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集団心理に屈しないメンヘラの在り方

 何がどうでもいいかなんて、自分に言わせてみれば「集団心理」ただそれだけだ。
 それは一致団結とはまた別のことで、一つの目的に対して多くの人が力を合わせるという行為はむしろ素晴らしいものだと思う。
 だが集団心理とは、たとえば針が1本あったとしよう。単純な話、その針が山なりに連なっている状態でもあって、この山は、全て同じ思想でありながら、その頂はそこより下層と比べて最も鋭利な部分であり、扱い方によっては人の人生を容易く狂わせる。それが思想を振るう側であれ、振るわれる側であれども。
 シンプルな思想とは、一本でさえも時に凶悪な鋭さを持ち合わせているのに、ひとたび集合すれば一本の時とは違い大きな圧力と化してしまう。

 みんなそうしているからなんとなく。確かに自分もこのように周囲に流されてしまうことはある。
 だが何より気に食わないのは、こちらが変革的な物事を提案した際に「それまでこのやり方をしてきたのだからそれは認められない」などと言われることだ。
 こんな性分だから自分は社会不適合で人間関係もごく僅かな人数しかいないのだ。別にそれは構わない。無駄に人間関係を増やしたところで、自分のようにつまらない人間からは自ずと人は離れていく。それどころか、これまで些細な出来事で嫌われてしまうこともあったのだから、やはり今ある人間関係が自分にとっては最適なのである。

 よく言われているのは、ビジネスをする上で人脈は多ければ多いほど良いという理屈。
 これは間違いなくて、儲けに焦点を当ててみれば人脈の数だけビジネスチャンスが多く舞い込み、それだけプロジェクトは成功に近くなる。
 たとえばくあちるを例にしてみよう。くあちるのメインコンテンツは「配信」「メンヘラ」である。配信の方ならいくらか、どうにでも成功する可能性はあるにしても、一方のメンヘラの方がビジネスに役立てられるとは到底思えない。ODがお金になるのなら喜んで命を犠牲にして毎日ODしてもいいくらいの心持ちなのにだ。
 こうなると自分のビジネスチャンスは配信に限られてしまう。メンヘラは、特にOD関係などどう考えても道徳的に認められるべきではない。これは倫理であるが、流石にこれに関してはメンヘラに軍配が上がることはない。
 とはいえメンヘラという概念にも需要はきちんとあるのだ。上手く説明はできないが、くあちるの存在そのものがその証拠だ。

 ビジネスライクの上では自分は「健全な配信」と「メンヘラに寄せた活動」を天秤にかけなければならないのだ。無論、健全な配信だけをするのなら誰にもくあちるを糾弾する権利などない。しかし、ひとたびメンヘラに力を注いでしまうと、もう今の規模のくあちるには諸々のアカウントの凍結の恐れが出てきてしまうようになってしまったのだ。これが活動を始めて、今より少し前、1年半程の時点では、くあちるはまだまだインターネットでは無名で弱小の存在であったのに、Twitterのフォロワーが3500人を超えたあたりからやたらとアカウントが警告されるようになってしまったのだ。

 確かに多くの人から興味を持たれて、そしてくあちる自身も少なからずメンヘラたちの何かしらの救いになれているのならそれは光栄なことである。
 しかしながらフォロワー全員がメンヘラなはずがない。現在社会問題になっているODを題材として、それを目立たせるような発信をしているくあちるを良く思わない人だって少なくないはずだ。
 これは活動初期から言っていたことだが、フォロワー一人一人の認知も、やや過激なメンヘラ関係のツイートも、いずれ規模が大きくなればやがてできなくなってしまうだろうと。
 初期に配信によくコメントをしてくれていた人なら、名前とアイコンを見ればまあまあ覚えてはいるものの、Twitterの新たなフォロワーの認知は既にできなくなってしまった。そしてTwitterからの警告の増加。これは2年前から予見できていたことなのだ。そしてそれが早々に訪れてしまっただけのこと。

