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24/7/24 情景

こんにちは、myrthéです。
このnoteには、植物や動物の写真と、生活の中で感じたことや病気について綴った文章を掲載します。


「毎日が休み。いいね」

この前話したときから引き続き、今も病気のため仕事を休んでいるんです、と、知人に近況を軽く話した際、間を置かずに彼女が言った。

それはとてもさらっとして、自然な相槌だった。文字にすると伝えにくいのだけど、言い方に棘はなかった。朗らかで、会話好きなその人の会話のつなぎ、何てことのない受け答えのひとつ、というような感じ。
そして、その後、会話は別の話題に移り、流れていった。

しかし、その言葉に、確かに、不思議な感覚を覚えたのだった。

後で思い返した際、あのとき、自分はその言葉をきっかけに、怒ることも、悲しくなることもできただろう、と気付いた。
しかし、そのいずれの感情も感じてはいなかった。
そしてまた、抱いた不思議な感覚に、怒りや悲しみというラベルを付けるのも、違うと思った。

咄嗟に「は?」と口から出てしまうような反発も感じてはいなかった。
あるいは、所謂”もやもやする“ということもなかった。

代わりに気付いたことがある。
それは、自分が、相手にとって返答が難しいことを話してしまった、ということ。相手にとって、どう返したって、正しいか分からないような、会話に困る話をしてしまったな、と、申し訳なく思った。
病気のことというのは、掘り下げるのは難しい話題だ。また、日常生活の様子を知らない人にとって、会社を休んでいる生活の実態がどのようなものか想像するのは無理なことだ。

病気の療養のため休んでいる、という話への「いいね」という言葉は、その言葉だけ取れば、「デリカシーのない不適切な言葉」かもしれない。ただ、非難したいとか、傷つけたいとか、そういう思いがあったのなら別だけど、その場で、会話をつなぐために口をついて出てしまったのなら、仕方ないと思った。


さて、それから数日経って、ふと、知人の言葉を思い出すことがあった。
その時に、気付いた。あのとき自分が感じた不思議な感覚。
それは、晴れやかさ、だったと。

毎日が休み、という言葉には、なんだか楽しそうな響きがある。
その言葉がまとう、きらきらした、解放感のある、自由な雰囲気。
青空が広がっていて、白い海岸を波打ち際に向かって、さーっと走り出すような。

そんな言葉の醸し出す雰囲気とは程遠い生活の中にいるから、その言葉が自分の生活に当てられたときに、不思議な感覚になったのだろう。
あまりにも眩しくて、目を瞬くだけでいっぱい、というような。

不意に、他の人が自分の世界に差し込んだ言葉と、それを種に、自分が勝手に膨らませた想像と。

内向きなベクトルからは、目の前の手持ちのものを見ているだけでは、見ることのなかった、晴れやかな情景。

何というか、有難いなあと思った。

多くの人に関わること、そもそも人に会うことが物理的に難しい生活をしている今だけれど、人と関わることを止めずにいたい、と思った出来事だった。