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「普通」の生き方について考える

 普通と言われるのはつらい。
 よくある会話の流れで「普通は〇〇だ」というものがあるが、厄介にも理屈的に考えてしまう自分はそのようなよくある流れの、いわばテンプレートの言葉だと理解していながらもその「普通」という部分に引っかかってしまう。

 わかっている。そんなのただその人にとっての一般論でしかなく、そのような普通というものは曖昧極まりなく明確な基準なんて存在しない。誰しもに「普通」の観念と基準があり、それに従い何の気無しに言葉を使ってしまう。これ自体は、これこそは万人に共通して普通のことだろう。

 ここまでは「普通」という言葉の概念的な部分として納得できる。
 ではこれが前置きに使われた場合、前述のように「普通は〇〇だ」というように使用されると会話のレベルは発言者の価値観に合わされてしまう。
 普通はこんなの誰も気にしないだろうが自分のように神経質な人からすればそこは気になる部分だ。

 つまるところ、普通はこうであるなどという言葉は価値観の押し付けでしかない。もちろんそれが良い方向に働くこともあるが、当然そんなもの逆も然りである。

 自己認識として、くあちる自身は自分のことを人並み以下だと思っている。その人並みの基準も自分の中の価値観に過ぎないが。
 まずまともに働けず、市販薬ODをしていて、適応障害で精神科にも通院していて、このような有様はとてもじゃないが誰から見ても普通とは言えないはずだ。
 情けない話だし、病気を言い訳にする気もないのだが、虫以下の生活をしているこの現状の自分に対して悪意なく普通というものを語られても、それは否定の言葉にしか聞こえない。
 だからといってそれに逆上するのは誰かに対して自分の中の普通を押し付けるのと全く同じだ。このような時は感情的にならず、自他の価値観に相違があることを伝えて穏便に聞き流すことだ。そうすれば相手を刺激せず、くどい口論にもならずに済む。ただ価値観が違うだけならば悪者もいないのだからこれが最善に思える。

 それはそれとして、なにも自分も好きで普通以下の人生を送ろうとしているわけではない。願わくば健常に生きたいと思っている。
 自分の中に「普通」の線引きがあり、それを越えられない限りはどう足掻き苦悩しようと自分は人並みにはなれない。
 だが実は、言葉通りの意味で人並みになる必要なんてないことも知っている。自分が人並みで普通であるのだと、そう自己認識さえできてしまえばそれでいいのだ。
 人それぞれ「普通」の線引きと価値観が違うのならば、自分の中にあるその基準を越えて満足してしまえばそれで済む話でしかない。

 再び概念的な話をするのならば、普通であるということはルールやマナーに反しないことにあると言える。法律を犯せば罰せられる。罰を受けることは普通ではない。したがって犯罪をしないことは普通であると言える。
 このように考えれば、普通であることの最低条件とは法律を守ることだとも捉えられる。
 これは秩序における普通の話であり、先程までの精神的な話とは混同しないように注意する必要があるが。

 いずれにしても、秩序では普通であっても精神的に普通でないのだという自己認識ならば自分は普通ではないのだ。
 逆に、精神的には普通だが犯罪者だという場合も普通ではないと言えるがそもそもの棲み分けが違うのでここまで考えるのは蛇足だ。

 何をもって普通と定めるかというのに平均というものが用いられるが、平均以下ならどうだというのだ。
 最も愚かなのは個人の能力を考慮せず無数の人々から算出された平均に縛られることだ。平均とはすなわち普通に帰結する。
 データとは事実なのでそこに価値観や個性を要求するのは間違えている。だが世間が提唱する「普通」の観念にはこれが通用しなければならない。
 その結果としてデータの平均が推移することはあるだろうし、その度に「普通」の観念も僅かに変化するはずだ。
 だが人々の価値観や認識が逐一変化することはないだろう。人間は考える葦であり、思考の集合をもってして思想を生み出す。普通というものが僅かに変化したところで根を張った思想を丸ごと覆すのは不可能だ。
 人間の数だけ思考も思想もあるのならば、やはり真に必要なのは自分が正しいと思えるものをひたすら信じることだろう。それを死ぬまで信じ続けられていたのならば、死に際にはきっと幸せでいられるはずだ。たとえ信じたものが間違いだったとしても、死んだ後には後悔する手立てもないのだから。

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