、大義名分はあれど本当は実にくだらない理由で文楽の人たちは殺すし死ぬのです。
 たとえば「桂川~」は30代の男と14歳の少女の心中話なのだけれど、彼らの間に愛はありません。14歳の少女お半は隣家の長右衛門のことを熱烈に恋して、旅先で偶然同じ宿に泊まった時に無理やりに同衾してしまうほどなのだけれど、妻子ある長右衛門のほうは、お半に押されてうっかり、ほとんど無意識に彼女とセックスしてしまったらしい(うっかり無意識にセックスできるもんなのかは知らないが)。それでお半は妊娠してしまい、にっちもさっちもいかなくなって二人は一緒に桂川に身を投げることになる。
 観るとわかるんですが、長右衛門が死ぬ一番の理由はお半との不義ではなくお金の問題とか仕事上の失敗です。その上にお半の妊娠が発覚したうえ彼女が死ぬつもりだとわかり、それでは世間に申し訳が立たないと心中に至ります。
 長右衛門は桂川までまだ幼いお半をおぶっていき、若いころに起こした心中未遂を思い出します。交際していた芸者と言い争ったのち、心中しようと二人で桂川まで来たものの、先に入水した女の姿を見てふっと恐ろしくなり、一人生き残ってしまった長右衛門。彼は今目の前にいるお半が、その芸者の生まれ変わりだと思い込むことで、この愛のない心中に意味と物語を与えようとするのです。
 そこでちょうど幼い恋に狂ったお半が「定まりごととあきらめて、一緒に死んで下さんせ」などというものだから、二人はもはやこの死が運命であったかのように他のあらゆることから目を背けて桂川へと身を投げます。

 心中現場に居合せて書いたかのようなリアリティですが、モデルになった事件は、偶然同道したお半と長右衛門が、桂川で船に乗ったところ偽の船頭に金を奪われ殺され、心中に偽装して川に投げ込まれた、というものであったという説があるそうです。それを知ったとき、たぶん、実際そのような事件だったのだろうなという納得感がありました。現実の死というのは、フィクション作家が考え出すものよりずっとあっけなく、凡庸なものです。

 レクター博士が魅力的なのは、彼が想像力の世界に生きているからです。フィクションの犯罪者や狂人は普通の人たちとは全くずれた信念の世界に生きているけれど、実際の犯罪者や「狂った」人たちは「普通の人々」とほんの少ししか違わないし、それ故に恐ろしいと私は思います。

 たとえば「ロミオとジュリエット」とか、「忠臣蔵」とかは「桂川~」よりはるかにロマンティックでドラマティックに描かれた愛と殺しの物語ですが、そういうものと比べるとリアルで冷徹に見える「桂川~」も、実際には浄瑠璃作者のとてつもない想像力が生み出したドラマです。しかしながら私たちはそういう物語に「実在の事件をもとにした」などの煽り文句が添えられているとより魅力的に感じて鑑賞してしまう。どこかで、この世界のドラマティックさを信じたいと熱望しているかのように。

 世界のドラマティックさを信じるためにわたしたちは劇場に行くのでしょうか?それとも世界や人間が凡庸であるからこそ劇場にドラマを探し求めるのでしょうか?

 この問いに答えてくれる(答えてくれるかな?)のは、わたしが「虹色の水晶窟に棲む蜥蜴」と呼んでいる川野芽生です。
 クリスマスまでに血なまぐさい話からシフトチェンジするのだろうか。乞うご期待です。

参考文献:
くまざわあかね「実説の『桂川連理柵』」国立文楽劇場第152回文楽公演 プログラム
床本「桂川連理柵」同上
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー3日目の記事です。

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