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長編ホラー【続・幽霊のかえる場所】 第二章

阿佐野桂子


  


第二章


『三峯神社』の神使い達

 四月から五月の連休を外して僕と麻利亜さんは秩父の『三峯神社』にハイキングに出掛けた。ここは狛犬ならぬ白い狛狼が御神体の前に控えている。
 現在は関東地方のパワー・スポットとして有名だ。本殿は平日にもかかわらず結構な人出だが、奥の院までの道のりは「熊出没」の看板もあって殆ど登山コース状態だ。
 熊避けの鈴を鳴らし、ふうふうと息を弾ませまがら到着した奥の院はとても小さな社があるだけだった。しかし眺望は素晴らしい。
 ニホンオオカミが絶滅する以前、山々を本物の狼達が走り回っていたであろう姿を想像すると胸が締め付けられる思いがする。
 狼を絶滅に追い込みながら御利益だけは享受しようとする人間の心は卑しい。それでも狼のスピリットはまだ残っていて、一匹の狼が五十戸の家を守護しているらしい。五十戸守護とは強力だ。
 謙信に持たされたお握りをリュックから取り出して食べながら絶滅してしまったニホンオオカミに思いを馳せた。人間の食べ物は僕の栄養にはならないが香につられて一個食べた。やっぱりハイキングにはお握りが合う。
 つい最近、シロサイの雄が死んで、残るシロサイは雌二匹になった。日本のトキも一旦絶滅した。中国産のトキと遺伝子が同じだからと中国から譲って貰ったが、環境が変わらぬ限りまた絶滅してもおかしくない。
 二個目のお握りを手に取った時にひょっこりと犬が現われたので放ってやった。野犬らしい用心深さで近付いたり離れたりを繰り返していたが、最終的にはお握りを咥えてどこかに消えた。
 生前は晴れ女だったと言う麻利亜さんのお陰で今日も晴天だ。僕は小一時間を奥の院で過ごしてから下山した。明後日辺りは筋肉痛だろう。
 神社よりも鴨川のシー・ワールドに行きたかったわ、と麻利亜さん。動画でシャチのパフォーマンスを見てからすっかりシャチのファンだ。暇さえあれば(と言ってもいつも暇)動画を再生している。マイ・ブームはシャチ。
「分かった、次ぎは鴨川に行こう。サマー・スプラッシュは僕も浴びてみたいからね。でも神社で神社よりも、と発言するのは不謹慎だよ。賀茂さんが言ってたじゃないか、神社はお寺より怖いって。神様は生ものだからね。不敬な事を言ったら『秩父神社』や『宝登山神社』にも筒抜けだよ」
 あら、でも神様は参拝者の言葉をいちいち気に留めたりはしないんじゃないの、と麻利亜さんが言った途端にぽつりと水滴が僕の頭に当った。あ、雨? 晴れ女が一緒にいるのに、雨?
 僕は麻利亜さんの手を引っ張って急いで山を降りた。本殿まで戻ると雨は降っていなかった。通り雨か。
 僕は記念にお守りを買って帰った。
 アパートに戻って階段を上ると、いつもの幽霊達の代わりに狼の群れが待っていた。げっ、本格的に神様のお怒りか、と僕はびびった。神社よりも鴨川シー・ワールド……。御免なさい。
 僕が立ち竦んでいると探偵事務所のドアが開き、大男のミツミネが手招きした。狼達を踏まないように事務所に入る。ソファーの上では賀茂さんが宝子ちゃんを抱いて寝ていた。
「今日は私がお使えする神社に行ったな」とミツミネ。サングラスの下の目の表情は分らないが、怒っているより困っているような感じだ。はあ、参拝させて頂きました、と僕。
「それで奥の院まで行ったな」
 はあ、その通りです。まずかったかな?
「いや、奥の院まで参拝したのは誉めてやるがな。あそこで犬に握り飯をやっただろうが。あれは私と同じ神使いの狼でな。謙信が作った握り飯が大層気に入ったらしく、仲間を連れて押し掛けて来た。お陰で謙信は只今飯炊きに追われている。やれ、具はイクラがいいの鮭がいいの、いやシーチキンだのさっきから舌なめずりをして待っている次第でな。いやはや、面目ない」
 神使いは普段神域の気を食べている。謙信の炊いた米が余程美味かったらしい。それで米が炊けるのを待っている。
 ミツミネがドアを開けたので狼達もどっと事務所になだれ込んだ。一階の住人が用もないのに二階まで来たりはしないが、狼が群れで現われたと知ったら腰を抜かすだろう。
 しかしこの狼達は霊体である可能性が高い。絶滅した筈のニホンオオカミが人間に目撃されたら新聞ネタ確実だ。霊感持ちだけに見える光景だ。
 神経が図太いのかどこかにトリップ中なのか、賀茂さんは目を覚まさない。代わりに宝子ちゃんが起き出して一番手近にいた狼の耳を引っ張った。
「おとうしゃま、ワンコがいっぱいいますよ」
 耳を引っ張られた狼は一瞬ガルルと唸って牙を出したが、相手が宝子ちゃんだと分かるとはあはあと息を弾ませて尻尾を振った。
「これはワンコではないぞ。私と同じ『三峯神社』の神使い達だ。おまえは三歳になったら神社に出仕する。その時お世話になるであろうからご挨拶しなさい」
「宝子と申します。おじさま、おばさま達、お目に掛かれて光栄です」
 宝子ちゃんは生後一歳半とは思えぬ流暢な言葉で狼達に挨拶した。おお、賢い子であるな、と狼達が一斉にどよめいた。僕から見れば賢いより早熟振りが少々不気味だ。
「宝子。いい名だ。どこか痛い所はないか。風邪などひいていないか。体に不調があったら我々が舐めて治してやろう」
 群れを大事にする狼らしい発言だが、舐めて治るなら医者はいらない。宝子ちゃんは半分は人間なので予防注射を既に何回も受けている。
「おまえの父と保子の馴れ初めを聞きたくはないか。父はな、『三峯神社』に参拝に来た女子大生の頃の保子に一目惚れしてな。大口真神様に願って人間界で修行をする事にしたのだ。その時は半信半疑であったが、保子が本物の霊能者であると知って我々も納得した。人間界での善行は大口真神様も御存知だ。そこにいる田中っちとか言う吸血鬼とも旅をしたようだな。その時は大いに活躍したと聞いている」
 狼の間でも僕の名は「田中っち」と決定か。もうこの際、どうでもいい気分だ。
「修行するどうなるんですか、おじさま」
 宝子ちゃんはさっきガルルと唸った狼に尋ねた。僕には一見しただけでは分からないが、ガルル氏は雄の狼らしい。
「修行すると魂のステージが上がる。出来る事が増える。悪霊とも余裕で渡り合えるぞ。それよりもなによりも大口真神様がお喜びになる。宝子も我らの仲間だ。心して修行に励むがよい」
 賀茂さんとの件で顔を真っ赤にしていたミツミネもおじさん狼の言葉に頷いた。神使い達も呑気に山野を駆け巡っているだけではなさそうだ。
 そうこうしている間に謙信が大きなお櫃を持って入って来た。上質な米のいい匂いがする。後で聞いたら北海道産「ゆめぴりか」。謙信は道産子だ。
 一旦お櫃をロー・テーブルの上に置いた謙信は部屋に戻ると握り飯の具を持って来た。狼達がざわめく。修行が足りてないんじゃないか、こいつら?
「皆様、お待たせ致しました。具は鮭とシーチキンと生姜焼き豚肉と紀州の梅です。塩は赤穂、海苔は有明産です。私がお握り致しますから、御希望の具を仰ってください。はい、一列に並んで! これ、列を乱してはいけません。ご飯は充分御用意しましたからね」
 僕は狼達がそれぞれ鮭だの生姜焼き豚肉だの言っている超シュールな光景を見ていた。吸血鬼として生きて来て五百数十年経つが、ウサギが握ったお握りを頬張っている神使いの狼の姿を見るのは初めてだ。
 途中からは目を覚ました賀茂さんも加わって人気のない紀州産の梅干入りのお握りをぱくついている。宝子ちゃんも二つ食べた。
 一升の米があっという間になくなり二升食べ、五升目に入るとさすがに狼達の食べるスピードが落ちた。ガルル氏はタヌキの置物みたいに膨れた腹を撫でている。
 うーむ、食った食った、と誰かが言い、それに合わせて狼達が一斉に遠吠えを始めた。リアルじゃないからいいけど、本当だったら御近所から苦情が殺到するレベルだ。
 何はともあれ、狼達の晩餐はこれにて終了。満足した狼達は「また来るぞ」とご機嫌だ。僕は傍で見ているだけだったが、また来るなら米くらい担いで来い、と言いたい。
 あの、皆様、これは大口真神様へのお供物でございます、と謙信が経木に包んだ握り飯と日本酒の一升瓶を恭しく差し出した。
 銘柄は『男山』、やはり北海道産の酒だ。謙信はアンテナ・ショップの店員か? エゾシカ肉など出したら、狼達はずっと帰らないに違いない。
「おお、これは気が利くことだな。大口真神様もお喜びであろうよ」
 ガルル氏とは別の体の大きな狼が鼻先にご飯粒をつけたまま答えた。その大口真神様は握り飯に誘われて人家まで押し掛けて来た神使い達をどう思っているのか、だが。
 四月八日の大祭には姿が見えなかったな。十月二十日の月読祭には必ず来るのだぞ、とミツミネに念を押して狼達の気配が一気に消えた。いやはや、とミツミネ。
「謙信、ご苦労であったな。このような事になったのは田中が奥の院で握り飯を投げ与えたからだ。野生動物には餌をやってはいけない、と教わらなかったか?」
 思わぬ所に火の粉が飛んで来た。確かに野生で生きている動物には無闇に餌を与えてはいけないが、まさかそれが付いてくるとは思わなかった。付いてくる方がおかしいのではないか、この場合。
「ミツミネ、田中っちに文句を言うのは止めなさい。普通の人間なら気付かないだろうけど、田中っちには霊体が見えるんだからね。それを知らずに姿を現した狼も不覚だった。しかしまあ、よく食べたこと。ご飯を握り続けた謙信の手が真っ赤になっているよ。ミツミネ、私の部屋から軟膏を持って来て」
 むう、と頷いたミツミネが私室から大きな瓶に入った紫色の軟膏を持って来た。
「おおばばさまとばばさまに聞いたらこれでいいと言って渡してくれた。これか」
 はい、有難う、と言って賀茂さんは謙信の手に紫色の軟膏を塗った。宝子ちゃんが生後二、三ヶ月頃に顔に湿疹ができた時にも塗っていたからヤバイ薬ではなさそうだ。
「ヤバイって、田中っち、これはれっきとした漢方の処方薬だよ。巷では紫雲膏と呼ばれている。ウチの場合は自家製だけどね」
 さてと、これでよし、後片付けはミツミネがするからもう休んでいいよ、と賀茂さんが謙信に声を掛けた。狼が仕出かした事は狼であるミツミネの仕事らしい。うーっ、とミツミネが唸った。
「それはそうと、田中っちが出掛けている間に人探しの依頼が入ったんだけど、聞きたくない?」
 ミツミネが事務所のあちこちに散らばる食いこぼしと狼の毛を拾っている間に事務机に移動した賀茂さんが話し掛けてきた。ソファーの上で寝ていた時はやはりどこかにトリップしていたものと思われる。
「明日、その依頼人が事務所に来るから、いつもの様に初めて聞く振りをして依頼書を作って欲しいんだけど、いいかな?」
 いいかな、も何も、いつも勝手に呼び出すくせに。
「今日は山登りと狼の饗宴でもうお腹一杯だよ。詳しい話は明日聞く。それでどう?」
「分かった、そうしよう。鴨川シー・ワールドには夏に行った方がいいみたいいだよ。観客はサマー・スプラッシュと言ってシャチに尾鰭で海水をぶっ掛けられるのを楽しみにしているそうだ。麻利亜さんが行きたいと言っているから、今度皆で一緒に行こうよ」
 なぜそれをあなたが知っている、と聞きたかったが止めた。賀茂さんがその気になれば頭の中だってお見通しだ。それとも分かりやすい麻利亜さんの頭の上に鴨川シー・ワールドのフラグでも立っているのだろうか。

