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「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」レポート

平間貴大

2020年7月4日から9月22日まで、多摩美術大学美術館では「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」が開催された。

真喜志勉展画像_公式

A室入り口 撮影:岡本尚文 (life goes on lnc.)

1941年生まれの真喜志勉は、その作家人生のほとんどを地元沖縄で過ごした。
真喜志は那覇高校で島田寛平から教えを受け、当時アメリカ占領下であった沖縄から本土の多摩美術大学に進学する。卒業後は沖縄で洋服の仕立て屋を営む実家を手伝いながら制作を続け、「沖縄統治してきたアメリカという本国はどういうもんか見たかった」(1)と1972年の本土復帰直後に渡米する。1年間の遊学を終えTom Maxとして再び沖縄に戻ってきた真喜志は画塾「ぺんとはうす」(2001年まで)を開き、その後、約40年間に渡って精力的に作品を作り続け、多くの作家を育ててきた。
本展覧会は真喜志が高校生時代に使用していたクロッキー帳などの資料から、晩年に制作された「Turbulence」シリーズまでの約100点の作品、さらにジャズピアニストの屋良文雄の演奏にあわせて真喜志がパフォーマンスする姿を映画監督の高嶺剛が撮影した「アクションパパス Action Painting Playing Shooting」(1996年)によって構成されている。沖縄県外で真喜志の作品をまとめてみることができる初めての機会である。

A室からD室の4室に分けられた会場では、A室は初期作から70年代及び80年代初頭の作品に加え資料群、B室は80年代、C室は90年代、D室は2000年代以降と、B室からは10年ごとに真喜志の作品を鑑賞できるように展示されている。

真喜志勉展画像_公式2

A室会場風景 撮影:岡本尚文 (life goes on lnc.)


A室

真喜志勉_1階ケース

ショーケースの中の一部 撮影:筆者

A室奥のショーケースにはスケッチブック、個展のDMやデザインのラフ、作品の構想メモ、愛用していた帽子や刷毛など真喜志の歴史を窺える様々な資料が展示されている。

3点並べて置いてあるトロフィーは1974年の「滞米小品展」に出展された、一つの画面に任意のイメージが横に3つ並べて描かれる「Three Images」シリーズのモチーフになったものだ。本展では展示されていない分も含めこのシリーズは十数点制作されたという。

真喜志勉_1階ケース2

ショーケースの中の一部 撮影:筆者

注目すべくは1960年、真喜志が19才の時に制作した《Unknown》(上の画像左上)だろう。見た目では分からないが、米軍のテントをキャンバスとして木枠に張り付けてある。コンバイン・ペインティング的な手法と言えるが、この作品でのテントの扱われ方は貼り付けられたオブジェやイメージではなく、あくまで支持体としてのみ使用され、その上から絵具が塗られているのが特徴だ。

「真喜志は学校の課題よりも、展覧会で発表する絵を夢中になって描いていた。彼は抽象画を描きたかったから、静物画の課題がでるともう一枚、自分が描きたくて描いたものを講評会に持っていく。そうすると先生もわかっているから、どちらも評価してくれました。」(2)と大学時代の同窓生、熊谷博人からコメントされているように、当時力を入れていた抽象画が《Unknown》の画面には描かれている。

A室奥の年表を見てみると、沖展(3)の入選を含め、高校入学の57年から2015年に亡くなるまでほぼ毎年のように何らかの展覧会を開いている。

真喜志勉_1階右壁

A室右壁 撮影:筆者

A室に入って右手の壁には、ニューヨークから帰ってきて2、3年間の作品、そして代表作である《カウントダウン》に至るまでの作品を展示している。(4)当時の制作について真喜志は「いろんな写真を資料にしてそれをコラージュ風に画面にいろんな目に馴染んだようなシーンを重ねて、油絵で描いてた」(1)とコメントしている。ネオダダやポップアートの影響を指摘される真喜志だが、傘、時計、鳥、窓枠から見える空など、この作品群で採用されているモチーフはシュルレアリスム的だと言えるだろう。

真喜志_A戦闘機

「VISUAL LANGUAGE」展出品作品群(一部) 撮影:筆者

1981年の「VISUAL LANGUAGE」展に出品された戦闘機が描かれた4点の作品も興味深い。画中に光のスペクトルや、色指定のような文字が描き入れてある。資料によればこの展示を最後に、真喜志はこれまで使っていた油絵具からアクリル絵の具を使うようになる。

