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長編ホラー【続・幽霊のかえる場所】 第三章

阿佐野桂子



   

第三章


英語の原書を読む二歳児

 十二月二十四日は特別な日だ。クリスマス・イヴとは関係ない。将来賀茂さんより強力な霊能者になるであろう宝子ちゃんの二歳の誕生日だ。
 二十三日の夕方、僕は出勤前に麻利亜さんと一緒にデパート巡りをしていた。宝子ちゃんの見掛けは二歳児だが中身は超早熟児だ。オカルト本を英語の原書で読んでいる。誕生日プレゼントに何をあげたらいいのか悩む。
 いくら早熟でも女の子は可愛い服が好きよ、出産の時にも産着セットをプレゼントしたんだし、去年も服だったんだからお洋服でいいんじゃない? と麻利亜さん。
 そう言う麻利亜さんは月日が経っても白いロングワンピース姿だ。腹部を中心に血の色の花が咲いている。幽霊に着替えは無理みたいだ。
 結局子供服売り場をうろうろする破目になった。店員さんが声を掛けてくるが男の僕には決断ができない。一時間近く悩んだ挙句、結局は麻利亜さんのアドバイスに従ってお姫様仕様でフリル満載の外出着と帽子と靴を買った。サイズは店員さんのお見立てだ。
 ついでに、と言っては何だが玩具コーナーでクマのプーさんのぬいぐるみも買った。柔らかな手触りで、抱っこして寝たら気持が良さそうだ。
 本人はどうせ着られないならと固辞したが麻利亜さんの服も買った。鴇色のサテンのロングドレスで、実際に着られたら色白の麻利亜さんにはよく似合うに違いない。
 大荷物を持ったまま『世界文献社』に出社すると同僚の若林君とオカルト専門ライターが向かい合って話をしている。
「田中さん、聞いて下さいよ。破魔矢さんがウチで書くのを止めるって言ってるんですよ」
 破魔矢は勿論ペン・ネームだ。『竹内文書』や『東日流外三郡誌』などの古史古伝を専門にしている。オカルト雑誌などやっていると妙な売込みが多いが、その中ではまともな文章を書くし、一定の読者も付いている。
「ほう、それは残念ですね。何か心境の変化でも?」と僕は尋ねた。引き止める気はない。他に書きたがっているライターは幾らでもいる。
「いやあ、実はですね、僕もそろそろ小説を書こうかと思いまして。『天の日球国』から天皇家が『天空浮船』で地球に降臨した時点まで既に五百枚書きました。勿論、固有名詞はSFっぽくしてあります。全部書いたら原稿用紙五千枚くらいになると思います。完成したらこちらで出版して貰えませんか」
「それは面白そうだ。でもウチでは小説は扱っていませんからね。他の出版社に持ち込んだらどうですか」
「まあ、そうおっしゃらずに。書き上げた五百枚、置いて行きますから暇な時に是非目を通してみて下さい」
 若林君のデスクの上に乗っているのがその原稿だろう。破魔矢君は原稿を撫で擦った後、自信満々な顔のまま帰って行った。
「どう思います?」と若林君が原稿を手にとって飛び飛びに目を通している。奇想天外な『竹内文書』が元ネタだ。書きようによっては面白い伝奇小説になるだろう。
「そうだね、春に入社した小暮君に読んで貰って。あの子、ファンタジー小説とホラー小説を読んで育ったらしいからね」
「はい、そうしておきます。それにしても田中さん、凄い荷物ですね。クリスマスに誰かとデートですか?」
「まさか。僕にはデートするような相手はいないよ。これは姪っ子、みたいな女の子にあげるプレゼントだ」
 姪っ子じゃなくて姪っ子みたいな、ですか、と細かい事が気になる若林君はクリスマスには自宅で家族パーティをして楽しむ予定だ。
「同じアパートに住んでいる家族がいてね、そこの女の子にプレゼントする品だよ。クリスマス・イヴに生まれてくれたお陰でクリスマスと誕生日と正月が一回で済む。当人にとっては悲劇かも知れないけどね」
「へえ、田中さんもご近所付き合いしてるんですか。孤高の人、って感じですけど」
 ご近所付き合いどころか睡眠時間を削って付き合わされているのが現状だ。ただの霊感持ちで幽霊の嫁がいる吸血鬼の僕はお陰で年中寝不足だ。
 あら、自分だって探偵事務所の依頼に興味があるくせに、と麻利亜さんが傍で笑っている。孤高の人でないのは確かだ。

年末年始の三峯探偵社

 次の日、つまりクリスマス・イヴにプレゼントを渡すと「田中っちのおじさま、どうもありがとう」と二歳児らしからぬ丁寧な言葉を頂いた。この時ばかりは「おじさん」から「おじさま」に格上げだ。
 自分の服には頓着しない賀茂さんだが、娘に着せる服となると親馬鹿丸出しだ。さっそく着換えさせて喜んでいる。
「良く似合うわね、宝子。南瓜の馬車に乗って舞踏会に行くシンデレラみたい。麻利亜さんが選んでくれた服よ」
 全部お見通しだ。喩えが凡庸だが、賀茂さんは小説家ではないからこの際、目を瞑ろう。
 それはそうと、と賀茂さんが笑顔のままで僕を見た。
「田中っち、麻利亜ちゃんの服も買ったでしょう。鴇色のドレス、ここへ持って来て。幽霊に服を買ってあげるなんて、奇特な人だね。麻利亜ちゃんは幸せな幽霊だこと」
 男が女物の服を買うのは恥ずかしい。更にそれが幽霊の服となると更に恥ずかしい。幽霊の麻利亜さんが着られない服を買った僕は愚か者だ。
 自室に吊るしておいたドレスを渋々取って戻ると賀茂さんの目が光った。まさか、賀茂さんが着るつもりですか。ちびまるこちゃんには絶対に会わないと思う。裾も長すぎる。
「失礼ね。背が低いのは生まれつきよ。童顔も生まれつき。整形でもしない限り、容姿はどうにもならないわよ。宝子は私より背が高くなって綺麗な子になると思うけど」
「容姿など問題ではない。大事なのは中身だ」
 膝の上に宝子ちゃんを乗せたミツミネが低い声で唸った。一が大口真神で、二が賀茂さんと宝子ちゃん、三、四がないミツミネには賀茂さんがぴかぴか光って見えているのだろう。
 賀茂さんはどこからか金属製のバケツを取り出した。さあ、ドレスを寄越してと手を伸ばした。手には百円ライター。とっても嫌な予感。幽霊にはドレスなど必要ないから燃やしてしまうつもりか。
「なーにびびってるんだか。早く寄越しなさいって。値札は取った? じゃないと値札まであの世に付いてっちゃうからね」
 賀茂さんは僕の手からドレスを引っ手繰ると唇に人差し指を押し当て呪を唱えた後、百円ライターでドレスに火を点けた。ぼっと燃え上がったドレスに麻利亜さんが「あっ」と声を上げた。
 賀茂さんは構わずにドレスを焼く火を見ていたが、手が炎に触れる前にドレスをバケツに投げ入れた。ドレスはバケツの中で燃え続けて黒焦げになった。
「あの、賀茂さん、僕の自己満足とは分かってるけど、それ、結構高かったんですよ」
 その結構高かったドレスを目の前で焼かれた僕は脱力した。賀茂さんはやっぱりサディストだ。
「大事なプレゼントを焼かれても怒らない、田中っちはやっぱり温厚な吸血鬼だね。麻利亜さんが憑いて来る訳だ」
「今、ちょっと怒ってますけど」
 そうなの? 八の字眉毛の人は怒っているようには見えないで損だね、と賀茂さんは僕を指差し、その指をゆっくりと僕の隣に移動した。「はい、鴇色のドレスの麻利亜さんの出来上がり。どうよ、文句ある?」
 あらまあ、と声を上げて麻利亜さんが鏡に姿を映している。血の染みはそのままだが、いい具合にアートな模様になっている。ドレスの裾を摘んだ麻利亜さんはくるっと一回りして、素敵、と吐息をついた。
「これは宝子にプレゼントを買ってくれたお礼よ。麻利亜ちゃんも幽霊とは言え若い女性だものね、たまにはお洒落もしたいでしょう。また田中っちに服を買って貰いなさい。いつでも着換えさせてあげる」
 あら、このドレスで充分です、と麻利亜さんは言っているが、こんな事が出来るなら、僕としてはもっと服を買ってあげたい。男って馬鹿だなとしみじみ思う。今度はドレスに似合う真珠のネックレスを買おう。
 宝子ちゃんは謙信が持ってきた超特大のケーキを頬張るとオネムになった。ミツミネが抱っこをしたまま宝子ちゃんを私室に運んで行った。
 麗しい家族の姿だが、賀茂さんは残ったケーキを凄い勢いで食べている。他に食べる人間がいないから仕方がないのだが、相変わらず見ているだけで胸焼けする光景だ。
 ミツミネが戻って来ると「ちゃんと歯を磨かせた?」「パジャマに着換えさせた?」と聞いている。
「おおばばさまとばばさまが可愛い服だと誉めるものだから今日は着換えないで寝ると言い張ってそのままだ。歯は私が電動歯ブラシで磨いてやった。今夜からクマのプーさんを抱いて寝るそうだ」
 あらそう、じゃあ、私も寝る、と賀茂さんはさっさと私室に引き上げて行った。
 六畳二間は幽霊がたむろしているが四畳半は結界を張ってプライベート空間にしているらしい。ここに入れるのはおおばばさまとばばさま、ミツミネと謙信だけだ。
 ただでさえ霊道が通っていて幽霊の多いアパートだ。わざわざ幽霊ぎっしりの賀茂さんの私室に入ろうとは思わない。魂の浄化を待っているらしいが、僕は麻利亜さんの霊だけで充分だ。
 クリスマス気分が抜けると世間はあっと言う間に忘年会と新年会に突入する。僕は『世界文献社』全体の忘年会とオカルト雑誌編集部の二つに参加した。『世界文献社』のトップは勿論、吸血鬼だ。
 社内の忘年会は会議室でオレンジジュースにお菓子だけのあっさりしたものだった。後は気の合う面々で夕方の街へ繰り出してくれ給え、と岩崎さんは挨拶も五分で済ませた。
 大正生まれの若い吸血鬼だが外見は三十代後半。先の太平洋戦争で一番辛い目に遭った世代だ。経歴は『世界文献社』初代の孫娘の婿。六大学の内の一つの大学を卒業している。
 これは本当だ。人間の娘と結婚した吸血鬼だ。切れ者だが『世界文献社』が目立たぬように、さりとて潰れぬように腐心している。
 集った人間の若い社員達は五分で散会した忘年会にほっとしている。皆、これから気の置けない仲間と飲みに行くか、一人でゲームを楽しむか、海外旅行の計画をたてている。
 オカルト雑誌編集部でもこの流れで、ビールを乾杯して終った。来年あたりは会社主催の忘年会も新年会も行われなくなるだろう。良い悪いは別として、退社後まで付き合う必要はない、が若い世代の風潮だ。
 門松が立てられた玄関を通って外に出た。門松は冥土の旅の一里塚らしいが不老不死の吸血鬼には関係ない。
 いかにもサラリーマン風の僕と鴇色のドレスを着た麻利亜さんは上野のアメ横の賑わいを眺めに行き、それからゆっくりと帰宅した。途中で霊感持ちらしい人間が一人フリーズしていた。脅かして御免。
 年末年始は探偵社も休業だ。宝子ちゃんがアメリカのイエローストーン国立公園の狼を見たがったので旅行会社を訪れたのだが、既にアメリカ行きの飛行機は満席だったそうだ。
 『バイオ・ハザード』社傘下の旅行会社に頼めばチケットは必ず手に入るのだが、アウトロー吸血鬼退治の後に書かされた「以後御内密に云々」の誓約書に従っているものと思われる。
「賀茂さん、今度旅行の予約をする時は僕に任せてよ。僕の名前でチケット取るよ。『バイオ・ハザード』社なら必ず空席を確保するからね」
 宝子ちゃんががっかりしているので提案したのだが、
「気に掛けてくれて有り難いけど、急にイエローストーン公園何て言い出した宝子が悪いんだから。次ぎは一年前に予約を取るようにする」とあっさり諦めた。
 賀茂さんならアメリカに行こうとしているどこかの家族の気を変える手段を持っているだろうが、そのような自分本位な目的で霊能力を使うのは霊能力者としてはやってはいけない行為なのだそうだ。
 中にはそれを悪いとも思わずに日常的に霊能力を使う者もいるが、魂のステージが下がって悪い霊に取り憑かれる。
「自分は人より運がいい、何となく相手の心が分かる、っていういわゆる勘がいい人。自分で気付いていない人が特に危ないね。本当は霊能力がないのに能力がありそうに振舞っている人も要注意。悪霊はちょっとした心の隙間を狙って来るからね。田中っちは霊感持ちの吸血鬼だけど、霊感があるだけで霊能力はこれっぽっちもないから安心だね」
 慰められているのか馬鹿にされているのか微妙だ。僕としては霊能力なんていらない。
霊感もいらない。但し、麻利亜さんには除く。
 年末年始はどこへ行っても込むので自室で静かに過ごした。僕と麻利亜さんはDVDを借りて映画鑑賞、ミツミネは宝子ちゃんに将棋を教えている。賀茂さんは寝正月。
 謙信はおせち料理を並べた後、おおばばさまとばばさまのお供で初詣に行った。おおばばさまとばばさまは霊体だから混雑も関係ないだろう。私室にいる幽霊も引き連れて行ったのでアパートも森閑としている。
 一階の人間達も帰省したらしく静かなのはいいが、幽霊達に参拝される神様の心境や、いかに。神様から見たら生者も死者も同等なのかも知れないが。