 それではひとまず仮定として、くあちるは、社会秩序や道徳を遵守した健全な路線での活動にシフトチェンジしよう。
 まずはいつも通り配信だ。「今日は話題のゲームをします」「今日は最近あった事の雑談です」「たまにはASMRもいいでしょ」。さて、これらは別にくあちるがやらなくてもいい事でしかない。
 くあちるだってゲーム配信も雑談もするけれど、雑談にしてみれば話してる内容はどこを切り取ってもメンヘラ関係だ。
 確かに上記やそれ以外の配信は全てくあちるじゃなくてもできることである。それならくあちるはもう何もするべきではないのだろうか? いいやそんなことはないはずだ。どうしてこんなことを言うのかというと、フォロワーが求めているのは「メンヘラのくあちる」だというのを自分は知っているからだ。まあそもそもメンヘラとして伸びてきたのだからそれはそうなのだが……いいや遠回しな言い方はよそう。つまらない事ならつまらない奴がやっていればいい。ただそれだけの話なのだ。ブーメランかもしれないなこの発言は。

 だがしかし、メンヘラたちからどれだけ需要と支持を獲得しようと、健全な秩序に生きる健全な人々からすればくあちるは害悪でしかないはずだ。もっとも、これは集団心理を用いらなくても、たった一人の通報のおかげでくあちるは簡単に抹消されてしまうことだって考えられる。いくら多くのメンヘラからの支持を得ていて、さらには犯罪をしていなく、こちらにそのつもりがなくても健全な秩序を乱し健全な道徳を荒らすという悪行を働いていると認識されてしまえば、他の誰であろうと、くあちるだっていずれ抹消されてしまいかねない。
 99人を救えても、1人が不満を持っているのならば厄介なことにこの可能性は十分にあり得るのだ。あとはその通報を見た運営の裁量次第になる。

 本当に、本当に悔しいのだ。
 たとえそれが犯罪でなくとも、一般の感覚から逸脱していたり、やや道徳に反する、そのような発言さえも、大したことのない薄っぺらい正義を着飾った勘違い偽善者の圧力の前には屈せざるを得ないということが非常に腹立たしい。言論の自由とは一体なんなのだろうか。苦しいことを苦しいと言えず、そこで自分で自分を救済するのだという宣言すらも許されないのならば、その正義を着飾った者が我々メンヘラの人生を救ってくれるというのだろうか。他人の生き方に干渉するということは、「あなたを幸せにしてあげるからそんな事はやめなさい」ということなのだろう? まさかとは思うが、自分が見てて不快になるから通報や非難をしているだなんて人はいないだろう? 他人の自傷を止めてその後の生き方については途端に素知らぬふりというのはもはや人殺しの思考だということに誰が気がついているのだろうか。
 こんな遠回しな皮肉はよそう。簡潔に申せば「他人の人生を支えられない、する気もない奴が他人の生き方に口を出すな」。もしもその他人が犯罪をしているのだという場合は、それこそ非難されて法のもとに裁かれるべきであるが、法を犯しているわけでもなく、自分で自分を救済しようと命を削りながら明日も生きようとしている人々を糾弾する奴は誰であってもカスだ。そもそも悪人を裁くのは法律であって、少なくとも自分を正義の味方だと思い込んでいるお前などではない。
 生きとし生ける全員が人の痛みを理解しろとまでは言わない。だがしかし、集団心理に流されてメンヘラを叩こう、メンヘラなら叩いてもいいなどという殺人にも等しい愚行はこのくあちるが決して許さない。そういう事を平然とやるお前らこそが悪だということになぜ気がつかないのだろうか。

 薄っぺらい偽善者どもはこの諸悪とも思えるくあちるを潰したいか? くあちるという害悪が気に食わないか? それならば、もしもくあちるがいなくなった後に、くあちるを見てくれていたメンヘラの声に耳を傾けてみろ。彼ら彼女らは、別にくあちるが消えたくらいで死にはしないだろうが、くあちるが与えていた影響というものを知るいい機会になるだろう。
 いいや、薄っぺらい偽善者はそんな面倒な事はしないな。なぜなら健常な世界のためならメンヘラなど一人残らず淘汰されてもいい。どうせそう思っているのだろうから。出る杭は打たれるというように、一部の目立っている悪を抹消させられればそれできっと満足なのだ。奴らは水面から顔を出した魚に銛を突き刺すのが目的であり、水底に潜む無数の魚群には大した関心は無いのだ。

