見出し画像

ホラー中編小説【香りに関する一考察】第二章


阿佐野桂子

   


第二章

真っ赤なドレスの女

 五月病に罹るのはいきなり違う環境に放り出されて途惑っていたり、受験で燃え尽きてしまった連中だ。そんな状態で一人でいると鬱になる。
 我が映研はそんな連中をしっかりと大学に繋ぎ止めておく役目を果たしている。部員はふらっと部室に立ち寄り、居合わせた部員と一緒に映画を見てささやかな感想を述べ合う。 
 広い構内で見知った顔に会って食堂に行ったり立ち止まって話しをする。それだけでも孤独は癒される。知り合いの知り合い繋がりで友人も増える。
 僕と姉さんは双子だから孤独とは無縁だが、それでも映研を通して友人と呼べる相手はできた。特に同郷繋がりの佐藤さんは同じ講義を受ける時はいつも僕の左隣に座る。姉さんが右隣にいて場所を譲らないからだ。
 一度強引に右隣に座ろうとしたら何かに足を取られて転びそうになった。佐藤さんは気付かなかったが、姉さんが足を引っ掛けるのを僕は確かに見た。 
 姉さんは北海道でも私服でいる時はいつもロング・ワンピースを着ていた。もう定番と言っていいくらいだ。さすがに夏は薄手の素材になるが長袖で、白い手袋をしている姿は学内のどこにいても目立つ。
 相変わらず超の付く美人だが、美人過ぎるのと僕と一対なので今のところ、姉さんに近付いて来る男子はいない。積極的に声を掛けてくるのは川原先輩ぐらいだ。
 一方の佐藤さんはまだ自分のスタイルを決めかねているようで、全体的に統一性がない。朝起きて、そこら辺にある物を適当に着て来ました、という感じだ。
 それでも都会の学生になろうと必死で、二年生になってからセミ・ロングの髪を暗めのブラウンに染め、耳には小さなピアスをつけている。
 ピアスは女子の定番アイテムらしく、穴を開ける時に痛かったとか、その穴を保持する為の方法を熱心に話してくれたが、僕はそもそも姉さんのパシリをしているのが精一杯だから「へえ?」とか「そうなの?」の相槌くらいしか返せない。
 姉さんはピアスにはまるで興味を示さなかった。たまにイヤリングをつけるが、耳に穴を開けてまでピアスをする気はない。ピアスをしていない時の穴が気持悪いのだそうだ。
 そう言われてみると、両耳に三箇所もピアスをつけている堀井さんがピアスを外した時の耳はグロだ。
「ねえ、堀井さんが入院しているの、知ってる?」
 丁度堀井さんの潰れた餃子みたいな耳を思い出して鳥肌が立ちそうになっていた僕は思わず大きな声で「え?」と聞き返した。階段教室の中の数人がこちらに視線を送って来た。
「堀井さんて、映研の三年生の?」と確認。入院って、何だ。
「その堀井さんに決まってるじゃない。いつも黒尽くめのハード・ロック系の格好をしてる人。ゼミの最中に急にお腹が痛いって騒ぎ出して、救急車で運ばれたのよ。昨日、救急車が来る音がしたじゃない?」
 そうだったっけな、と僕。聞いたような気もするが、覚えていない。姉さんは無表情のまま佐藤さんの次の言葉を待っている。
「あの人、学外ではちょっと問題がある人だったじゃない。だから川原先輩も今田さんも心配してたんだけど、また子供が出来ちゃったんだって。それも今回は子宮外妊娠。受精卵が子宮じゃなくて卵管に着床しちゃったらしいんだよね」
 周りがざわざわしていたからいいものの、聞かれたら教室中が静まり返ってもおかしくない。姉さんがスマホで検索を始めた。こんな微妙な話題でも聞き役は僕だ。
「川原先輩はピルを飲めって言ってたんじゃないの?」
「言ってたらしいわね。でも、それって他人が強要できる事じゃないわよね。川原先輩は堀井さんの彼氏じゃないんだから。はい、と殊勝な顔してたみたいだけど、また妊娠したって事は忠告を聞かなかった、ってことでしょう? で、救急車が来て、即、入院。駆けつけた先輩が彼氏扱いされたみたい。今は先輩と今田さんが交代で付き添ってる。とんだ『困ったちゃん』だよね」
「普通、娘が入院したら親が来るんじゃないの?」
「それが、堀井さんの家庭は複雑らしくて、子供の頃に両親が離婚して、父親に引き取られたんだけど、その父親が五年前に再婚して新しい母親との間に腹違いの兄弟二人がいてね、堀井さんの事はあんまり」
「つまり継母ってことですよね。継子いじめとか?」
「いじめまでは行かないけど、放任主義ってやつかな。さすがに父親は色々手続きがあるから駆けつけたそうだけど、継母は兄弟がまだ小さくて手が離せない、って言って顔を出さないんだって。そりゃあ、継子が今まで二回中絶手術をしていて三回目だって分かったら嫌気がさして病院には来ないよね」
 川原先輩を彼氏扱いして激怒したのは父親の方だ。病院にすっ飛んで行けば当然疑われる。先輩は卒論指導教授の部屋にいた今田さんのスマホに連絡をして来て貰い、誤解を解いて貰ったそうだ。
 堀井さんは数日で退院したが、父親は迎えに来なかった。付き合ったのは今田さんだ。
「継母って人が堀井さんを家に入れるのを嫌がって家の近くのマンションを借りて一人住まいさせるんだって。それってさ、親のつとめを放棄したことにならない?」
 今田さんは怒っているが、親のつとめとは子供が何歳になるまで続くのだろう。大学を出るまでの学費と居場所を保証してくれれば表面的には「親のつとめ」は果たしている。
「堀井さんは盲腸で入院したことになっているから、今回の件は映研の、特に事情を知らない子達には内緒にしておいてね」
 厳しい声で今田さんに釘を刺されたが、事件事故情報は自然と漏れて行くものだ。それでもまた何事もなかったように登校して来た堀井さんは他に居場所がないからか。姉さんが言うように「頭の螺子が弛んでいる」からなのか。
 僕は堀井さんのお陰でマンションに帰ると姉さんにいらぬ説教を食らう破目になった。
要約すると「馬鹿な女に引っかかるな」だが、僕の傍にはいつも姉さんがいて、馬鹿な女も賢い女も接近して来ようとはしない。
「姉さんこそ、変な男に騙されるなよ」と言い返したが、姉さんの傍には僕がいるのだから相互監視状態で、変な女、変な男に引っ掛かる隙さえない。唯一会話らしい会話をするのは映研の連中だけだ。
 学内では僕に代弁させて自分は無口で神秘的なクール・ビューティを気取っている姉さんもマンションでは僕をやり込める女王様に変身する。
 夜食の支度をしている間、姉さんは薄情な言葉で堀井さんを批判した。家庭状況がそうであれ、しっかりしている人は幾らでもいる。まさにその通りだ。大学は恋愛はごっこをしに来る場所ではない。ご説ごもっともだ。
 父と母が出会ったのは大学生時代だ。言い返そうと思ったが、止めた。結果としてそうなっただけで、異性ハントをしに大学へ来たわけじゃない。父は堅物で通っており、最初で最後の恋愛対象が母だったと聞いている。
 姉さんの舌鋒にうんざりして半分耳が留守になっていた時、突然佐藤さんの名前が出て来たのでまた神経を姉さんに集中した。佐藤さんが、何だって?
「でもって、佐藤さんは変なのよ」
「御免、ちょっと聞こえなかったんだけど、佐藤さんがどうしたって?」
 この子はもう、と姉さんが手近にあったフォークを投げ付けてきた。今日の夕飯はパスタだからテーブルの上にはフォークが乗っていたのだ。
「あの子は変だと言ったのよ」
「なんで?」
 パスタの茹で具合を確かめながら答えた。大学生活が始まってから僕はすっと女王様の食事当番だ。手袋をしてるんだから料理は出来ないでしょう、と姉さんは平気で僕に押し付けている。
 手袋の件を持ち出されると僕の負けだ。姉さんが小学校二年の時に誘拐されそうになった時、僕はぼけっと突っ立っていたそうなのだ。記憶にはないけど、母もそう言っている。証言者はご近所さんだ。
「あんたは時々異次元にスリップしたみたいに頭がからっぽになるのね。何で、じゃないでしょう。佐藤さんはね、私達を実験動物を見るような目で見ているって言ってるの」
「実験動物? そりゃあ彼女は心理学部だから双子に興味があるのは当然じゃないか。いいサンプルが目の前にいるんだからね。それに殆どの人が双子に興味を示すじゃないか。一年生の時に川原先輩に対しても姉さんは同じ様なことを言ってなかったっけ?」
 パスタが茹で上がったのでレトルト・パックのミートソースを温めてパスタの上にかけ、その上に粉チーズと乾燥パセリを振る。
 姉が子供の頃からの好物だ。カレーだのコロッケだの姉さんが子供っぽい食べ物が好きなので助かっている。フランス料理のフルコースなどと言われたらお手上げだ。
「私達は彼女のサンプルじゃない」
「へえ、だからこの前、足を出して佐藤さんを転ばそうとしたわけ?」
「あれは私じゃないよ。朔太郎がしたんじゃないさ」
 姉さんと争っても無駄なのでひたすらスパゲティ・ミートソースを頬張る。レトルトでも結構美味い。ただし、どんなに慎重に食べてもソースが飛ぶ。案の定、姉さんは白い手袋にソースのシミを飛ばした。
「あら、これだから嫌なのねえ」と自分の不始末を棚に上げて僕を睨んだ後、大急ぎで浴室に駆け込んだ。出てきた時にはシミのない手袋に代わっている。
 脱衣所の棚に掛けてある物干しには姉さんの交換用の手袋がずらっと並んでいて、一種異様な光景だ。姉さんの下着も干されていて、僕はいつも目のやり場に困る。
 佐藤さんの批判もいいけど、風呂くらい自分の部屋で入って貰いたい。ついでに洗濯物を干すのも止めて欲しい。寝る時は自分の部屋に戻って欲しい。
 以前、勇気を奮って進言したら「私の部屋、誰かがいるみたいに足音がしたり、椅子の位置が変わったりしてるのよね」とオカルトな事象を楽しげに説明された。一番最初に引っ越して来た晩にそれは始まり、ドアが開閉される音も聞こえるらしい。
 自分はテレビを見ているのにシャワーの音が聞こえたり、話し声が聞えたりもするそうだが、宝くじに当ったみたいに嬉しそうに言う話ではないだろう。
「なにそれ。姉さんの部屋は事故物件ってこと?」
「そうみたいね。住んでいるのは若い女の幽霊。私が入ろうすると邪魔するのよ。ちらっと姿を見たんだけど、真っ赤な服を着てるのよ。赤い服っていうより、服が血で染まったのかもね。お腹に包丁がぐっさり刺さってたよ。あれは恋愛の縺れで相手の男に刺されたんだと思うよ」
 さすがに僕もお腹に包丁の件で姉さんが僕をからかっているのに気付いた。しかし幽霊の話を楽しげに語る姉さんに与太話をするな、とは言えない。
「だからさ、あの部屋は幽霊さんに明け渡してあんたの部屋にいることに決めたの。どうせ家賃は四年分前払いしてるんでしょ。あの部屋を空にしておけば幽霊さんも四年間はあそこで安心していられるじゃない」
 本当ならマンション管理業者に連絡して部屋を代えて貰うか御祓いして貰うかのどちらかだろう。
 しかし姉さんの作り話なら騒ぎ立てることはできない。却って難癖を付けたと言われかねない。オカルト作り話で同居に持ち込むなんて、姉さんらしい。
 という経過があって、僕と姉さんは一室で暮らしている。実家にいる時には部屋は別だったが、姉さんはいつも僕の部屋に入り浸っていた。プライバシーがないのは今に始まったことではない。
「せめて自分の下着くらいはタオルかなんかを掛けて見えないようにしてくれない? いくら弟だからって、ブラジャーまでは見たくない」
 はいはい、と姉さんは答えたが、未だに下着は脱衣所の物干しにぶら下ったままだ。僕が男だということを完全に失念しているとしか思えない。