赤ん坊の取り違え

 DVDの見過ぎで目が疲れた僕は正月休みが終って出勤する時、危うく黒のコンタクトレンズを入れ忘れるところだった。麻利亜さんは幽霊だから疲れない。見たホラー映画の半分はB級だった。韓国ホラーが結構面白い。
 探偵事務所も始動している。去年からの持ち越し案件だ。依頼は素行調査。ストーカー関係ではないから引き受けている。
 探偵事務所はストーカー、殺人、と警察が絡んで来る依頼は総て断わっている。なぜなら探偵事務所自体が人には言えない手段を取っているからだ。
 依頼者は七十代の夫婦で、名前は橋本、四十代の息子と娘がいる。息子の方に生まれた初孫に疑義あり。成長したら両親に似ておらず、DNA鑑定の結果、他人の子と判明した。
 産院を問い詰めたら赤子の取り違えを認め、現在裁判中だ。もう片方の夫婦はショックを受けこそしたが、子供の交換までは考えていない。
 橋本氏は中堅どころの精密機器の会社を経営しており、出来れば孫に会社を継がせたい。片一方の夫婦、川端家は長野に住んでいて母親が保育士、父親は貧乏寺の住職だ。両家の収入にはかなりの隔たりがある。
 橋本氏の孫は夢見がちな美術系で、川端夫婦の息子は理系で優秀。どちらが欲しいかと言えば取り違えられた実の孫だ。手元にいる孫では将来会社を潰しかねない。
「美術系だから会社を潰す、とは限らないのではありませんか。会社を継ぐと決まれば心構えが違って来るものです。それに、相手方は子供の交換を望んでいないのでしょう?」
 賀茂さんが言って聞かせたが、会長夫婦は納得していない。始めは今更、と言っていた息子夫婦も会長夫婦に煽られて子供交換に傾いている。実子がどうしようもないアホなら拘泥しなかった筈だ。
「隣の芝は青く見えるの典型だね。理系に強いのが遺伝のせいだとは限らない。親戚一同美術系でも医者や科学者になる子はいるからね」
「で、素行調査は誰が対象なんだ?」と僕が尋ねると「理系君」と返事が返って来た。
 どんな子なのか見極めて欲しい、が希望だ。期待通りの子なら是非取り戻したい。反対から言えば、期待外れならいらない。実に勝手だ。
「美術系君は既に事実を知らされていて、美術系っぽく悩んでいる。太宰みたいに『生まれてきて御免なさい』の心境だろう。あの子には何の罪もないんだけど、元々厳格な祖父だからね、今は針の筵だ。自殺でもされないように自殺者の霊を見張りに憑けてある」
「はあ? 自殺しそうな少年に自殺者の霊を憑けるって、どういうこと?」
「その幽霊は自殺した事を後悔しているから、危ない時には私に知らせて来る」
 なーるほど。幽霊使いが荒いと言うか、適材適所と言うべきか。人助けで肩の荷を降ろした霊が行くべき所へ行けるならお互い良好な関係と言うべきか。
「そう言えば、賀茂さん、以前監禁されていた女の子に彼女のひいおばあちゃんの霊を守護の為に憑けた事あったよね。その後どうなった?」
「ああ、日向ちゃんね。二度SOSがあったから御札を飛ばして悪霊を追っ払ったよ。今は手厚いケアを受けて段々回復しているようだ。ああいう特殊な経験をした子は狙われ易いからね」
「長崎に行った愛理ちゃんは?」
「小さい子は順応力があるからね。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに可愛がられて長崎にも馴染んでいる。猫探しに一人で探偵社を訪ねて来るくらいしっかりした子だ。母親の守護霊もついている。何かあったら連絡を寄越すだろう。心配ない」
 賀茂さんはしっかりアフター・ケアもしている。但し、世間的には何の評価も受けないし、ただ働きも多い。本物の霊能者の方が稼ぎが悪い。皮肉なものだ。
 理系君の素行調査は二週間。費用は充分払う、と言われている。『三峯探偵社』の他の探偵社にも同時に依頼しているので、今回ばかりは霊視では済まされない。謙信が出向いている。
 それで呑気にミツミネは宝子ちゃんと将棋をし、賀茂さんはソファーで寝ている。もっとも寝ていると見えてもどこかに霊体を飛ばしている可能性もある。案の定、昼過ぎにひょっこり起き上がった賀茂さんは「海上自衛隊に入隊したんだって」と元受け子君の現状を伝えて来た。
 海自の任期は三年、正式に二年九ヶ月だが、陸自より給料がいい。志望理由は単純で、宇宙戦艦ヤマトが格好いいから。普通、海自の船は空を飛んだりはしないが、男のロマンを追及したいならそれも善し、だ。
 守護霊として憑いている元自衛官は潜水艦勤務だったそうだから影響を受けたとも考えられる。閉所恐怖症でなければいいんだけどね。護衛艦にしろ潜水艦にしろ、ここで降ろして下さい、はない。
「船に乗ったらクジラとかシャチとかイルカにも会えるんでしょう。おとうしゃま、クジラやシャチやイルカの神様はいるの?」
 宝子ちゃんが鴨川シー・ワールドでの疑問を蒸し返して来た。子供は移り気だが、宝子ちゃんはしぶとい。
「宝子、それよりここにその手を打ってよいのかな」とミツミネが問いをはぐらかした。
待ったはなしだ、と将棋初心者の二歳児に対して大人気ない。
 おとうしゃま、ずるいだの、子供相手に少しは手加減をしなさい、とわいわい騒いでいる間に謙信が戻って来た。どこにでもいそうな平凡な大学生の格好をしている。
「保子様、宝子様、もうお食事は済みましたか。お菜はレンジでチンすれば宜しいのですが、なに、ポテトサラダとレタスも一緒にチンしてしまったのですか。ありゃあ」
「だってコンビニ弁当は纏めてチンよ。生温いポテトサラダとレタスも美味しかった。宝子が元気なのも謙信のお陰よね。御馳走さまでした。それで理系君の様子はどう?」
 温めて欲しくない物までチンされた謙信の落胆は横に放って置かれた。ミツミネが苦笑しながら将棋の駒を片付けている。
「ここにいても詳細は御存知でしょうに。私はただ探偵のふりをしているだけで御座いますから。確かに他の探偵社にも調査を依頼しておりまして、バッティングしないようにするのがもう大変でございます。あちらにも多額の調査料を払うと約束されたそうで、力の入り方まで違うようです」
 川端家は真実を知っても十数年実の子を思って育てて来た子を手放したくない。実の子にも会いたい。まだ写真でしか見ていないが面差しが母親に似ている。
「解決策としては両家で親睦を深めて子供が好きな時に行き来できる事が最良だと思うけど、橋本家は貧乏人とは付き合いたくないようだね。子供を交換する気でいる。遺伝的には理系君は実子だからね。騒動が勃発してからの理系君は来年の大学受験を控えて物事をクールに考えているようだ。中堅精密機器の若社長に納まるのも悪くはない、とね。ある意味、将来社長に納まるべき人物だろう。『三峯探偵社』としてはもう一つの探偵社と同じように問題なし、と報告する。そうなれば理系君は晴れて社長の息子、会長の孫だ」
 これは当事者同士の問題であって、ウチがどうのこうの言う事ではないからね、と賀茂さんは付け加えた。
 橋本家は川端家が固辞したにも拘らず、今までの養育費として少なからぬ金を払い、以後理系君との接触の禁止要請をした。美術系君はお払い箱として川端家に帰された。
 橋本家にとってはお払い箱だが、川端家にとっては大事な実子だ。自分と良く似た息子を母親は赤飯を炊いて迎えた。橋本家では盛大なパーティを開いて帰って来た理系君をお披露目した。
 話はそれから半年後になるが、ある日、宝子ちゃんが僕の部屋を訪れてパソコンを起動するようようにせがんだ。
「あれ、宝子ちゃん、自分のパソコン持ってるでしょう」と僕が問うと宝子ちゃんは父親譲りの黒豆みたいな目をくりくりさせた。
「おじさんに見せてあげたいブログがあるんです。早くパスワードを打ち込んでね。宝子、後を見て見ないようにしているから」
 何だか分らないが僕ははいはい、と答えてパスワードを打ち込んだ。その気になれば宝子ちゃんはパスワードくらい見抜けるだろうが、賀茂さんのように勝手に僕のパソコンを起動したりはしない。
 自分のパソコンの調子が悪いと賀茂さんは僕のパソコンを使って調べ物をするが、その度に設定をぐちゃぐちゃにする。「お気に入り」が全部消えてしまうのもザラだ。
 起動したノート・パソコンを器用に操って宝子ちゃんはブログを表示させた。『信州 彩の森』。精密で美しい風景画が並んでいる。
「これね、川端祥治って人が一ヵ月前から始めたブログなの。まだ高校三年生なんだって。このブログを見ている人の中にはプロの画家さんや大学の美術の先生もいるんだよ」
 ん? 美術、川端? 下の名前は知らなかったが、あの美術系男子か?
「橋本さんの家にいた頃は絵を描いて何になるんだ、って言われて萎縮してたんだけど、川端祥治君になってからは好きなように絵が描けるようになったんだって。お母さんが綺麗だね、って褒めてくれるんだって。学校が終るとお絵かきの道具を持って出掛ける、って書いてあるよ。毎日が楽しい、って」
 橋本から川端に変わった経緯までは書いていないが、これは間違いなく美術系君だ。
「ねえ、おじさん、綺麗な絵でしょ。お気に入りに登録しておいてね」
 僕は絵画に関しては素人だが、祥治君の描く信州の風景は美しい、と思った。麻利亜さんが夏休みには信州に旅行へ行きたい、と騒いでいる。まったくもう、すぐ感化されるんだから。
 宝子、おじさんの部屋に入っちゃ駄目よ、と賀茂さんが迎えに来た。自分は勝手に侵入して来て勝手に人のパソコンをクラッシュさせるくせに、よく言うよ、だ。
「川端家はあまりお金がない家だから理系君がいる時からを大学進学資金で頭を悩ませていたみたいだけど、病院から示談金が出たので資金の心配はなくなったみたいよ」
 賀茂さんは宝子ちゃんを抱き上げて、ああ重い、と大袈裟に溜息をついた。普通の二歳児より中身が詰まっていて重いんだそうだ。宝子ちゃんの中身は規格外だ。
「病院の示談金だけ? 橋本家からもお金が入ったんじゃなかったっけ?」
 ああ、あれね、あれは送り返した、とあっさりとした答えが返って来た。川端家では養育費など貰うつもりはこれっぽっちもない。ただ、我が子を信じて育てた理系君と今後会えないのが寂しい。
 理系君は経済的に余裕のない川端家より金持ちの橋本家を選んだ。今は有名な予備校に通って受験勉強に励んでいる。
「理系君は計算高い人間だけど、だからと言って非難されるものではない。目の前に有利な条件がぶら下っていたらそちらを取るのは悪い事ではない。結局、二人とも居心地のいい場所に落ち着いたんだから、ハッピー・エンドじゃないの」
 新進気鋭画家と若社長か、と唸っているから賀茂さんには将来の二人の姿が見えているのだろう。しかし、いつも賀茂さん自身が言うように未来は不確定。二人の青年の未来はまだ始まったばかりだ。
 僕は『信州 彩の森』をしっかりお気に入りに登録し、パソコンに「麻利亜さん以外勝手に触るな。特に賀茂さん」と書いた紙を張り付けておいた。時々通りすがりの幽霊も勝手に起動している模様。一体、何を見ているんだろう。