元ヤンキーな依頼人

 今度の依頼は十年前に当時七歳だった娘を探してる両親だった。賀茂さんが引き受けたのは戸田遥香さんの時と違って行方不明者がまだ生きているからだ。死体を掘り当てるよりいいに決まっている。
 出来るなら生きている状態で発見したい、と賀茂さんならずとも思うだろう。幼児誘拐事件だね、と賀茂さんの思念が僕の頭に流れ込んで来た。犯人と場所は既に特定済みだ。要はいかに救出するかだ。
 遥香さんの時と同じように、警察が乗り出して来ると面倒だ。なぜ、あなたは監禁場所を知っていたのですか、となる。下手すれば共犯者の疑いが掛かりかねない。
「行方不明になった時の服装や髪型を教えて頂きたいのですが」
 十年前に行方不明になった少女が今でも当時の格好をしている筈もないが、一応決まり文句だ。母親が調査依頼書に記入している間に父親が古い新聞を引っ張り出して、僕の目の前に置いた。
「当時の状況はこの新聞に書いてある。それから、こちらが俺達が目撃情報を募る為に作ったビラだ」
 いなくなったのは石井日向ちゃん。石井家の長女だ。下の子の服を着替えさせている間に一人で外に出てそれっきり。当然警察が動いたが、十年経った今では捜査も縮小されている。
 このような事件の場合、犯人は同じ県内か隣接する県に住んでいる。はるばる沖縄からやって来て稚内の幼女を誘拐したりはしない。日頃何度か被害者を見かけていた人物だ。
 石井夫婦の家は県内でも山に近い。小学校を出てしばらくは五人程の集団だが、途中で一人減り、二人減り、最後のY字路で同級生と別れると後は果樹園と杉林の道を一人で歩く。
 新聞の記事では日向ちゃんがこのY字路以降一人になった時に狙われた、と推察している。Y字路の手前には二、三日前に白いワンボックスカーが目撃されている。
 両親が警察に届けを出したのは夕方で、それ以後身代金要求の電話は掛かっていない。山狩りや近くの川攫いも行われたが、遺留品は見つかっていない。
「まず疑われたのは俺達夫婦だった。保険金目当てに日向を殺してたんじゃないかってさ。ふざけるなって言いたいよ。夫婦関係やら仕事上のトラブルを抱えていないか、金に困ってないか、とご近所さん相手に根掘り葉掘り調べたようだ。次に親戚達。ご近所さんも男のいる家は疑われたようだね。俺が昔ヤンキーだったから、その時に恨みをかったんじゃないかとかさ」
 父親は小太りで細眉のいかにもヤンキーっぽい人物だ。日向ちゃん失踪当時は二十五歳。
つまり父親が十八歳の時の子だ。
 若い父親で、事件当時は相当疑われたようだ。今日も上下金色のジャージ姿で、見た目でも口調でも損をしている。
「俺がやんちゃしてる頃はもっぱら外で騒ぐのが好きでさ、ゲーセンで遊ぶとかお巡りさんと追いかけっこするとか廃墟の探検とか、俺みたいなヘッドはチームの連中を退屈させないように結構色々考えてるんだ。喧嘩もそのうちの一つかも知れないが殺すまでやるのは素人だ。執念深い恨みをかうような事はしていないつもりだ」
 はあ、ヤンキーさん達はそういうベクトルで行動しているのですか。室町時代から内向的だった僕とは異質の存在だ。
「それでさあ、お巡りさんにばっかり任せておいても埒が明かないから、探偵に頼んでみようと思ってさ。お巡りさんと違って超法規的なことだってさくっとやっちゃうんだろ?」
 それはアメリカの探偵ドラマです。超法規的かどうか知りませんが、超常現象ならしてます、と僕は内心で呟いた。
 この父親は元ヤンではあるが家族を大事にしているし、トラックの運転手をしてちゃんと働いている。母親は一歳年上で、スーパーでパートをしている。
「事情は承知致しました。早速当社で調査致しましょう。期間は一週間。基本調査料は二十万円、それプラス諸経費を頂きます。着手金は頂きません。総て成功報酬です」
「おいおい、お巡りさんが十年掛かってるのにオタクは一週間ってか? マジか」
 両親は『三峯探偵社』の調査力を信用していない。疑うのならなぜ調査を依頼したのか、って話だ。藁をも縋る心境か。心配後無用、ここは藁ではなく太い丸太で組んだ筏だ。
「はい、マジでございますよ。成功報酬ですから見つからなかったとしても石井様が損をなさる事はございません。一週間後に連絡させて戴きますので、またその時お目に掛かりましょう」
 はあ、と父親が溜息をついた。
「俺は見かけがこんな風だから子供がいなくなってもヘっちゃら、と思われてるけどさあ、車を運転してる時も高校生くらいの女の子を見掛けるとどうしてもそっちに目が行っちまうんだよな。日向も普通に過ごしていたら高校生だもんな。この前なんか、日向に似た女子高生が歩いていたんで車を止めて声を掛けたらさ、不審者扱いされてスマホで通報されそうになった。綾加もさ、レジ打ちしてる時に若い女の子が来るとついつい手が止まってしまうそうだ。な、そうだろ?」
 元ヤンキーのヘッドの妻にしては地味な綾加さんが小さく頷いた。
 下の子に構っている間に日向ちゃんがいなくなった。あの時どうして、と自分を責め続けている。「子供から目を放すなんて、信じられない」と言われた綾加さんの魂は萎縮している。下の子の教育にも良くない。
 父親はもっと愚痴りたかったに違いないが、正面のソファーにでんと座っていたミツミネが身じろぎしたので口を噤んだ。元ヤンなら一目見ただけでミツミネが醸し出すオーラが別格と気付いている筈だ。
「田中っち、依頼書はもう書いて頂いた? あらそう、じゃあ、契約成立ね。石井さん、日向さんが日本国内にいる限り、必ず見つけて差し上げます。お帰りになったら日向さんを迎える準備などなさって下さい。十七歳の日向さんに相応しい服など用意されてはいかがですか」
 賀茂さんが気まずい沈黙の中に割って入った。それはいいんですが、賀茂さん、日本国内にいる限り、という言葉は余計相手を不安にさせるのではないでしょうか。それに、賀茂さんの霊能力は国内限定ですか。
 僕がロンドンから帰国する機内で悪霊に絡まれていた時に日本領空に入ったから、と言っていたのを思い出した。
「あ? ああ……。服なら毎年買い換えて用意してあるよ。いつでも日向が戻って来ても困らないようにさ」
「そうですか、それは結構ですね。では、一週間後にこちちらから電話を差し上げますので」と言って賀茂さんは事務室のドアを開けた。既に日向さんの居場所は特定済み。後はどうやって救出するか、だ。このケースも超能力で発見しました、は避けたいに違いない。
 賀茂さんとミツミネが相談を始めたので僕は麻利亜さんと一緒に自室に引き上げた。秩父までハイキングに行った疲れが今頃出て、体のあちこちが痛い。
 ベッドに倒れ込んだ僕に麻利亜さんが「ホテル・カルフォルニア」をお経のような音程と怪しげな英語で歌ってくれている。
 昨夜狼達が群れていたせいか、霊道も塞がって今日は静かだ。僕は麻利亜さんの細い声を聞きながら眠りに落ちた。
 一九六九年以来ホテル・カルフォルニアにはワインは置いてないんだって。なぜだろうね。