弟・雅紀

 大学が夏休みに入る前に珍しく雅紀から電話があった。弟の声を思い出すのに時間が掛かった。それ程僕は雅紀の存在を忘れていた。
「なんだよ、誰からの電話だと思ってるのさ。父さんからの伝言だ。母さんが寂しがってるから帰って来い、ってさ。たまにはそっちから電話しろよ」
 相変わらず無愛想な声だ。高校受験はどうする、と聞いたら、とっくに高校二年だ、と更に硬い声が返って来た。
「高二? おまえがもう高二か。驚いたな、まだ中学だとばかり思っていた」
「弟だって成長するんだよ。まったく兄貴の無関心には驚くね。まあ、今更だけど。それで帰って来れるのか」
 JRルートと飛行機ルートの二つだが、飛行機ルートも千歳から札幌まで行って更に乗り換えが必要だ。往復するのは気が重い。姉さんはスマホから漏れる声に両手で×印を作っている。
「悪いな、二人分の旅費の都合がつかない」
「はあ? 二人分って何だよ。兄貴でも姉貴でも、どちらかがが帰ってくればいいじゃないか。結果は同じことだよ。大学生はバイトくらいするもんだろう。往復の旅費くらいは自分で稼げよ。気が進まないのは分かってるけど、一年に一度くらいは病院の母さんを見舞ってやったらどうさ」
 母さんの見舞い……。雅紀は何を言っているんだ。母さんは僕と姉さんが東京へ出発する時、父さんと一緒に上京したし、月に二度は電話をして来る。
 最後の電話の後に病気になったのだろうか。一年に一度くらいは、とはどういう意味だ。僕と姉さんが東京に出た後に病気になったが、母さんはそれを隠しているのだろうか。
「母さんが病院に入院しているのか? それはいつからだ。病名は? まさか癌とかじゃないだろうな。地元の市立病院か、それとも札幌の病院か」
「なに言ってんの、兄貴。母さんはもう十年近く入院しているじゃないか」
「何で?」と僕は雅紀に尋ねた。十年近くの入院なら難病ではないか。あまりに整合性を欠く話に頭がぼおっとして来た。
 それから雅紀がごちゃごちゃ話をしていたが、気が付くと僕からスマホを?ぎ取った姉さが「帰らないわよ」と冷たい口調で通話を切っていた。
「あんた、雅紀が電話の向こうで舌を出しているのに気がつかないの? みんな作り話に決まってるじゃない。まったく、あんたって人はすぐ人の話を本気にするんだから」
「作り話が好きなのは姉さんだけかと思っていたんだけど」
 こらっ、と言って手を上げたので僕は咄嗟にその手を掴んだが、姉さんがみるみる蒼白になるのを見て慌てて手を離した。
 手に触れるのは厳禁。未だに誘拐のトラウマから開放されていない姉さんが可哀相だった。一緒に現場にいながら何もしてやれなかった僕はそのことで同じ様に痛みを感じている。
 ごめん、と言うと姉さんはよろよろと脱衣場に向かっていた。洗面台から水の流れる音と吐気を堪える音がした。また白手袋を交換するのだろう。姉さん、あなたが手袋から解放されるのはいつですか。

アルバイト小景

 雅紀が母のことを話している間のことは姉さんが聞いていたので、僕の耳に残っていたのは大学生になったらバイトくらいするもんだ、という件だけだった。
 自宅から通っている学生は小遣い稼ぎの為、遠くから東京に出て来ている学生は生活費の為、目的は違うが殆どの学生は長期・短期のバイトをしている。
 川原先輩に相談すると学生だけの求人を斡旋してくれるサイトを教えてくれた。条件を登録しておくとサイトからメールが届く。
 それこそ多種多様で、一日だけなんてバイトもある。短期で登録しておくと三日間だけのバイトのメールが入った。着物の展示即売会のバイトだ。
 着物のことなどまるで分からないから電話でそう言うと、客の買った着物を包装するだけだそうだ。僕は乗り気でない姉さんを当日、会場まで引っ張って行った。
 着物なんてそんなに売れるものではないだろうと思っていたが、常連のお客様を抱えている業者らしく案外盛況だった。
 セールス・トークは販売員、包むのはバイトだ。ずっと正座していなくてはならないのが辛かったが、販売員は優しいし、昼休みも長めに貰えた。バイト代は三日目にまとめて貰えた。
 この業者が展示即売会をする度に呼んで欲しいくらいの楽な仕事だったが、姉さんは浮かぬ顔だ。聞いたら販売員の男にナンパされたそうだ。
「付き合ってくれたら着物を一揃いただであげる、って言われた。気持悪いったらありゃしない。私、そもそも着物なんか着ないし。それにあげるって言われた着物の柄が好きじゃないし」
「柄が気に入らないって、なんだよ。柄が好みなら付き合うつもりでいたのか」
 まさか、と姉さんが即答した。相手には聞えないふりをして通したそうだ。
 次のバイトは十日間、洋書取次ぎ店での本の仕分けだった。洋書と言ってもその大部分は英語だ。辞書を片手に文学系、科学系を分類した。
 僕らの英語力を信用しているのか、それとも他の仕事で忙しいのか、社員は朝、ダンボール一杯の本を僕らに預け、夕方になるとその本をどこかへ持って行った。これも最後の日にバイト代を貰って帰った。静かでいいバイトだった。
 姉さんのスマホにはコンパニオンの仕事、僕のスマホには力仕事の紹介が入ったが、一人でやる仕事はすべてパスだ。姉さんが一人でバイトをしたり、姉さんを置いてバイトする気にはなれない。それでも夏休み中に旧型のスマホを下取りして貰って新機種に変更するくらいは稼げた。
 一年生の夏休みは少しでも早く東京に慣れようと当てもなく歩き回ったものだが、バイトに行く方が東京を実感出来る。着物展示販売は大久保だったし、洋書取次店は神田だった。
 ただ道を歩くだけでは分らないが、そこで一日でも過ごすと何となくだがその街の雰囲気を感じ取れる。東京は大きなビルばかりと思っていたが、こじんまりしたビルがあり、そこで働く人がいる。
 大阪に本社がある会社でのバイトも経験したが、女性は東京採用らしく標準語だが、男性社員は全員関西弁で、建物の中はリトル大阪だった。