『やすらぎ葬儀社』

 夏頃入った依頼は『やすらぎ葬儀社』に勤務している山口とはどういう人物かを調査して欲しい、という内容だ。依頼人は山口の元妻の再婚相手だ。
 どうやら離婚は成立し、元妻は他の人間と再婚するつもりでいる。再婚相手の男は元夫である山口に興味を持ったらしい。こちからかすればまったく厄介な男だ。
 山口こと「ぐっさん」は調査部でアウトロー吸血鬼が引き起こした殺人事件の死体隠蔽工作をしていた。これが事実。表向きは『バイオ・ハザード』社系列の葬儀社に勤務している。
 『バイオ・ハザード』社本体は世界中に網を張り巡らせた巨大企業だが、その実態は巧妙に隠蔽されていて一般の人間には伺い知れないブラック・ボックスのような企業だ。
 他の探偵社が調査しても『バイオ・ハザード』社には行き着かないだろうが、もしや、の場合もある。電話を受けた賀茂さんはすぐに「あのぐっさん」と気付いた。
「『やすらぎ葬儀社』の山口さんの事を調べて欲しい、とはまたどういうお気持からでしょうか。元夫がどんな人物であったか、奥様になられる方から離婚に至った経緯は聞いていらっしゃるでしょう。山口さんが何か言って来ましたか」
 賀茂さんは事務机の椅子に座ったまま貧乏揺すりをしている。
 ぐっさんも離婚するまで随分時間が掛かったものだ。僕は結婚した経験がないから分らないが、結婚する時より離婚する時の方が時間も労力も掛かると聞いている。
 子供がいなかった分、後腐れなく別れた筈だが、まだ問題が残っているのだろうか。賀茂さん情報では法律的問題は総てクリア済みだ。
 いえ、特別には何も、と再婚相手の神崎氏は否定した。神崎巽三十八歳。地方公務員だ。ぐっさんより一歳年上で、こちらも離婚歴あり。
 但し、前の結婚生活は半年で終った。理由は性格の不一致。子供はいない。趣味はバイクのツーリング。ぐっさんの元妻とはツーリング仲間を通して出会った。賀茂さんが情報を頭の中にぶっ込んで来た。
「これから僕の妻になる人、冬実さんという名なんですが、彼女の話では山口さんは葬儀社に勤めているそうなんですが、出張が多くて月の内一週間も家にいればいい方だったそうです。彼女も働いていますからね、遠距離交際みたいだった、と言っていましたよ。それで帰って来るといつも血と腐敗臭と土の臭いがしたそうです。臭いで夫の浮気に感づく程女性は臭いには敏感ですからね。僕もこの歳ですから何回か葬儀に参列した経験がありますが、葬儀場って線香の香はしますが、血と腐敗臭と土の臭いなんてしませんよね。死体遺棄現場にいた、というなら別でしょうが」
 そう言われてみれば元同僚の高橋はいつも薬品の臭いがする。ほんの微かな臭いだが、職業柄身に付いてしまう臭いもあるのだろう。
 つまり、山口さんが何らかの犯罪に係わっているのではないか、とのお考えですか、と賀茂さんが更に貧乏揺すりを激しくした。事務机がかたかた鳴っている。
「犯罪に係わっているかどうかまでは分かりませんが、疑問その一。葬儀社勤務なのになぜ全国に出張しているのか。疑問その二。なぜ妙な臭いをさせて帰って来るのか。冬実さんは山口さんのそんな所が嫌だった、と言っています。もし山口さんが何らかの事件に係わっていたとしたら警察に相談するのが国民の義務です。給料は『やすらぎ葬儀社』からきちんと払われていて、特別手当も支給されていたそうで、基本給より特別手当の方が多かったそうです。疑問その三。なぜ特別手当が異常に高いのか、です。公務員の給料に比べたら山口さんは高給取りですよ」
 成る程、僕も調査部で働いていたら高給が頂けたのか。しかし僕はアウトロー吸血鬼の探索や被害者の死体を隠蔽する仕事はしたくない。スプラッタは映画の中だけで充分だ。
「一度疑問を抱いたら追求したくなるのが人間の性ですね。承知しました。山口さんの行動調査をお引き受けします。当社では一週間の調査費として基本料金二十万円、諸経費は別途加算させて頂きます。着手金なしの成功報酬制です。よろしいですか?」
 賀茂さんは調査を引き受けてしまった。他の探偵社に依頼して『やすらぎ葬儀社』を突っついて『バイオ・ハザード』社まで行き着かれて困るので、この場合はよくぞ『三峯探偵社』に依頼して頂いて、と感謝すべきだろう。
 もっとも『バイオ・ハザード』社はバイオ関係の会社というゆったりした情報しか公開していない。訪問客はないし、あったとしても青い薔薇を見学させられるくらいだ。ここが吸血鬼の日本支部総本山である事は秘匿されている。
 未だに人種だ、民族だと差別意識が抜けない人間相手に吸血鬼の存在を知られてはならない。大した力を持っているわけでもない僕らはあっと言う間に殺されてしまうか、不老不死の実験動物にさせられるだけだ。
 神埼氏が帰った後、一応、山口に連絡しておく? と聞くと賀茂さんは、そうだね。暫く大人しくしておくように、と答えた。二年半前のアウトロー吸血鬼退治で吸血鬼のシリアル・キラーはいなくなった。ぐっさんは新しい吸血鬼が生まれたかどうかを調査しているに違いない。
 真性の吸血鬼しかアクセス出来ない電話番号で『バイオ・ハザード』社に連絡を入れる。調査部をお願いします、と言ったのに、元上司兼家主の小林課長が出て来た。古墳時代の吸血鬼だが、見かけは僕より若い。
「おお、田中君、久し振りだね。アパートの住み心地はどうだね?」が第一声だった。
「お墓の傍で快適ですよ。霊道が通っていて幽霊だらけ。お陰で真夏でもクーラーいらずです」
「れいどう? それは何だね」
 古墳時代の方が現代よりもっとスピリチュアルな事に親しみがあった時代に思えるのだが、その時から霊感なしの吸血鬼だったのだろう。
「幽霊が使う道ですよ。二階の北東から南西に通ってます。お盆の時期には特に幽霊がぎっしりです。って言うか、何で課長が出て来るんですか。僕は調査部に繋いでくれ、って言ったんですけど」
「調査部は社内でもシークレット部門だから直通という訳にはいかないんだよ。君からの電話は僕に回して貰っているんだ。どうだね、その後。賀茂さん一家とはうまくやっているかね。」
 うまくやっているどころか便理に使われている。依頼がある度に叩き起こされて、寝不足気味だ。しかし、それが苦かと問われればそうでもない。
 賀茂さんのお嬢ちゃんも大きくなっただろうね、と飽くまで課長は呑気だ。僕は世間話がしたくて電話したのではない。
「お嬢ちゃんは現在ユダヤの数秘術を勉強中ですよ。三歳になったら『三峯神社』に出仕するそうです。それよりですね、調査部主任補佐の山口君の事なんですが」
「調査部の山口君? ああ、ぐっさんね。離婚調停に時間が掛かったみたいだけど、今は元気にやっているよ。そのぐっさんが何か?」
「賀茂さんとミツミネが探偵社を始めたのは知ってますよね。その探偵社にぐっさんの行動調査依頼が入りました。調査は適当に誤魔化しますが、暫く大人しくしていろ、と言われています。他の探偵社でなくて良かったですよ。ぐっさんにそう伝えておいて下さい」
 へえ、ぐっさんを調査するって、それはまた何で、と課長が電話口で身を乗り出して来る気配がした。
「元妻の冬実さんが神崎という名の男と再婚するそうで、その神崎氏がぐっさんに興味を持っているんですよ。出張ばかりしていて、帰ると血と腐敗臭と土の臭いがする前夫にね。最悪犯罪に関係しているのでは、と憶測を逞しくしているようですね」
 なに、血と腐敗臭と土の臭いだって? 以前会った時、何も感じなかったけど、と小林課長がなにやら考え込んでいる。
「あのですね、女の人は旦那の臭いで浮気を嗅ぎつけるくらい敏感なんだそうですよ。敏感なくせに化粧品とか香水の臭いを振り撒いてますけどね」
「テレビで体や服に染み込んだ臭いを消す消臭剤の宣伝をしてるじゃないか。それでも駄目なのか? ほら、焼肉の後に服にしゅしゅっと吹きかけるやつとか、加齢臭対策用の消臭剤とか」
 調査部の連中が消臭剤を使っているかどうか何て知りませんよ、と僕は言い返したついでに自身の臭いを嗅いでみた。自分では分らないがオヤジ臭がしているのかも知れない。
「とにかく、ぐっさんには自分がマークされていると伝えておいてくださいよ。マークしてるのはウチですから後を付けたりはしませんけどね」
「ほう、君も賀茂さん一家をウチと言うようになったのか。店子同士仲が良いとは大家としても安心だ」
 じゃあね、で電話が切れた。相変わらず能天気な元上司だ。あなた、疑われていますよ、と直接ぐっさんに連絡を入れたいが、僕は住所も電話番号も正確な年齢も知らない。
 吸血鬼情報は二千一年成立の『吸血鬼個体情報保護法』によって守られている。芋蔓式に吸血鬼の情報が漏れないようにする為だ。
 基本的には「一緒に飲みにいこうぜ」もない。上京する度にアパートにやって来る元同僚の高橋は例外的存在だ。他の同僚には僕の事は喋っていない筈だ。
