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メンヘラの考える「優しさ」の定義

 時に、くあちるは優しいねと言われるのだが、そりゃそうだろう。優しくしたい人にだけ優しくしているのだから。

 よくある例えとして、ホストとそれに依存する女の子が挙げられる。ホストは女の子に対して、いついかなる時でも女の子が気持ちよくなるように立ち回り、そして自身の属する店舗にて女の子にお金を払わせつつお酒を飲む。それが本物か偽りかはともかくとして、その優しさが自身の儲けに直結するから。

 自分もこのような経験があるのである程度は把握してますとも。そんな仕事はすぐに辞めたので具体的な部分までの想像は至りませんけれども。
 所詮やってることはみんな同じだ。くあちるに限った話じゃない。人気商売の本質はそこなのだから。

 ではくあちるの活動は人気を得るための演技なのかと問われたらそれは全力で否定させていただく。なぜなら自分がこのようなことをしているのは生きるためだからだ。それ以外に大層な理由がいるか。
 もう少し詳細に述べるのならば、当時自分は幼馴染との失恋によってメンヘラを自覚し、強い希死念慮に苛まれていた。それより以前から趣味でやっていた動画投稿とそのメンヘラがどういうわけか融合したに過ぎないのだが、大雑把にこれがくあちるの始まりであるとも言えよう。
 つまりだ、死の淵から這い上がるべくして「くあちる」の名を冠した自分はインターネットを通じてメンヘラの同志を探し求め始めたのだ。
 もっとも、くあちるの名を冠して最初の二ヶ月ほどはROM専。つまりインターネットを見るだけ専門の者だったという経緯があるが、この頃の記憶は当時住んでいた部屋が暗い藍色で塗りつぶされている光景でしか思い出せないのでなかなか簡単に思い出せない。

 話が逸れてしまっていたが、つまりくあちるの優しさについてはこれまでの足跡を残しているし、それよりも誇らしいことは現在二年半ほどの活動で炎上を経験していないことと、今なおこうしてくあちるを愛してくれるファンが存在していること──活動初期から今でも見てくれている人が存在していることだ。
 できるならば今後も炎上などとは無縁でいたいものだが、そもそもなぜ自分はこんな、炎上と隣り合わせなコンテンツを扱っておきながらここまで炎上しないのだろうか。これはこれで逆に不安になる。やはり自分はまだまだ注目されていないのだなという自己肯定感の低下に繋がるが、それはこれからコツコツとやっていけばいいだけの話。

 優しくするって、何も難しくないと思う。
 自分がされたら嫌なことを他人にやらない。これだけのことじゃないのだろうか。

 たとえば、自分と誰かが一緒に通話を繋げながら作業をしていたとする。
 あるところで自分は作業に飽きてゲームや漫画などの娯楽に逃避する。一方で相手は黙々と作業に向き合いづけていて、こちらが話しかければ軽い会話もしてくれる。
 ありがちなシチュエーションだが、これが自分であるならば、正直なところやはり自分はやや窮屈に感じてしまう。
 相手は黙々と作業に集中している。なにも、自分がいなくたっていいのに自分と通話は繋げている。こちらはこちらでゲームや漫画も作業も好きにできるが、なんだかイヤホンで音楽が聴きたくなってきたり、通話を切って一人の時間に浸りたくなった場合。これに直面したらどうなるかという話だ。

 結論から述べれば、自分は、その時自分がどうしたいかに従う。通話を切りたければ相手にそれを言ってみる。ここで変に気を遣う必要なんてないように思えるのだ。
 相手が束縛の意を込めてその通話をあなたに無理矢理繋げさせているのであれば話は変わってくるが、そうでない限りはその提案は受け入れられて然るべきなのだ。
 しかしながら、どんな束縛をされていようともあなたはスマホのボタンを一つ触れば通話を切ることができる。それがたとえ誤操作であったとしても。

 何が言いたいのかというと、相手の気を伺うのはやめようということだ。
 気を伺われている側からすれば、それはなんとなく察することができる。実際、これを読んでいる方にも心当たりのある人がいるのではないだろうか。

 これが普通のことなのかどうかは不明だが、自分は相手の心情を探ることに関しては僅かに秀でている気がしなくもない。もしこれが普通のことなのであればぜひともSNS上でくあちるを嗤ってほしい。
 そしてくあちるが炎上した時は、今までの優しさが社会的に善であるか悪であるかの裁定が下されることだろう。

 また話が逸れてしまった。
 ええと、「人の気持ちを考えよう」とか「人に優しくしましょう」とかいう標語は素晴らしいものだけれど、そんなものを設立しなければならない世の中は歪んでいるなって所感です。
 性善説なんてものがあるけれど、そもそも人間なんて古来より手を取り合って協力して繁栄してきた「社会性」の化身なわけで、そんな人間が元来悪であるはずがないのだと自分は思っています。つまり性善説はなんとなく信じています。盲信はしてませんがね。
 悪に手を染めてしまうのは、当人がそれまで触れ合ってきた人間関係や経験に左右されること。なのでもしもあなたが、自分は悪い人間だと思っているのならそれは間違えています。それなら、どう悪から脱却すればいいのかなんてものはそれぞれの人生なので、各々で思考してください。そこまで自分は考えてあげられませんし責任も持てません。もっとも、それはあなたの人生なのですから。相談されればくあちるでも多少は何かしら言葉を送ることはしますけどもね。それがくあちるなりの優しさの一つなので。

 そういえば一日一善という言葉もある。
 それは大層ご立派なことだなとは思うけれど、優しさや善意の押し付けは時に負の方向に働くので無理にこれを遂行しようとするのは賛同しかねる。
 自分にとっての悪が相手にとっての正義。に近いような話にも思えますね。

 電車で席に座っていて、ご老人が乗車してきたら遠慮されようとも席を譲る。これくらいの些細な思いやり(?)こそが優しさと呼ばれ、あなたの人生観や社会性は正しき方向に向かっていくのでしょう。
 正しい方向ってなにという疑問についてはまた別の話なのでここでは扱わない。以上。優しさについて少し考えたことでしたおわり。

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