バニシング・ツイン


 夏休みが終って授業が始まると、一番先に食堂で知った顔に出逢ったのはやはり佐藤さんだった。
「一緒にディズニー・ランドに行こうと思って電話したのにちっとも出なかったね。何してたの」とさっそく詮索が始まった。彼女も帰省せずに東京にいたらしい。バイト、と答えると「へえ、能代さんがバイトをねえ」と妙に感心された。
 彼女が僕と姉さんに抱く印象はどこか超然としていてとてもバイトに精を出す人間には見えないのだそうだ。
「バイトはバイトだけど、みんな短期のバイトだから色々な会社の形態が見えて面白かったよ。感じのいい会社では、将来ここで働こうかな、と思ったりして」
「そう言えば、四年生の土屋先輩はずっと語学系の出版社でバイトしていて、卒業したらウチに来てくれ、って言われてるんだって。就職活動をしなくて済むよね」
 成る程、そういう就職の仕方もあるのか。しかし土屋先輩は故郷に帰って公務員を目指している筈ではなかったか? 
 就職氷河期と言われる時代を経験してから公務員は安全な職業として人気がある。大会社に入社しても会社が潰れたらおしまいだ。
 その点、公務員は国や自治体がなくならない限りは安泰だ。安全性第一を考えれば公務員がいいに決まっている。
「公務員になるつもりです、って断わったら、公務員試験に落ちてからでもいい、って言われたんだって。見込まれたもんだよね。土屋先輩がバイトしている会社って、語学出版では定評のある堅実な出版社だけど、語学系も昔と違ってネットで勉強する時代でしょう? 出版社もそっちにシフトしているらしいけど、出版事業自体が変革期だから、どうするか悩んでいるみたい。四年生ともなると就職が目の前にぶら下っていて大変だよね。いずれは就職しなけりゃいけないのは分かっているけど、大学は就職予備校か、って言いたくなる。始めから目的がはっきりしている専門学校の方が悩まなくていいのかもね。看護学校出て看護師以外の選択なし、だもんね」
 久し振りに会ったせいか、佐藤さんは一気呵成に喋り倒した。経済的に余裕のある家庭に育った彼女はバイトの代わりに大病院の小児病棟慰問がメインのボランティアをしていたそうだ。
 映研とは別に二年生になってから学内のNPOにも属している。心理学部の学生が多いが、他の学部からの参加者も合わせて二十人。他大学とも連携して定期的に子供達と遊んであげているらしい。
 一緒に来ない? と誘われたが、僕と姉さんにはボランティア精神はないし、同情心もないし、そもそも子供が嫌いだ。自分だって子供の時があったでしょう、と言われるけど、二度と子供に戻りたいとは思わない。
 ウチの大学ではボランティアに参加すると社会活動として単位が認定されるそうだけど、それにも興味がない。佐藤さんはNPOの活動を通じて交際範囲を学外まで広げたみたいだ。が、それも羨ましくない。
 ボランティアはいいけど、宗教の勧誘みたいな笑顔が嫌だ。
「自己満足の偽善者集団みたいに思う人達もいるけど、偽善だってしないよりはマシって意見もあるわよ」
 あんまり僕と姉さんが興味を示さないので佐藤さんはボランティア参加の話を諦めた。ボランティアに参加するのが社会的に正しい生き方だ、とは言われたくない。
「あ、そうだ、見えないお友達とお喋りしている子供なら興味があるんじゃない? ほら、オカルトとかホラー映画によく出てくるパターン。あれ、実際にあるのね」と佐藤さんが別の切り口を入れて来た。
「マジで?」とさっそく引っ掛かる僕。この手の話が大好きな姉さんも早速食いついた。体温が上がったらしくエゴイストの香りが一瞬強く香った。
「これは外来で精神科に来てるお母さんから聞いたんだけど、やっとつかまり立ちができるようになった頃からウーウー言いながらあちこち指差しをするんだって。幼児って大人から見たら不可解な事をする時期ってあるじゃない? だから気にもしてなかったんだけど、言葉が喋れるようになってからは『アカネちゃん』とか言うんだって」
「『エクソシスト』の少女も砂嵐のテレビを見てたわね」
 そうそう、と佐藤さんが姉さんの言葉に相槌を打った。
「子供や犬猫には普通の人が見えないモノが見える、ってやつね。普通は幼児期を過ぎると本人も忘れちゃう一過性のものらしいんだけど、そのお母さんが言うには小学校に入学してもその『アカネちゃん』がまだ家にいるらしくて、他の子とは遊ばないで、真先に家に帰って来るんだって。それで心配したお母さんが子供と一緒にカウンセリングを受けに来てるらしいんだよね。今はまだ『アカネちゃん』は家の中でだけど、学校まで一緒に登校し始めたらヤバイよね。他の人には見えない『アカネちゃん』はもう病院まで付いて来てるんだって」
 映画ならその子の守護霊とか冥界へ連れ去ろうとしている邪悪な霊だが、精神科の医師がまさか霊の仕業などと言うはずがない。
「他の霊的お友達は見えないの?」
「『アカネちゃん』だけだって」と佐藤さんが僕の右を見て答えている。
「そこでさ、これからが衝撃なんだけど、その見えないお友達を連れている子、『アケビちゃん』っていう名前なんだけど、バニシング・ツインだったんだって。妊娠初期は双子だったけど、『アカネちゃん』は子宮に吸収されて、生れて来たのは『アケビちゃん』だけ。『アケビちゃん』には生れて来れなかった『アカネちゃん』が見えているって事らしいんだよね。これを合理的に説明するとしたら、能代君なら何て言う?」
「そうだなあ、やっぱり母親の問題じゃない?」
 一息ついてから答えた。バニシング・ツインは双子問題では比較的知られた話だ。
「母親が一番最初に双子だと聞かされて喜んでいたのにある日一人が消えてしまう。『アケビちゃん』は母親から繰り返しその話を聞かされていて、いない筈の『アカネちゃん』を脳内で生み出してしまった。結局は母親の意識の反映だとおもうけど」
「そうよね。あんたは本当は双子だったのよ、と聞かされて育ったら『アカネちゃん』が現われてもおかしくはないわよね。お母さんはひょっとしたら『アケビちゃん』より『アカネちゃん』の方が好きだったのかも知れない、って思っちゃうかも。お母さん自身が『アケビちゃん』と『アカネちゃん』を混同して呼んでいるくらいだから。子供ってそういう所、敏感だよね。幽霊よりもっと怖い話かもね。お母さん方が闇が深そうじゃない?」
 バニシング・ツインの話を聞く度に姉さんと僕のどちらかが消えることなく無事産まれて来たことに不思議な感動を覚える。僕かあるいは姉さんだけだった可能性もあるのだ。
 染色体異常という説もある。アポトーシスみたいなものだろうか。バニシング・ツインの理由はまだよく分かっていない。妊娠中の胎児をエコーで見る技術がなかった時代は生れたのは一人でもバニシング・ツインだった可能性は充分にある。

オムライス

 受けるべき講義がすべて終ってから僕と姉はスーパーに寄って食材を調達してマンションに帰った。隣の部屋は姉さんが使っていないので空室の筈だが電気のメーターが回っている。
 それを指摘すると「朔太郎、あんた、探偵になれるかも。大学を卒業したら二人で探偵業を始めようか」と現実無視の呑気な答えが返って来た。
「あのさ、姉さん、テレビだって冷蔵庫だってコンセントを入れっ放しにしておくと待機電力が掛かるんだからね。後で鍵を貸してくれれば僕がブレーカーを落しておくよ」
「鍵、失くしちゃったかも。それに幽霊だってたまには砂嵐のテレビを見てるかもよ」
 はいはい、と適当に流して部屋に入り、僕は夕食の支度を始めた。今日のリクエストはオムライスだ。爪楊枝で日の丸の旗を立ててやると姉さんは子供みたいに喜んだ。
 僕らの住んでいる市の、十年前に廃業してしまった小さな百貨店の三階に家族レストランがあって、姉さんはそこに行くといつもオムライスを注文していた。そこの味よりは数段上だ。
「あんた、調理師の才能もあるんじゃない? 将来二人で飲食店を開こうか」
 姉さんがまた突拍子もないことを言い出した。調理師になるつもりなら大学なんか行かないで調理師学校へ通って、今頃はどこかの店で修行している。
「探偵とか飲食店とか、勝手に僕の進路を決めるのは止めて欲しいな。それに二人で、って何だよ。姉さんはCAになるんだろう?」
 まあね、と姉さんは日の丸の旗をくるくる回した。
「子供の頃、お子様ランチの上に乗っている日の丸がいかにも今日は特別な日、って感じだったけど、食事が終った後、日の丸はどうしてんだろう」
 うーん、と唸って僕は記憶を手繰り寄せた。家に持ち帰った。まさかね。結局皿の上に打ち捨てられてお終い、だったような気がする。
「お皿の上に置きっぱなしで帰ったような気がするけど」
「アメリカではお子様ランチの上に国旗を立てたりするのかな。アメリカは国旗不敬罪があるらしいから、持って帰らないと逮捕されるかも」
 アメリカにお子様ランチはないだろうし、国旗を立てたりしないだろう。アメリカ映画でそんな場面を見た覚えがない。日本だけのアイデアではないか。
 アメリカというと馬鹿でかいハンバーガーに噛り付いているイメージしか思い浮かばない。最近ではケイタリングの中華とか日本食とか。
 僕がアメリカに行くとすれば『バクダッド・カフェ』のようなガソリンスタンド兼モーテルに泊まってみたい。人情までは期待しないが、雰囲気を感じてみたい。姉さんならラスベガスの高級ホテルとか言いそうだ。
 食事の後片付けをしている間にシャワーを浴びた姉さんはベッドに寝転がってテレビを見ている。
「……、と思わない?」と聞えた。
「なに、何か言った? テレビの音がうるさくて聞えないんだけど」
「今日の佐藤さんの話」と姉さんがテレビの音声を絞った。テレビでは季節的には遅い心霊番組をやっている。いかにもおどろおどろしい効果音が耳障りだ。
「佐藤さんの話って、幽霊が見える女の子のこと?」
「そう。精神科に通ってる親子。精神科を受診してます、なんて普通は隠すよね。今は心療内科の方が聞こえがいいからどっちかと言えば心療内科って言いそうじゃない」
「世間的にはね。でも病院に来てるんだから嘘つく必要はないんじゃない? 痔が恥ずかしいからって眼科の待合室にはいないだろう」
 そうじゃなくて、と姉さんは心霊番組に眼を凝らしながら言い返して来た。動画の粗捜しをしているに違いない。最近は加工動画ばかりだ。映像専門のテレビ局のくせに安易にネットの動画を垂れ流している。
「双子の前でバニシング・ツインを語る神経が気に入らない。本当に病院で親子に会ったのかも疑問。何が言いたいんだろう」
「そんな事、どうでもいいじゃないか。多少失礼かな、とは思うけど、彼女は心理学が専攻だから興味があるんだろう」
 姉さんはまだ不満を漏らしていたが、僕は無視してシャワーを浴びに行った。『アケビちゃん』には気の毒だが、僕と姉さんはこの世にちゃんと双子として生まれて来た。