 じゃあね、で終ったスマホを見詰めていると賀茂さんがくくく、と笑った。
「相変わらず頼りになるのかならないか分からない御仁だね。でも今までの経緯では色々と手を尽くしてくれたのは確かだ。ぐっさんに連絡はしてくれるだろう。なにしろ血液製造の責任者だからね。まさに『バイオ・ハザード』社の心臓部だ。こばちゃんは案外大物なのかもよ」
 賀茂さんの頭の中では『バイオ・ハザード』社の組織図がくっきり見えている。その気になれば世界中の吸血鬼の炙り出しさえ可能だろう。霊能者はハッカーみたいなものだ。
「ハッカーって、それはちょっと失礼じゃない? 優秀な霊能者はCIAとかKGBにも力を貸しているそうじゃない」
 CIAにKGBですと? それってどこから仕入れたネタですか。まさか、我が『世界文献社』のオカルト雑誌からじゃないでしょうね?
 とにかく、と賀茂さんは咳払いをした。やっぱりオカルト雑誌を読んでいる?
「今頃『やすらぎ葬儀社』のトップはデータの改竄を始めている。裏出勤簿だな。ぐっさんは新店舗開発の為に全国を飛び歩き、支社の営業が軌道に乗るまでその場所に滞在している、って役割だね。調査部で実際に出張していたんだから問題ないし、本人も元妻にそう説明していたんでしょ? 何を今更、だね。年中出張なのも給料がいいのもこれで説明がつく。臭いに関しては元妻の冬実さん自身の体臭だ、と言ってもいいけど、それでは可哀相だから病院へ行って貰おうか。ストレスによって異臭を感じるタイプの人もいるからね。『バイオ・ハザード』社の息の掛かった病院は?」
 吸血鬼が院長と事務長をやっている病院は全国に何箇所かある。東京では××病院だ。政界のお偉方も入院する有名病院だ。
 高橋もこの病院で余命三ヶ月を宣言され、表面上は鬼籍に入った。葬儀社は当然『やすらぎ葬儀社』で行われた。
 昔は土葬だったから仮死状態の体を棺桶に入れて土を被せ、後から掘り起こせばいいだけだったが、今は手続きがややっこしい。医師の診断書やら火葬許可だの墓地の手配など、何段階も踏まなければ死者とは認められない。既婚者は特に面倒だ。
「××病院は大病院だから紹介状がないと駄目じゃないかな。今はそういうシステムでしょうが」
 ああ、面倒臭い、と賀茂さんは僕がそのシステムを作った張本人であるかのように睨んで来た。
「どこか紹介状を書いてくれる個人病院の心当たりは?」
「××病院で働いていて開業した医師なら沢山いるよ。そこで紹介状を書いて貰えば? 人間の医者だけどね。異臭がする、となったらまず耳鼻咽喉科を紹介してくれて、どこも悪くなかったら心療内科へでも回されるだろうね」
 じゃ、それで決まり、と賀茂さんが宣言した。冬実さんの頭の中に「ひょっとしたら私の鼻がおかしいのかも」の疑問の種を撒くつもりだ。種どころか爆弾かも知れない。
 そして一週間後の土曜日の午後、神崎氏が再び探偵社に来た。浮かない顔をしている。
「田中っち、お客様にコーヒーをお願い」と賀茂さんは相変わらず僕をお茶汲み扱いだ。
 今回は特別なお茶ではなく瓶入りのインスタント・コーヒーだ。たまにしか使わないからしけっている。僕が飲むのではないからか構わないが。
「こちらが山口さんの行動調査結果です。現在も『やすらぎ葬儀社』にお勤めです。これから先、老人人口が増えるのを見越して支社設立の準備にチーフとして奔走しておられます。御存知かとは思いますが、団塊の世代がこれから大量に亡くなります。最近は直葬の希望も増えているそうですが、都市部では火葬場が混んでおり、一週間待たされる事もあるそうです。派手な葬儀はなくなるかも知れませんが、火葬場の順番待ちの間の御遺体の保管と搬送、これはやはり葬儀社に任せるしかないでしょう。御自宅の大型冷凍庫に保管しておいて、火葬の順番が来たらダンボールに詰めて自家用車で運び込む。これなら葬儀社の手を一切煩わせることなく終わりますが、さすがにそこまでなさる方はいらっしゃらないでしょうね。つまり団塊の世代、団塊ジュニア世代までは葬儀社の需要が見込まれます」
 賀茂さんが捲くし立てている最中、何を言ってるんだか、の部分もあったが、少子化、しかも生涯未婚率を考えると結婚式場よりは葬儀社だろうね、多分。
「はあ、それで山口さんは今どこに?」
「詳しい事は申し上げられませんが、博多を拠点に九州で調査を行っている最中です。部下と一緒にビジネス・ホテルに滞在しておられます。予定では十日後には東京に戻られるそうですよ。葬儀社に勤める人物が殺人犯。サイコ・ホラー映画にありそうな設定ですが、それはないと思います。社内でも評判も良く、趣味はプラモデル。休日は一日中部屋に籠っていらっしゃるそうです」
 ははあ、冬実さんもそう言っていました、プラモが出来上がるまで部屋から出て来なかった、それが不満の一つだったそうです、と神崎氏が頷いた。
「ここにおります田中が博多まで飛びまして行動調査を致しましたが、犯罪に繋がるような行動は一切なかった、と申しております」
 え、僕がいつ博多に行ったんですか、と反論しようと思ったが無視された。
「では、血と腐敗臭と土の臭いがするというのは……」
「社員の方にそれとなくお話を伺いましたが、山口さんは職業柄気を使っていて、退社時にはお線香の臭いを消す為に社員用のシャワーを使っていらっしゃるそうです。それでも加齢臭は残るかも知れませんね。何でも独特な脂臭い臭いだそうで」
 僕と神崎さんは同時に自分の服の臭いを嗅いだ。アラフォーともなれば加齢臭か。まいったな、これから風呂に入った後はコロンでも振り撒くか。テレビで見た加齢臭対策用のボディ・ソープと男性用コロンのCMが頭に浮かんだ。
「あ、あの、私もその加齢臭とやらが? 最近、何回も使った食用油の臭いがする、と冬見さんに言われまして。自分でもおかしいな、と思うくらい周りの臭いが気になるそうです。この前なんか、すれ違った男性からトイレの洗浄剤の臭いがするとか、赤ちゃんから生魚の臭いがするとか……」
「男性ばかりでなく、女性も加齢臭を発しているそうですが、女性の場合は化粧品の臭いで誤魔化しているそうです。自分も加齢臭を発しているのに旦那様の体臭をあれこれ言うのは感心致しませんね。冬実さんは特に臭いに敏感な方なのかもしれません。これからの結婚生活の為、耳鼻咽喉科に御相談なさってみてはいかがでしょう。内分泌系の乱れもあるかも知れませんしね。外国では癌患者の発見に犬が使われていると聞きました。がん患者には独特の臭いがあるそうですね。わたくしどもは医者ではありませんから軽々に申しあげる事は出来ませんが」
 虚実・飛躍を取り混ぜて賀茂さんは耳鼻咽喉科まで話を引っ張って行った。そうそう、○○耳鼻咽喉科がいいお医者さんだと聞いています、と情報をインプットする事も忘れない。○○耳鼻咽喉科は××病院に紹介状を書いてくれる医院だ。
 今や神崎氏の関心はぐっさんにはない。ひょっとして冬実さんが味覚障害ならぬ臭覚障害を患っているかも、と思っている。
「後日請求書をお送りしますので、調査に御満足頂ければ振込みをお願いします。当社では満足頂けない場合の料金は頂きません」
「いえいえ、充分満足しています。どうやら冬実さんの勘違いのようです。それで、先ほど名前が出た医院はどこにあるのでしょうか」
 田中っち、グーグル・アースの地図を、と言われて僕はパソコンに表示された医院までの道順をプリントして渡した。
 神崎氏はぐっさん情報並べた報告書をそのまま置いて帰った。ぐっさんの件はこれで落着だ。
 数日後、ぐっさん自身から探偵社に電話が入った。電話口でくしゃみを連発している。遠く離れた相手にもアレルギーを再発させるとは、賀茂さんパワーは凄まじい。
「小林課長から連絡を貰ってびっくりしました。冬実が僕を殺人鬼かも、と思っていたなんて、信じられません。しかも賀茂さんの事務所に調査を依頼するなんて、奇遇と言うか悪夢と言うか。とにかく、誤解が解けて安心しました。有難うございます」
 これだけ言う間にぐっさんは派手なくしゃみを何回も繰り返した。電話口からこちらへ飛沫が飛んで来そうな気がするくらいだ。
いいえぇ、お蔭さまでこちらも一ヶ月は仕事をしないで済むくらいの報酬を頂きました、と笑いを抑えながら答えている。
「次に人間と結婚するなら『亭主達者で留守が良い』の女性を選ぶんですね」
「いや、もう後百年は独身でいたい気分です」
 やっぱり離婚は大変なイベントらしい。
「それで、本来の調査部の仕事はどうなの?」
「アウトロー吸血鬼がいなくなったので暇ですよ。新しい吸血鬼が生まれた、という情報も入っていませんしね。今は葬儀社が本業です」
 それはストレスなしで結構ですね、と賀茂さん。二人はその後二言三言儀礼的な言葉を交わして電話を終えた。最後に一際大きなくしゃみ。ぐっさんはティシュ・ペーパーを大量に使用したことだろう。可哀相な気もするが笑える。

