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台湾電子産業の勃興

はじめに

2022年、日本において国策企業といえるRapidusが設立されました。

「2nm以下の最先端LSIファウンドリを日本で実現へ」

という事業目標を掲げましたが細かく造るほどに高性能になる半導体において現在の日本の半導体製造が40nm(ナノメートル)世代という14、5年前の量産技術レベルである事を考えると、現在の最先端の3nmの更に先行く挑戦がどれだけ克服するべき課題があるのか容易に想像できます。

現代においてあらゆる電気製品に使用されている半導体製造は国際化の流れの中で「水平分業」という役割分担をするようになっています。

これは技術が高度になる程、製造を実現する為の研究開発費用や設備投資費用が莫大な物になって来ており、かつて日本が半導体を得意としていた頃の一社の中で設計から製造、加工、販売を手掛ける「垂直統合」が難しくなってきた事に起因し、現在では半導体製造大手である台湾のTSMC(台湾積体電路製造)UMC(聯華電子股份有限公司)といったファウンドリ(製造請負)を擁する台湾がいかにして電子産業を起こし、軌道に乗せる事に成功したのかを知る事は、日本の半導体産業再興への理解にもつながるものと思い、記す事にしました。

本コラム作成にあたっては台湾ハイテク産業の生成と発展(アジア経済研究所叢書3)やインターネット上に展開されている資料を参考にしています。

佐藤 幸人  著 岩波書店刊

本書は多くの先行研究からの考察と筆者による関係者数十人へのインタビューによって当時の台湾の電子産業を取り巻く状況を紐解いた一級の資料といえるでしょう。

1)1960年代 台湾電子産業の発展

この時期、台湾の産業は中小企業の国内需要と輸出産業に大別されます。
輸出産業としては外資系企業の白黒テレビの組み立てが多くを占めていましたが、経済成長するにつれ教育水準が上がりアメリカに留学する台湾人も増え始めました。

台湾の工業近代化を目指す蔣緯国の旗振りで台湾国内でも国産化の試みがなされ環宇電子、萬邦電子、三愛電子、栄泰電子、金宝電子工業など多くの地場系電子メーカーが起業されました。
中には半導体ウェハの製造などに乗り出し、今も継続している企業もありますが、その多くが後年に閉鎖や吸収合併されました。

完成すればそれでよい研究室レベルと違い、繰り返し同じ品質を達成し続けなくてはならない製造現場レベルで求められる品質管理の概念が違っていたことが周知されていない未熟さから商業レベルでの採算が取れなかったようです。

2)1970年代 工業技術研究院とパイロットプラント計画

国家としての電子産業高度化の目標が示された事により、1974年10月に台湾有識者や在米華人技術者らからなるTAC(Technical Advisory Committee)が結成され、様々な課題が検討されると共に、散逸しがちな人材を結び付け知見を集合する役割も果たしました。
会合や視察などの結果は随時国家機関に提言され、方向性を定める役割を果たしていきます。

韓国の電子産業視察で台湾での電子産業の必要性から工業技術研究院に電子工業研究開発センターが開設され1973年、在米華人専門家ら顧問の集まりでターゲットとするキーデバイスに「デジタルウォッチ」のIC製造が定められます。

民間からの出資と国からの出資を取り付け、1975年には工研院が当時台湾に進出していたアメリカのRCA(Radio Corporation of America)社にICの設計と製造技術導入の提案をしています。

台湾に本格的な半導体製造と商業化を目指すパイロットプラント計画ではRCA社のCMOS製造技術獲得が目的でしたが、この技術移転は製造や設計に留まらず工程管理や財務会計など多くの知見を台湾技術者にもたらすことになります。

計画が実施されると、中国からアメリカに渡って現場にいた技術者や、台湾の電子産業に関わっていた技術者らが大勢このチャンスに参加します。

それは中華人民共和国に追われ国連を脱退した中華民国(台湾政府)への愛国心や留学させてくれた国に恩返ししたいと言う気持ちから、またある者は収入面から家族に反対されながらも電子機器産業が成長産業であるという期待から参加したといいます。