母の言葉

 僕は週に二、三回くらいバスケ部で体を動かしている。四月に入学した新入生が「自主練」をしている間、コートが開いていれば僕と同じ様に高校でバスケ部にいて、でも二軍にもなれない連中と一緒に純粋にバスケを楽しむ。
 その間、姉さんは体育館の入口付近で体育座りをして待っている。始めの頃、新入生達は場違いな場所にいる姉さんを見て不思議そうな顔をしていたが、今はちらっと目をやるだけで気にしなくなった。
 たまに興味本位で近付こうとするやつもいないではないが、姉さんがじっと見つめ返すだけなので、神殿の奥の女神を見てしまったような顔をして諦める。美貌の姉さんに声を掛けようなんて、百年早い。
 一汗かいて午後の授業に復帰しようとジャージから普段着に着換えていると思いがけず川原先輩が姉さんの傍に立っているのに気が付いた。こちらを見て「やあ」という形の口で手を上げている。
「先輩、どうしたんですか。バスケ部に顔をだすなんて、珍しいですね」
 先輩は一年生の時の夏季水泳授業で10mで溺れ、指導員に救助された伝説の持ち主だ。スポーツ感まるでなし。その代わり、歩くのはめちゃめちゃ速い。
「今田さんと最近会えなくて、姉さんが寂しがっています」
「今田は卒論で忙しいんだ。後は就活。第一志望は学芸員だけど、ポストが開くのを待っている状態みたいだね。第二志望は出版社。今田が狙っているのは史学が生かせる出版社だそうだ」
「出版社ですか。土屋先輩は出版社にラブ・コールされてるんじゃなかったですか?」
「土屋はやっぱり地方公務員になるつもりらしい。母子家庭だから、故郷に帰って将来お母さんの面倒をみるんだそうだ。帰れば家もあるしね。」と先輩は淡々とした口調で答えた。
 僕と姉さんは人口減が続いている故郷に帰るつもりはない。能代興産は弟の雅紀が継ぐ。父さんは雅紀には会社を、僕と姉さんには学歴を、と言って僕達を北海道から東京へ送り出した。
 両親が年老いたら面倒をみるのは当然、雅紀だろう。僕等は東京で活路を開くことを期待されている。別の言い方をすれば故郷に僕等の居場所はない、ということだ。
「僕のウチはオヤジがサラ—リーマンでさ、下に妹もいるから本当はさっさと就職して親を楽にしてやらなきゃならないんだけど、我儘を許して貰っている。妹は大学には行かないで各種学校へ行っている。妹の方が堅実かな。能代君のウチはやっぱりサラリーマン?」
 いえ、と答えて簡単に能代興業の話をした。
「へえ、社長の息子なんだ」と感心されたが、地方の中小企業の社長なんて幾らでもいる。それに大手の進出でガソリン・スタンド経営からも撤退しつつある。が、そんなことを先輩相手に愚痴っても仕方がない。
「会社名は何ていうの?」
「能代興産です。産業を興す、の興産。曽祖父の代に石炭を扱って創業しました。今は石炭産業もなくなったのでガソリンや灯油、プロパンガスの供給なんかですね。曽祖父の頃にはまだ石炭で景気が良かったので、芸能関係の興業主もしていたそうですが」
「今はそういうの、イヴェント会社がやってるもんね。何とか企画、とか。そう言えば、経営学部の田中が友達数人とイヴェント会社を起こすって言ってたな。大学を出て起業もいいよね」
 田中って誰ですかだが、僕には関係ないので敢えて聞かなかった。姉さんも体育座りをしながら他人事です、と思っているらしく表情を変えなかった。姉さんはもともと自分に直接係わっている事にしか関心がない。
 そろそろ午後の授業が始まるので僕は姉さんの腕を取って立ち上がらせた。身長の割りに姉さんは軽すぎる。モデルじゃないんだからもう少し太ったっていいはすだ。
「能代君、学部での専門の講義の時はどうしてるんだ? 君は経営学部だし、朔耶さんは文学部だろう?」
 一緒に歩き出した先輩が心配そうな顔をしている。いつもべったりくっ付いている双子の泣き別れを気に掛けてくれるのだろうが、さすがに僕が姉さんと一緒に講義を受けるわけにはいかない。
「文学部の校舎まで姉さんを送って行って僕は僕でちゃんと経営学部の校舎に行きますよ。姉さんは一番後ろの席に座っていて、僕が迎えに行くまで待っています」
「ほう? 学部で友達とか、できた?」
「いえ、知らない人とは口を聞かないみたいですよ。昔から女子同士でお喋りに興じる事もなかったですし」
 姉さんが「それが何よ」と言いたげに眉間に皺を寄せている。
「まあ、朔耶さんがそういう性格なら仕方がないね。でもさ、一卵性双生児だって性格は違う。朔太郎君は、こう言っては何だけど、割と社交性はある方だろう? 学部でなるべく知人を増やして置いた方がいいと思うよ。将来大学で築いた人脈が役に立つ」
 どこまで付いてくるのかと訝しく思っていたら先輩は「じゃあな」と言って心理学部棟に走って行った。熊が予想以上に速く走るのと同じ様に、人間のプーさんも俊足だ。
「あの人、本当にお節介焼きよね」と先輩の姿が見えなくなった途端に姉さんが面倒臭そうにぼやいた。
「デート、一回だけで止めて良かった。会うたびに説教されたらうんざりする」
「デートって、横浜に行ったこと? あれは僕もいっしょだったからデートとは言わないよ。それにさ、先輩のアドバイスは貴重じゃないか。この前はウチの大学出身の税理士達が受験対策講座を開いているのを教えてくれたじゃないか。ちょっと興味を引かれたけどね」
「あんたは私と一緒にCAになるの。最近はANAやJAL以外の航空会社が参入し始めてるから、CAの需要も増えている筈よ。何なら外国の航空会社でもいいじゃない」
 二年間も言い続けているということは、CAになる、は単なる気紛れではないらしい。しかも外国の航空会社まで視野に入れているとは驚きだ。
「でも姉さん、同じ航空会社に入ったって、いつも同じ飛行機に乗れるとは限らないよ」
「じゃあ、いつも一緒になれるような小さな航空機会社ならいいんじゃない? ともかく、あんたは私を守る義務がある。東京に出てくる時、お母さんに約束したじゃない。いつも傍にいて私を守るって。また私だけ恐ろしい思いをして、あんた一人ぼうっとしているつもり?」
 僕の足は急に動かなくなった。「何で姉さんを守れなかっの?」と僕を責めた母の言葉が今でもずっしりと僕の心に沈殿している。「おまえが代わりに誘拐されれば良かったのに」とも言われた。
「でも、姉さんは近所の家に駆け込んで助かったじゃないか」
「お目出度い頭だこと。姉さんがどんなに怖い思いをしたか、あんただって分からない歳じゃないでしょう。いい、これからは絶対姉さんの傍にいること。あんたは一生を掛けて姉さんを守るのよ。二度と……」
「能代さん、どうしたんですか、顔色悪いみたいですけど。一人で大丈夫ですか」
 わんわん響く母の声を断ち切って誰かが僕に声を掛けて来た。ぼんやりしたまま振り返ると一年生の梶原さんとその友達だった。二人とも映研の新入女子部員だ。確か、鎌倉でも一緒だった。
「え? いや、大丈夫だけど、僕が一人って、どういうこと? 僕はいつも姉さんと一緒だけど」
「あ……、そうでしたね。能代さんは二卵性双生児でお姉さんは朔耶さん、文学部の英文科。川原先輩に言われてたんですけど、つい」
 二人は僕の右隣にちらりと目をやると、取ってつけたように「こんにちは」と頭を下げた。一時でも無視された姉さんはおかんむりだ。学内一の美人を見忘れるなんて二人ともどうかしている。
 二人が脅かされた子犬みたいに走り去った後、僕は姉さんを文学部の教室までエスコートして行き、その後急いで経営学部の教室に滑り込んだ。
 教授がプロジェクターの操作に手間取っていたので滑り込みセーフ。文学部の教室で一人ぽつねんとしているだろう姉さんのことを考えると僕はまったく授業に集中出来なかった。