夏休み

 夏休み、僕と麻利亜さんはレンタカーを借りて信州旅行をした。賀茂さん一家はハワイ旅行だ。さすがに黒のライダー・スーツを脱いでTシャツと短パン姿だ。
 おおばばさまとばばさま、謙信も一緒だ。謙信はいつの間にか戸籍とパスポートを取得して若いあんちゃんに化けている。
 ニホンオオカミと兎が海外旅行をするのは前代未聞だ。この分では外来種も日本に入り込んでいるのだろう。日本政府のセキュリティの甘さに嘆息せざるを得ない。
 僕は特に信心深くはないが、パワー・スポットといわれている善光寺や戸隠神社を巡って歩いた。戸隠神社は見所が多い。
 麻利亜さんのお気に入りはいかにも女子らしく小布施の『栗の木テラス』や信濃町の『童話館 童話の森ギャラリー』だった。ギャラリーではミヒャエル・エンデのコレクションが見られる。
 お土産は小布施堂の落雁と野沢菜漬。落雁は賞味期限が長い。僕と麻利亜さんはその土地ならではの美味しい物が食べられない。お土産は会社の同僚と賀茂さん用だ。大量に買った。
 一方賀茂さんのハワイ土産はアロハシャツと「はわい」と日本語で書かれたTシャツだった。アロハシャツは派手だし、日本語で「はわい」と書かれたTシャツはジョークだろうが幾ら何でもダサい。英語で書いてあってもダサい。
 同じ日にアパートに戻った賀茂さんと宝子ちゃんは野沢菜漬を細かく刻んだ握り飯を謙信に作って貰って食べている。ミツミネは落雁に興味を示し、仲間を一頭呼び寄せると大口真神に献上させた。さすがにアロハシャツとTシャツの献上はなし。
「ハワイは日本のように湿気がなくて過ごしやすかったぞ。おまけに日本語が通じる。難しい交渉は宝子が英語でしてくれたしな」
 初海外のミツミネは、現地で買ったらしい定番の椰子の木のデザインのアロハを着て妻子がお握りをぱくついているのを満足気に眺めている。他の神社の神使い達はいざ知らず、海外旅行をした神使いはミツミネと謙信くらいなものだろう。
「謙信はもう大感激で、飛行機の中から大はしゃぎして、ハワイの海を見て泣いていたんだよ。こう言っちゃ何だけど、『湯倉神社』の神兎様にお使えしていたら外国へは行けなかっただろう、ってね。あ、謙信、お握りはもういいから、神兎様の所へも落雁をお届けしたら?」
 えっ、よろしいのですか、と謙信は手を止めた。他の仲間に自慢したいだろうね、多分。ほら、野沢菜漬も持って行きなさい、と鷹揚なところを見せた賀茂さんは落雁二箱と野沢菜漬数袋を持った謙信の襟首を掴むと宙に放り投げた。
 ひえーっ、と叫び声を引き摺りながら「はわい」とか書かれたTシャツ姿の謙信が事務室から消えた。折角信州で命の洗濯をしたのに、帰宅してそうそうワンダー・ランドだ。
 行ったはいいが帰りは、と聞くと、玉の緒は名付け親の宝子ちゃんに繋がっているからそれを引っ張ればいいだけよ、と答えが帰って来た。賀茂さんだけには玉の緒を握られたくないものだ。やること総てが乱暴だ。
「ところで、おまえは信州で何を憑けて来たのだ」とミツミネが僕の頭の上を指した。
「何をって、何ですか」
「だからそれだ。『戸隠神社』へ行ったな?」
「天岩戸が飛んで来て戸隠山になった、っていう伝説があるそうだよ。赤い朱塗りの随神門が圧巻だったね。パワー・スポットらしく中社は賑わってたけど。奥の院、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社の五社があって、御利益もバラエティーに富んでいる。宝光社に行くには二百七十四段の階段があって、麻利亜さんは苦労しなかったけど、僕は疲れたよ。運動不足かな。奥社と『九頭龍社』への道も結構歩いた。『九頭竜社』は『戸隠神社』奥社より歴史が古いそうだよ。社は小さいけど神さびたいい古社だったね。参拝している時に雨がぱらついたけどね。水神様の効能が虫歯にいいって、何でだろう」
 そう言えば、『三峯神社』に行った時も雨に降られた、と言ったな、とミツミネがサングラスの奥の黒豆みたいな目を細くした。
「神社に参拝している時だけ雨に降られるとはな」
「なに、それって神様に嫌われているってこと?」
 僕は急に心配になった。参拝したのに嫌われてはかなわない。吸血鬼に神社仏閣巡りは御法度なのだろうか。
「最近何の影響か知らないがパワー・スポットという言い方が私は嫌いだ。どこの神が力が強くてどこの神が弱いなどということはない。人間の勝手な思い込みだ」
 はあ、と僕は頷いた。これからはミツミネの前でパワー・スポットとは言わないようにしよう、と心に決めた。神様だってあそこは弱くて参拝する価値もない神様だとは言われたくないだろう。
「神社で急に小雨が降ったのはおまえが歓迎されていたからだ。お陰で私の仲間達が押し掛けて来るようになってしまったがな。で、戸隠の九頭龍社ではそれが憑いて来てしまったという事だ」
 え、本当に何が憑いているんだ? 僕は蠅を追い払うように頭の上で両手をぶんぶん振り回した。憑くのは麻利亜さんだけでいい。
 ぽとり、とミツミネの足元に何かが落ちた。へ、蛇! 情けない話だが僕はゴキブリを見つけた女子見たいに大声で叫んだ。1mくらいのそれは「の」の字を描いて鎌首を上げている。

龍女あずみん

「なに、なに、何、これ。ヤマカガシ? まさかマムシ? 僕、ミミズとかハリガネムシとか長くてぐにょぐにょ動くの苦手なんだ」
「失礼な、ミミズでもハリガネムシでもないぞ。われは『九頭龍社』の神使いの龍じゃ」
 へえ、龍ですか。どれどれとじっくり観察すると確かに龍だった……。龍ですと? 龍? マジですか。
 わはは、確かに神使いの龍だ、と賀茂さんが豪傑笑いをしながらそれを摘み上げ、膝の上に乗せた。鋭い爪の生えた四本の短足、全身の鱗、頭の二本の角。日本昔話みたいな龍だ。目がいかにも爬虫類っぽい。
「その神使いの龍が何で田中っちに憑いて来たんだ? 『湯倉神社』の神兎様の神使いと同じ様に東京見物か」
「いや、東京スカイツリーや浅草が見たくて来たのではない」
「さっさと答えないと九頭龍様の元に送り返すぞ」とミツミネが凄んだ。
「それは困る。まあ、順を追って話すから待て。時は今から四千年前じゃ。九頭龍様の使いとして我らは生まれた。その数は百じゃ。その百の中でわれ一人だけ成長が遅くてな。それに」
 こほん、と龍はわざとらしく咳をした。
「末っ子のわれは元々体が小さいうえに病弱でな。他の九十九の同胞が大きくて立派な龍に育ったというのに未だに三尺程しかない。これでは雨を降らせる事も出来ない。九頭龍様はそんなわれにも目を掛けて下さるが、われは他の同胞と同じ様に大きくなりたいのじゃ。どしたものかと考えていたらそこの田中っちとやらがやって来た。そやつは人間ではないが、一緒に暮らしている賀茂保子と宝子とやらは神使いが作った食べ物を鱈腹食ってエネルギーを蓄えているらしい。それならわれも霊験あらたかな食べ物を摂取すれば九十九の同胞と同じ様に大きくなれるのではないか、と思ってな。それでそやつに憑いて来た、という次第だ。保子も宝子も『三峯神社』の縁者と聞いている。それに『三峯神社』でも水の神を祀っておろう」
 私の妻と子を呼び捨てにするな、とミツミネがミニサイズの龍の頭をぽかりと殴った。小さいとは言え龍は龍。いじめたりしたら九十九の同胞が仕返しに来たりしやしないか、と僕は心配になった。
 狼VS龍のバトル。ミツミネ一頭で不利なら他の狼達も馳せ参じるだろう。見たいような、見たくないような。やっぱり見たいかな。
「うぐっ、痛いではないか」龍は器用に身を捩ってローテーブルの上に着地した。見れば見るほど、龍。僕はスマホを取り出すと怒った龍の姿を写真に収めた。
 僕が絵画で見たのは青龍、赤龍、白龍、金龍等などだが、こいつはくすんだ茶色をしている。海の龍と湖水の龍の違いだろうか。それとも本当に成長が遅れている、とか?
「ミツミネ、小さな龍を相手に暴力を振るうのは止しなさい。可哀相に、急いで逃げるエリマキトガゲみたいになっているよ」
 ああ、よちよち、と言いながら賀茂さんは再び龍を膝の上に乗せた。四千年前に生まれた龍も赤ちゃん扱いだ。龍はここぞとばかりに賀茂さんに甘えた素振りを見せた。案外策士だったりして。
「謙信の作る料理が美味しいのは確かだが、竜神様の滋養になるかどうかは分からないな。しかしもっと大きくなりたいと思うなら手伝って差し上げましょう。事務所の正面の部屋が空いているからそこで暮せばいい。人間の姿はとれますか?」
 それくらいは、と答えた龍は中年のオバサンの姿に変身し、次ぎは十八歳くらいの女子に変身した。女性に変身するという事は、雌の龍か。龍にも雌雄があるのか。そう言えば仏典に龍女成仏変成男子のエピソードがあるから龍女もいるのだろう。
 結論として龍女は十八歳の姿で空き部屋に住み着いた。賀茂さんは律儀に小林課長に電話をして正式に賃貸契約を結んだ。親戚の姪が上京して各種学校入学を目指している設定だ。来年の四月には本当に入学させるつもりでいる。
「部屋代も学費も私が面倒を見ましょう。その代わり、人間に混じってしっかり勉強するんですよ」
 なぜ人間の学校へ行かなければならないのだ、と龍女が反発したが、あなたはここでのんべんだらりとご飯だけを食べて過ごすつもりですか、と叱責されてしゅんとなった。
「各種学校の案内を買って来た。これを眺めて何を学びたいかを決めなさい。これはね、『三峯神社』の龍洞という深い井戸にお住まいの龍神様と九頭龍様が御相談なさって決めた事です。人間の世界で少しの間修行するのが良かろうとのお考えだ。他の九十九の同胞の為にも頑張りなさい。それから、言葉使いを改めるように。われはナニナニじゃ、などと言っていたら変人扱いされますね。それで、人間界での名前は何にしようか」
 龍女が答える前に「あずみちゃんがいいよ」と宝子ちゃんが即答した。
 安曇野の野を取って安曇ちゃん。宝子ちゃんにしては真っ当な命名だ。謙信がいるのに信玄なんて付けられたら先が思いやられる。
「安曇か。まあ、悪くはないな。宝子、おまえが名付け親であるからして、おまえの命には従おう」
 これ、言葉に気をつけるように、と言ったじゃないですか、と賀茂さんに睨まれた安曇ちゃんは、宝子ちゃん、仲良くしようね、と言い直した。
 賀茂さんと宝子ちゃんを様付けで呼ぶ謙信とは始めの内、呼び方で喧嘩をしていたが、賀茂さんには「さん」付け、宝子ちゃんには「ちゃん」付けで落ち着いた。チビ龍のくせにプライドは高そうだ。
 それでも新参者なので謙信に付いて掃除、洗濯、食事の支度を手伝い、探偵事務所の雑用もこなしている。安曇ちゃんの食欲は象一頭丸ごと食べるのではないかと思われる程旺盛だ。大食いが三人揃って賀茂家のガス釜は一日中米を炊く臭いがしている。
 食費だけで家計がパンクしそうだ。おまけに部屋代も三室分払っている。他人事ながら心配になる。普通の夫なら妻子はともかく、居候が物凄い勢いで米を消費しているのを満足気に眺めてはいられないだろう。
 しかし僕の心配はあっさり否定された。
「田中っちは心配性だね。金は天下の回り物って言うじゃない。ミツミネのお陰で探偵社も黒字だし、それにね、これはあずみんには秘密だけど、九頭龍様からお金は頂いてるのよ。ちょっと見てみる?」
 安曇ことあずみんが謙信と一緒に買出しに出掛けている隙に、賀茂さんが事務机の横にさり気なく置いてある金色の物体を指差した。大きさはおよそ畳の半畳ほど。
 これは? と聞くと九頭龍様の鱗だよぉ、と賀茂さんがあっけらかんと答えた。金箔の鱗ではなくて本物の金! 一キロの金塊何個分の量に相当するのだろう。
「これをね、あずみんが必要な時に使ってくれって、九頭龍様が送って下さったんだよね。謙信が言うには相場は変動するらしいけど、物凄い金額になるらしいよ。あずみんは可愛がられてるな、って良く分かるよね。でも、龍神様の鱗を換金するなんて、恐れ多くて使えないよね」
 それはそうでしょうとも、と僕は頷いた。純金の龍の鱗が何気ないオブジェみたいに置いてある探偵事務所って、凄くないか? あまりに無造作に置いてあるので金メッキにしか見えない。
「田中っちが『バイオ・ハザード』社から一千万円多く貰えるようにしてくれたので最初の諸経費以外は残っている。あずみんの学費も将来宝子が学校へ行く費用もそれで賄えるでしょうよ。探偵社は黒字、『賀茂霊能者協会』もそこそこ稼いで支援者もいる。田中っちがウチの家計まで心配しなくてもいいよ。それにいざとなったら金を売るし」
 賀茂さんがにやっと笑った。恐れ多くて、とは言いながら、危急存亡の時には金を売る選択は捨てていないらしい。一旦貰ったらにはどうしようと勝手、という事だ。
 九頭龍様もバック・ボーンに『三峯神社』がついているから安心して末っ子を預けている。賀茂さんとミツミネが自分達の為だけに金の鱗を売るとは思っていないだろう。
 賀茂さんがまだ独立する前なら兄の正樹がさっさと換金して遊興費に使ってしまうだろうが、その正樹は行方不明だ。賀茂さんが兄の居所を知らない筈はないが、何も聞いていないから生きてはいるのだろう。
 謙信とあずみんが帰って来た。謙信は二十歳くらいの背が高い色白の若い男で、あずみんは十八歳の浅黒い肌の背の低い女子の姿をしている。買物袋を抱えた二人は傍から見るといいカップルなのだが、方や草食系男子、方や肉食系女子だ。スーパーでの食材選びで盛大に言い合っているらしい。
 血液パックで栄養が足りる僕はスーパーとは無縁だが、麻利亜さんの目を楽しませる目的でスーパーに出掛ける日もある。たまたまそこで会った時の二人は肉売り場の前で喧嘩をしていた。
 お昼のヤキソバにキャベツ大めか肉大めか。ヤキソバにはキャベツでしょう、と言う謙信に肉なしのヤキソバなんて、と言い張るあずみん。低次元過ぎて笑える。
 結局あずみんが買い物籠に豚の細切れのパックを十個投入し、謙信はキャベツを三玉とタマネギを一袋放り込んだ。
 いったい何皿分のヤキソバを作るつもりなのか知りたくもないが、これが一回分とは相撲部屋並みだ。これを三人で食べるのだから想像するだけで胃が疲れる。
 謙信は急に食客が増えてどう思っているのか分らないが、ミツミネが黙認しているのだから新たな大食漢を受け入れざるを得ない状況だ。何で、とは聞かなかった。草食系男子らしい態度だ。
 但し、家事は分担。教育的指導はなかなか厳しい。二人の言い合う声が聞えて賑やかだ。どこが病弱なんだ、あずみん。
あずみんはプライドは高いが悪い子ではない。おおばばさまとばばさま、麻利亜さんともすぐに打ち解けた。麻利亜さんが僕と一緒に会社から帰るとテレビを見てファッション談義をしていたりする。僕は二人のやり取りを聞きながら眠りにつく。
 基本的には名付け親たる宝子ちゃんの守役だが、霊能者の母と神使いの父を持つ宝子ちゃんを狙う相手などいない。
 いたとしたら『三峯神社』の神使い全員を相手にする破目になるし、多分九頭龍社の面々も参戦するだろう。結果として僕は宝子ちゃんに強力な助っ人を呼び込んだ事になる。