ある部署は800人の応募に対して3人の採用であったりとかなりの競争率でしたが、選りすぐりの優秀な人材を獲得した事がRCA社での研修で、各自が貪欲に学び、技術を獲得していった原動力となっていたようです。

台湾でも半導体製造の工場が建設され稼働しはじめました。
それは軌道に乗り、やがて技術指導したRCA社よりも収益率が高くなっているほど優れたものだったようです。

RCA社がこのパイロットプラントの買い取りを申し出ましたが、紛糾の末この提案を拒否します。

既に生産だけでなく独自設計も出来るまでになっていた事と、やはり売ってしまっては台湾に何も残らないという判断からだったようです。

3)1980-1985年、聯華電子(UMC)の設立とVLSI計画

パイロットプラント計画は半導体生産の商業化を目指すもので、工場も分離して売却しやすい立地に建設されていましたが、法的な問題から設備の民間への売却が出来ない事が明らかになります。

この為、民間に受け皿となる企業を設立し、新たな工場を建設し、そこに人材と技術を移転する事が決定されました。

当時の民間資本からは台湾半導体産業の将来性への理解が得られず、資金集めは困難を極めましたがなんとか過半数を民間資本出資という形を作り聯華電子(UMC)が設立されます。
※台湾の特殊事情として1987年に蔣経国総統が政党結成を解禁して民主化されるまでは一党独裁の状態であり国民党系の銀行資本参加も「民間」という括りにして過半数としています。

1980年12月、新竹科学工業園区(新竹サイエンス パーク)が台湾 新竹市に建設され、聯華電子(UMC)の工場も建設されます。

新竹科学工業園区では台湾に科学技術産業を根付かせることを目的とした税の優遇措置という直接的な恩恵がありますが、そこに終結した企業間での競争や連携、また人材交流などが盛んになっています。

聯華電子(UMC)では当初、パイロットプラント計画の成果品を製造するところからスタートしましたが、電子工業研究開発所との競合になる事で摩擦が生じ、ウェハの4インチ化による収益性向上や設計部門の設置から、当時アメリカの電話機販売自由化の需要を取り込んで電話用IC、その後、電話機需要が飽和すると見越して早々に立ち上げた音楽用ICがメッセージカードなどでヒットした事で商業的な成功を収め真の意味で経営的に自立する事に成ります。

聯華電子では新プロジェクト立ち上げに際し、プロジェクトのシンボルフラッグ授与式を行うなど、メンバーのモチベーションを高める工夫がなされました。

それまで一般的だった三班三直体制を見直し四班二直にすることでシフト間の途切れや交代回数減少による引継ぎに係るミスの低下、繁忙期での従業員の負荷の低減などのメリットによって後の業界の標準体制となりました。

またボーナスを自社株式で支払う事も検討されましたが国民党系の執行役員らがこれを問題視したため給与の一部を自社株式で支払う従業員優遇制度として、当時まだ利益が出ていない状況下であった事からうまく批判を回避できたようです。

このように技術者から起業家に転身して成功を収めるという素地が台湾に形成されていったと推定されます。

1982年になると先進国に対して台湾半導体産業が約三年ほど後れをとっている事が懸念されるようになります。

商業的に一定の成功を収めているとはいえ、まだ時代は「台湾はコピー品」と見られる風潮が幅を利かせていました。

この為、一挙にキャッチアップする必要性が認識され、技術開発と民間部門の支援のためのVLSI(Vely Large Scale Integrateion)計画が立案されます。

この時、行政院に対して助言を行う外国人専門家顧問団:STAG(Science and Technology Adviceory Group)が組織され、パイロットプラント計画の時のTACのように方向性を示す役割を果たします。