 実際問題、確かにメンヘラは市販薬をODしたり、それで救急車を呼んだりしている。だからメンヘラもどこかで人に苦労をかけているのは多かれ少なかれ認めなければならない。
 だがよく考えてほしい。ODは犯罪か? 自業自得とはいえ救急車を呼ぶのはいけない事なのか? 本当に必要としている人に薬が行き届かないという問題はある。しかしそれはメンヘラだけの責任ではない。きちんと手洗いうがいをしない方にも責任があるとは思わないだろうか。どうにも自分たちの怠慢を、世間の風潮に便乗して責任逃れをしている人種が一定数存在する気がしてならない。
 ここ最近の集団心理は、どうやらメンヘラを悪者扱いしたがっているように見える。
 確かにインターネットではODでラリった人の動画や、大量の薬を見せびらかすようなツイートが散見される。時にそれはやり過ぎだというものもあるが、たとえODが原因で命を落とそうとも、それはODした側の自己責任でしかないだろう。とはいえそれも亡くなった人だけに責任があるわけでもなく、ODをするに至った原因が必ずあるはずだ。ここまでで再度考えてみていただきたい。本当に悪いのはメンヘラだけなのだろうか? 人は生まれながらにして精神を病んでいる上にODの知識があるわけではない。必ずどこかにきっかけがあるのだ。ならばまず、糾弾するべきなのは当人ではなくその原因の方なのではないだろうか。メンヘラだって、なりたくてなったわけじゃない。メンヘラもまた、被害者であることを忘れてはならない。
 きっかけの話をしたが、それはくあちるも他人事ではない。くあちるが原因で精神を病んだということは言われたことはないが、くあちるの動画からODを知ったという人はそれなりにいる。
 だからこそ自分は、くあちるとしての情報発信について考え直さなければならない。くあちるの誤った情報のせいで死者が出てしまうなんてことは何があろうと絶対に避けなければならない。
 それならばやはりメンヘラコンテンツから手を引くのが安牌だというのは言われなくても理解している。非常に情けない話だが、くあちるはメンヘラあきりで、メンヘラとして成長してきた存在だ。それを今更「メンヘラをやめます」だなどと言うのは、ここまで応援してくださった人々への裏切りだと自分は思う。まあそもそも、精神科通いもODもやめられていない以上、そう簡単にくあちるがメンヘラから足を洗うなどということは起こらないが。

 よくあるたとえだが、フォロワーの数は自分に向けられている銃口の数であると。
 まだ小規模だった頃のフォロワーがくあちるに向けていたのは銃口ではなく善意だった。しかし、ここ最近になってからというもの、前述した通りアカウントの通報が増加して、先日は1週間もTwitterへのアクセスを禁じられていたりと、実害も発生しつつある。これこそが本当の銃口であって、やはりアカウントの規模が大きくなるごとに善意のみならず銃口の数も増えていくのだ。

 こんなインターネット活動しかできないことについては、そうしなければ現実の自分が本気で死を選んでいたからに他ならない。だからくあちるとは、現実の自分が生きる上で必須の存在。いわば第二の心臓であるのだ。
 本音を言えば、できればメンヘラコンテンツなんかじゃなくて、普通のゲーム実況や普通の雑談で有名になりたかった。だが自分は過去にそれに挑戦していて、誰にも見向きもされない(当たり前のような)悲惨な結果を迎えている。
 そんは折にくあちるとして新たに活動を始めてみたら、これが多くの人に見られるようになってしまった。なのでつまり、自分は普通のネット活動ではなく、メンヘラの才能があっただけに過ぎない。