ストックホルム症候群


 次の日の午後に目を覚ました僕は解決策が気になって、O型Rh null の血液ガムを噛みながら探偵事務所を訪れた。僕等の唯一の栄養源である血液パックとガムが定期的に間違いなく届くのは誠に喜ばしい。他の荷物に紛れないように『バイオ・ハザード』社傘下の配達業者が保冷車で届けてくれる。
 iPS細胞のお陰で僕等吸血鬼は直接人間から血液を頂く手間から開放された。人間の間で行われる輸血も近い内に無くなるだろう。献血車が巡回していたのも昔話になる。
 探偵事務所の事務机に賀茂さんが突っ伏していた。体を置いたまま、どこかに出掛けている。ミツミネは宝子ちゃんを遊ばせている。
 賀茂さんはどこに行っているんだ、と聞くと宝子ちゃんが栃木、と答えてくれた。石井夫婦が住んでいるのは茨城県だ。やはり犯人は隣県にいたか。
「保子とも考えたのだが、日向自身が逃げ出して来るのが一番よい、という事になって、現在説得を試みている最中だ」
 犯人は一軒屋に一人で住んでいる三十八歳の男だ。栃木と茨城の境で幼女を物色していて、たまたま目に止まったのが日向ちゃんだ。誘拐に成功した当初は二階の一部屋に閉じ込めていたが、現在はたまに外にも連れ出している。
「保子が言うにはストックホルム症候群らしい。小さな子供が生き延びる為に犯人と同調せざるを得なかった、とな。現在夢の中で説得を試みている」
 日向ちゃんは当時七歳で、精神発達も七歳で止まっている。短気な賀茂さんがどんな説得をしているのだろうか。
 ええい、面倒臭い、さっさと家を出るのよ! と怒鳴っているのだろうか。 それとも両親と過ごした日々を映画のように見せているのか。お父さんは元ヤンキーだが子供には優しかった。
 現在一緒に住んでいる三十八歳の男は普段は大人しいが機嫌が悪い時は暴力を振るう。少しでも反抗的な態度をとるとご飯を食べさせてくれない。
 精神年齢七歳の日向ちゃんは自称お兄ちゃんの機嫌を損ねないように日々戦々恐々としている。
 テレビを見せてくれるようになったのは三年前から。最近はご機嫌がいい時は近所のコンビニまで車で連れて行ってくれる。賀茂さんとミツミネはコンビニに行くチャンスを狙っている。
「四日後に男は日向ちゃんを連れてコンビニに行く。その時が勝負だ。男が店内を歩いている間に日向ちゃんが『助けて』と書いた紙を店員に渡す。不審に思った店員が警察に通報。それで日向ちゃんは保護される予定だがな、本人がそれをしてくれるかどうかだ。或いは勘の良い客が気付いて通報してくれるか、だな」
「そのコンビニの店員とか勘の良い客に化けたらどうなんだ」と聞くと鼻先で笑われた。どちらも警察から事情を聞かれるだろうし、そいつがいなくなったら不自然だ。
 賀茂さんの実体やミツミネが出向くのもペケ。『三峯探偵社』は合法的な会社だが、調査方法は石井氏が言ったように超法規的だ。
 それに十年掛かって見つからなかった女の子を探偵社の調査であっけなく発見したら警察の面目丸潰れで、以後目を付けられかねない。故に、
「勘の良い客はもう用意してある。コンビニ店員にも『助けて』のメモが渡されたらすぐに通報するようインプット済みだ。現在この二つの案で進行中だが、やはり日向ちゃん本人が助けを求めるのが一番分かりやすい。ストックホルム症候群から開放される第一の段階でもあるしな」
「でもそれじゃあ、石井氏から料金を貰えないんじゃないか? 手柄はコンビニ店員か勘のいい客になってしまうよ」
 これは金銭の問題ではないのだ、とミツミネが肩をいからせた。『バイオ・ハザード』社からの報酬金三千万円を一枚一枚数えていたのによく言うよ。二人が黙々と札を数えていた姿を思い出した。
「日向ちゃんは発見されてからもリハビリが必要なんですって。おかあしゃまが言ってたわよ。十七歳にしては小さいし、魂も七歳の時のまんまなんですって」
 うむ、リハビリには金も時間も掛かるな、と言いながら宝子ちゃんを抱き上げて顔をぺろりと舐めた。人間の姿をしていても相変わらずホワイトニングしたような白い歯だ。
 七歳の魂も賀茂さんに頼めば歳相応の魂に入れ替えてくれるだろうが、石井氏が『賀茂流霊能者協会』に依頼して来る確率はゼロだ。どこかの高名な精神科医が引き受ける。
「ふーん、それで日向ちゃんが自分でメモを渡す確率は?」
「それがなかなか頑なでね」と戻って来た賀茂さんが事務机から顔を上げた。
「なにしろ犯人とは十年も一緒に暮らしている。両親に対する情の方が薄れつつある。困ったね」
 おかあしゃま、と宝子ちゃんが手を伸ばしたのでミツミネは渋々といった様子で宝子ちゃんを賀茂さんに渡した。大食いで寝てばかりいる母親だが、宝子ちゃんはおかあしゃまが大好きだ。
「ストックホルム症候群の詳しい症状は知らないけど、一種の洗脳状態みたいなものだろう? 一週間という期限では無理じゃないかな。今回は一刻も早く無事ウチへ戻してやるのが先決じゃないか」
 僕の言葉に賀茂さんはぷはっーと息を吐いた。
 意見が気に入らなかったのではなく、単に宝子ちゃんを抱っこしているのが重かっただけみたいだ。宝子ちゃんを下ろすとそうだね、と相槌を打った。
「犯人から遠ざけるのが一番だね。では勘のいいおばちゃんに出動して貰うとするか。犯人が時々日向ちゃんを連れて現われるコンビニに同じ日、同じ時刻に現われるように誘導するとしよう。あら、この子どこかで見たような気がする。そう言えば、いつか分からないけどテレビのワイドショーで見た誘拐された女の子と雰囲気が似ているような? で、彼女は車のナンバーを控えて警察に電話を入れる。スマホで隠し撮りもして貰っちゃおうかな」
「そこまで段取りできるならそっちにすれば。それで家に戻れたら、後は親の愛情と精神科の医師に任せればいい。あの特徴有り過ぎの父親を見れば七歳までの記憶が戻るんじゃないか」
 お金の問題ではない、と言ったくせに、今回はタダ働きかあ、と残念そうな顔をしている。霊能者と言えどもお金がないことには暮せないから当然と言えば当然だが。
 石井氏が『三峯探偵社』に依頼してから丁度一週間後、日向ちゃんは栃木で発見された。
筋書きは賀茂さんが言った通りだ。警察が車のナンバーから犯人の住所を割り出して日向ちゃんが監禁されていた家に急行して保護。犯人の抵抗はなかった。
 ワイド・ショーのネタとなって、犯人の経歴やら監禁された家での暮らしが明らかとなったが、賀茂さんを通して僕等は事件の詳細を知っている。日向ちゃんは当分の間病院に入院だ。
 石井氏からはその後連絡はなかった。表面から見れば日向ちゃん発見に『三峯探偵社』は何も貢献していない。裏面を見る能力がない人達にとっては手柄は勘のいいおばちゃんに帰する。
 ただ、日向ちゃんの母方のひいおばあちゃんの霊が『賀茂流霊能者協会』に現われておおばばさまとばばさまに頭を下げて帰ったそうだ。
「あそこの家族には守護してくれる肉親の霊が見事にいない。日向ちゃんは無事保護されたが今後が心配だね。ひいおばあちゃんの霊を守護霊に付けてやったらどう?」ばばさまが夢の中に現われて提案した。
「でも、お母さん、守護霊が付いているから安心って事はないでしょうが」と賀茂さん。
「まあね、余程強力な守護霊じゃないと難しいね。でも日向ちゃんの場合、背中が空っぽなのは危険だよ。今は数多の霊に憑依されやすい時期だからね」
 というような会話が夢の中で行われたらしい。昼寝から覚めた賀茂さんは何やら書き付けた紙を折ると日向ちゃんが入院している病室に向かって飛ばした。
 紙には日向ちゃんのひいおばあちゃんの霊が乗っていて、無事日向ちゃんの守護霊になった。ひいおばあちゃんの霊は悪霊が背中を乗っ取ろうとしたら賀茂さんに助けを求めて来る。
「やれやれ、無料奉仕だったね。守護霊のいない者に守護霊を付けるのは結構大技なんだけどねえ。謙信、お腹が空いた。ご飯はある?」
「はいはい、幾らでもございますよ。今日のお米は『ななつぼし』、おかずはニシンの塩焼きに白老の卵を使った出汁巻き卵、コゴミの胡麻和え、行者ニンニクの醤油漬けでございます。いかがですか?」
「へえ、それは美味しそうだね。謙信の作る料理はいつも絶品だものね。宝子、一緒にご飯を食べよう」
 僕の食費は血液パックに血液ガムに代金だけだが、賀茂さんの家のエンゲル係数は異常に高いに違いない。出汁巻き卵はロールケーキみたいに大きかった。

ストーカーな依頼人


 八月に入ってミツミネ家族と僕と麻利亜さんは鴨川シー・ワールドに遊びに行った。豪快なシャチのショーで全員拍手喝采したが、ショーの最中に賀茂さんがプールの向こう側に広がる海に御札を飛ばした。
 「海に何かいたのか」と尋ねると「まあね。気にしない、気にしない」と賀茂さんから答えが返って来た。気にしないと言われても気になる。
 宝子ちゃんは白黒ツートンカラーのシャチが御気に召したようだ。見た目はパンダみたいだが、別名キラー・ホエール。海の生態系の頂点にいる。
「おとうしゃま、猫には猫神様がいて、キツネには稲荷神がいるでしょう。シャチにはシャチの神様がいるの?」と黒豆みたいな目でミツミネを見上げた。
「う……」と答えに詰まるミツミネ。
「おるかどうか分からんな」と答えた。これはギャグか? ギャグで誤魔化すつもりか。
 イルカのショーでもまたイルカの神様は、と聞かれて「いるかもな」と答えたので宝子ちゃんはおやじギャグ第二弾にぷっと頬を膨らませた。
「ミツミネ、分らないならそう言えばいいじゃないの。あのね、宝子、おとうしゃまは山に住んでいたから海の神様とはあまりお付き合いがないのよ。竜神様なら知っているからオウチに帰ってからお話をしてあげる」
 賀茂さんがフォローした。へえ、竜神様ねえ……。あの龍? マジですか! まったく突っ込み所満載の家族だ。
 一方、麻利亜さんはシャチのトレーナーになりたかったわ、とこれまた詮無き事を呟いている。だーかーら、若い身空で自殺なんかしなければ良かったのに。もっとも今となっては生身の麻利亜さんの姿を想像できない。
 最後に五人で記念写真を撮った。麻利亜さんは写らないだろうと思っていたら僕の横で両手をだらりと下げた見事な「貞子」風の麻利亜さんが写っていた。うんと気張れば写り込み可能。貴重な一枚になるだろう。
 鴨川までの往復はレンタ・カーだ。免許を取ったミツミネが運転してくれている。ゴールド免許だがペーパードライバー、札幌で一度だけタクシーを運転した賀茂さんは宝子ちゃんと僕とで後部座席に座っている。
 麻利亜さんは助手席で窓から吹き込む風に髪を靡かせている。擦れ違った対向車の中に霊感持ちがいたら失神ものの光景だ。でも世の中、怖い霊ばかりではない。
 宝子ちゃんは「イルカはオルカ、神様いるか」と節を付けて歌っていたが途中で寝てしまった。ミツミネは歌が止んでふうっと安堵の息をついた。
 いつも強持てのミツミネだが、実体は賀茂さんと宝子ちゃんには言い成りの狼。僕は家族を持った事がないが、このメンバーなら家族も悪くない。
 ミツミネがレンタ・カーを返しに行っている間、賀茂さんは宝子ちゃんを抱いて私室に引き上げ、僕と麻利亜さんも自分の部屋に戻った。八月でも北東の場所と麻利亜さんのお陰で涼しい。
 お盆が近いせいもあって霊道が開いていつもより幽霊の数が多いが、慣れた。賀茂さんが言うよう害意のない「普通の幽霊」達だ。シカトしていればこちらにちょっかいを出したりはしない。
 ミツミネが大男のくせに足音を立てずに帰って来た。賀茂さんと宝子ちゃんの寝顔を確かめてから事務所に入り、留守電を再生している。着信は五件。これが多いのか少ないのか僕には分からない。
 中には悪戯半分で電話をして来る暇な連中もいるし、競合する探偵社からの電話もある。探偵社からの電話は自分の処で持て余した案件だ。ミツミネが三件目の電話を繰り返して聞いている気配がした。
 次の日の昼、賀茂さんが爆発頭のまま不機嫌な顔で探偵事務所に現われた。宝子ちゃんは朝六時におきて謙信が作ってくれた朝食と昼食を食べ終えて昼寝をしている時刻だ。普通の子供ならこうあって欲しい。
 事務所に入って来た賀茂さんは昨夜のミツミネと同じ様に留守電を再生した。三件目の内容が気になっていた僕は、今回は自主的に事務所に詰めている。
「一件目と四件目は緊迫感が感じられないね。放っておけば他の探偵社に依頼するだろう。二件目と五件目は『かまってちゃん』からの電話だ。あちこちの探偵事務所に電話しまくっている連中だね。作り話を長々とした挙句にやっぱりいいです、と言うような連中だから相手にするだけ無駄。三件目は、ミツミネも薄々感じているんだろうけど、ストーカー女子からの電話だ。ウチはストーカーは相手にしないけど、この女はかなり危険だ。ミツミネならどうる?」
 ストーカーと聞くと男と思ってしまうが、ストーカーは男だけとは限らない。最近は認知度が上がったが、すこし前なら男が疑われた。
 男が被害を訴えても「結婚の約束をしている」「子供ができた」「他の女に乗り換えた」「言われるままに金を渡した」などと訴えれば警察は男の方を疑う。
 話した事もない相手と「まあ、二人でゆっくり話し合って解決してください」などと言われる。会社や自宅に押し掛けられたら信用問題だ。下手すれば会社を首になり、既婚者は離婚に追い込まれる。
 電車の中での痴漢事件と同じで、「この人が痴漢しました!」と叫ばれたらアウトだ。冤罪ならひたすら逃げろと言われて線路上を走って逃げる姿がテレビで放映されたりしている。
 後は弁護士を呼ぶ、繊維検査を申し出るなどの対策法が紹介されている。いずれも出勤途中のサラリーマンにとっては間違われた時点で面倒に巻き込まれる。
 最近は女が「この人痴漢です!」と叫び、傍にいた仲間の男が「私も犯行を目撃しました」と美人局の真似をして示談金を毟り取るケースも発生している。
 何はともあれ、女の訴えが優先される。痴漢に遭った側からすれば泣き寝入りをしないで済む状態になったが、冤罪であっても社会的信用を失う可能性大だ。
「もっと下手すれば包丁を振り回しかねない人だね。見掛けは大人しい地味なタイプだけど、一度ターゲットにされたら男にとっては悪霊に憑かれたような気分だろうね」
 怒った男が堪忍袋の緒を切らして暴力的態度に及べば、今度は反対に男が悪者にされる。ひたすら耐えるしかない。
「精神科に送り込むのがいいのではないか。明らかに病気だろう」面倒臭そうにミツミネが答えた。
 他人が勝手に精神病院へ入れたりはできませんよ、と僕は口を挟んだ。しかるべき病院で診断を受け、自主的に、或いは親族の承諾が必用な筈だ。
 この際、ストーカー女にストーカー男を組み合わせれば相思相愛で目出度し目出度しではないか、と僕は考えた。賀茂さんならストーカー気質の男を調達するのは朝飯前だろう。
「何を浅はかな事を考えてるんだか」と賀茂さんがすぐさま否定した。
「ストーカーは相手の心情など考えない輩だ。自分の思い通りにならなければ暴力も辞さない。あるのは愛情ではなく執着心と残酷とも言える支配欲だ。ストーカーの執着心を愛情と誤解して結婚したとしても不幸になるだけだよ」
 賀茂さんの話を一緒に聞いている麻利亜さんは執着霊だ。これって、危ない状況なのだろうか。
「今度は霊の心配かな。麻利亜ちゃんが執着霊だからそのうち取り殺されるかもって、怖くなった? 麻利亜ちゃんは確かに田中っちを好きになって小樽から憑いて来た。私から見ればアラフォーで平凡な田中っちのどこが気に入ったのか皆目分からないけど、彼女には支配欲はないね。あったとしたらもっと怨霊系になっていただろうね。怨霊系なら私が小樽で消していたよ。まあ、これから先、田中っちが誰かと結婚する気にでもなったらどうなるか分からないけど、彼女なら自分から身を引くだろうね」
 僕が結婚、の件で麻利亜さんの髪が逆立った。人間の女子と結婚する気はさらさらないが、その時は身を引くって、本当ですか。 現在いい具合で暮しているのに余計な話はしないで欲しい。それにアラフォーと平凡は余計だ。
 そうだね、と賀茂さんは腕組みをしながらしばらく考え込んでいた。
 ストーカー女子は彼の身辺調査を依頼して来ている。何もかも知りたい、これがストーカーだ。彼はブリーフ派かボクサーパンツ派か、までだ。誕生日にプレゼントするつもりか。
「彼女に悪霊が憑いているならそいつを祓ってやれば問題は解決だけど、持って生まれた気質だけはどうにもならないね。加味逍遥散でも飲んでみれば少しは気持が落ちつくかも知れないけど」
「かみしょうようさん、って何だ?」
「漢方のお薬よ。飲むと苛々した気持が落ち着く。あ、これ、市販薬だからね。除霊に来たお客さんにも証にあった漢方薬を勧めているのよ。勧めるだけで販売はしていないから薬事法違反じゃないよね」
 でしょうね、と僕。中国から渡って来た漢薬と日本で開発された和薬を総称して和漢薬と呼ばれている。
 僕が生まれた時代にはいちいち山に調達に行ったものだが、今は病院で貰えるし、ドラッグ・ストアでも売っている。
「ストーカーにストーカーをぶつけるってアイデアね、案外いいかも。自分がストーカーされたらどんな気分になるか、一度体験してみるのもいいかも知れないね」
「今度は女のストーカーの方が危うくならないか。男の方が腕力は強いからな」
「なに、暴力沙汰にはさせないから大丈夫」
 ミツミネの言葉を賀茂さんは即座に却下した。この事務所では賀茂さんが生態系の頂点にいる。
 ストーカー規正法ができてもお馬鹿さんは後を絶たない。分かれた妻の実家まで行って家族諸共殺傷に及ぶ事件が報道されるのを見ていると返って凶悪化したのではないかと思えるくらいだ。