VLSI計画策定ではDRAMのような大規模汎用品の生産を目指すべきと言うSTAGとASCIで多くの技術を獲得すべきと主張する電子工業研究所で意見が対立します。

DRAM生産は実用的ですぐに利益に結び付く半面、より大きな資本と人的資源の投入が必要であり、ASICは設計など広範な技術獲得が期待されるものの、その当時は市場がニッチであるという不安がありそれぞれ一長一短であり、いかに双方の折り合いをつけるかが検討される中で後のファウンドリー事業がイメージされたようです。

企業化に対する課題などをのこしつつ、計画は進行することになります。

ファウンドリ―のイメージは独自設計部門を持たずに立ち上がった経緯から先行する聯華電子(UMC)にもあったようです。

また、台湾政府の招致に応じた在米華人企業の華智電子(Virelic)、茂矽電子(mosel)、国善電子(Quasel)が三社の製造を賄う共同ウェハ加工工場を模索した事もファウンドリーを想起させる動きでした。

ここでもう一つ問題が顕在化します。
華智電子(Virelic)が電子工業研究所と開発したDRAMの技術を韓国企業に売却するという問題が起きました。

これは民間資本が失敗を恐れて投資を控えたために事業化を断念した事に起因し、台湾における資本関係の問題を表した出来事となりました。

VLSI計画は予算が膨らんだこともあり、一部の研究以外を遅らせ、5ヶ年計画とされ
・1.25ミクロン回路の研究と次世代CADの選定
・共同研究センターへの支援
・情報機器IC技術開発の強化
・1ミクロンCMOS製造技術開発
・民間への技術移転
が目標とされ、設計面と製造面に分かれて進められました。

その成果として、台湾で半導体回路設計を手掛ける企業が勃興。後のファウンドリー構想においても国内半導体需要の根拠の一つとされます。

4)1986年、TSMCの設立とファウンドリー事業

1985年8月、アメリカの半導体製造で名を馳せていた張忠謀(モリス・チャン)が来台し工業技術研究院の所長に就任します。

張忠謀(モリス・チャン)は浙江省寧波市に生まれましたが第二次世界大戦後の中国国民党と中国共産党の間での覇権争いの国共内戦を避け中国国内を転々とした後、中間人民共和国が成立する一年前の1948年に香港に移住、その後渡米しハーバード大、マサチューセッツ工科大学で機械工学の修士号までを取得、1958年に入社したテキサス・インスツルメンツ社(TI)で半導体製造に貢献し、副総裁にまで上り詰めた人物です。

その後、組織改革で同社の半導体事業が縮小されるとジェネラル・インストゥルメント(GI)のCOOに迎い入れられたものの、経営方針が合わず辞職した翌年、度々台湾半導体産業へのアドバイスをしてきた事もあり孫運璿の招聘を受け台湾でTSMCの設立を推し進める事に成ります。

張忠謀(モリス・チャン)は単に自身のキャリアとしてだけでなく、台湾で世界一の企業を打ち立てるという野心を持っていました。

この事もあり、台湾によく見受けられる「老二主義」(リーディングカンパニーに追従する二番手で充分)を打ち破る必要があったと後に回顧しています。

張忠謀(モリス・チャン)はTSMCについて製造専門のファウンドリー事業とするように働きかけます。

垂直統合事業が主流であった当時、この提案は否定的に受け止められましたが、張忠謀(モリス・チャン)には成功を確信していたようです。

張忠謀(モリス・チャン)は出資獲得にも独自の人脈を生かしてオランダのフィリップス社などから出資を取り付けることに成功し、VLSI計画の試験工場を借り受けるなどして1987年、TSMC(台湾積体電路製造)が設立されました。

しかし、当初は懸念されていたようにファウンドリービジネスは垂直統合企業が片手間にやるものと認識されており、アメリカや日本の半導体製造企業には殆ど相手にされませんでした。

