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「あ、共感とかじゃなくて。」

私にとって会話とは、生きている時間を少しずつ出し合って、同じ時に同じ空間を共有し、お互いの思想や感情を交換し合うもので、双方向の営みの離散的な集合物であると思う。
だから私は私の中にある、つい「あ、共感とかじゃなくて。」と言ってしまうそうになることは、そうなりそうな相手には喋らない取り決めをしている。

そもそも私があなたの共感を「そうじゃなくて」ということは大変に傲慢なことである。これは私が、という話であり、あなたが私に、ということではない。
“How I feel is not your problem”であるように、How you feel is not my problemでもあるわけで、これは私が大学時代の自分自身のテーマとして掲げていた2つ「多様性を認めないという多様性」と「複雑なことを複雑なまま受け取る」ことと根底は同じだと思う。
(喋らないこと自体もまた同列かそれ以上に大変傲慢であることに変わりはないが、情報量や粒度、つまり何を喋り何を喋らないかで他人との関係性や距離感を構築することを試みる私にとって、この傲慢さは慣れがもたらした心の不健康さの一端であることは間違いないものの不可逆な思想の構築であるということで…)
私は私が発したものが、あなたの中でどう捉えられたのかを理解しようと試みる義務が、発した瞬間から発生していると考えている。この双方向性に傲慢さをのせてしまわないために、私は私の取り決めをしている。期待は単方向、約束は双方向、私はその世界観から未だ脱しきれていないのだろう。あなたの中で共感されること、されないことをあなたに期待することは会話の範疇を逸脱している。だから最初に約束しない限り、それを相手に期待してはいけない。

人は誰しも自分に求めるものと他者に求めるものが異なる。私とあなたの間にはどこかに界面があり、インターフェースとしての会話があるわけで、これは双方向チャネルであり、なのでコミュニケーションが成立する。
冒頭で「これは私が、という話であり、あなたが私に、ということではない。」と書いたが、私には私の取り決めがあるように、あなたにはあなたの取り決めがある。だから私は私に求めることを他者に求めないし、なんなら基本的に逆さまである。だから私は容易に安易に共感する。

その共感が誰かを傷つけている後ろめたさはいつも感じる。私とあなたの世界が、解像度が同じはずがないのに、あなたのことをこれっぽっちも理解できていない私が私の世界での相当表現であると安易に考えて発する「っっわかる〜〜〜!!」は、おそらく色々な世界や未来を少しずつ壊している。それは私のpublic destructionとしての表現方法なのかと思うほどに。

今回の展示の冒頭で、共感の定義とは「誰かの気持ちや経験などを理解する力」と書かれているが、私はその理解したと自分が思っている事実を相手に投げつけることまで含まっていると思う。

私が出した、FR0SCの活動のおかげで2年間を通して得た「複雑なことを複雑なまま受け取る」の答えは、結局理解しようと試み続けることはできても、理解することは本質的に無理で、0から同じ時空間を辿るしかないということであった。ラーメン1杯の裏に隠れた複雑性を理解したければ、ラーメン1杯を0から作ってみるしかないのである。それでも本当に理解できる範疇というのは自分で経験した範囲でしかなく、あなたと私の間に界面が存在する以上、その理解できたという気持ち、思い込みしか残らない。

じゃあ思い込みだからそんなものは捨ててしまっていいかというと、そうではない。共感を示すことは相手に理解しようと試みたと思っていることを簡便に示す方法である。言われた側はその理解が自分の思うものどうかは自分の中の軸で批判する権利がある。ただしその権利を行使するかどうかは自分の取り決めによるわけで、私はそれを私の傲慢さだと捉えるために生き方が無駄にややこしくなるわけである。
現代、多くの場面で使われている「わかる」に含まれている要旨は、実際は分かったかどうかではなく、わかろうとしたか、なのだと思う。結果どう思うのか会話を提示した側にしか物差しは存在しないのである。

もっと簡単に分からせあえたらいいのかもね。

おわり

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たふみ
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