朔耶の疑い

 北海道では十月中旬になると白い雪虫が飛んで道民は冬の訪れを感じ始める。雪虫が飛んだら一週間か十日以内に初雪が降る、と言われている。
 初雪が降ったからといってすぐ根雪になることはないが、車のタイヤをいつスタッドレスに履きかえるか、頭の痛い時期だ。
 客のリクエストで峠越えをしなくてはならないかも知れないタクシーはいち早くスタッドレスに履き替える、とニュースで聞いたことがある。
 どこそこの道は冬季閉鎖に入りました、とラジオのアナウンサーが告げる。嫌でも冬の到来を実感させられる時期だ。白鳥の群れがコオコオと鳴き交しながら僕等の家の上空を飛んでいるだろう。
「白鳥さんにシベリアにいるお友達宛に手紙を頼んだら返事が来るのは半年後だね」と小さい時の姉さんが言っていたのを思い出した。気長に返事を待つのも悪くない。
 空気が日増しにピンと張り詰めて行く北海道に比べると東京は十月でもどんよりしていて生暖かい。僕の体はまだ道民仕様だ。
 姉さんは暑いの寒いのと文句は言わない。マンションも大学も冷暖房完備だから大して気にならないらしい。
 父さんが学生だった頃の旧校舎は、暖房はあるけど冷房はなく、教室の一番奥で扇風機が二台回っている状態だったそうだ。夏休みは学生がいないのだから冷房はいらないでしょう、と考えていたらしい。
 それが今や冷暖房完備、講義はプロジェクター、一人一台ノート・パソコンを買わされ、休講の連絡は携帯にメールで入って来る。教授も学生もパソコンが使えるのが前提だ。
 もっと通信速度が上がったら、わざわざ登校しなくても自宅で講義を受け、自宅からレポートを提出すれば済む時代になる。その時は校舎という器も必要なくなるだろうし、僕等も上京する理由がなくなる。
 ちょっと先の未来を夢想している間に講義が終了した。姉さんからの呼び出しコールが届いている。「迎えに来い」の合図だ。
 自分のいる文学部の教室の配置さえ覚えようとしない姉さんはある意味つわものだ。誰もいなくなった教室でツンとした顔で座っていられる。全部僕任せで次にどの教室に移動すべきか分からないし、知ろうともしない。
 文学部ではたまに今田さんと擦れ違うが、卒論と就活でカリカリしている四年生にはとてもじゃないが姉さんの世話までは頼めない。
 結局僕は姉さんの腕を取って文学部と経営学部を行ったり来たりしている。今田先輩から聞かされたが、僕は文学部英文学科では有名人になりつつあるらしい。
「経営学部なんかに行かないで、文学部にすれば良かったじゃない」
 僕の努力に対する姉さんの反応がこれだ。今更言われても困る。それに僕は英語に興味がない。今では中国語の方が好きなくらいだ。
「キングやクーンツの新作をいち早く原書で読めるわよ」
「キングやクーンツは好きだけど、別に原書を読まなくてもいいよ。翻訳が出版されてからで充分だ。売れている作家の本はすぐに翻訳本が出るからね」
「ああ言えばこう言うって、あんたの事ね」 
 僕が一生懸命に食事の用意をしている間に辛辣な言葉が返って来た。
 この人は絶対いい嫁にはなれない。いや、始めから結婚する気などないだろうけど、間違って結婚する気になっても何かというと僕を呼びつけるに違いない。
「一人じゃ大学へも行けない、教室も移動できないような人には言われたくないね」
 何ですって、と言った姉さんの顔が紅潮していた。僕だってたまには虫の居所が悪い日がある。
 「いつも朔耶の傍にいてあげてね。あの子は怖い思いをしたんだから」が母の至上命令ではあるが、女子トイレまで付いて行かなくてはならないなんて、束縛以外の何ものでもない。
 トイレの横で待っていると痴漢やストーカーに間違われそうになったこと度々だ。トイレから出て来た女子達の視線が僕を不審者扱いしている。
「子供の頃、誘拐されそうになって一人でいるのが怖いのは分かるよ。でも十年数年も前のことじゃないか。学内くらい一人で歩けるだろう。姉さんの行く所どこまでも付いて行くなんて、これからの長い将来、不可能だ」
「私から離れたがっているのはあんたが経営学部なんて、わけの分からない部を受験した時から分かってたわよ。本当は大学だって違うところを受けたかったんじゃないの? その方が楽よね。バニシング・ツインみたいに私の存在を忘れられるんだから。それでもって他の大学で楽しい学生生活でも送るつもりだったんでしょう。私が傍にいなけりゃ女の子も選り取りみどりだものね。あんたの願望は堀井って子の逆バージョンで、今頃」
 そこで止めてくれ、と僕は遮った。幾ら怒っているとしても姉さんの言葉は酷すぎる。フォークを投げつけられる方がまだましだ。
 僕等はその晩、黙って食事を終え、シャワーも浴びずに寝た。姉さんの心の中までは知りようがないが、僕を傷付けたことを反省していないのは確かだった。

家族写真

 次の日、姉さんを文学部に送り届けた僕は丁度休講になったのを幸いに部室に向かった。何か楽しくなれる映画が見たかったからだ。
 部室のドアを開けると川原先輩が『キリング・ビューティー 七回殺された女』を見ている最中だった。
 偶然出会った男と一夜を共にし、殺されてはまたベッドで目覚める。それを七回繰り返すうちに相手の男がサイコなシリアル・キラーだと気付いて脱出を試みる。そしてその結末は、というB級ホラー&サスペンス映画だ。
 ホノボノ系を求めて部室に来た僕は先輩が画面を食い入るように見ているのに驚いた。熊のプーさんは普段こういう不条理な映画は見ない。
「先輩、珍しいですね。洋画のホラーなんてあまり見ないでしょう」
 僕は先輩の傍に椅子に腰を下ろした。一度姉さんと一緒に見て、ずっと忘れていた映画だ。タイトルは忘れたが、同じ様な映画が他にもあったような気がする。
「まあね。誰かがデッキに入れっぱなしにしたらしいDVDがあったんで見てたんだ。新入生でホラー映画ファンでもいるのかな。人を脅かすためだけの映画はあまり見ないよ。もっとも、最近のDVDは特典映像が付いていて、被害者役の俳優さんが血糊をつけたままコーヒーを飲んで笑っていたりするから純粋に演出を楽しめるけどね」
 白状するとね、僕は怖がりなんだ、と先輩は付け加えた。
「最近ですが、その特典映像の方が本編より長い作品を見ました。監督やスタッフが長々と喋っていました。面白くなかったですけど」
「それは暇潰しにしても苦行だな。そういう作品は本編もつまらないに違いない」
 映画は終盤に入り、ネタバレしたくてうずうずしていたが耐えた。推理小説を読んでいる人も犯人はこの人、と指摘されたくはないだろう。
 姉さんは見事なまでの推理音痴で、ライト・ノベルの推理小説でも犯人が誰か最後まで分からない。僕に犯人の名を聞いてから小説を読み出すくらいだ。その方が安心して読めると言うのだが、もはや推理小説の域を外れている。
「正当防衛が認められている外国が羨ましいよ」と先輩は妙な感心をしながらDVDをデッキから取り出した。
「日本じゃ正当防衛の範囲は狭いからね。殺されそうになったので殺しましたは過剰防衛と見做される。その前に警察に御一報を、と言われるだろうね。警察が駆けつけるまでなるべく加害者に傷を負わせず、ひたすら防衛に努めるわけさ。普通、そんなの無理に決まっている。他人の庭に入っただけで銃殺され、それが正当防衛になるアメリカとは大違いだね」
「それって、正当防衛はどこまで認められるか、の議論ですか」
「いや、そんな高尚なもんじゃないよ。それよりも、君一人で部室に来るなんて珍しいね。朔耶さんの体の具合が悪い、とか?」
 僕が姉さんが右隣にいないと落ち着かないように、双子の一人がいないと先輩も違和感を感じるものらしい。
 姉さんは文学部で授業を受けていて、僕はたまたま休講になったので部室を覗きに来た、と先輩に告げた。文学部の講義が終った頃、また姉さんを迎えに行く予定だ。
「実は昨晩姉さんと険悪な雰囲気になりまして。楽しい気分になれる映画を見て気分転換しようと思ってたんですけど」
「へえ、能代姉弟も喧嘩するんだ?」
「双子だってたまには喧嘩しますよ。一心同体ってわけじゃないですから」
 先輩は僕の右隣を見ながらわしわしと天然パーマの頭を掻いた。家系的に将来禿げそうだと言っていたが、今のところは豊かな毛髪量だ。
「一心同体ではない、か。そりゃそうだね、君は君であって朔耶さんじゃない。それを自覚しているのはいい事だ」
 この人は何を言いたいのだろうか。当たり前のことを当たり前に言われても困る。双子が喧嘩するのが珍しいとでも言いたいのだろうか。 
「それで、喧嘩の原因は?」
「本当は違う大学へ行って遊び回りたかったんだろう、と言うからですよ」
 僕の口は子供みたいに尖っていたに違いない。姉さんへの愚痴を聞いてくれるのは先輩ぐらいしかいない。
「実際はどうなの。他の大学へ行きたかった?」
「そうですね、僕の偏差値では二、三の候補はありました。でも、進学させてくれる条件として同じ大学じゃなきゃ駄目って母に言われました。それに、父と母の母校でもあるので、最終的にはここを選ぶしかなかったんです」
「君の家ではお母さんが決定権を握っているように聞えるけど? まあ、お母さんが主導権を握っている家庭の方が安泰だそうだけどね」
 先輩はすっかり真面目なカウンセラーの顔をしていた。心理学部で修士課程に進もうとしている人だから当然か。
「ウチでは母の意向というよりは何でも姉が中心です。姉は今も美人ですが、ちいさな頃は可愛いお譲ちゃんで有名でした。子供の目で見ても姉の可愛さは際立っていましたからね。母はすべて姉の言いなりでした。ご飯のおかずだって姉に決めさせていたくらいです。姉だけが実子で僕と弟の雅紀は継子ではないか、と思っていた時期もありましたよ。だから今でも弟の雅紀は家の中では冷めた態度をしています」
 僕はパス入れの中にいつも入れている家族写真を先輩に見せた。僕と姉さんが小学生二年、雅紀が保育園の時の写真だ。
 雅紀はしかめっ面をしているが、両親と僕、姉さんは満面の笑みで写っている。この後すぐ、姉さんは今でもトラウマになっている誘拐未遂事件に遭遇した。
「おや、本当に可愛らしい子だ。ロリコンが見たら誘拐したくなるだろうね」
「先輩、怖い事、言わないでくださいよ。本当に誘拐されそうになったんですから、冗談じゃありません」
 僕の語気が強かったらしく、ああ、御免、と言いながら先輩が写真を返してくれた。家族写真はこれ以後一枚もない。神経質になった母さんが写真を撮られるのを嫌がったからだ。
「溺愛していた娘が誘拐されたら、そりゃあショックだろうね」
「いえ、誘拐された、じゃなくて誘拐されそうになった、です。姉は近所の家に駆け込んで助かりました。ウチの近辺では玄関に鍵を掛けている家はありません」
 僕は先輩の言い間違いをきっちり修正した。都会の人間は鍵を掛けないと聞くと驚くが、鍵が掛かっていなかったから姉さんは助かった。
「お母さんは随分心配性なんだね。そもそもの始まりはどうやらお母さんにありそうだ」
 先輩が考え込んでいる間に僕のスマホに着信が入った。姉さんの授業が終わり、僕を呼んでいる。呼ばれたらたとえ月の裏側だって行かなくてはならない。
「あの、先輩、僕が愚痴ったことは姉に内緒にしておいてください」
 勿論、と先輩は軽く手を挙げた。

