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選ぶことの難しさ

ある引き換えチケットを持っていて、無条件にAかBを選べるとする。どっちを選ぶ?

150円か、100円か

150 > 100 なので150円選ぶ。一番簡単。

りんご1個(市場価格150円)か、キウイ1個(市場価格100円)か

自分の主観での価値に直さないといけない。とはいえ両方食べ物なので、厳密に数値にしなくても「食べたい方」でいい。

りんご(主観価値150円)1個か、キウイ(主観価値100円)2個か

キウイの2個を線形和(200円)として見ていいかどうか。1個なら100円で欲しいけど2個もいらないって場合もある。

りんご1個とはちみつか、キウイ2個とはちみつか

別種のものの組合せの価値を、単に線形和として見ていいかどうか。りんごとはちみつセットにすることでより価値が高くなることも。

旅行(二泊三日)か、冷蔵庫か

全然別種のパターン。りんごとキウイの時と違って共通項がないので、主観価値にするのが難しい。

10万円か、30%の確率でもらえる100万円か

期待値で言えば後者。 (税金は考えない。)ただし、限界効用逓減の法則の問題がある。あなたにとって100万円の価値は10万円の価値の10倍なのか? もしなによりも今確実にもらえる10万円が重要なのだったら、あるいは100万円ももらっても使い切れる保証がないなら前者にすることも。

ビアンカか、フローラか

ここから本論。

選択をすること自体が及ぼす影響、というものにちょっと考えをめぐらせている。シュレーディンガーの猫っぽい話。

選択肢AとBがあるときに、どちらにするか考える過程そのものがAとBの価値を上下させるのではないか。

とくに、この選択肢から選んだ後に自分の主体的なアクションが必要なタイプの場合、比較検討という、あるいみ傍観者/批評者のような立場に一度立ってしまうことが悪影響を及ぼしてしまわないか。たとえばチームAとチームBから誘われているとしよう。どちらを選んだとしてもそのチームに入ったあとは主体的な動きが期待されている。しかし比較検討する際は、「どちらの方がチームワークが良いのか」など、どうしても批評者の観点になってしまう。その結果、しなくても良いアラ探しをしたりして、選んだ後の世界に悪い影響を及ぼしてしまうことはないだろうか。

この種の選択においては、つとめて外からの批評者にならないように気をつける必要があると思う。つまり、いまのチームAといまのチームBではなく、「チーム A+自分」と「チームB+自分」の状態の比較に持ち込むべきだ。それぞれのチーム内で両方とも主体性を発揮して参加した結果、自分が得られているものの比較をすれば、上のような問題は起こりにくいかもしれない。

noteの通貨流通量を増やしていきたい!!