 もうじきTwitterのフォロワー数も4000人に迫ってきていて、YouTubeの方はともかく、Twitterには薄っぺらい偽善者が無数に存在することからくあちるはもうあの場では迂闊な事ができなくなってしまった。少なくとも、これからODに使う薬の画像を載せるなども、巨大なリスクを孕むことになってしまったわけだ。
 Twitterの性質上、偽善者を防ぐ手段はない。自分はそんなバカのご機嫌取りなんてこれっぽっちもしたくないが、ひとたび彼らの反感を買ってしまうとくあちるの存在そのものを危機に晒してしまうことになりかねない。

 とても悔しいが、これが答えなんだ。
 健全な集団が作り出した「秩序とはこうあるべき」という、あまりにもくだらない集団心理の前には、どんな偉人だって太刀打ちできない。これが叶うのならば地動説は簡単に認められてガリレオは異端尋問にかけられることもなかったことだろう。このたとえは少し話が飛躍しているが。
 ふと、健常な秩序に基づいた集団心理が存在するのなら、反対にメンヘラの求める秩序という概念があるのではないのではないかと思った。
 だがやはり、普通に考えて薬を大量に飲んだり自分の肉体を切り刻む行為というのは肯定されるべきではない。もしもこれらが肯定されようものなら、誰もが楽になるためにODに手を出すだろうし、果てには日本にも安楽死制度が導入されてもおかしくない。
 規律があり、秩序があり、道徳があり、これらを光としよう。規律に背き、秩序を崩壊させ、道徳に反する我々は、犯罪こそしないにしても社会にとっての影なのだろう。光があるからこそ影は生まれる。万人が納得する完全無欠の光の世界の実現など不可能なのだ。

 だからこそ互いに必要以上に関わるべきではないのだ。健常者には健常者の、メンヘラにはメンヘラの世界がある。
 だが、何度も言うようだが薄っぺらい偽善者は健常の道だけを盲信しているがために、いくら何を言おうとメンヘラの生き方を絶対の間違いだと言い、命の責任を取る気が無いくせに他人の人生に指図をしてくる。彼らにとってはそれらの行いこそ人助けのつもりなのだろう。これ以上に身勝手で迷惑なことはないというのに、厄介なことに彼らはそれを正しい行いだと思い込んでいる。
 くあちるのところには運良くあまり来ないが、よく病み垢のツイートに対してよくわからないバカみたいな全く的外れな物言いをして突っかかっているアカウントを見かける。ああいう手合いは他者を否定し攻撃したいだけの、現実で誰にも構ってもらえない空虚な人間なのだろう。見なかったことにしてそっとブロックすることがお互いのためになるのでもしそういう人を見かけたらそうするべきだ。

 ここまで集団心理やそれに付随する個人的な意見を述べてきたけれど、なにも自分の言ったことが全ての正解ではない。むしろ全て間違えている可能性だってあるかもしれない。ただ発言者の責任として、この文章は全て、自分にとっては正解だと思うことにしておく。
 実は自分は「健常者」「メンヘラ」という線引きは嫌いなのだ。こんな言葉、ただの差別に他ならない。それでもこの言葉を使うのは、精神に大きな問題を抱えているか否かを判別するのに必要だからでしかない。

 最後になるが、どうか精神を病んでいる人は、犯罪や(正当防衛は除き)他人を傷つける以外の事ならなんでもしていいから生きてほしい。
 多くの場合、完全に同じ毎日を長期間過ごすということはなく、きっとやがてあなたの人生には変化が訪れるはずだ。それこそが人生を変えるチャンスであるからこそ、周囲の意見なんて気にせずに自分の信じる道を歩んでほしい。
 その命は誰のものなのか、よく考えてみてほしい。親からもらった命? そんなの知ったことではない。こちらから両親に「生まれたいです」と頼んだわけでもないのなら、最低限、あなたにはその命を自分のために使う権利がある。

 どうか集団心理に屈しないでほしい。
 ただそれだけが、くあちるがメンヘラに伝えたいこと。

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