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【歌会録】20人のレスビアン来て従順になるなと次々りんごをくれる

 1970, lavender menace
20人のレスビアン来て従順になるなと次々りんごをくれる

川野 lavender menaceって何ですか?

山城 かつてアメリカのフェミニスト団体NOW(National Organization of Women)の内部で、レスビアンは「男性と同一化する女性」だから「フェミニズム運動を撹乱する存在」である、という批判が出たんです。NOWの創立者の一人で、当時の議長だったベティ・フリーダンはレスビアンのことをlavender menace(ラベンダー色の脅威)と呼んだんですよ。ちなみに私も今日はラベンダー色のキャミソールを着てきてます。でも外からは見えないですよね。「クローゼット」だから(一同笑)二〇一六年に聞くとラベンダー色の脅威なんて笑ってしまうけど、それは四六年経ったから。

斉藤 レスビアンが「男性的」とか「男嫌い」という偏見がある中で、フェミニストがレスビアンと同一視され、それらの偏見を引き受けなければならなくなることを恐れたんです。今聞くとウッ死ぬ〜と思うけどね。で、それに対してその翌年の全国会議で二十人のレスビアンのフェミニストがステージに駆け上がって抗議したんですよ。(編集注:実際は十七人)

川野 それを聞いてしまうと、完全にlavender menace の注釈的な歌になってしまっているように思えるから、詞書にはしない方がいいかなと思いました。この歌自体はいいんですけどね。いいじゃないですか、二十人もどんどんやってきて、従順になるな、って言ってくれる。それも手を取り合うとかじゃなくて、りんごっていうささやかなものをくれて、あとはそのりんごを手にして、自分の足でどうにかしなさいって。でも〈レスビアン〉と〈従順になるな〉の関係は分からない。二十人のフェミニストだったら分かる。レスビアンの人にとっての従順ってなんなの? それは男に対する従順なの? 恋愛という制度に対する従順? でも性的指向によらず、恋愛をするということは恋愛という制度に従順になることなんじゃないの? そこが私としてはちょっと。あと、二十人もいちどきに来るのはどうなんだろう。一人のレスビアンの人だったら、レスビアンだっていうのはその人の属性のひとつだと思うけれど、二十人もいたら、そのセクシュアリティだけでひとまとめにされちゃってる感じになっちゃって、その人たちの個別性はどうなっちゃうのって。

山城 今の評を聞いたら、詞書がない方が面白いような気がしてきた。ない方が抽象度が上がるっていうのはあるかなあと。あと、自分はlavender menace を知ってたから、テーマが明確になっちゃうとスローガンじゃん、ダサくない?みたいな気持ちになってしまう。そのダサさを感じたから取れなかったんだけど、やっぱ次々りんごをくれるの、童話みたいなところの何らかの寓意性はあるっていうことは分かる。でも詞書なかったら、レズビアンでなく〈レスビアン〉なのは時代背景を鑑みてのこととは分からない人びとが、この世にはいるじゃん!と思う。一首目で〈鑑別師〉の意味を塗り替えるみたいな話がありましたが、この〈りんご〉も、短歌に描かれる既存のりんご像を書き換えようとしているのかなとも思う。「短歌における〈りんご〉の罪」みたいなのがあるじゃないですか、私が勝手にそう呼んでるんだけど(笑)〈君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ〉の、性愛の象徴としての〈りんご〉もあるし、短歌に限らず知恵の実としての〈りんご〉もあるし。

川野 この歌の〈りんご〉を知恵の実として解釈することはできると思う。知恵の実って「女性の罪」なるものの象徴、女性であることが罪であるっていう象徴ですよね。それをあえて女性が女性に渡すことで、りんごを持っていることが社会への抗議になる。その一方で、りんごって象徴的に使われやすい分、こういうところにはやっぱりんごを入れとくのかなみたいな感じで、かえって意味を読み込みづらくなってしまうよね。

斉藤 スローガン性はやっぱあるなあと思う。けれど、そのスローガン性がないと伝わらないときもあるのかなとも思う、からそこは保留します。〈従順になるな〉っていうのはやっぱり、男性に対してではなく、この世のジェンダー、セクシュアリティ規範に対して従順になるなって意味かと読みました。男性と付き合っている女性は男性に対して従順ということだったらつらすぎるので。ただ、女性同性愛は社会の性規範に合っていないことから脅威とされたわけで。でも詞書が必要かどうかっていう話に戻るんですが、この詞書がなかったら、主体はどこに立ってるのか分からないじゃないですか。詞書があるからこそ〈レスビアン〉という言葉に意味が加わる。主体はそういう実体を持ったレスビアンというものからりんごをもらう存在になる。これがなかったらレスビアンはおもしろナンセンス単語になってしまう危険性があるというか、なんかいっぱい来たみたいな。朝起きたら床に二十匹イワシがいたみたいな。レスビアン、レスビアンって今日何回言ったか分かんないぐらいなんですけど、言わない人もいるわけで。そういう人からしたら、文脈を絶って現れたとっぴな存在みたいな。

山城 ただの非日常とか珍奇な存在として読まれてしまう危険性が大きい。

川野 確かに、詞書があるかないかでは二十人のレスビアンのイメージが若干変わりますね。実在の人たちに共感や感謝を覚えるのか、どこか知らないところから現れた自分を励ましてくれる妖精みたいな感じか。私はそのどこか分からないところから来た人に励まされるというイメージが好きだったから、特定の二十人がいるとなると、そのイメージはつきすぎだなって思うんだけど、どこから来たのか分からない二十人のレスビアンが簡単に面白いイメージになってしまうのも分かるな。だから、童話的で面白いと思ってしまった私のその読みにも若干の罪があるのかもしれない。ただ、〈従順になるな〉があるから、この主体がこの二十人に連なる存在であるというのは揺らがない気がするんですよね。

斉藤 それも一理ありますね。でもやっぱり、ある場合とない場合で、仮に面白い存在として描かれなかったとしても、それはただの闖入者としてのレスビアンというか、最近自分従順になってるかも……みたいなときに、マンボウがきて、励ましてくれる、みたいな。

川野 でもマンボウだったら、何で〈従順になるな〉って言うのか分からないわけじゃないですか。レスビアンの場合は、同じ社会構造に対して自分も従順になってはいけないと思ってるってことは分かると思う。私は、この作中主体が「二十一人目」として同じ社会構造と戦おうとしていて、孤独であるからこそ、自分に連なる存在二十人を呼び出してきたのかな、と思ったんですよね。でも確かにその批判も分かります。

解題:
20人のレスビアン来て従順になるなと次々りんごをくれる(鳥居萌)


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