B室

真喜志_B室

B室奥「記憶の遠近法」出品作品 撮影:筆者

B室では「VISUAL MAGNETISM」展(1980年)、「記憶の遠近法」展(1983年)、「黒の沈黙からオフホワイトの余韻の世界へ」展(1985年)、「利休鼠を求めて」展(1986年)に出品した作品を展示している。その中でも「記憶の遠近法」展からは10点もの作品を展示している。本展では《Unknown》と表記されているタイトルが不明、もしくはわからなくなってしまったものも多い中、「記憶の遠近法」からの出品作品は全てタイトルが表記されている。窓枠のような形が特徴的で、「VISUAL LANGUAGE」展に出された戦闘機が描かれたシリーズにもあった光のスペクトルも描き込まれている。真喜志は1回の展覧会で1つのシリーズ物の作品群を発表することが多かったようだが、時代が変わっても同じイメージやモチーフが登場している。

真喜志_B室2

左「利休鼠を求めて」展、中・右「黒の沈黙からオフホワイトの余韻の世界」展出品作品 撮影:筆者

抽象画、イメージの組み合わせによるコラージュ、シルクスクリーンによるウォーホル的な作風を経て、真喜志は85年から86年にかけて再び抽象画を発表する。

「黒の沈黙からオフホワイトの余韻の世界へ」展に出された《Unknown》(上の画像右端)は画面が3分割され、両脇が灰色、中程は白で、白の部分には小さな白い円形が5つ配置された構成になっている。画面上部の境界線には色のスペクトルが配置されているが、下部の境界線の色はぼかされているのが特徴的だ。真喜志の中でも特に抽象化が進んだ作品だといえるだろう。

C室

真喜志は89年から90年にかけて結核で半年間の入院生活を送る。90年代の作品を展示するC室には、平面ではあるが絵画とは言い難い作品が並んでいる。見るからに重厚な(しかし、実際はそれほど重量はないらしい)「壁」シリーズと呼ばれるこれらの作品を作るきっかけになったのにはいくつかの要因があり、自宅の壁の改修をした自身の経験や、ベルリンの壁の崩壊、さらに幼少期からの記憶として、戦後の沖縄に残された戦争の痕跡が残る壁に興味を持っていたことが挙げられるようだ。真喜志がアメリカで撮った写真の中にも壁の写真は多い。

真喜志_C1

「STUDY IN HOSPITAL」出品作品 撮影:筆者

90年の「STUDY IN HOSPITAL」展に出品した《Untitled》には白、灰色、黒の三色の漆喰が使用されているが、97年から98年までの「壁」シリーズの漆喰の色は黒から灰色で、漆喰を塗った画面に、展開された一斗缶やその一部が埋め込まれている。一斗缶部分の表面は錆が茶色く全面に進行している。

真喜志_c2

「壁」シリーズ 撮影:筆者

「STUDY IN HOSPITAL」展では漆喰を素材としながらも、あくまで絵画を成立させようとしていた様にも見える。91年の「饒舌と寡黙」出品作品になると漆喰の質感とその色が前面化して、抽象画的な色使いになる。そして「面壁九年」では鉄素材が使用され、その後97年から「壁」シリーズとして展開し、文字通り壁のように巨大化して98年の三人展「モリナヲ、真喜志勉、武田浪展」では1840×1832という、これまでになく大きな作品を完成させる。


D室

真喜志_d1

D室右手壁面 撮影:筆者


最後の展示会場であるD室を見てみよう。これまで3つの会場を見てきたが、特に2階のC室とD室はまったく違う作家の展示室のようだ。10年ごとに作風を変えると決めていたかの様に綺麗に分かれている。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を機に作られたという黒い箱形の作品や、沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件をテーマにした作品があるが、この年代に開かれた展覧会は「MAX as MONK」(2002)、「痴的高速移動体」(2003)、「正統派異端系」(2004)、「ピン芸人宣言」(2005)、「PAC・3が北へ向いたらボクはちょい悪オヤジと化し超音速で南に走ろう」(2006)、「自閉隊・豹変ス!」(2007)など、ユーモラスなタイトルのものが多い。

真喜志_d2

D室左手壁面 撮影:筆者

本展タイトルの「Turbulence」は2013年の個展「開眼」に出品された作品群のシリーズタイトルで、オスプレイがTurbulenceという文字と共に長方形のキャンバスに描かれている。隣の壁面に展示されている「I LOVE MARILYN NOT MARINE」(2011)にもオスプレイと共にturbulenceの文字が記入されているが、こちらは”T”のつづりが小文字である。