人間のストーカーと悪霊のストーカー

 次の日、ストーカー女子の坂野真琴さん四十二歳は留守電で宣言していた十時ぴったりに事務室に現われた。またスマホで起こされた。
 僕は賀茂さんの下僕か、と文句の一つも言いたいところだが、探偵社の仕事に興味があるのは事実だ。麻利亜さんと一緒に事務所に入った。
 昨夜の賀茂さん情報では地味な人、と聞いていたが、今日は気合を入れて来たのかビジュー付の紫のTシャツにダメージ・ジーンズ姿だった。耳には金色の輪のピアス、つけ爪もしている。まったく似合わない。
 現住所は実家。大学を卒業した後は気が向いた時だけコンビニでバイトをしている。どこかの会社に就職した経験なし。
 妹が一人いて、こちらは二十代後半に結婚。実家を離れて旦那の転勤と共に関東地方を移動しており、子供が一人いる。真琴さんとは仲が悪くてあまり実家には近付かない。
 ストーカー気質の真琴さんは妹が引っ越す度に社宅の周りもうろちょろして聞き込みをして歩き、妹はその度にご近所さんに謝っている。これでは姉妹の仲が悪くても仕方がない。
 どこかの調査会社の人かと思ったらお姉さん? へえ、変わってらっしゃるわね、と言われて心穏やかには暮らせない。姉の奇行の一番の被害者だ。夫の会社での出世にも響くだろう。
 姉の奇行を理由に離婚されるのが怖い。いっそ病院に長期入院してくれないものか。しかし精神病院となると聞こえが悪い。死んでくればいいのに……。
 両親はいつまで経っても自立しようとしない長女をカウンセリングに引っ張って行った時期もあるが今は諦めている。介護をあてにしているのかも知れない。
 真琴さんの基本情報が僕の頭の中に入って来た。ストーキングの相手はコンビニで一緒にバイトをしていた大学生だ。今は中堅どころの会社に就職している。
 歳の差二十近いストーカーだ。彼氏、浜田君が振り向く確率は低い。最近は歳の差カップルが増えたとは言え、浜田君にはまるでその気がない。
 真琴さんは承諾書にサインする前の僕の説明を上の空で聞いていた。今頃会社で浜田君が何をしているのか気になるのだろう。
「それでまず何から調査致しましょうか」と僕が尋ねるとスマホのアドレスと番号、それに会社でどう過ごしているか、と答えた。
 現住所はアパートに戻る浜田君の跡を付けて既に把握済みだ。まだ突撃してはいないが時間の問題だろう。この時点で既にアウト。
「浜田さんとはバイト先で知り合いましてね。彼ったら仕事中にも拘らず私を見ていて、目が合うと慌てて逸らすんです。これって、絶対私のことを好きなんだな、って」
 浜田君はこの時点で既に警戒モードに入っていたのだろうと推察される。変なオバサンが意味ありげな目で見ている。気持が悪いから傍に近付かないでおこう、と。
「それから彼は様々なサインを送って来るようになりました。棚の商品を並べている時に右膝を付いてくる時はこんな格好で私に愛を告白したい、レジが込んでいる時にこちらのレジにどうぞ、は僕の家に来てください、と言っているんです。ねえ、そう思いません?」
 まったく思いません、と僕は心の中で突っ込みを入れた。ミツミネは彫像のように動かず、賀茂さんは事務机に突っ伏して幽体離脱中だ。この馬鹿馬鹿しい話を聞いてやるのは僕だけだ。
「浜田さんが仕事を辞める時、私、自分のスマホの連絡先を紙に書いて渡しました。つまり浜田さんの愛を受け入れる意思表示です」
 おお、それは迷惑な、と思わず口に出しそうになった。真琴さんが愛と言う度に熟れ過ぎた果実が腐って行くような気持悪さを感じる。
「幾ら待っても連絡が来ないので私が渡した紙を無くしてしまったのかも知れません。或いは恥ずかしくて連絡できないのかと思いまして。浜田さんって、シャイなんですよ」
 シャイなのではなく、そもそもあなたに興味がないのです。変な目付きをしたオバサンに渡された紙は即ゴミ箱入りでしょうよ、と言い返したかった。
 どこをどう曲解したら自分に都合がいい結論に達するのだろうか。昨夜ミツミネが言っていたように病院へ行って頂きたい。
「では浜田様の調査に始めさせてさせて頂きます。今住んでいる住所を教えて下さい。それと、本人と分かる写真でもお持ちでしたらお預かりしたいのですが」
 本心とは百八十度も違った言葉を口にするのはあまりいい気分でない。僕は真琴さんからスマホで撮ってプリント・アウトした写真を受け取った。
 コンビニ時代に盗撮した画像だ。棚の商品を整理中らしい横顔はごく普通の青年の顔だ。似た俳優さんは、と聞かれても咄嗟には答えられない。髪は明るい茶色に染めているが、就職した現在は地毛に戻っているだろう。
 出身は大阪、彼女いない歴二十二年……、って、賀茂さん、そんな情報はいらないです。
 では一週間後に、と言おうとしたら賀茂さんが机から顔を上げた。真琴さんはこの事務所の妙な雰囲気には気付いていない。
「坂野様、偶然とでも申しましょうか、当社では坂野様の調査依頼を受けています」
 へえっ? いつどこで誰が何の為に、と素っ頓狂な声をあげた。
「それが、誠に異常な事態で、当社としても坂野様にお話をしていいものやら悩んでいます」
 こんな言い方をされたら誰だって焦る。賀茂さんのシナリオが読めない僕だって聞かずにはいられない。な、何ですか、と真琴さんがソファーから立ち上がった。
「実はですね……、あの、本当に知りたい、と? 聞いたら心穏やかに暮せなくなるかも知れませんが」
 賀茂さんは真琴さんを完全に自分に惹き付けた。さすが、霊能者で稼いで来ただけはある。何がどうなっているのか教えて下さい、と真琴さんが焦れた。
「まあ、ソファーに座って下さい。その前にちょっとスマホを拝借」
 賀茂さんはソファーに座った真琴さんの写真を撮った。
「これはあなたのスマホであって、たった今、私が拝借したものです。つまり私が小細工をする時間はない、と言うことです。ではたった今撮った写真を見て下さい」
 訝し気な顔でスマホを受け取った真琴さんはうっ、と息を詰まらせた。どれどれ、と後に回ってスマホ画面を覗き込んだ僕も我が目を疑った。
 賀茂さん、これって幽霊ですよね。男の幽霊が真琴さんの肩に腕を回していますが。しかも男の目は黒目勝ち、何て生易しいレベルではなく、ホラー映画に出てくる霊みたいに真っ黒だ。明らかに悪霊の面構えだ。
「まず時間経過に沿って説明しましょう。坂野さんから電話を頂いたのが昨夜。その前日に当社にファックスが送られて来ました。明日坂野真琴という女性から電話で調査依頼が来る。その坂野真琴の身辺を調査して欲しい、と、そんな内容のファックスです。依頼者の名は……」
 だ、誰です? 真琴さんが向かい側に座っているミツミネの方に忌まわしいモノが写ってしまったスマホを押しやった。ミツミネがその画像をじっと見ている。
「名前は知らないほうが宜しいかと。当社で調べました所、ストーカー殺人事件の犯人です。一家五人を斧で惨殺しました。当然判決は死刑ですが、死刑になる前に病死しました。当時の写真がこれです」
 賀茂さんは新聞から拡大コピーしたであろう逮捕時の写真を真琴さんに示した。角ばった顔で髪は五分刈り。報道のカメラを睨み付けている目が怖い。確かにスマホに写った男だ。
「あの、この人、もう死んじゃったんですよね。それがなんでファックスが届くんですか」
 さあ、当社はあの世の事までは扱っていませんので分かりません、と心霊現象に誘導する賀茂さん。
「こちらが届いたファックスで、発信元は特定できていません。文面を読めば依頼者が坂野様に並々ならぬ関心を抱いているのが分かると思います。つまりストーカーですね」
 真琴さんの頭の中で暗黒のストーリーが出来上がった。ファックスの件はともかく、スマホの心霊写真を見てしまった後だ。
「つまり、殺人犯の死霊が私に憑いている、と? では、ファックスの主とさっきの写真は……」
 あの世の事までは分かりかねます、と再び賀茂さんが遠回しに駄目押しをした。ミツミネがにやっと笑うのが見えたが、心を乱された真琴さんは愛しの浜田君どころではなくなった。
 この際、賀茂さんがなぜスマホで写真を撮るというおかしな行動をしたのも不問だろう。ファックスは真琴さんが読み終わると同時にただの白紙に変わった。
 賀茂さんのからくりと知っている僕でさえ思わずひやっ、と叫んだくらいだから、真琴さんは失神寸前だ。
「ねえ、ミツミネ、殺人犯の幽霊にストーキングされると、どうなるのかしらね」
「玄関の戸を開けると死体が転がっているのが見えたり、風呂場が血で染まっていたり、台所の包丁が追っかけて来たり、寝ていても枕元に立たれ、最悪布団の中に入って来られるのではないか。家中にラップ音が響き、ふいに窓ガラスが割れたりガスが漏れたり、と色々面倒だろうな」
「そうね、お化けは時と場所を選ばない、って話だし」
「ストーカーの霊は憑いた相手を自分の世界に引っ張って行くと聞いている。毎日心臓が止まる程のドッキリを仕掛けて来る。ホラー映画では大体がそういう筋書きらしいな」
 賀茂さんとミツミネが呑気に話している。真琴さんはソファーからよろよろと立ち上がった。
「おや、どうしました?」と賀茂さんが白々しく尋ねた。脅かしておいてどうしました、もないもんだ。
「今日は帰ります」と真琴さんが搾り出すような声で答えた。顔色は真っ青で、Tシャツのビジューを毟り取ろうと指が忙しなく動いている。ここまで脅かす賀茂さんはサディストに違いない。
「ご依頼の件はいかがしますか。先程も説明しましたが、当社での調査は一週間、基本料二十万円、成功報酬制で前金は頂きません」