あずみんの姉、白龍つくも

 四月八日の大祭に参加したミツミネは十月になると再び『三峯神社』の月読祭に参加する為に事務所を留守にした。ソファーに座った姿はそのままだが、実体は秩父の山中にある。
「あずみん、おとうしゃまが帰って来たらいつもよりご飯を沢山食べられるよ」と宝子ちゃん。
「なんでよ」と宝子ちゃんを妹扱いのあずみん。謙信が顔を顰めているが、これでも本人は口調を改めたつもりだ。
「お祭りが終るとおじさまやおばさま達が大勢来るんだもん。みんな食べるのが大好きなんだよ。お米一俵がすぐなくなっちゃうの。謙信がお菜も沢山作ってくれるしね」
 へえ、狼達がやって来るのか、それは面妖な、と己自身が面妖な存在であるあずみんが両目の瞬膜をぱちりと音を開閉した。僕のコンタクトとは違って天然物だ。
 では、私も同胞を呼んでいいかな、とあずみんが恐ろしい提案をした。あずみんの同胞は九十九匹。しかも大人の龍だ。
「あ、いや、それはご勘弁を願います。宝子様、そんな場所も食材もない、と言ってやって下さいな。大勢で押し掛けられたらミツミネ様も保子様も破産でございますよ。米一俵どころではありますまい。どこかの河原で芋煮会をするのとは訳が違います」
 なーに勘違いしてるんだか、とあずみんがおろおろしている謙信を睨み付けた。このアパートでは女性上位だ。
「呼びたいのはすぐ上の姉上だ。私が達者で暮しているか心配してくれているのよ。鱈腹食べている姿を見たら安心してくれるだろうと思ってね。『三峯神社』の龍神様とも知り合いだそうだ」
「我が国には龍神様があちらこちらにいらしゃるからね、『三峯神社』の龍神様と『九頭龍社』の龍神様が懇意にされていても不思議はないね。あずみんの言うとおり末っ子が心配なようだ。今まで二度、アパートの上空を回って行かれた。もしあずみんが泣いている姿を見たら、こんなアパートはひとたまりもなく破壊されていまうだろうね。どれ、ではその姉君を御招待しよう。」
 アパートの二階には結界が張ってあるが、攻撃型の賀茂さんは守護の力は弱い。龍神相手に賀茂さんの結界は効かない。アパートごと押し潰されるのは必定だそうだ。こうなると龍神を呼び込んだのが良いのか悪いのか分からなくなる。
「姉の名はつくもだ。九十九と書いてつくもと呼ぶ」
 あずみんがまた勝手に名前を付けられないように牽制して来たが、これも本名ではない。兄弟同士でも本名を呼び合ったりはしない。当然ながらミツミネも本名ではない。
「つくも様? 良い名だね。では招待状を送るとするか」
 賀茂さんはいつもと違う御札をパソコンからプリント・アウトすると血判を押してから宙に飛ばした。自分より遥かに霊位の高い方を招待する時の礼儀だそうで、それに息を吹き掛けると御札は消えた。
「さて、これでよし。私が招待しただけではお出でになるかどうか分からないけど、あずみんがいるからいらしゃるだろう。謙信、明日の晩にミツミネが戻って来るよ。他の神使い達とつくも様の食事の用意を頼むね。あずみんも手伝うんですよ。修行の内ですからね」
 ええーっ、とあずみんが頬を脹らませた。自分もすっかり食べる側でいる気だったのだろう。神使い達の食い意地が張っているのは確かだ。
 翌日、謙信は相変わらず脹れっ面のあずみんを伴って開店早々のスーパーに買出しに出掛けた。見た目は若い男女だが、本体は神使いだから、ぱんぱんに膨れたスーパーの袋二十個を軽々と抱えて帰って来た。
「謙信ったら、スーパーの店員さんが宅配しましょうか、って言ってくれたのに、それじゃあ間に合わないって言い張ってさ、七面倒臭いやつ!」
 謙信を自分より下に見ているあずみんは相変わらず喧嘩腰だが、出掛ける前より機嫌がいい。野菜VS肉の戦いは肉に軍配が上がったのだろう。今回は鳥のから揚げと里芋の煮っ転がしに決まったらしい。
 殆ど何もないあずみんの部屋が今回の晩餐会の会場だ。事務所から移動して来たソファーとロー・テーブルだけが開け放たれた六畳二間の中央に置いてある。
 例の如く昼まで寝ていた賀茂さんが起きて来て、呑気に部屋を覗いている。こちらも食べるだけの人だ。
 ミツミネが帰って来ると同時に狼連中もやって来た。会社の同僚と外で酒を飲んでそのまま同僚を家まで連れてくる父親みたいだが、この場合は同僚が勝手に押し掛けて来るパターンだ。酒を飲まないだけまだマシか。
 私室の台所では油をたっぷり入れた特大の中華鍋の前で謙信が予め味を染込ませた鳥肉をから揚げにする為に顔を真っ赤にして菜箸を操っている。
 まず大量のお握りをあずみんが運んで来てロー・テーブルの上に乗せた。握り飯は冷めているが、から揚げとお握りを同時に作れないのだから仕方がない。
「おや、今日は龍がいると聞いていたけど、その小さいのが大事な宝子の子守かい?」とお銀さんが握り飯を頬張りながらじろじろとあずみんを見た。お銀さんとは勿論、宝子ちゃんが勝手に付けた名だ。
「お銀おばさま、あずみんは子守じゃなくて『九頭龍社』から修行の為に来てるんです。春になったら人間世界でお勉強するんだって」
 宝子ちゃんがナイス・フォローを入れたが、プライドが高いのに背が低いあずみんはかっとなったついでに人間の姿を忘れ、小さな龍の姿に戻ると、お銀さんの尻尾に噛み付こうとした。
 それを止めたのがどこからか現われた妙齢の婦人だ。外見は地味なスーツを着た高校の国語の先生みたいだが、すらりと背が高くて美人だ。
 狼達が握り飯を食べるのを中断して一斉にどよめいた。誰もが一目惚れするような凛とした美人だ。鼻筋が通っていて目は切れ長。綺麗過ぎて怖いくらいだ。
「安曇、相変わらずあんたは気が短い。体が小さいのは本当なのだからいちいち怒るでないよ」
 声も綺麗だ。思わず見惚れていると僕の横で麻利亜さんが冷凍倉庫みたいな冷気を発している。恋敵認定、まさかね。僕は浮気なんかしない。
 だって、姉上、狼が私を侮辱したんだよ、とあずみんが握り飯を口に押し込んだまま反論した。怒っていても飯は咽喉を通るらしい。
 これがあずみんの姉、つくもさんか。姉妹と思えないくらい似ていない。綺麗なお姉さんがいる妹はコンプレックスを抱かざるを得ない。
「これはこれは、つくも様、さあ、お座り下さい。アパートの上を二回ほど回って行かれましたがその時は龍のお姿でしたね。本体は白龍様。今回私の招待に応じて下さって光栄です」
 ソファーに座って他の狼達と一緒に握り飯を食べていた賀茂さんが、どうぞ向かいのソファーにお座り下さい、といつになく丁寧な言葉を掛けた。
 『三峯神社』の縁者とは言え、賀茂さんはただの人間だ。名のある龍神の姫となればそもそも格が違う。つくもさんはうむ、と頷くとソファーに腰を落としてすらりとした足を組んだ。外見は国語の先生。でも普通は「うむ」とは言わない。
「おまえが『三峯神社』の神使いミツミネ殿の妻の保子か。我の本体を見破るとはさすがに『杉の爺』が認めるだけの力を持っているようじゃな」
 話の流れからすると『杉の爺』は『三峯神社』に棲む龍を指すらしい。勿論これも通り名で、本当に爺様の龍なのかどうかも一般ピープルである僕等には分からない。
 いつものライダースーツ姿に戻っていたミツミネが一瞬顔を顰めたが、あずみんの姉でであるし、招待したのは我が妻であるし、と偉そうな言葉使いの龍を許す気になったようだ。宝子ちゃんを呼んで膝の上に座らせた。
「もう事情は知っておろうが、この末娘が田中っちとかいう吸血鬼に憑いて行ってしまったと聞いた時は驚いたぞ。吸血鬼と呼ばれる輩がいるのは我等も知るところだが、彼等は不老不死と聞いている。田中っち、本当か?」
 人間にしろ神にしろ、女子は話が飛ぶ種族らしい。僕に火の粉が飛んで来た。田中っちじゃなくて、田中なんですけどね、と訂正を入れたかったが、つくもさんと同じで本名ではないからどうでもいいか。ストレートにそこの吸血鬼、と呼ばれるよりはマシだ。
