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正気を失ったくあちるが書いた文章

 思えばここ3日連続でODをしていたことに気がついた。
 病んだからやったということはなく、そもそもここ最近は処方薬を数日で使い果たしたとしてもそれ以降に市販薬に縋るような行いはしてこなかったほどだ。ではなぜそのようなことをしたのかといえば、単なる享楽に過ぎない。愚かであろう。
 そうして狂った姿をインターネットで自ら晒してまるで道化のよう。いや、道化そのものである。この生き様を形容するのであれば。
 実に愚かしいことこの上ない。
 フォロワーから薬を贈ってもらって、それを大義名分、免罪符にして、その見返りにとそれを飲んで配信をして痴態を晒し上げる。自分が恥をかく分にはどれだけあっても構わない。だからそれはいいのだ。

 しかし、恐ろしかったのは睡眠だった。
 眠れないのだ。寝ようとすると部屋の天井辺りに白い天使が現れて、今にもその弓矢でこちらを射抜こうとしてしている。幻覚なのでそんな杞憂はなく、しかしそれはそれとして、目を閉じれば今度はまぶたの裏の暗闇で閉眼幻覚が発生する。
 うにょうにょ、ぐにゃぐにゃ、あるいははっきりと形のあるものが見えた時もあった。
 そのせいで眠れず、それでいて幻聴も聞こえ始めていたのでイヤホンで音楽を聴くことにした。
 そしたら今度は意識と世界が音楽に全て支配されてしまった。自分はこの音楽の世界観の人物なのだと思うばかりで、睡眠どころではなく、意識が逸れてなんだか普通にそのまま久しぶりに好きな音楽を楽しく聴いていた。著しく健康は損ねたが。

 眠りに落ちかける寸前何やら幻覚がパッと現れる。そのせいで眠れず、もしやこれは死の扉なのではかと錯覚してしまうこともあった。
 無論そんなことはなく、ただ肉体の疲労が限界を迎えていただけのこと。これに加えて薬の効果もあったから幻覚や幻聴が見えたのだ。

 これは深夜の話であり、現在はそれから数時間経ってぴったり正午。少し寝落ちしていたようだ。
 どうやら普通に起床することはできたらしい。以前のように全身が痛むようではたまったものではないから。
 今現在、視界はまずまずぼやけている。少し離れたものを見ることは難しいが、手元のものを見ることに難はない。
 それにこうしてスマホに文字を打つのですら、本当は深夜にやろうと思っていたことなのだが、あまりにもラリっていて脳の処理と指が合致せず断念した。
 とにかく眠たい。人間は、疲労の回復のためには食べて寝る以外のことはできない。そもそも現に引きこもりの自分のこと、十分に食べて寝ているのではないかというのはどうか訊かないでいただきたい。頑丈そうに見えて意外と虚弱体質なものなので。
 精神的な根性はあれど、肉体的にはやや弱いのが自分なのである。実に情けない。

 YouTubeの登録者も3000人を超えて、ここから頑張ろうと意識を変えた矢先にこれである。方針としては初期から大して変化していないものの、これではいずれ炎上は不可避だろう。
 だが、自分だけがラリって、その痴態をインターネットで晒して、嘲笑う者もあれば共感を得る者もいることだろう。そこはどうだっていいのだが、とにかく自分は自分のやりたいように全てをやらせてもらうだけだ。

 くあちるという存在の規模がほんの矮小なものだと思っているのは、実は自分だけなのかもしれない。
 他人に聞けば、メンヘラはだいたいくあちるを知っていると聞いたことがある。まだまだ認知されていないところは多いだろうが、そうか、自分はいつの間にかそのような存在に成り果てていたのだな。
 これまではただの地元の暴走族だったのが、これからは襟を正してキチリと世間にも配慮をした言動を求められるのか。規模が大きくなるというのはそういうことなのだな。自覚がなかったよ。
 フォロワー然り、登録者然り、数字が増えれば増えるほどにそれは賞賛の数でもあり、時に銃口にさえなってしまう。
 故に孤独でいなければならないのだ。争いもなく、裏切りもなく、ただ一人で戦い続ければ傷つくのは自分だけだ。
 友は欲しい。現にいるが、活動上のパートナーというわけではない。自分は自分のやるべきことを自分だけでやるだけだ。

 改めて、Twitterが二度も凍結されたことを顧みれば、やはり現在の弱化した規模感であろうと言動には注意を払わなければならないのだと自覚せざるを得ない。なにせ、こちらが何度転生したとて、くあちるの名を知る(偽善的な)狙撃手は常にインターネット越しでこちらに銃口を向けているのだから。
 自分は悪だ。世間的には悪と分類される人間だ。だからこそこうなるのだろう。
 でもそれだって構わない。なんたってこれ以外の生き方が思いつきもしないから。
 いっそ開き直って、悩むことを全て辞めて、嫌なことから目を逸らし臭いものには蓋をして、自分勝手かつ自由気ままに振る舞えばそれこそが馬鹿の幸せなのではないだろうか。
 幸せなままで終われるのならば自分は馬鹿でもいいかもとさえ思ってしまう。苦しいものなんて、人生では少なければ少ないほど良いのだから。その反面、倫理が備わらないということも考え得るが、そこは生まれ持った人間性としか言いようがないだろう。環境が変われば倫理観は変化するから矯正は可能なのでここはたいして危惧するべきところでもない。

 単純な話、人からされて嫌なことは人にやってはいけないという理屈だ。
 あるいはエコーチェンバーで繋がり合い、その自論渦巻く渦中にて幸せを見出すものであるのか。それもまた一つの幸福の在り方であろう。やや宗教思想らしくもあるが。
 正解も正義も無い。ただ生きることだけが正しい。それが命の本質だろう。どう生きるかとか、何を成すかなどというのは二の次である。まずは生きなければ何も始まりはしない。
 だからこそ、今すぐじゃなくてもいい。
 ただ待つのだ。いずれその日はやって来る。それまでその手元の武器を、様々な情報をもって研ぎ澄まし、やがて時が来たらようやくその武器は大いなる力を発揮してくれようとも。

 人生はそう急転しない。少しずつ歪み始め、どこかで綻びが生じてようやくその異常性に気がつき、しかしその頃には既に手遅れで、それならばその先でどのようにするかを講じる他ない。それ以外は死しかないのだ。
 だからこそあまり遠い先のことを考えずに、自分勝手に現在に目を向けて自由気ままに素直に生きれば楽なものだろう。堕落することの何が悪い。頑張れる人は頑張る。それだけで良いだろう。だから自分はこれからもこんな自堕落で腐った生活を続ける。
 これこそが自由であるが、いかんせんすかんぴんなものなので真の自由とは程遠いのである。ああまったく、自分は人間社会にとことん向いていないな。いっそ犬にでもなればもっと気が楽だったろうに。

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