真喜志_turbulence

「Turbulence」シリーズ 撮影:筆者

同時代の文化や芸術、社会問題を積極的に作品に取り入れながら50年以上に渡り新作を発表し続けてきた真喜志の画業を展望出来た貴重な機会であった。

最後に、A室奥のショーケースに展示されていた、真喜志の部屋の壁にかけてあったというレコードジャケットを元にSpotifyでプレイリストを作成してみた。幸い全てのアルバムがSpotifyに登録されていた。

プレイリスト:Tom Max(10時間44分)
https://open.spotify.com/playlist/20ureQQmVG94npDqWfePjQ?si=Z_OHWEzGR7OkNOJ8tnZRPg


(1)Okinawa Artist Intervew Project http://oaip.net/archives/tsutomu_makishi.html(2020/09/26最終閲覧)
(2)「真喜志勉 TOM MAX Turbulence 1941-2015」、編集・構成:関川歩、町田恵美、2020年、多摩美術大学美術館、p.92。
(3)70年余続く沖縄タイムス社主催の総合美術展。沖縄県内において最大規模を誇り、県民に親しまれている。http://okiten.okinawatimes.co.jp/cms/(2020/09/26最終閲覧)
(4)本展では真喜志勉の代表作である《カウントダウン》は展示されていないが、展覧会特設サイトでは多摩美術大学美術館館長、鶴岡真弓による《カウントダウン》を含んだ横断的な作品解説を見ることができる。https://sites.google.com/fclt.tamabi.ac.jp/tommax-channel(2020/09/26最終閲覧)


参考
*公式サイト:「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」 https://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/200704.htm(2020/09/26最終閲覧)

*特設サイト:「TOM MAX Channel」(https://sites.google.com/fclt.tamabi.ac.jp/tommax-channel)
上記(4)に同じ。鶴岡真弓による作品解説以外にも、沖縄で生まれ、多摩美術大学に在籍後ニューヨークとベルリンを拠点に活動するなど、真喜志と共通点を持つ美術家、照屋勇賢が真喜志について語るインタビュー映像を見る事ができる。

*(1)のインタビューで真喜志はワールドトレードセンタービルの思い出を「その頃、例のツインタワーもまだ出来たばっかりで、その中に50階60階あたりかな、日本の商社が入っているわけね。そこへ日本からの荷物を届けるということを半年ぐらいやってて、で、夜になってもこの日本の企業の入っているフロアはねずっと電気ついてるでしょ。で、アメリカ人が「working horic」まだいるよって笑ってたんだけどね。そのツインタワーもついに姿を消して、さびしい限りですな。」と言っている。

*真喜志の妻で墨染織作家の真喜志民子のインタビューで、真喜志勉が手掛けた漆喰の壁面を見ることができる。https://www.herenow.city/okinawa/article/portraits-tamiko-makishi/(2020/09/26最終閲覧)

*米軍の廃棄物に関して真喜志は「石川にいた時の思い出というのは、伊波城跡の崖下に、大きな艦砲の穴が開いててそこを米軍がチリ捨て場に使ってたわけ。トラックで持ってきてね。で、僕らはそこへ群がってちょうど今のフィリピンのスモーキーマウンテン状態でね、チリをほじくるとチョコレートのさ、ちょっと粉の吹いたものとか、缶詰とか、こう、角のへこんだ様な缶詰とかね、もう宝物の山だったね。で、僕はね嬉しくて弟も連れて、まあ食料品漁ってたの。お腹空いてるからさ(笑)。で、そういう僕らを見て、青年将校上がりみたいな、なんか凛々しい人が僕らを叱るわけよ。『貴様ら、昨日までの敵が捨てたのを食って恥を知れ!』って言ってるんだよね。で、そいつのポケットを見たらさ、ラッキーストライクが入っているんだよ。何だこのやろうと思ってね(笑)。それから僕はもうへそ曲がりになってさ。」(1)と述懐する。


会期:2020年7月4日(土)〜9月22日(火・祝)
会場:多摩美術大学美術館 〒206-0033 東京都多摩市落合1-33-1
電話:042-357-1251

休館日◎火曜日[※9/22(火・祝)は開館]
開館時間◎10:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料◎一般300円(200円)
※( )は20名以上の団体料金 ※障がい者および付添者、学生以下は無料

レビューとレポート第16号(2020年9月)

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