しかしようやくアメリカのインテル社との契約によってTSMCが大きく飛躍する事になります。

このインテル社の改善要求に答えることでTSMCのファウンドリー事業が認められる切っ掛けとなりました。

中でもTSMCの顧客サービスとしてIPライブラリーの提供は発注者の設計を省力化するに留まらず、自社工場の製造ラインへの最適化された設計による生産品質管理に貢献すると同時に顧客の囲い込みという側面もあり、TSMCの強みの一つとして知られています。

TSMCの急成長を目の当たりにした聯華電子(UMC)も、設計部門を切り離してファウンドリー専業へと業態を変化させます。

この分業化が台湾において設計会社の勃興を促し、またファウンドリーもそれにより途切れることなく製造を受注できるというエコシステムが出来上がっていく事になります。

5)ファウンドリー事業

それまでの製造委託受注は垂直統合メーカーが自社の製品製造の合間に行われるものと認識されていました。

しかし、これでは発注する設計会社にとっては、製造ラインが自社製品の要求に最適化されていないため品質は良くない上に、自社の設計アイデアについても、あまり売れそうにないと判断されると発注を受けてもらえない事があったり、また素晴らしい製品だと見抜かれるとアイデアや設計を垂直統合企業に盗用されるのではないかという恐れがありました。

設計を買い取られた場合も設計会社は自社製品の収益を諦めることになっていました。

ファウンドリー専業のアイデアはこれらの問題を解決する事になりました。

それまで垂直統合企業では製造工程が刷新されると古い工程の設備は売却されるなどしていましたがファウンドリー企業は基本的には古い工程は稼働を維持したまま新しい工程用の新工場を建設するため、最新の工程から古い世代の工程まで対応する事が可能となり、発注と受注の要望が最適化される事が多くなっています。

また、発注者にとってのライバル企業からの依託も受けるファウンドリー企業にとっては顧客の秘密保持こそが信頼関係に直結する事から、データ格納サーバーを物理的に分離するなど最高レベルでの秘密保持に努めています。

自動車半導体不足が世界的な問題になった時、アメリカ政府がTSMCに対して顧客情報の提示を求めましたがTSMCはこれを拒む姿勢を示しました。

台湾TSMC、企業機密は漏らさずと表明 米の情報提供要請巡り(ロイター)

それほど情報管理に重きを置く姿勢が現在の同社の信頼に繋がっているといえるでしょう。

直近の推計によると台湾を代表するTSMCとUMCの二社を合わせると世界の半導体生産の60%強を占めるまでの巨大ビジネスに成長し、まさに台湾経済をけん引していると言っても過言ではなく、また世界の半導体業界で大きな存在感を示していると言えるでしょう。

6)まとめ

台湾の電子産業が隆盛を極めた要因として

・国家(リーダー)による明確な意思表示
・有識者らの適切なビジョン設定
・国家による資本注入と企業優遇や人材育成政策
・先行プロジェクトや留学、海外実務者の人材獲得
・ターゲットの柔軟な変更
・漸進的な進歩

等があげられるかと思います。
特に時代の潜在需要を見極め、適切な技術と資本投下を行った結果として成果を収める事が出来る事例と言えましょう。

一方で、同じ工業技術研究院の後続のプロジェクトであるマイクロエレクトロニクス技術開発研究、サブミクロン計画、ディープサブミクロン計画は芳しい成果を残す事が出来ませんでした。

これらは次世代DRAMの研究などが目標とされていましたが、既に台湾において民間で半導体関連企業が数多く存在していた事により多様化していた需要を捉えられなかった事や民業圧迫が嫌気された事、台湾が民主化する過程で公的機関に求められる役割が変わってきたためプロジェクトの目的も投下資金の回収が優先されるなど制限を受けていた事、また景気の影響を受けるメモリ事業において多額の設備投資や研究開発費の継続投資が必要であったのに工研院の体質が技術偏重になり、商業的な事情は軽視された事などの内外の事情がうまくかみ合わなくなっていたものと思われます。

野心的なプロジェクトが成功する為の要件を引き寄せる事がいかに至難の業であるかを思い知らされると共に、全ての人達の不断の努力に尊敬の念を抱かずにはいられません。

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