 S女の賀茂さんがビジネスに忠実な探偵社社員の顔に戻って確認を入れた。
「はあ、何でしたっけ?」と答えた真琴さんは初期の目的を完全に失念している。そりゃあ、悪霊が憑いているかも知れないとなったら探偵社どころではない。お寺か神社に駆け込むのが先だ。
「とにかく、今日は失礼します」と真琴さん。思いつく限りの寺社の名前をリストアップしているに違いない。
 なに、初詣の参拝者数日本一の『明治神宮』? あそこは明治天皇が祭られている神社だ。明治天皇と悪霊退散は似合わない気がする。
 真琴さんは席を立つと左右に激しく揺れながらドアを開け、事務室から消えた。
「賀茂さん、あの人、スマホを置きっ放しで帰っちゃいましたよ。追い駆けて渡してやらなくていいのかな」
「スマホ? 田中っちが走って行って渡してやれば。でも今の状況では後から誰かが追って来たら、殺人犯の霊だと思って心臓が止まるかもね」
 うふふ、と賀茂さんがダークな笑みを浮かべた。『賀茂流霊能者協会』でもこんな笑みを浮かべているのだろうか。
「住所は分かっているから後で郵送してあげればいいよ。もっとも幽霊とのツー・ショット写真が写っているスマホを使うかどうか分からないけどね。使うとしても、どこをタッチしても真先にツー・ショット写真が現われるように設定しておく。しばらくストーキングされる側の気持を味わって頂く予定だよ」
 本物のストーカーを用意するのかと思っていたら悪霊のストーカーですと。人間のストーカーと悪霊のストーカーはどちらが怖いのだろうか。生身の人間の方が怖い、と世間では言うが。
「保子は邪悪な霊など憑けていないぞ。私室にいる男の霊にゲスト出演して貰っただけだ。面白そうですね、と快諾してくれた。本物の殺人犯の霊は未だ殺人現場に留まって黒い想念を撒き散らしている。御札を飛ばしただけでは片付きそうにないので、これから私と保子で現場まで行って来る。家は廃屋となって馬鹿どもの肝試しの場になっているようだ」
 謙信、とミツミネがドアを開けて大声で神兎の使いを呼んだ。「保子のエネルギー補給の食事を用意してくれ」。
 はいはい、と事務所に現われた謙信は既に片手にお櫃、片手に三皿の料理が載った盆を持っている。
「坂野様がお出でになった時からおおばばさまとばばさまが食事の用意をするようにと仰いましたので用意してございますよ。お米は『ななつぼし』、デザートはメロンでございます」
「瑞々しくておいしそうだ。まずメロンから頂こうかな。宝子はもう起きた?」
 早速メロンを胃に納める賀茂さん。果汁が膝に滴ってもお構いなし。天衣無縫の賀茂さんらしい。
「はい、ついさっき昼寝からお目覚めになりまして、メロンを一玉ぺろりとお食べになりましたよ」
「目覚めにメロンを一玉? それでは腹が一杯にはならんだろう」
「いえ、その後、ホッケの開きでご飯を二膳」
「ご飯が二膳だと? 小食だな。もっとしっかり食べるように言っておかなくてはならんな」
 謙信とミツミネが一歳半の娘の食欲に関して議論している間に賀茂さんは丼飯をお替りした。見ているだけで胸焼けしそうだ。吸血鬼の方が省エネで生きている。
「坂野さんはどうするつもり?」と聞くと暫く放置、と賀茂さんがキュウリの糠漬けをぱりぱり食べながら答えた。
「まあ、せいぜいストーキングの恐ろしさを味わって貰うとしようよ。男の幽霊達が暇にあかせて坂野さんの行く先々で驚かしてくれる予定だからね。一ヵ月も続ければ音を上げるだろう」
 一ヶ月も脅かされ続けたら僕なら廃人になりそうだ。賀茂さんのする事は結構怖い。
「夢見る夢子ちゃんでいるなら追い込みはしないけど、あの人は否定されたら逆上するタイプだ。愛しの浜田君が憎悪の対象に変りかねない。野放しにして置くのは危険だ。ストーカー行為にプラス幽霊が見える、と言い出せば、さすがに両親も妹も強制的に病院へ連れて行くだろうね。病院で治療が受けられるならその方が彼女にとってもいい筈だよ。ただ……」
「ただ?」
「何回も無給で働くのは辛いな。本来なら浜田君から頂きたいくらいだけど、事情を知らない相手に請求書を送る訳にはいかないからねえ。次回からは普通の人探しで着実に調査料を頂く事にするしかないね。さて、ミツミネ、一緒に殺人犯の霊を退治しに行くとするか。晩までには戻れると思うから、謙信、悪いけど晩御飯の支度を頼む」
 かしこまりました、晩のご飯は『ふっくりんこ』でございますよ、と謙信がにこやかに答えた。あくまで道産米に拘るつもりらしい。
 『きらら397』が作付けされるようになってから北海道のお米は美味しい、と評価されるようになったったのよ、と麻利亜さんが道産米情報を追加して来た。
「そうでございますね。『きらら397』は上川の農産試験場が開発したお米です。それまで北海道の米は不味いと言われていましたが、そんな評価を覆す食味の良さでございましたね。今は道産米も特Aの時代でございます。食糧需給率も二百%。我ら道産子の誇りでございます。ジャガイモの作付け日本一、ソバの作付け面積も日本一、菜の花の作付けも日本一。アマゾンのCMの菜の花畑は」
 と麻利亜さんと謙信が北海道自慢で盛り上がっている間に食事を終えた賀茂さんが部屋の隅で小豆色のジャージに着換えた。賀茂さんの戦闘服だ。
「じゃあ、行って来る。ミツミネ、用意はいいか」
 狼の遠吠えが一声聞えたと思ったら二人の霊体は実体から消えた。見た目はソファーに彫像のように座っているミツミネと事務机の上に突っ伏している賀茂さん。
 殺人犯は二度目の死を迎える事になる。あな、恐ろしや不憫やな。反省もせず死んだ本人が一番悪いのだけどね。

悪霊ストーカーの顛末

 そして夕刻。
「ああ、疲れた。私はしばらく寝る。晩御飯は起きてからにするから、宝子には先に食べておくように言っておいて」
 帰って来た賀茂さんは機嫌が悪かった。悪霊の説得に時間が掛かったのだろう。賀茂さんはなるべく穏やかに行くべき所へ行くように説得する。それでも駄目なら御札で魂を消去する。
 短気な賀茂さんがじりじりしながら悪霊を説得している姿が目に浮かぶようだ。僕が悪霊ならすぐにでもイエスと言う。
「殺人犯の霊は少しも反省していなかった。また生まれ変わっても女を探し出して殺してやる、と喚いていたな。あんな男に追い回されたらいい迷惑だ」
 いい迷惑どころか殺されてしまったのだから最悪だ。殺された人達の魂は行くべき所へ行ったのだろうか、とふと心配になる。
「理不尽に殺された人間も時としてこの世を彷徨う。幸い悪い霊にはならずに廃屋の裏手で震えておったよ。殺人犯の霊は家中を探し回っていたが家の裏手にいる被害者達の霊には気付かなかった。おそらくどこかの霊能者が結界を張ったのだろうと保子は言っている。守護に徹した能力を持つ者だ」
 その霊能力者は賀茂さんのような攻撃力ではなく守護の力を持つ人だ。どんな人か会ってみたい気がする。守護モットーなら温厚な人物に違いない。
「おまえは保子を誤解しているな。守護専門の霊能者が温厚とは限らぬぞ。まあ、それはいいとして、その霊能者は時々現場を訪れているらしく、結界が新しくなっていた」
 じゃあ、充分優しい人じゃないですか、と僕は反論した。アフター・ケアも忘れないなら善良な霊能者だ。
「そうか、そう思うか。しかしだな、結界の中は安心かもしれないが、殺人犯の霊が斧を持って自分達を探し回っている姿に怯え続けなくてはならないのだぞ。楽しいか?」
 いや、絶対楽しくはないんでしょうね、と僕は答えた。最良の展開は殺人犯の霊が消えてくれて、自分達も安心して行くべき所へ行く事だ。
「霊能者にも得意ジャンルがある。結界を張ったのはその霊能者の親切心からだろうが、根本的な解決にはならない。この場合は保子の攻撃力が必要だ」
 成る程ね。霊界の事情はいまひとつ理解し難いが、賀茂さんが帰って来たなら目的は達したのだろう。悪霊は消え、被害者は行くべき所へ行った。
 最後の仕上げは土地の浄化と霊能者への挨拶。「今までお守り下さり有難うございました云々」としたためた御札を霊能者宛に飛ばして来たそうだ。がさつな割には行き届いた配慮だ。
 御札は南南東へ向かって飛んで行った。受け取った霊能力者はその御札を見れば相手の能力が分かる。
「霊能者同士は付き合いがあるのか?」
「お互いの存在は感じているようだが、一堂に会する機会はないようだな。それぞれ感じる力も能力も違うからな。霊感があっても霊能力を持っている人間は少ない。更に自分が霊能力を持っていると気付いている人間も少ない。一生能力を発動せずに終る場合もある」
 僕が一度だけでなく二度も幽霊になってしまった経験からすると、霊感など持っていない方が楽だ。霊能力を持っていない方が更に楽だ。
 それから一ヵ月間、当初の依頼者である坂野真琴さんはさんざん幽霊達に脅かされて自主的に精神科に駆け込んだ。
 幽霊さん達は賀茂さんの指令ですぐさまストーキングを止めたから、これからは自身のストーカー行為に向き合って欲しいものだ。
 今度は担当医に執着し始めているらしいが、精神科では良くある事例らしい。医者なら対処法は熟知している筈だ。未熟な医者だと同調してしまう例もあるらしいがそれはまた別の話だ。 
 今回のストーカーの件でタダ働きをしてしまった賀茂さんはそれを挽回すべく簡単な人探しの依頼を受けて帳尻合わせをした。
 賀茂さんの「簡単」は電話を受けた段階でおおよその展開が読め、後は現地に御札を飛ばして確認するだけの作業だ。
 調査期間は一週間、と依頼者には言ってあるが、殆どが即決している。内情を知られると霊能者はいい商売だと思われがちだが、消費エネルギーは大きい。爆食いしていても太らない。