弟・雅紀からの電話

 今田さんは地方の郷土史館に就職し、土屋先輩は故郷に帰り、小林先輩は高校の日本史の臨時教員になった。心理学部の佐藤さんはお約束通り映研の部長だ。早瀬先輩はウチの大学の博士課程に、川原先輩は無事修士課程に進学した。
 真面目が服を着て歩いているような早瀬先輩はともかく、途中で単位を落したりしたりして、一見のんびりしているように見える川原先輩も根はしっかりしている。
 学部で殆ど話し相手がいない僕にとって映研の先輩がいなくなるのは学校へ通う理由が一つなくなる程の寂しさだが、まだ川原先輩が顧問として残っている。森の熊さんは相変わらず上級生としての威厳がない。
 そんな大学の春休み中、雅紀から電話があった。見慣れぬ電話番号に途惑ったが、出てみたら雅紀の声だった。今時固定電話しか持っていな方が珍しいから弟もスマホを買ったのだろう。
「なんだ、雅紀か。おまえもいよいよスマホか。どうせ母さんに買って貰ったんだろう」
 僕は茶化して言ったつもりなのだが、
「バイトして買ったんだよ。入院中の母さんが僕にスマホを買ってくれる筈がないだろう」と相変わらず冷淡な答えが返って来た。
 入院? 以前電話をしてきた時も母さんは入院していると言っていたような気がする。
「母さんが入院? また入院したのか? つい最近電話があった時にはそんな話は出なかったけど、あの後入院したのか?」
「母さんから電話? それはいつの話だ。まあ、電話くらいは出来るだろうけど、母さんには兄貴の電話番号を教えてないよ。家には調子がいい時、たまに電話が来るくらいだ」
「家にもたまにしか電話が掛かって来ないって? どういう事だ」
 僕と雅紀の会話はまるで噛み合わなかった。
 すぐ傍で聞いている姉さんも怪訝な顔をしている。母さんが入院中。また同じ嘘で僕と姉さんをからかうつもりでいるのか。
「とにかくさ、修学旅行で京都、奈良に行って、東京では半日自由時間があるから、その時会わないか。兄貴だって久し振りに実家の実情を聞きたいだろう」
 僕が黙っていたので雅紀がじれて語気を強めた。何だってこいつはいつも挑戦的なんだろう。実家の実情? 能代興産が倒産したとでも言うのだろうか。
 諸事情を考えると大手に合併吸収されてもおかしくはないが。そうなると僕と姉の学費や生活費はどうなるのか。僕は不安になった。
「詳しい時間は後でメールするよ。会いたくない、なんて言うなよ。来ないなら僕がマンションまで行く」
 そこで電話は借金取りの取り立てみたいにぶちっと切れた。おまえの住所は分かっている。今からそこへ行くからな、と脅迫されたような気分だ。
「相変わらす失礼な子」と姉さんが眉を顰めた。
「雅紀とは会いたくない。あの子は子供の頃から私を無視するし、たまに目が合った時は私の手袋を無理矢理取ろうとしたり、服を引っ張ったりしたり。その度に母さんに叱られていたから私が嫌いなのよ。そんな弟には会いたくない」
「僕の見えないところでそんな乱暴をしてたのか。雅紀らしいと言えば雅紀らしいけど。姉さんは無理に行かなくてもいいよ。僕一人で行く。たまには雅紀の顔も見たいしさ」
「母さんが入院だなんて、絶対嘘に決まっている。一週間前に電話で話したばかりじゃない。こっちは皆変わりなくやっているって言ってたじゃない。お爺ちゃんは市議会の議長になったそうだし、お父さんは電気工事関係に手を広げるって。雅紀の言う、実家の実情って、そういうことよ」
 姉さんの言うことはもっともだ。しかし嫌味なやつでも弟は弟だ。長々と付き合うつもりはないが、半日の自由時間内ならせいぜい一時間か二時間くらいなものだ。それくらいの時間なら会ってやってもいい。
 姉さんの反対を押し切って僕は弟と会う約束をした。マンションに押し掛けられるよりはマシだ。しかし、当日になって俄かに不安になった。
 僕が覚えているのは中三の時の弟だ。中学から高校への時期は変貌期だ。ファニー・フェイスだった男子がオジサン顔に変身したりする。先生よりオジサン顔になったやつもいた。妙なプレッシャーを感じたくない。
 川原先輩に電話をすると同行を引き受けてくれた。先輩が一緒なら心強い。場所は修学旅行では定番の東京タワーだ。メールで展望室にいる、と連絡があった。
 スカイ・ツリーが出来たのに未だに東京タワーとは感覚が古い。
 姉さんを置いて自由に歩き回れるのは十何年ぶりかだ。子供を寝かしつけて出掛ける母親のようにちょっとした開放感と罪悪感。今日は僕の左隣に先輩がいるが、右隣はいない筈の姉さんの香水の匂いがする。
「雅紀君と会うのが楽しみだな。君を見ているとどんな弟なのか興味があるよ。やっぱりイケメンなんだろうね」
 先輩は道々あれこれと詮索して来た。本当は答えたくないが、同行を頼んだのは僕で、答えないわけにはいかない。
「さあ、面代わりしているかも知れませんから分かりませんけど、母の格付けでは姉がトップで、四、五がなくてその後僕と雅紀ですね。中三の時は下級生の女子からラブレターを貰ったこともあったみたいですけど」
「それは凄いね。下級生からラブレターを貰うなんて、僕の中では『都市伝説』だ。実際そういうことがあるんだねえ」
 都市伝説の件で思わず笑ってしまった。先輩は男子校出身で、しかも見た目がプーさんだからラブレターには縁がなかったそうだ。
 お陰で好きでもない子からラブレターを貰った時の中途半端な感情を経験しないで済んでいる。
 僕もラブレターを貰ったことはないが、雅紀に言わせると「結構きつい」らしい。ストレートに断わって万が一自殺でもされたらラブレターが呪いのツールに変わる。
「今はラブレターを貰う機会も少ないでしょう。工業高校の電子機械科に通っていますから。将来は能代興産を継ぐ予定です」
「せっかくいい器が用意されているのに君は継がないの?」
 会社は雅紀に任せて僕と姉さんは東京で就職口を見つけます、と答えると先輩は「ふーん」と息を吐きながら東京タワーを見上げた。