「確かに、不老不死ですね。僕は五百数十年前に生まれました。日本史では室町時代ですね」
 ほう、五百年か、その頃我は既に三千五百年の時を経ていたがな、とつくもさん。吸血鬼の仲間にはもっと古株がいるが、ここで年齢を競っても無意味だ。
 神には神の時間があり、吸血鬼には吸血鬼の時間がある。神ならば崇められるだけだろうが普通の人間の振りをしなくてはならない分、吸血鬼でいる方が気苦労が多い。だから『バイオ・ハザード』社のような共同体が必要なのだ。
 狼達は握り飯を食べる作業に戻った。僕が生まれたのが室町時代だろうが、鎌倉時代だろうが、彼等にとってはどうでもいい話だ。未来から来ました、と言えばすこしは関心を持ってくれるかも知れないが。
 未来……。未来ねえ……。僕はオカルト雑誌のテーマが「予言」である事を思い出した。握り飯に手を出してぺろりと飲み込んだつくもさんに龍神が未来を予想できるのかどうか聞いてみた。
「急に何じゃ、未来の予想か? 我は龍神であるからして、予想などしない。雨を降らせようと思えばいつでも出来るぞ。十一月の十一日に豪雨を降らせてやろうか? もっともその日、晴れにしたいと思う同胞がおれば相談しなくてはならないがな。おおそうじゃ、三十二番目の兄が十一月の十一日に『戸隠神社』で祝言をあげるカップルから当日晴れますように、と祈願されておったな。人間の都合など我等には関係ないが、雨を降らせるのは十一日ではなく、十二日ではどうだ? 十二日は雨、と言ってそのようになれば人間世界では予言と呼ぶのではないか?」
 ちょっと違う気がする。つくもさんは握り飯を二つ口に放り込んだ。
 謙信から呼ばれたあずみんがまた大皿に握り飯を乗せて帰って来た。米一俵で足りるのだろうか。
「姉上、もう少しで鳥のから揚げが出来ます、って。それに、はい、これが里芋の煮っ転がし」
 こちらは大鍋ごと持って来た。スーパーから帰った後、あずみんは里芋の皮剥きをさせられてうんざりしたそうだが、確かにうんざりする量ではある。こちらは冷たい握り飯とは違ってほかほかの湯気がたっている。
 そしてから揚げの登場で狼達の興奮は最高に達した。最初に揚げた方は冷えているが、そんな事はお構いなしだ。あずみんは狼達の間に体を滑り込ませて里芋とから揚げを確保。
 つくもさんも今はあずみんに構っている暇もなく里芋とから揚げを次々と口に放り込んでいる。
 皆がから揚げを食べ終わった頃にやっと食事が打ち止めになった。大皿に乗っていた握り飯もから揚げも、大鍋の里芋も総て大食い達の腹の中に消えた。
 見ているだけの僕の胃袋も満杯だ。しかもその間一時間弱だ。謙信は今頃台所で倒れているに違いない。真面目な性格は時として損だ。
「良い料理人を持ったな。羨ましいぞ」と宝子ちゃんが越後屋と名付けた狼が満足そうに腹を擦っている。謙信からすればいい迷惑だろう。
「ところでつくも殿は今日、何故に現われたのだ? 小さな龍が居候しているとミツミネから聞いていたが」食べるのに気を取られて最初の会話をすっかり失念している。
 その質問に答える前に、まず水じゃ、とつくもさんが言うとあずみんが台所へ飛んで行った。生意気な末っ子も姉の言う事は素直に聞く。
 あずみんが持って来た薬缶の水を飲み干したつくもさんは酒飲みのようにぷはーっと域を吐いた。本当は酒の方が良かったのだろうが、ここでは酒は禁止だ。飲めや歌えやで収拾がつかなくなるのは目に見えている。
「事の始めは我が末っ子だ。この子は体が小さいのを気にしておってな、そこにぼおっと立っている田中っちの家に行けば精の付く食べ物が食べられて大きくなれる、と考えて戸隠から憑いて来てしまったのじゃ。我が親神様は考えなしの事はなさらぬ。故にこの子の体が大きくならぬのには理由がある筈、と我等他の同胞は思っているのだが、当人は我慢がならぬらしい」
 ほう、それで体は大きくなってのか、と狼の誰かが尋ねた。
「謙信とやらの作る食事は確かに霊的力がこもっておる事は実感できた。謙信とやらもどこぞの神使いであろう。ただ、我が妹がそれで成長するかどうかは分からぬ。我は妹が気掛かりでな。時々このアパートを見に来ておったのじゃが、それに気付いた保子が正式に我を招待してくれたのでこうして人間の姿をして来てみた次第じゃ」
「九頭龍殿と杉の爺が話し合い、安曇殿は私の所でしばし預かる、と話はついているが、それでも心配か」
 ミツミネが低音を響かせた。『三峯神社』の神使いを信用できないのか、と迫っているのだ。
「狼達を信用していないのではないぞ」と幾分慌ててつくもさんが答えた。ただもう、按じておるのじゃ、と。
 何と、以前あずみんは『貴船神社』の神様の所まで押し掛けたそうだが、貴船の神は厳しいお方で、十日も経たない内に泣いて帰って来たらしい。
「ミツミネ殿、兄弟というものはそういうものだ。今ここに来ている狼達も実はおまえと宝子を心配して来てくれているのだ。有り難い事ではないか」
 そうなのか? 僕には狼達が食い意地が張っているようにしか見えないが、数多の狼が定期的にやって来ることで、ここは『三峯神社』の出張所のような場になり、悪意あるモノは近づけないのだ、と賀茂さんが教えてくれた。
 宝子ちゃんのように特異な子供は悪意あるモノに狙われやすい。しかし少なくとも狼を恐れる悪いモノからは狙われない。今回賀茂さんがつくもさんを招待したのは他に理由があったのだろうか。
 どうやら龍神は気位が高いようだし、狼の群れに単身乗り込んで来るくらいだから力も強いのだろう。その龍神と懇意になっておけば宝子ちゃんにとっては二重のガードだ。
 もっとも単純思考で天然ボケの賀茂さんが深慮遠謀を巡らすとは思えない。あずみんが寂しがらないようにつくもさんがいつでも好きな時に会いに来られるように招待状を送っただけ、とか考えた方が妥当だ。
 吸血鬼伝説では吸血鬼は相手の招待がなければ狙う家に入れない。「是非お越しください」とか「さあ、どうぞ」と門扉を開けてくれるのを待っている。一度入ってしまえば後は好き放題。
 実際の吸血鬼にはそんな掟はないが、神様達とて軽々しく他の霊界に足を踏み入れる事は出来ないのだろう。だから賀茂さんはつくもさんに招待状を送った。
 って事はなに? これからこのアパートには九十九匹の龍神様も出入り自由? それともつくもさん限定? ただでさえ幽霊の密度が高いのに、狼やら龍やら神界密度も半端ない。次ぎは何だ?
 安曇よ、ここに来なさい、と狼の群れに埋まっている末っ子に声を掛けた。狼を踏んづけて姉の元に駆け寄るあずみん。踏まれた狼がぐえっと唸った。
 あずみんに何事か囁いたつくもさんは、では、と言って立ち上がった。帰るつもりらしい。そろそろお開きと察した謙信が入って来てさり気なく酒を献上した。
 北海道の「北斗随想」、北海道の日本酒ランキング一位になった酒だそうだ。大口真神様へのお土産は人気第二位の「上川大雪」。
 一位二位は飲む人の好みだ。謙信は酒を飲まないからネットで調べて取り寄せたのだろう。何から何まで気が付く兎さんだ。
 龍と狼が去った後はまたミツミネが掃除をやらされ、謙信とあずみんは台所で後片付け。つくもさんから耳打ちされてからあずみんは積極的に動いている。賀茂さんと宝子ちゃんはパジャマに着換えてもう寝るつもりでいる。
 僕は血液ガムを噛みながら麻利亜さんと同伴出勤だ。たまに遅刻をしても『世界文献社』の人間の同僚達は文句を言わない。自分達も遅刻の常習犯だからだ。
 狼と龍の取り合わせって、幽霊にならなかったら見られなかった光景ね、と麻利亜さんは無邪気に喜んでいる。普通の人間にとっては御伽噺の世界だろう。しかし幽霊だからから見えるのではない。僕だって霊感があるから見えるのではない。きっと賀茂さんとミツミネが介在しているからだ。