「銀蝶林道」

 十月に入っても東京は地球温暖化の影響で暑かった。僕の出勤は夕方からだからまだマシだが、一歩アパートを出るともわっとした空気に包まれて気分が悪くなりそうだ。こんな時には天然冷房の幽霊である麻利亜さんが傍にいてくれるのは有り難い。
 『世界文献社』は出版業界では老舗だ。高度成長期には十数巻ある歴史大辞典やマニアックな好事家向けの古書復刻版を発行し、安定した収入を維持して来た。
 ところがネット上で何でも検索できる現代になるとそもそも辞典の需要がない。いつでもどこでもさくっと調べられるのがネットの強みだ。
 僕の所属するオカルト雑誌もある程度の発行数は維持しながら電子化にシフトしている。続きはウェブで、という方式だ。その内、紙媒体の書籍は駆逐されそうな勢いだ。
 今回のテーマは『自殺の名所』だ。写真をふんだんに使用している。名所旧跡もあれば、ここってどこの山道?な場所もある。ここはどこ?な場所は特に読者の興味を引きつけそうだ。
「ゴースト・ハンティング専門のカメラマンの中には恐怖効果を上げる為にわざわざ林道の入口に朽ちた注連縄を置いてくる人もいるみたいですよ。不謹慎ですよねえ」
 僕の同僚の若林君が一枚の画像を嫌そうに眺めている。彼は僕より十歳若い。オカルト雑誌の編集をしているが相当なビビリだ。僕は適当に相槌を打った。
 林道の入口には「銀蝶林道」と小さな案内板がある。軽トラが入れそうな幅があるから林業関係者が使う道だろう。いわく有り気に注連縄を放置された林業関係者は迷惑しているに違いない。
 素敵な名前の道ね。ここで死んだら魂が銀色の蝶になれるような気がするわね、と若林君の後ろに立った麻利亜さんが僕に言ったが霊感ゼロの若林君には聞えない。
「ここに幽霊がいると思う?」と聞くと幽霊のくせに霊感なしの麻利亜さんが、さあ? と答えた。
 幽霊がいるかどうか分からないけど、こんな場所で死んだら野生動物に齧られるんじゃないかしら? 私は小樽にいた時、決して山には行かなかったわよ。だってヒグマに襲われたくないもの。
 道産子らしい回答だ。九州のクマは絶滅したらしいが、本州と北海道にはまだ人間が素手では勝てない野生生物がいる。それに、死体を齧られるのも嫌だね。
「田中先輩、この崖の写真はどうです? ゴーストハンター・カメラマンがセルフ・モードで撮影したものです。随分引きで撮ってますけど、あれ、あれあれっ……」
 固まっている若林君のパソコンを覗いてみた。有名な自殺の名所だ。自殺防止用の看板が三個も並んでいる。
 「ちょっと待て。あなただけの命ではない!」。あなただけの命だと思うけど。
  写真を舐めるように見ていて気が付いた。崖の一番奥、長細い形をしたモノが今まさに落下して行くのが写り込んでいる。これは……。
「ねえ、田中先輩、それって自殺者ですよね。ね、ね、ねっ! おえっ」
 どうやらカメラマンが気付かぬ内に誰かが崖から飛び降りたらしい。後で気付いて意気揚々と送り付けて来たのだろう。これで自殺者の顔がカメラ目線だったらもっとホラーだ。
「たった今自殺決行中の写真を、おえっ……、送って来るなんて、ひ、酷すぎます。パ、パソコンをクリーニングしなくちゃ。パ、パソコンが、パソコンに、パソコンは」
 若林君がエンドレスに陥った。気分が悪そうだ。
「若林君、後四十分だけど、今日はもう帰っていいよ。五時に帰った事にしておくから」
 若林君が帰った後、僕はパソコンをアパートに持ち帰った。賀茂さんに画像を鑑定した貰う為だ。副編集長としては出来れば使いたい。
 夜中過ぎに私室のドアを叩くとおおばばさまの霊が出てきて、画像を見てくれた。賀茂さんと宝子ちゃんは生身の人間だから既に就寝中。起こすと怒ったトラみたいになるらしい。
「おやまあ、これはまた随分と危ない画像だね」とおおばばさま。ばばさまも戸をすり抜けて出て来た。
「これはねえ、もう随分前に投身自殺した霊が何度も崖から飛び降りている姿が写ってしまったものだね」とばばさま。
「これを使いたいのかね。オカルト雑誌の副編集長とは因果な商売だこと」
「今は顔までははっきり見えないけど、その内段々とカメラの方へ向いて来るよ」
「その方がインパクトがありますよね」と言うと馬鹿をお言いでないよ、と二人に諭された。
 心霊写真でも公に出していい物と悪い物がある。これは悪い物なんだそうだ。
「今度の雑誌のテーマは」と聞かれたので『自殺の名所』です、と答えると「まったく近頃の若いモンは」と長い溜息を付かれた。お言葉を返すようですが、僕は五百数十年生きています。
「どれ、掲載予定の他の画像も見せてごらん」と二人が催促するのでカメラマンが送って来た画像を次々と見せた。崖で撮ったものが最凶レベルで半分はガセネタ、後半分は掲載OKレベル。
「あの、自然公園の滝ですけどガセじゃなくて掲載OKレベルって事は、本当に幽霊がいるんですか?」
「そうだね、随分昔だけど女の人が滝の傍で亡くなっている。夜に肝試しに行ったら声が聞えるかも知れないねえ。ただ来た人を引っ張る程の力はないね。『自殺の名所』じゃなくて『自殺があった名所』に変えたらどうなの?」
 『自殺があった名所』ではコンセプトが大いに違って来る。名所旧跡案内ではないのだ。現在進行形だからこそ読者は興味を持つ。
「とにかく、崖の写真は止めておいた方がいいね。もうあの世に三人引っ張っている。好奇心で行くような場所ではないね。保子が起きて来たら除霊して貰いなさい」
 おおばばさまとばばさまはドアを擦り抜けて消えた。僕はただの霊感持ちの吸血鬼なのに無駄に霊界知識が増えて行く。
 次の日の昼、起きて来たに賀茂さんに画像を見て貰うと二人と同じ事を言われた。御札を紙飛行機みたいに折った賀茂さんは息を吹きかけた後に御札を飛ばした。
 御札は銀色の矢になって飛んで行った。いつ見ても神秘的な光景だが、相手の力が勝っている時は黒い矢となって帰って来て御札を放った相手を殺しに来る。
「賀茂さんって、守護の力はあんまり強くないんじゃなかった? おおばばさまとばばさまが最凶とか言ってたけど、大丈夫?」と聞くと「なに、これくらいは平気だよ」と余裕の笑みが返って来た。
「田中っちが持って来た画像の中では最凶だという意味だろう。でも、見極めは必要だね。
霊能力にも限界がある。それに私だって生身の人間だからね。今はミツミネが守ってくれているけど、危うい時も来るだろうさ。はい、御札一枚五千円」
 賀茂さんが手を出した。僕が見ず知らずの霊の除霊にお金を払う? 何で? 相談した時点で除霊契約成立か。 
 躊躇しているとパソコンの画像を見てみなさい、と言われた。確認すると崖の投身自殺者らしき姿が消えている。
「これなら雑誌に掲載OK。迫力がなくなった、と文句を垂れるんじゃないよ。オカルト雑誌だって載せていいものと悪いものがある。その辺、よーく気をつけなくちゃね」
 僕は迫力に押されて五千円払った。除霊は命を削る作業らしい。考えてみれば五千円は安い。兄の正樹が仕切っている時は十万円の値をつけていた。命を削るなら十万円でも安いだろう。
「田中っちは初詣とかでお賽銭箱に幾ら入れる? ご縁がありますように、と五円かな。普通は十円、ちょっと気張ったつもりで百円玉くらいだろうね。中には十万円包む人もいるが、家内安全・商売繁盛・合格祈願・安産祈願、それを五円だの十円で頼むのは虫が良過ぎるとは思わないか。しかし庶民の相場感はそんなものだ。私はその相場感で除霊料金を決めている。もっとも出張の場合は交通費を頂くし、拗れている場合は追加料金を頂く。後、消費税もだね」
 僕は慌てて消費税分を小銭で払った。本物の霊能者相手なら十万でも安い。しかも賀茂さんはばりばりの本物だ。
「本物の霊能者はお金など頂かないものだが、おおばばさまの時とは時代が変わった。霊能者も食べる為には現金が必要になった。中には二十万、三十万と請求する霊能者もいるが、仕方ない。他に仕事を持っているなら別だが、霞を食って生きている訳じゃないからね。私だって今はミツミネに養って貰っているようなものだし」
 いや、御謙遜を。探偵事務所の仕事は殆ど賀茂さんの手柄でしょうが。それに霞どころか一回に丼飯三杯は食べている。
 さてと、宝子と一緒にご飯を頂いてから事務所に行くとするか、と賀茂さんは大きな欠伸をした。ミツミネが待ち侘びているに違いない。