弟・雅紀と再会、混乱

 東京タワーという名所は実は東京在住の人間はあまり昇ったことがないらしい。いつでも行けると思って機会を逃す。或いは田舎者が行く所だと思っているのかも知れない。
 僕と先輩も東京タワーは初めてだ。エレベーターを降りると予想していたよりは混んでいない。学生服を捜したが、それらしき姿がいない。
「やあ、久し振り」と声を掛けて来たのはチノパンにフード付パーカーの私服の男だった。背は僕より少し低いが体はがっしりしている。
「おやまあ、能代家は美男揃いだね」と先輩が僕に耳打ちした。その姿を雅紀は怪訝そうに見ている。
「大学の先輩の川原さんだよ。弟との久し振りの御対面が照れ臭いんで一緒に付いて来て貰った。それより何だよ、てっきり学生服かと思ったら私服か?」
「兄貴の高校だって私服通学だったじゃないか。今時学生服で修学旅行はダサイ」
 そのダサイ連中が五、六人固まって双眼鏡を覗き込んでいる。どこかの県の修学旅行生だろう。先輩が雅紀の言葉で苦笑した。修学旅行は学生服だったのだろう。
 僕等はエレベーターから離れたベンチに腰を下ろした。意外と空が広く見える。僕の故郷では高い建物がないから一年中360度空が見える。雨雲が追い駆けて来るのを見ながら必死で青空の方向へ自転車を漕いだことを思い出す。
「父さんと母さんは元気か?」とまずは軽い挨拶程度の会話。
「父さんも母さんも元気とは言えないな」
 なんだ、始めから重い話か。
「最近爺ちゃんが軽い認知症気味でさ。寝煙草で布団を焦がした。本人が熱くなって目が覚めたからいいようなものの、もう少しで焼け死ぬところだった。どこに吸いかけの煙草を置いたか忘れちゃって、その度に大騒ぎだ」
「はあ? 爺ちゃんは市議だろう。そんなに呆けていて仕事は勤まるのか?」
 僕の問いに「はあ?」と雅紀が答えた。
「爺ちゃんが市議、ってなんだよ。ホクケンを退職してからずっと家にいるじゃないか。無趣味な人は呆けやすい、って本当だな」
 ホクケン。三階建ての、市内では大きな部類に属する建物の土建会社だった。僕が上京する数年前には倒産して建物は解体されて更地になっていた。雅紀の間違いを指摘しようと思ったが、先輩もいることだし、黙っていた。
「だから父さんは近頃疲れ気味だ。仕事に行っている間は量子伯母さんに留守を頼んでいるけど、夜は父さんと僕だけだからさ、爺ちゃんが起き出したら聞き耳を立てていなくちゃならない。今のところはそう頻繁に起きたりしないけど、介護している人の話を聞くとその内昼夜逆転生活になるらしい」
 意気軒昂だった爺ちゃんが認知症の初期。ホクケンを退職。何だ、それは。
 僕の顔色が変わったらしく、先輩が心配そうに顔を覗き込み、その後、自販機でコーヒー缶を三つ買って来て僕と雅紀に渡してくれた。
「まあまあ、雅紀君、朔太郎君は混乱しているようだからゆっくり話そう。時間は大丈夫?」
「すいません、関係のない人まで巻き込んじゃって。時間は気にしないでください。いざとなったら引率の先生に事情を話して東京に残ります」
「東京に残るって?」僕は先輩が渡してくれたコーヒーを一口飲んだ。ぽんぽんと言い返してくれる姉がいないと僕はいつも口が回らない。
「兄貴の症状によっては東京に残らざるを得ないだろう。爺ちゃんと父さんの状況は把握したか」
「爺ちゃんは能代興産の会長で、父さんは社長、母さんは専務だろう」
「能代興産、って、まだそんな事言ってるのか。爺ちゃんは会長じゃないし、父さんは農協の職員だ。斎藤興産っていう会社はあるけど、能代興産なんて会社はないよ」
「それはおまえの思い違いじゃないか」
 甘ったるいコーヒーの糖分が僕の頭に沁みこんで自分でも驚くくらい冷静な声が出た。雅紀のシャレはきつ過ぎる。
「能代君、弟さんの言う事は本当だ。旭川出身の佐藤さんが一年の時に帰省しただろう? その時調べて貰ったんだけど、能代興産という名の会社はなかった。個人名の電話帳で住所を調べて行ってくれたみたいだけど、個人住宅だったそうだ。御近所さんの話によると」
「ああ、その先は僕が兄貴に話します。その……、身内の恥みたいなもんですから」
 先輩の言葉を雅紀が遮った。
「恥ではないと思うよ。悲しい話だ」
 この人は何者と問う目で雅紀が僕を見た。
「先輩は心理学部で今年の春からは修士課程に進学する」
「成る程、兄貴は研究対象ですか」
 いや、そう言うつもりじゃなくて、と先輩が慌てて否定した。
「変わった人が入学して来たので注目はしていたけど、研究対象ではないよ。一点を除けば常識人だ。講義もちゃんと出席しているし、僕みたいに単位を落としたりしない」
 へえ、と言ったきり雅紀は先輩から視線を逸らした。
「で、爺ちゃんと父さんの現状は今言った通りだ。どこの家庭でも親が歳をとれば介護は大変、って話だけどね。問題は母さんだ。何回も入退院を繰り返している。兄貴は僕が電話しても信じなかったけど、これは事実だ。凶暴性がないのが救いだけど頑固な妄想にしがみ付いていてね。市内の岡崎病院を知っているだろう。しばらくあそこに入院してたけど、今は旭川の病院に転院している」
 岡崎病院は市内では有名な精神科の病院だ。どうしてそんな所に入院し、更に旭川に転院したのか、僕には見当が付かない。考え付くのは。
「父さんが浮気でもしたのか。いや、近所でも仲が良くて評判の夫婦だったから、それはないな」
「あのさ、父さんは仕事と爺ちゃんの介護と母さんの入院で手一杯だ。浮気するどころか心労続きだ。あの事件以来ね」
 事件と言えばウチでは姉さんが誘拐されかかった事だ。母さんはあの出来事以来極度に神経質になった。僕がいつも姉さんの傍にいて守るように言われたのも誘拐事件以来だ。
 しかし事件と言っても姉さんは自力で助かった。誘拐されたのではなく、誘拐未遂であって事件と呼ぶほどでもない。
「あの出来事はもう十年以上も前だろう。姉さんは無事に戻った。母さんが精神に変調を来たしたとしたらもっとずっと後じゃないのか。だとすれば他の要因がある筈だ。能代興産の経営が思わしくないとか」
 雅紀がチッと舌打ちをしたので驚いた僕はコーヒー缶を取り落としそうになった。
「まだ分からないのか? 能代興産なんて会社はないんだよ。父さんは普通のサラリーマンだ。ウチの家計では兄貴を東京の学校へやるのも青息吐息の状態だ。知らないだろうけど、兄貴の東京での生活費は爺ちゃんの年金から出ているんだ」
「マンション二部屋の家賃と僕と姉さんの生活費十万円が爺ちゃんの年金から出ていると言うのか?」
「そんな金、爺ちゃんの年金で賄えるはずがないだろう。いいか、兄貴は一部屋しか借りてないし、月の仕送りは五万円だ。それってどういう事か分かるか」
「一人分しかないな」と僕は渋々答えた。しかし姉さんは使ってはいないものの、隣に部屋を持っている。入学の上京の時、母さんが二部屋借りてくれた。幾ら姉弟でも一部屋ではねえ、と言っていたのだ。
「先輩の川原さんに聞いてみよう。川原さん、能代朔耶は存在しますか」
「能代君にとって朔耶さんは存在している。今年の春からは文学部英文科の三年生としてね。映研に顔出し、少しだが友人もいる」
「そういう曖昧な言い方は止めてくれませんか。兄貴の為にはならない。心理学部の人が言う言葉じゃないでしょう。医学部じゃないから気楽ですか」
 この辛辣な言葉に先輩がわしわしと頭を掻いた。
「電話をすると相変わらず兄貴の傍には姉さんがいるらしい。僕はその度にぞっとします。兄貴をそんな風にしてしまったのは母さんですけどね。地元じゃあ事情を知っている人ばかりだから敢えて指摘する人はいない。でもさすがに家を離れたらまともになるかと思ったらこのざまザマです。ねえ、兄貴、今日姉さんはどうして来ないんだ?」
「雅紀に会いたくないそうだ」僕が渋々答えると雅紀はニヤッと笑った。
「そりゃそうだね。来られる訳がない。兄貴の心の中に正常な部分も残っているってことだ」
 妄想だの正常だの、雅紀は何を言っているのだろう。僕が精神を病んでいるとでも言いたいのか。
「兄貴の困る所は姉さん以外の事はまともだってことだ。中学、高校も成績は良かった。人と会えばちゃんと挨拶して会話も成り立つ。ごく普通の好青年だ。だから父さんも少しは期待した。実家から離れれば呪縛が解けるんじゃないか、ってね。それがどうだ、心理学部の先輩とやらを連れて来て、僕や父さんに恥をかかせている」
 展望室で望遠鏡を交互に覗き込んでいた学生服の連中が他の望遠鏡に移動して、騒いでいる。ゴジラでも見つけたか。
 先輩が何か言おうとしたのを雅紀は眼光で押し止めた。
「川原さん、今の言葉は撤回します。ウチで解決出来ない事を他人が解決出来る筈がありません。佐藤さんからは度々連絡を貰っています。むしろ良く付き合ってくれた、と感謝してます。映研の皆や英文科の人達に兄貴の奇行について話をつけてくれたんでしょう。大学生活を支障なく過ごせるように気を使ってくれているのは弟として嬉しいです。でも、もう止めてくれませんか。どこかで目を覚ましてやらなければ兄貴は一生、姉さんと一緒です。兄貴はもっと早く治療を受けるべきでした」
 雅紀が姉さんと言う度に今日は来ていない姉さんの『エゴイスト』の香りが鼻先を掠めた。僕には雅紀の喋っている言葉が理解出来ない。
 佐藤さんと先輩が僕の知らない所でこそこそと何かをしていた事は確かだ。今田さんも一枚噛んでいたのだろうか。四年生の時、微妙に避けられていたような気がする。
