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蛙の恐怖

 いつだって漠然と恐ろしい感情が足元にあり、自分はその終わりの見えない不安の綱渡りを強いられている。
 今日、いきなり心臓発作で死んでしまうかもしれない。明日、交通事故で植物状態になってしまうかもしれない。明後日、駅のホームで背中を押されて電車に轢かれて肉塊になってしまうかもしれない。
 想像し得る事象とはほとんどの場合現実で起こり得ると言われている。だから、いま自分が並べた例え話は妄言などではなく、いつか誰かの身に起こる、あるいは起こったことのある出来事である。
 しかしそのような不確定な仮定の未来に怯えていては人はどんな物事においても成長できないと断言できる。いいや、皮肉を言うのならば、脅威に背を向ける能力が育つと言えようか。ペシニズム。

 自分には浪費癖がある。
 ストレス発散方法のひとつに、お金を使うことというのは有名な話だが、自分の場合はそれに止まらず、あればあるだけお金を使い切ろうとしてしまうのに子供の頃から悩まされている。
 本当に裕福でもないのに、生活費を削ってまで欲しいものを望むままに手に入れてきたが故の人生最大と言っても過言ではない障壁。いやもはやそのような精神的な障害。
 世の中には金銭こそ人生とする人もいる。株のトレーダーなどが良い例だ。そして最近まで知らなかったのだが、自分の父が定年退職してからそれになっていた。
 自分は古くからその父を見て育ってきたし血も引いているのでなんとなく株のトレードに向き合うという思想こそ理解できるのだが、もはやこちらから訊く前に父の方から儲けがある程度あってなんだか成功している旨を語られた。
 ひいては、お前も時間だけはあるのだから俺と一緒に株をやろうとも言われたが、父は何十年もひとつの家庭の金銭事情を支えてきた男であり、無論金銭の工面に対して長けに長けている。
 それがたかだか23歳の無職が投資の世界に足を踏み入れるなど、猛火に飛び入る夏の虫のごとくであろうことはやる前からわかりきっている。

 自分は常に他者へ、物事をやる前から悲観せずにとりあえず挑戦するべきだと講釈を垂れているが、それはあくまで分野に左右されるのだと、いま言わせていただく。
 今からいきなり楽器が演奏できるものか。フルマラソンを走り切れるものか。株のトレードができるものか。
 案外、やってみればすんなりとできるかもしれない。賭け事においてはビギナーズラックなんて言葉も普及しているほどだが、運と実力は引き離して然るべきだ。運も実力のうちだなどという理屈は、まぐれで成功の道を歩めた強者の理論に過ぎない。そんなの自分は認めない。

 だがしかし、運と実力の因果関係には確実に無視できないものがある。
 それは第一に運を以て人々に認知され、第二に実力を以てして人々を感服させることだ。
 この手順を踏むには条件がある。何度も言うようだが、第一に運だ。どんな実力や才能の持ち主であろうと、世間からの目線と評価がなければ井の中の蛙となる。
 蛙はまず井戸から這い上がり、広大な世界へ飛び跳ねていかねばならない。そこで自分よりも強大な存在を前に屈するも抗うも、それはどうだっていいのだが、大事なのはただひたすら自分の意志を折らずにいることだけだ。
 蛙は、なぜ井戸から這い上がろうとしたのかを思い出すべき──あるいは忘れずにいるべきだ。
 比喩が難しくて伝わらないのだとしたら、「人は人。自分は自分」と言えば理解できるだろうか。否、していただかないと困る。

 とりあえず挑戦するべきだ。なんて啖呵を切ってしまったが、他人にそんなことを言っておいて自分だって新たなことに挑戦してみようと画策した際は不安でどうにかなりそうな思いなのだ。
 現状、今年中にやりたい事がいくつかあり、しかしそれもすべからく成功が確約されているわけではない。だから毎夜毎夜、脳内で計画を組み立てては崩して、組み立て直しては組みかえて、また崩して、複数の計画をそれぞれで継ぎ接ぎして同時に思考していて、だからいま気が狂ってこんな文章を書いていて、しかしこんなことをしている場合じゃないのはもっともなのだ!

 中学生の終わり頃から自分は脳がパンクしそうになったらこうしてとにかく湧き出る情報をスマホなり紙にアウトプットする癖がついている。
 元々は創作を始めて、稚拙な作品を書いていたのがこのように変容したのだが、今尚こうしてその癖が役に立っているのなら、これこそ棚からぼたもちだと言える。

 やりたい事。やらなければならない事。できればやった方がいい事。やらない方がいい事。
 それぞれを同時に机上に並べて、その場その場で優先順位を入れ替えて自分は行動している。それ故に自己中心的な性格なのだが、別にこれがくあちるという人間なのだから直すつもりなど毛頭ない。
 今は夜だからほとんどの人は夢の中。ならばインターネットに顔を出しても今の自分のレベルでは思い通りの結果は得られない。ならばきちんとした活動時間帯により良い物事に取り組める下準備をするのが今の時間だ。それならこの文章がより良い活動に直結するかと? そんな疑問には大きなため息が出る。全てにおいて生産性を求めていては気が持たないだろう。だから、これは形式上エッセイとかそういう執筆活動にはなっているが、別に今は自己満足でやっているのだから生産性とか成功とかの見返りは大して求めていない。そもそも自分の執筆してる個人的な文章はほぼ全てがそうだ。好きでやっているから別にこれでいい。義務感を持ったら途端に飽きるのは火を見るより明らかだから。

 冒頭で、想像し得る事象はほとんどの場合起こり得ると言ったが、なにもそれは悪いものに限った話などではない。
 良いことだって、あなたの想像が及ぶのならばきっと起こり得る。確実性はないけれど、目的を諦めなければ自ずと結果は現れる。とはいえ、それが望むものかどうかについてが確実性のない話だと自分は切に言いたい。

 ありきたりな言葉を使うのは嫌いなのだが、諦めなければどうにかなる。継続は力なり。
 今夜はそれだけが言いたかったのです。
 もう、すっかり朝になってしまった。

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