守護霊は元自衛官

 事務所に入った途端に電話が鳴った。『三峯探偵社』は今日も平常営業中だ。人探しの依頼主は母親。息子が家出中らしいよ、と賀茂さん。一時間後に本人がこちらに来る。
 電話を受けると早速事務机に突っ伏して霊体をどこかへ飛ばしている。一緒に行く時以外、ミツミネは賀茂さんの実体をガードしているのだろう。
 母親は向坂春江四十六歳。非正規雇用で働くシングルマザーだ。息子の風馬は二十歳。高校を卒業後一度就職したが、すぐに辞めて今は無職だ。スマホを買い与えてあるが、二週間前から連絡が途絶えている。
 居場所は既に特定したが、一緒にいる相手が悪いね、と賀茂さんが伝えて来た。友達二人とオレオレ詐欺の受け子をしている。
 実体に戻って来た賀茂さんは現状を親に伝えるべきかどうか悩んでいた。一人息子が犯罪に加担していると知ったら心穏やかではいられない。
 ミツミネと相談している間に母親が到着した。疲れた非正規雇用社員だ。面接を受ける時のように緊張している。
「あの、探偵さんにお会いするのは初めてでして、どこからお話してよいものやら」
 ソファーに腰を下ろした向坂さんは両手を握り締めた。どこからは『三峯探偵社』では必要ない。これから、が問題なのだ。
 調査依頼書を書き終えて判子を押した母親の頭の中では、無職でぶらぶらしている息子がまともな生活をしている図は浮かんでいない。
 母親は自分の生い立ちから離婚した旦那との出会い、それからシングル・マザーとして働きながら風馬君を育てた経緯が語られたが二人の探偵は既にお見通しだ。
 聞いてあげるのも探偵の仕事、と言っているわりに短気な賀茂さんは内心苛々しているのだろう。貧乏揺すりをしている。
 ミツミネは時々「成る程」と相槌を打っているが、これも心ここにあらざる感じだ。結局渉外係りは僕だ。
 不安そうな母親を、では一週間後に御連絡します、と送り出したのも僕だ。送り出した途端、田中っち、北海道へ行くよ、と賀茂さんが宣言した。
 風馬君が現在いるのは北海道だ。なぜ僕まで北海道に? 行けば分かる、と言われてもねえ。サラリーマンだし。「有給休暇があるでしょうが」と賀茂さんに凄まれた。はいはい。
 結局北海道行きは賀茂さん、ミツミネ、僕と麻利亜さんと謙信になった。麻利亜さんは久し振りの北海道にうきうきしている。謙信は古巣の『湯倉神社』の神兎にあれこれ御報告あり、とか。
 なに、半日もあれば東京に戻って来れるから、と勝算有り気な賀茂さんに連れられてまたもやぐにゃりとした空間をワープした。着いたのは札幌市内だった。
 謙信は途中で『湯倉神社』に飛ばされた。神兎は突然の元配下の出現に驚いているか、予定調和か。多分、後者だろう。
 札幌の地理には詳しくないが白石区と呼ばれる場所のウィークリー・マンションの一室だった。マンションを点々としながら詐欺を働いている。
 賀茂さんとミツミネと僕が現われるとスマホで話していた男四人が一斉に僕等を見た。
「なんだ、おまえら」。「ら」の発音がスペイン語学習向きだ。僕は巻き舌が出来ない。
 こいつら四人が掛け子と呼ばれるお兄さん達だ。俺、上司、友達、警察官、弁護士、銀行員などを分業している。この四人の上に更に怖い方々が控えている。
 更にその上に、と僕ならびびってしまう組織の方々が控えているのだろう。受け子はどこどこに行って金を引き出して来い、と命令されるだけなので全貌を知らされていない。
「おい、こら、誰の許しを得て入って来た。」と一人が立ち上がって凄んだ。ドアを開けて入って来たと思ってるのか、こら。
「ミツミネ、こいつらを軽く畳んでくれる? 出来れば半殺し程度で」と賀茂さん。実力行使はミツミネの得意とする所だ。ワオーンと吠えたミツミネは狼の姿で四人の男を薙ぎ倒した。
「なんだよ、このアマ。犬なんか使って卑怯じゃねえか」と賀茂さんをアマ呼ばわりした男の首筋に噛み付いた。牙が食い込んでいるが血は出ない。寸止めの技だ。
 きゃあ、ミツミネさん格好いい、と麻利亜さんが拍手をしている。単純過ぎる。ミツミネは四人を一番奥の壁に追い詰めた。
「さて、これからが田中っちの出番よ。はい、四人のお兄さん達、この中年のおじさんに注目!」
 四人の視線が一斉に僕を見た。はいはい、しばらくの間眠らせておけ、って事ですね。僕は順々に男達の目を見詰めた。僕が見詰めれば男達の時間と記憶が停止する。
 賀茂さんがスマホ、パソコン総てのデーターを書き換えた。一時しのぎに過ぎないだろうがこれで当分悪い事は出来ない。
 僕達は眠っている四人を放置したまま再びワープした。風馬君が掛け子の指示で金を受け取る予定の公園だ。
 噴水があってテレビ塔があって、ひょっとしたら大通公園か。札幌の中心部で金の受け渡しとは大胆な。
 噴水の傍に風馬君がスマホを持って立っている。残念ながらそのスマホはもう繋がらない。指示待ちをしても無駄だ。どこと言って特徴のない平凡な顔で、量販店で買ったスーツを着ている。
 犯行は今回成功すれば二回目。相手は中央区に住む七十代の女性だ。頻繁に出し子を変えるグループはこれで風馬君を切るつもりでいる。
 おい、と大男に戻っているミツミネが風馬君に声を掛けた。心にやましい所がある風馬君は噴水に転げ落ちそうになった。その襟をミツミネががっしりと掴む。僕が目を覗き込むと風馬君がへなへなと崩れる。
 東京に連れて帰るとするか、と賀茂さん。また歪んだ空間をワープする途中に謙信がひえっ〜、と叫びながら飛び込んで来た。
 後で聞いた話だが、近況報告を終えて質疑応答の最中、神兎が謙信を虚空に放り投げたのだそうだ。賀茂さんと同じくらい、やる事が乱暴だ。
「良き主を持ったな。これからも励めよ」と有り難いお言葉を頂いて感涙に咽んでいる最中に飛ばされたそうだ。空間の歪みを敏感に察知したものと思われる。
 『三峯神社』と探偵事務所それぞれに米一俵送ってくださる予定。僕には関係ないが、米は日本人のソウル・フードだからね。
 総ての面子が揃って無事探偵事務所に帰還した。一人余分だが、これをどうするつもりだろう。僕には短期の記憶消去しか出来ない。まだ眠っている間に記憶の改竄とか?
「何度も北海道を往復するのは面倒だから連れて来てしまったけど、これをどうしようかねえ」と賀茂さんがソファーで寝ている男を面倒臭そうに指差した。
 はあ? 考えなしに連れて来ちゃったんですか。大通公園での事は覚えていないだろうが、北海道にいた筈なのに東京にいる。目を覚ましたら重大な違和感あり。しかも犯罪の片棒を担いでいる。
 謙信、と賀茂さんが声を掛けた。
「今日は長距離移動と人数が多かったからお腹が空いた。ご飯の用意をしてくれる?」
 謙信はなぜか嬉しそうな顔で「はいはい」と返事をすると私室に消えた。事後処理より食事が優先かい、と僕は心の中で突っ込みを入れた。
 麻利亜さんは久し振りに北海道の空気を吸って御満悦だ。グレイだのドリカムだのを口ずさんでいる。相変わらず音痴だ。ひょっとして音痴を苦にして自殺したのだろうか。
「この男を警察に突き出すか。出し子でも罪は罪だ。おまけに母親泣かせの軟弱者だ。根性を叩き直すには時間が掛かるぞ」
 軟弱とは真逆のミツミネがちらっと牙を見せた。これで鼻に皺が寄ったら要注意。狼に変身だ。
「根性を叩き直す、か。あ、いい事思いついちゃった。ちょっと待っててね」
 私室に戻った賀茂さんは余程お腹が空いているらしく、キュウリの糠付けを丸齧りしながら戻って来た。
 一緒に現われたのは男の幽霊だ。私室に集っている幽霊のうちの一体だろう。年齢は六十代後半くらい。やけに背筋がぴんとしている。
「この人はね、定年まで勤めた自衛官だよ。定年後は他の職についたんだそうだけど、自衛隊が性に合っていたらしくて今も自衛隊ラブの人でね。そこで寝ている風馬君の守護霊になって貰おうと思うんだけど。背中が空だから丁度いいんじゃない?」
「ええっ、風馬君はいかにも軟弱者ですよ。体力もなさそうだし。それを自衛隊に放り込んじゃうつもり?」
 放り込むつもりはないけど、と賀茂さん。自衛隊には任期制自衛官という制度があって、二年後にはそのまま自衛官でいるか民間企業に就職するか選択できる。
 配属場所によって異なりますが、様々な資格が取れます。二年で辞めても退職手当が支給されますし、その後の就職をバックアップします、と元自衛官氏が補足した。
「しかし、この青年は自衛官になる気がありますか?」
「ああ、それは大丈夫。頭の中に情報を吹き込んでおくから」と賀茂さんは気軽に答えた。
受け子をしていた証拠は消して来たし、表面上は前科ナシだ。
「とにかく、母親が心配をしているから何とかびしっとさせなくちゃね」
「三ヶ月自衛隊候補生として過ごせば見違える様にびしっとなりますよ」
「それは結構。じゃあ、しばらくこの人の守護霊をしてくれる?」「それはもう、喜んで」
 びしっとさせる事で話は即決した。早速賀茂さんが記憶の操作をする。軟弱者を自衛隊入隊に導く動機は何だ? ミニタリー・ルックに憧れるとか、三食宿舎付で給料が貰えるとか、急に災害救助に目覚めたとか?
「二年勤めれば後はこの青年の選択次第です。私は強制するつもりはありません」
「それはなお結構。守護霊でも生者の意志を尊重してやらなくてはね。ただ、間違った判断をしそうな時にはストップを掛けてもいい。頭に水をぶっ掛けてやりなさい」
 それは楽しみですね、と幽霊が笑った。
「丁度向かいの部屋が空いているから母親が来るまで預かろう。布団くらいは用意してやるかな」
 謙信、と賀茂さんが呼ぶと謙信がすっ飛んで来た。
「悪いけど、布団を一組空き部屋に入れてくれない? それと、六日間そこのソファーで寝ているお兄さんの食事も頼む」
 はいはい、総て了解致しておりますよ、と謙信。おおばばさまとばばさまには筒抜けだ。
 では、ミツミネ、風馬君を部屋に放り込んで、と今度はミツミネの出番だ。婦唱夫随の大男は片手で風馬君を摘み上げて、向かいの部屋に放り込んだ。
 そして次の日の朝、風馬君は六時に起床して来た。のんべんだらりと日々を過ごして来た男にとって奇跡的な早起きだ。
 自衛隊では起床は六時、六時十五分には点呼、六時三十分には朝食、八時十五分には課業開始。消灯は二十二時だ。
「うぃーす」と意味不明な声を発して事務所にいるミツミネに挨拶する声が聞えた。僕が会社から帰ってこれから寝ようかという時間だ。賀茂さんだってまだ寝ているに違いない。
「まず一旦部屋に戻ってその安物のスーツをトレーナーに着換えろ。迷彩柄のトレーナーを用意してやったぞ。朝食は六時三十分。今日は謙信が作ってくれるが明日からは謙信の手伝いをしろ。昼食は十二時、夕食と入浴は十七時三十分だ。時計は持っているな。私の時計と時間を合わせろ」
 「ふわーい」と風馬君が答えている。ここまで発したのはたった二語だ。
 群れの掟を大事にするミツミネらしい言葉だが、それを聞いている風馬君が何も疑問を感じていないらしいのが不思議だ。既に記憶が改竄された模様だ。
 その記憶を改竄した賀茂さんは昼過ぎまで起きて来ない。霊能力をたっぷり使ったので体力回復の為に寝ているのだろうが、妻と娘には限りなく甘い狼だ。
 謙信が運んで来てくれた朝食を自室で食べ終えた風馬君は後片付けをした後にジョギングに出たが、体が鈍っているので十分でギブアップして戻って来た。
 その後は謙信の指導で掃除、洗濯、昼食の用意とどたばた煩い。謙信が今までいかに静かに動いていたか痛感させられた。母親が来る日まで不眠症になりそうだ。
「何でこんなに飯を炊くんですか」
「保子様と宝子様がお食べになる。なにしろ体力勝負だからね」
「へえ、女性が体力勝負? なら男の俺ももっと食べないといけないかなあ」
「そうです。ITの時代だって宇宙の時代だって最後は体力勝負なのです。これからは丼でお食べなさい」
 謙信は部下が出来て嬉しそうだ。献立を一緒に考えている。母親が来るまでの間だけどね。
 一週間経った。風馬君のジョギング時間は十五分になった。飯も丼で食べている。その間『三峯探偵社』は簡単な調査を二つこなした。これには僕は係わっていない。
 風馬君の母親が来る日、僕は一時間早起きをした。僕も麻利亜さんも結末が知りたかったからだ。と言うかどこをどう歪曲したかが気になる。
 母親が事務所に現われた時、風馬君はすでに事務所にいた。賀茂さんが珍しく風馬君の隣に座っている。当然ながら背後には元自衛官の守護霊が憑いてる。
「風馬、あんたどこへ行っていたのよ」が母親に第一声だった。連絡が取れなくなって都合三週間だ。無職でふらふらしている息子でも親は心配する。
「ええっと、四国でお遍路さんしてたんだよね」と改竄された記憶を語る風馬君。北海道まで何をしに行ったのか覚えていない。
「お遍路さんだって? またどうして」
「俺さ、もう二十歳じゃん、ふらふらしてるのもいい加減止めようかと思ってさ、六根清浄って言うの?あれやったら気持が変わるんじゃね? と思ってお遍路さんをしてみたんだけどさ、ここの探偵社の人がおふくろが心配して探してるって言うからさ、途中で戻って来たんだけど、おふくろに会わす顔がないからここで世話になってた、みたいな?」
 風馬君の説明は文法的に稚拙だったが意味は通じた。
「息子さんの行方はすぐ見つかりましたが、彼自身が述べたように生活態度を改めたい、とお考えのようなので今日まで当社でお預かりさせて頂きました。その間、これから生きていく上で有益な資格を取りたいと考えられたようです」と賀茂さんがにこやかに誘導した。
「しかし、資格を取るにもお金が必要です。こう言っては失礼に当たるかも知れませんが、それにはお母様に負担が掛かります。そこで、給料を貰いながらなおかつ資格が取れる自衛隊に入隊するのはどうか、とお考えになったようです」
 は? 自衛隊ですか、また急に何で、と母親はうろたえた。息子が戦地に赴く情景でも浮かんだのだろう。
「韓国ドラマをご覧になった事がありますか」と賀茂さんは話を急展開させた。
「韓国では二年の徴兵制度がありますが、韓国ドラマの俳優もKポップの歌手も無事務めを終えて復帰しています。息子さんが希望していらっしゃる任期制自衛官は二年間で除隊出来るそうです。三食昼寝、じゃなかった、三食宿舎付で給料が貰え、しかも退職金まで頂けるそうです。ね、風馬君、君、そう言ってたよね。とにかく、お母様、家に戻ったら一度じっくりお話をされたらいかがでしょう」
 短気な賀茂さんが纏めに入った。最終的には風馬君の判断次第だ。元自衛官の守護霊とて強制は出来ないが、風馬君は飽くまで自分の意思で入隊するに違いない。
 週休二日制だし、夏や年末年始、年次休暇もあるそうだから、ブラック企業に勤めるよりいいだろう。三ヶ月の候補生期間を乗り切れば、の話だが。
「では前にも御説明させて頂いたように基本調査料二十万円プラス諸経費の明細を後日請求させて頂きます」
 二人が事務所を出た後、僕は賀茂さんに聞いてみた。別に自衛官じゃなくてもいいんじゃない、と。消防士とか警官とか海上保安庁、とか。生活態度を改めさせるなら他の選択もあり得る。自衛官に拘る理由は何だ?
「ああ、それか。警察官でも消防士でも良かったんだけど、丁度いい具合に元自衛官がいたので頼んじゃったんだよね。別に他意はない」
「だとすると、元消防士がいれば消防士、元警察官がいれば警察官を勧めていた、ってこと? 安易過ぎやしないか」
 賀茂さん批判とも取れる僕の言葉にミツミネが眉を顰めた。ミツミネはいつだって賀茂さんの味方だ。
「御説御尤も。でもさ、子供はいつか親離れしなくちゃいけない。他人だらけの中、一人で暮してみなくちゃならないんだよね。そこで初めて自分を客観視できるようになる。風馬君の家は母子家庭だから母親が甘やかし過ぎた。あれでは一生母親の脛を齧って暮らすようになりかねない。忘れてはいけないのは受け子をやっていた事実だ。今回は揉み消してあげたけど、事実が知れたら世間は許してくれないよ。刑務所でびしっとさせて貰うよりいいんじゃないの?」
 前科がついたら生きにくくなる。それより元自衛官に守護して貰った方がいいだろう、と考えた。今回のキー・ワードは「びしっと」。
 もし生前坊さんをやっていた幽霊がいたら出家でもさせていたのかも知れない。賀茂さんの私室に元自衛官の幽霊がいたのも風馬君の運だ。
 それから一ヵ月後、元自衛官は戻って来なかったから風馬君は自衛官候補生になったに違いない。軟弱者を「びしっと」させるのは自衛隊の得意分野だろう。