『世界文献社』予言談義

 僕はデスクにつくとパソコンを立ち上げた。「予言」と検索すると古今東西の「予言」が目白押しだ。既に死んだ人の予言、現在活躍中の予言者の予言。未来人からの予言、何てのもある。
 未来人の予言では日本は中国の一部になり「中国日本省」になる。或いは地殻変動で沈没してしまい、日本人は絶滅危惧種になる。かと思えば日本から救世主が出て、世界は平和になる。救世主願望はいつまでたっても魅力的だ。
「もう何だか、どの予言を信じていいものやら、ですね。皆、勝手な事を言っています。ノストラダムスの亡霊も未だに生きているみたいですし」と同僚の若林君が珍しくシニカルな笑みを浮かべた。
「僕だって予言者になれますよ。何十億年後かに太陽が膨張して地球を飲み込んで地球そのものがなくなる。そのずっと前に人類は滅んでいます。これが天文学的事実です。もっとも多次元宇宙論を都合良く取り入れて、太陽系ごと他の宇宙にワープするとか言っている予言者もいますけどね」
 明日の事を思い煩うな、とキリストさんは言っている。しかし明日を思い煩うことこそが人類と他の生物との違いだ。
 明日、明後日、数年後が心配だから畑に種を蒔く。孫の代にならなければ伐採できない木を植える。毎日神様がマナを降らせてくれれば働く必要はない。
 ま、そうだけど、と僕は答えた。何十億年後までは予言に入れなくてもいいんじゃない? 人間が知りたいのはせいぜい自分の曾孫世代がどうなっているのかくらいだろう。
「やっぱりそうですよね。僕も太陽系の滅亡まで生きていませんから、まあ、そんなもんか、くらいの興味しかありませんね。僕が生きている間に中国が日本を傘下に入れて日本省になる、なら興味はあります。だからって、今から中国語を勉強しようとは思いませんが。沈没説の方がリアリティがありませんか。地震や火山噴火が続発してますし」
 ああ、と僕は頷いた。南海トラフ地震や富士山の噴火の方が切実だ。だからと言って、止める事は出来ない。せめて自分の生きている間には起こりませんように、と祈るくらいだ。
 ねえ、日本が沈没したら日本の八百万の神々達や妖怪や幽霊はどうするんだろうね、と僕は思わず麻利亜さんに話し掛けた。元日本だった上空を漂っているのだろうか。それとも引越し?
 麻利亜さんは外人さんみたいに手を広げて肩を竦めた。そりゃあ、幽霊だって自分がどうなるか何て、知らないよね。狼も龍も呑気に宴会を楽しんでいたからまだ日本は当分の間存在するのだろう、とこれは僕の楽観的希望だ。
「ちょ、ちょっと、先輩、今どこ見て喋っていたんですか。今右肩辺りに向かって喋ってましたよね。絶対僕に話し掛けたんじゃないですよね。誰に向かって話していたんですか!」
 オカルト雑誌担当のくせにびびりの若林君が僕の右肩を指した。幽霊の麻利亜さんと喋っていたんだけどね、御免、つい油断した。麻利亜さんは既に左側に移動。
「ああ、今朝ちょっと首を寝違えてしまってね、左を向くとぴきっと来るんだ」
 僕は適当に誤魔化した。誤魔化す以外にない。
「そうですか、それならいいんですけど、出版社とかテレビ局とかは霊が集って来るそうですよ。大きな声じゃ言えませんけど、某出版社のトイレには女の幽霊が出るって、業界内では噂になってます。某テレビ局のトイレにも社屋から飛び降りた人の霊が出るって聞いてますし」
「おいおい、幽霊はトイレ専門か? 社屋から飛び降りたのならトイレは関係ないだろう。今でも飛び降りを繰り返しているって話しなら分からないでもないけど」
 げえっ、飛び降りを繰り返す霊ですか、と若林君が引き攣った顔をした。
「出版社の話ではないけど、某マンションでは玄関横の植え込みにどさっと音がして何かが落ちて来るらしい。以前飛び降り自殺した男がいたそうで、彼は未だに飛び降りを繰り返して」
 ああ、もう結構です。聞きたくないっす、と若林君は僕の楽しい話を遮った。これで誤魔化し完了だ。彼の頭の中では植え込みにどさっと落ちて来る音が勝手に再生されているに違いない。
 しかしこれは僕の創作の与太話ではない。つい最近、賀茂さんがマンションの管理人に頼まれてした仕事の一つだ。まず退路を断つ為に植え込みの周りと屋上に盛り塩をし、それから十階の部屋まで行って幽霊を消去した。以後、飛び降り自殺の霊は現われていない。
 費用は車代と御札一枚五千円分。実に良心的、かつ激安価格だ。悪霊度が高い時は用心棒としてミツミネも同行する。その分料金は五倍になるが、それでも安い。
 霊能は神からの授かりもので、金儲けの為に使うものではない、が賀茂さんのポリシーだ。ただ、賀茂さんも霞を食って生きているのではないから、多少の費用は頂いている。
 兄の正樹がマネージメントしていた時はン十万、時としては百万単位を請求しており、その時代は賀茂さんの暗黒時代だった。普通は高額請求の方が依頼した側も「効いた」気になれるかも知れないが、額が高ければ効くってもんでもない。
「ウチの社屋には幽霊が出るって話は聞いた事がないからそうびくびくしなくってもいいだろう。幽霊の正体見たり枯れ尾花だよ」
 実は守衛室に一人幽霊がいる。今でも夜になると社屋を見回ってくれているが、見えているのは僕と麻利亜さんだけだ。賀茂さんに相談したら、数年経ったら消える無害な幽霊だから放っておいても良い、と。
 そうですよね、最近は素人でも心霊動画を作れちゃう時代だし、と編集者の顔に戻った若林君が頷いた。当面の洗脳完了。僕の背後で麻利亜さんが笑っている。
「しかしまあ、予言って当てにならないもんですね。一九九九の七の月に恐怖の大王が空から降って来るんじゃなかったんですかね。カッシーニがスイング・バイに失敗して地上に落ちて来る、とか、いや宇宙ステーションがとか、オカルト専門の先生方が言ってましたが、カッシーニは無事土星に行っちゃいましたしね。一番多いのは第三次世界大戦ですかね。こんなの、世界情勢を見てたら誰でも予想はつきますよ。地震や火山噴火もいつもどこかで起きてますしね。大体、人間が予言何てできるものなんですかね?」
 出来ないだろうね多分、と僕と若林君は「予言」特集を組んだくせに見も蓋もない意見で一致した。
 某女史は一九九八年に世界戦争が勃発して日本は北はソ連、南はアメリカに分断され、一九九九年に地軸が逆転する、と予言していた。某氏は二〇〇一年の真夜中二時に天変地異で人類は終る、と予言、某女史は一九九五年に人類は壊滅的打撃を受ける、と予言。
 今となっては笑い話だ。日本の予言者は随分とノストラダムスの予言に影響を受けていたみたいだ。今頃信者にどう説明しているのか、そちらの方が興味がある。
「予言が外れた教祖様達に取材したライターはいるの?」と聞いたら「勿論」と若林君。「外れた予言の事を聞くと、神様が人間の改心を促する為に日延べした、としゃらんと答えたそうですよ。この先ずっと日延べしてくれるといいですね」
 中には解体してしまったり、教祖様自身が刑務所に行ってしまった教団もある。ヘールボップ彗星が地球に近付いた年、宇宙人が迎えに来ると信じて三十九人が集団自殺したカルト教団もいる。
 宇宙人が迎えに来てくれるから死ぬ。その発想が分からない。宇宙人が組成の違う新たな肉体を与えてくれるのか、それとも魂だけしか受け入れてくれないのか。
 『世界文献社』のオカルト雑誌が「予言」特集をしていると聞いた賀茂さんはふん、と鼻息を飛ばした。
「まっとうな霊能力者なら予言何てしないよ。どちらかと言うと過去の因果関係を整理してあげるくらいしか出来ないね。未来がどうなるかは分からない。もっとも私の知らない外国に超霊能力者がいて、その人は未来までも見通しているのかも知れないけど、軽々しく口にしたりはしないだろうね。蝶の羽ばたき一つで世界が変わる。田中っちが石に躓いて転んだだけで世界は変わるかも知れない。そんな不確定な未来を口にする霊能力者はいないよ」
 でも余興としては面白いよね、宝子は田中っちの作る雑誌の愛読者だから出来上がったら一冊頂戴ね、と賀茂さんは付け加えた。いつもタダで一冊献上しているんだけどね。
 宝子ちゃんは有難い事に僕の雑誌の読者で自身のブログで雑誌紹介をしてくれている。但し、ルーン文字表記なのでどれだけの人がブログを解読しているのか分からない。
 たまに阿比留文字とか豊国文字とかの神代文字も使っている。『古語拾遺』の「上古の世、未だ文字有らず」との整合性はどうなっているのだ?
 近々オリジナル文字でブログを更新する予定だ。そんなもん、誰が読める? 読者は暗号解読マニアくらいだろう。故に、雑誌の宣伝には役立っていない。下手をすればスパイが暗号を送っている、と曲解されかねない。
 コアなファンがいて、お互い「これでどうだ!」的に難解な文字を連ねたやり取りをしているらしい。
 僕も時々閲覧しに行くが、子供の落書きにしか見えない。ファンは相手が三歳になるかならないかの「がきんちょ」だと知ったら引っくり返る事、確実だ。

『三峯神社』の銀嶺

 三歳と言えば……。宝子ちゃんが『三峯神社』に出仕する歳だ。今年の十二月二十四日で宝子ちゃんは三歳になる。賀茂さんはさばさばしているが、ミツミネが沈み込んでいる。育メン狼は可愛い盛りの宝子ちゃんと一年も別れるのが辛そうだ。
 大口真神様からはミツミネは一年間出仕に及ばず、とお達しがあり、親子同伴出仕を目論んでいたミツミネは酷く落胆している。
「当たり前でしょうが。子供の修行に親が付いて行こうなんて、考えが甘い!」賀茂さんは一刀両断だ。
「しかしなあ、保子、宝子はまだ三歳で」
「三歳だから出来る修行もあるの!」と、これまた厳しい。
「宝子が生まれた時からのお約束じゃないの。神使いのミツミネが分からぬ筈がない。私はただの人間だけど、宝子の半分は神使いの血が流れている。そういう子供を欲しがる悪霊は一杯いる。悪霊に攫われないように大口真神様に預かって頂くと思えばいいじゃないの。山にはミツミネの仲間が沢山いるでしょう。皆、宝子を可愛がって下さる。私達に出来る事は霊体が抜け出した宝子の体を守ってあげることでしょうが」
 どうやら宝子ちゃんは体を残したまま霊体が『三峯神社』に出仕するらしい。寝室にしている四畳半の結界を強化しなくちゃ、と賀茂さんはアパートに残る実体の心配をしている。実体がなければ霊体は帰る場所を失う。
「済まぬが、保子の結界では安心出来ない」
 怒るかと思ったら賀茂さんはあっさりと、そうだねえ、と認めた。さて、これからが人間離れした話だ。探偵事務所とは到底思えない筋書きが展開する。
「私はこれでも神使いだ。守護の力は保子より強い。宝子の体をミニチュア・サイズに変えて私の服のポケットに入れて置くのはどうだ?」
 僕と麻利亜さん、謙信、あずみんが一斉に宝子ちゃんに注目した。実体をミニュチュア・サイズにする? 
 コロボックルじゃあるまいし、マジか、と言うより、魂のない三歳児のミニチュアがポケットから顔を出している姿を想像するだけで怖い。多分、幽霊より怖い。
「ミツミネ様、それは幾ら何でも無理があるのではございませんか」
「そうだよ、きもい」
「ミツミネ、それはホラーだわ」
 謙信とあずみんと賀茂さんが簡潔に反対意見を述べた。僕も何か言おうと思ったが言葉が浮かんで来なかった。
「ではどうする。おお、そうだ。守護の力の強い霊能力者がいるそうだな。その者に結界を張って貰うか」
「確かに私より守護力に優れているが、度々結界を張り直して貰わなくてはならないよ。それに宝子を狙う目的の悪霊となればかなり強力な悪霊じゃないの? 太刀打ち出来るかどうかまでは分からないな」
「おおばばさまとばばさまがいても駄目か?」
「おおばばさまとばばさまも宝子の事となれば玉砕覚悟で戦ってくれるだろうけど、襲撃は一度とは限らないからねえ」
 うーむ、とミツミネが歯噛みしながら唸った。本当は霊体も実体も一緒に行くのがベストだろうが、秩父の山中に三歳児が一人でうろちょろしていたら不自然だ。神職も迷惑に違いない。
「では事務所に寝かせて置くか。そうすれば私が一日中傍に付いていてやれる」
「それでは仕事に支障が出る。二人とも留守にする時だってあるじゃない。宝子が修行している間も稼がなくちゃならないよ」
 再度の否定にミツミネがホワイトニングしたみたいに白い牙をにゅっと伸ばした。見た限りではミツミネの方がドラキュラっぽい。
 五分刈りの大男だし黒のライダースーツ姿だしサングラスを掛けているし、ドラキュラ役なら僕よりミツミネがはまり役だ。こんなのに追い駆けられたら心臓が止まる。
 結局今いる面子では空っぽの肉体を守るには役不足だ。実に面倒臭い。しかし宝子ちゃんは特別な子だから修行に行かなければならない。
「あのさ、ミツミネ。あんたの仲間は暇?」
「暇と言われてもなあ。我等は秩父の山野を駆け巡ってお山を守っている。それを暇かと言われても、多分暇ではないぞ」
 ふうん、ミツミネはそのお役目から外れてここにいるよね、と賀茂さんがミツミネの脇腹を小突いた。要するに、宝子ちゃんの体の守役にもう一頭狼を所望、か。
 いかに強力な悪霊でも神使いが一日中守りについていればそうそう手が出せない。いや、しかし、とうろたえるミツミネ。いつも自信たっぷりのミツミネがうろたえる姿を見るのは初めてだ。
 ミツミネは宝子が可愛くないのかなあ、と賀茂さんが痛い所をチクチク刺激する。育メン狼が動揺している。やっぱりここは女性上位だ。腕を組んだミツミネは、はや守役の選定を始めたようだ。
「雄の狼は危ういな」
「なに、ロリコンの狼がいるの?」
「いや、そんな不埒な奴はいない。将来宝子を嫁に貰いたい、と言い出す奴が現われんとも限らない。宝子は保子に似て美形であるからな」
 ここでのろけを聞かされるとは思わなかった。賀茂さんは決して美人ではない。コンパに行ったら引き立て役にされるクチだ。
 アーモンド形の目と丸顔が可愛いっちゃ可愛いが、街を歩いていてもナンパされるような容姿ではない。爆発頭を掻くとフケが落ちる。ファッション・センスもゼロだ。加えて、すぐ切れる。
 それに宝子ちゃんは父親似だ。生後二ヶ月頃の柴犬に似ている。それはそれで愛らしいが、柴犬が美人になるかどうかは疑問だ。
 それでもミツミネから見れば賀茂さんは美人で、宝子ちゃんも将来が案じられる程美形の子供らしい。謙信もあずみんも異議を唱えなかったから神界の者の判断は他所にあるらしい。
 それまで自分の事で頭を痛めている両親の間でブログの更新をしていた宝子ちゃんが、お銀おばさまがいいな、とエンター・キーを押した。また訳の分らない文字でマニア垂涎の更新完了か。
「お銀おばさま? ああ、仲間内では銀嶺と呼ばれている奴だな。気が強くて大食いだぞ」
 おかあしゃまと一緒。宝子ちゃんの言葉に一堂がどっと笑った。銀おばさまが人間なら今頃山中でくしゃみをしているだろうね。
「ふむ、銀嶺殿なら霊力も強いし、心根は優しいから適任だろう。保子、さっそく銀嶺に文を飛ばしなさい。大口真神様には私がお願いする。否とは仰らないだろう」
 賀茂さんがさっそく護符に文字を連ねて秩父方面に飛ばした。ミツミネは本体を残したまま『三峯神社』に向かった。
「これで宝子様の身は安全と決まりましたが、やれ、これからは更に食費が掛かりますね」
 謙信が溜息を付いたが賀茂さんは気にしない。探偵社がすこし忙しくなるだけだ。


第四章へ続く


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