『三峯探偵社』の饗宴

 十月二十日、ミツミネは『三峯神社』の月読祭に参加する為に古巣に戻った。ミツミネがいないとアパート全体の重石がなくなったような気がする。『三峯探偵社』も休業中だ。
 次の日の夕方、どーんと地響きがしたので何事かと思ったら廊下に米一俵が転がっていた。神兎お約束の米俵だ。函館産の『ふっくりんこ』の新米でございますよ、とお米マイスターみたいに謙信が銘柄を当てた。
 北海道も今や米の一大産地だ。北海道の歴史百五十年、何とか寒冷地でも米を作ろうとした先人達の苦労の賜物だ。『三峯神社』の大口真神の元にも届けられているだろう。
 月読祭を終えたミツミネは沢山の狼達と一緒に帰って来た。ミツミネに言わせれば付いてきた、が正しい状況だ。謙信が早速『ふっくりんこ』を大きなガス釜で炊き始めた。
 今回は塩結びに津軽海峡で捕れたマグロだ。探偵社の稼ぎの大部分は食費の筈だが、自身が大食漢の賀茂さんは食費に関しては文句を言わない。
「おい、謙信にばかり任せないで誰かマグロを捌くのを手伝ってやれ」とミツミネが声を掛けると二頭の狼が人間の姿になって賀茂さんの私室に向かった。
 僕と麻利亜さんも狼達の食べっぷりを見物したいので事務所に押し掛けた。吸血鬼になってからは血液以外には食指が動かないが、楽しそうに大食いしている姿を見るのはまた格別だ。
 賀茂さんはミツミネと一緒のソファーに座り、宝子ちゃんは狼達が尻尾をぱたぱた動かしている間を楽しそうに歩いている。時々姿が見えなくなるが、それは狼に押さえつけられて顔を嘗め回されているからだ。
 宝子ちゃんは大口真神の直接の眷属ではないが、狼達に仲間と認められているのは確かだ。狼達は宝子ちゃんに仮の自分の名を名乗っている。名を呼べばどこにいても狼達はすぐに姿を現す。
 狼達も仮の名で呼び合っているらしいのだが、部外漢の僕と麻利亜さんには聞き取れない。ミツミネも賀茂さんが付けた仮の名で、本当の名は別にある。僕だって本名は田中ではない。
 宝子ちゃんもその辺は心得ていて、普段は自分が勝手につけた名で狼達を呼んでいるが、そのネーミングのセンスは首を傾げたくなるようなものばかりだ。
「お銀おばさま、助おじさまと格おばさまは今日も来ないの?」と雌らしい狼に聞いている。助おじさまと格おばさまは多分、大口真神の両脇に控えている白狼のことだろう。
大口真神が水戸黄門?
「あの二人は、そこにいる吸血鬼より遥か昔、神話時代に生まれた大口真神さまの分霊です。秩父のお山がなくなるような天変地異でもない限りお傍を離れることはありませんよ」
 反対から言えば、助さんと格さんが現われたら要注意。ずっと大人しく鎮座していて欲しいものだ。
「へえ、じゃあ、助おじさまと格おばさまは謙信が握った美味しいお握りが食べられないの?」
「『湯倉神社』の神兎からお米が届いていますからね、宮司がお供えするでしょう。届いたお米は大口真神様に奉げられたものですが、ここに送られたお米は私達眷属のもの。今日は神兎殿に感謝しつつ腹が裂ける程食べようではありませんか」
 さすがに神へ送られた米は食べられないからミツミネの所に押し掛けて来た、と。
 僕は吸血鬼だから人間の食べる物を食べても栄養にはならないが、謙信の握るお握りは食べてみたい気がする。普段山の気を食べている狼達が押し掛けて来るくらいだから絶品なのだろう。
「ミツミネ、おまえは幸せ者だな」と越後屋がミツミネに鼻面を向けた。
「人間の霊能者と暮らして子まで生した。宝子を連れて東京ディズニー・ランドや鴨川シー・ワールドまで行ったそうではないか。羨ましいぞ」
 今度は回船問屋の越後屋が出て来た。お奉行様に賄賂を贈る、あの越後屋か? 狼がデュズニー・ランドや鴨川シー・ワールドに行きたがるものか、普通。
「羨ましいと言うなら越後屋、おまえも神に願って嫁を貰えばいいではないか。嫁と子を養うのは大変だがな」と答えたミツミネが賀茂さんに足を蹴られた。
「おお、それそれ。一度は嫁に蹴られてみたいものだ。誰か適当な人間を紹介してはくれぬか」
「ウチは探偵社であって結婚相談所ではない。それに適当な、とは何だ。おまえの適当の基準はどこにある?」
「そうだな、嘘をつかない、金使いが荒くない、人の悪口を言わない、ギャンブルをしない、の四ナイで我慢しよう。そう言えば保子が守護力の強い霊能者と接触したそうだな。そいつはどうだ?」
「その者は五十代の既婚女性で二人の子持だ。理想の四ナイではあるけれど、今結婚している相手と離婚させて結婚するか?」
 うーむ、と越後屋が唸った。初婚の若い子が好きなのは人間の男だけではないようだ。他の狼達がどっと笑った。
 この群れの中で一番の長老は大きな灰色の狼で、宝子ちゃんは大和と呼んでいる。さすがに二回目ともなると僕にも個々の狼の違いが分かるようになった。大和は四千年の時を秩父の山で過ごしている。
 はい、皆様、お待ちどうさまでございました、と言いながら謙信がお櫃を運んで来た。その後には人間に化けた狼が大皿に盛ったマグロの刺身を持っている。頭はもう一人が兜煮にしている最中だ。
「マグロの刺身は各自お好きなようにお食べ下さい。醤油とワサビは別に用意してございます。今回のお握りは塩結びですが、やはり海苔で巻いた方が宜しければそうお申し付けください」
 いやこれは、マグロの刺身で握り飯が二十も三十も食べられそうだ、と越後屋が早くも涎を垂らしている。嫁さん欲しい、は頭の中からすっ飛んでいる。ガス釜が一体幾つあるのか知らないが、お櫃が空になる度に謙信はまたお櫃を一杯にして戻って来る。
 味のわからない僕も大きな塩結びを一個ご相伴に預かったが、ふっくら炊き上がったご飯の塩結びは人間なら寿命が伸びそうないい匂いがする。
 賀茂さんは十個食べ、宝子ちゃんは三個食べた。ミツミネも今回は宴会に加わっている。マグロの刺身はあっという間になくなり、兜煮が出て来た時には「うおっ」と声が挙がった。
「皆様の美味しそうに食べて下さるご様子が私の励みでございます。さあ、まだまだご飯は沢山ございますよ。幾らでもお握り致しますからね」
 謙信が赤くなった手を時々水で冷やしながら叫んでいる。狼の宴会が見られるなんて、長生きしてみるのも悪くない。

第三章へ続く


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