「雅紀君はオカルト話が嫌いだろうけど、僕は小さい頃からシックス・センスみたいなものがあってね。心理学部の学生がとは言わないで欲しいんだけど、能代君を見た途端に小さな女の子が右隣にいるのが見えた。セミロングでおかっぱ髪の綺麗な女の子だ。先日写真を見せて貰ったんだけど、その写真に写っている女の子とそっくりな子だ。能代君にはその女の子が自分と同じ様に成長して、今は大学生に見えているらしい。僕は見えるけど祓う能力はない。どうしたものかと……」
「今度は心霊ですか」
 雅紀の声は明らかに先輩を馬鹿にしていた。
「じゃあ、あそこで騒いでいる学生服の一団を見て下さいよ。なにか憑いていますか?」
「いつも同じ事を言われるよ。じゃあ、私には、ってね。でもすべてが見える訳じゃないんだ。ただ、能代君の隣にいる女の子には両手首がなかった」
「それは佐藤さんからの情報ではないですか。いわゆる後付情報で、だから川原さんが子供の幽霊を見たという証拠にはなりませんよ」
 そう言われれば仕方がないね、と先輩は肩を落とした。
 それにしても二人は誰の話をしているのだろう。僕の傍に姉さんそっくりの女の子の霊が憑いていて、しかも両手首がない? ホラー映画のワン・シーンか。
「佐藤さんから聞いているでしょうけど、もう一度最初からきちんと話をします。ウチはごく普通のサラリーマン家庭で、能代興産という会社はありません。母は専業主婦でした。小学校二年の時に兄貴の二卵性双生児の姉さんの朔耶が誘拐されて殺されました。石狩川の河川敷で見つかった死体は両手首が切断されていました。犯人は一年後にまた同じ事件を起こして捕まりました。犯人は子供の手が欲しかった、と供述しました。冷蔵庫の冷凍室には一年前に姉から奪った両手首と他の被害者の両手首が二組、真空パックに入れられて冷凍されていたそうです」
「姉さんは誘拐されちゃいないよ。事件は未遂で終った。だから今、僕と一緒に大学へ通っているんじゃないか」
 兄貴はちょっと黙っててくれないか、と雅紀がじれて僕を睨んだ。
「こんな残虐な事件だ。全国紙にも載った。佐藤さんはネットで当時の記事を見つけた。それは川原さんも知っていますよね?」
「ああ、犯人は死刑判決を受けたが、まだ刑は執行されていない」と先輩は辛そうに頷いた。
「母の精神状態がおかしくなったのはその事件からです。普段から猫可愛がりしていた姉さんが両手首を切断されて死んだ。精神科に入退院を繰り返すようになりました。可哀相だったのは兄貴です。何で姉さんを守れなかったのか、あんたが代わりに死ねば良かったのに、と兄貴を責め立てました。今思うと、母は何であんな残酷な言葉を言えたんでしょうね。精神が不安定になったとは言え、兄貴は双子の片割れです。母と同じくらい傷ついていたでしょうに」
「小さい頃の朔耶さんはいつも能代君の右側にいたんだろう? 腕を絡ませてさ」
「おや、そんな細かい情報まで佐藤さんから聞いていたんですか」
「いや、ただ、僕には能代君の右側にぴったりくっ付いている女の子が見えたから」
 ああそうですか、と雅紀は受け流した。
「母の凄い所はわざわざ有名な人形師に頼んで姉さんそっくりの子供の人形を作らせた事です。母自身がその人形を死んだ姉さんだと思い込みました。切り落とされた手首を思い出さないように白い手袋はめさせ、それを兄貴にも姉さんだと思うように仕向けました。双子の姉さんを失った兄貴は母の妄想に取り込まれ、人形を姉さんだと信じ込みました」
「それがずっと中学、高校、大学まで続いたんだね? 僕が初めて能代君に会った時、彼は大事そうに右手で人形を抱いていて、まるで人形が生きているみたいに話しかけていたよ。時には声を使い分けしてね。始めはふざけているのか、腹話術が趣味なのかと思っていたんだけど、その人形と両手首のない女の子の姿がだぶって見えて、僕は心底困惑した」
 幽霊が見えるのは川原さん自身の問題です。でも、兄貴を見守ってくれていたんですね、と雅紀は先輩に少しばかりだが頭を下げた。二人は僕の話をしている。しかし僕はまるで蚊帳の外に置かれた気分だった。
 姉さんは将来CAになりたいと言っている。僕までCAにしようとしているのは迷惑だが、ちゃんと将来を考えている。
 二年生になってから専門科目が増えてきて、姉さんを送り迎えしなくてはならなくなって忙しいが、母さんの「姉さんを守れ」の命令は絶対だ。
「今の姉さんの状態はどうなんだ、兄貴。実家にいた時は時々退院して来る母さんがメンテナンスに出してたけど、そろそろ必要な時期だろう。服も傷んだんじゃないか」
 メンテナンスって何だよ、と僕は内心むっとした。雅紀は子供の頃から姉さんに対しては冷たい。仲の良い双子に対する嫉妬だ。
「幾ら工業高校でも機械みたいにメンテナンス何て言うな。姉さんは元気だよ。高尾山や鎌倉にも行った。二人でバイトもした。スマホはその時のバイト代で買ったものだ。ねえ、先輩、そうですよね?」
 そうだね、と先輩が気味が悪い程の優しい口調で答えた。ほれ見ろ、姉さんは実在する。大体、実在を疑う雅紀がおかしい。
「高尾でも鎌倉でも、横浜に二人で行った時も君は姉さんと一緒だった。ただし、その姉さんは人形だった。君はいつも人形の両手の手袋を気にしていたよ」
 それは姉さんが誘拐されそうになった時に男のぬるっとした感触がずっと忘れられないからですよ、と僕は反論した。美人で頭も良い姉さんの唯一のトラウマだからだ。先輩にも既に説明済みだ。
 手袋が何だって言うんだ。一度つけたアクセサリーに拘って一生トレードマークみたいにつけている人だっている。
「手袋、これがキーワードの一つなんだろうね。娘さんを悲惨な状態で失ったお母さんはどこも損われていないお姉さんの姿を人形で再現した。でも心の深い所では両手首が失われたことを知っていた。だからそれを意識しないように人形に手袋をつけさせた。それをそっくり君が踏襲している。大学生まで成長したお姉さんは本当が手首がない。それを隠す為の手袋だ」
 僕は脱衣所の物干しに指を下にして干されている白い手袋を思い浮かべていた。白い手袋に飛んだソースの赤い染み。姉さんはとても神経質。
「雅紀、もう集合時間じゃないのか。行かなくていいのか?」
 帰路は羽田から飛行機だそうだ。速く行かないと搭乗手続きに間に合わない。引率の先生だって心配するだろう。生徒一人が乗り遅れたら大騒ぎだ。
「まだ二十分しか経ってないよ。それにフライトは夕方だ」と雅紀が答えた。そう言えば、手の中の缶コーヒーは少しも減っていない。ただ修学旅行中の学生服の一団は消えて、双眼鏡の前には老夫婦がいた。
「兄貴、さっきも言ったように、事情によっては先生に連絡して残る事も出来るんだ。英語の中田先生を覚えているだろう? あの先生が今、工業高校に転勤になって英語を教えている」
 五十代後半の中田先生の英語はとても英文科を出たと思えないくらい発音がなっておらず、渾名はジャパニーズ。市内の英会話教室に通っている、ともっぱらの噂だった。
 先生が英語教師になった時代はまだリーディング一辺倒の時代だったが、今は「生きた英語」の時代だ。英語が喋れなければ人にあらず。僕の高校でも外人の英会話教師がいて、授業中は一切日本語禁止だった。
 とは言え、英語がペラペラになっても故郷の田舎では使う機会は殆どない。反対に日本語は「うそ」「まじ」「やばい」の三語だけ使えればいいらしい。
「中田先生が雅紀の学校で英語を教えているって? 渾名はやっぱりジャパニーズか?」
「そうだよ、発音は上達したみたいだけど、一度ついた渾名は転勤しても付いて回るみたいだな。兄貴の事を良く覚えていて、今でも気に掛けてくれている。今回の修学旅行の引率の先生の一人だ」
「中田先生の単独の判断で修学旅行から脱落してもいいのか?」と僕が聞くと雅紀は顔を顰めた。
「兄貴は呼んでも帰って来ない。この機会を有効に使うしかないだろう。東京には兄さんという身内もいるんだ。お腹が痛いとでも訴えれば帰りの飛行機には乗らずに済む。そんな事はどうでもいいんだ。姉さんに会わせてくれないか。マンションで留守番しているんだろう? 一人じゃどこへも行けないんだから、当然部屋にいるよな」
 姉さんは当然部屋にいる。今頃パソコンで英会話の勉強でもしているだろう。最近はCA以外にも英会話ガイドも視野に入れている。
 姉さんの夢はいつも僕より大きくて、国際会議での通訳も候補の一つだ。どうやったら国際会議の通訳になれるのか、は知らない。
「雅紀君、マンションに乗り込むのはちょっとショックが強すぎやしないか。出来るならここで」
「ショックでも与えなければ解決しませんよ」と雅紀が先輩を遮った。
「僕と川原さんと佐藤さんがグルになって兄貴を混乱させているとは思われたくないです。事情を知らない第三者の誰かが欲しいな。そうだ、マンションの管理会社に電話しましょう。鍵を部屋の中に置いて出掛けてしまって入れなくなった、って。いや、東京の人は不人情だって聞いているから、鍵屋を呼んで何とかしろ、でお終いかな。まあ、一応電話してみましょう」

ベッドの下の朔耶

 僕と先輩は東京タワーを降りて僕と姉が住むマンションに移動した。七階建てのペンシルマンションだ。30分近く待っていると不機嫌な顔をした管理会社の社員が合鍵を持ってやって来た。
 鍵を部屋に置きっぱなしにして出掛けてしまうのは良くある事らしく、いい加減うんざりしている顔だ。
 学生証の提示を求められた。僕の顔と学生証と契約時の書類が挟んであるらしいクリアファイルを確認してからやっと鍵を開けてくれた。
「あの、ついでと言ったらなんですけど、風呂のシャワーの調子が悪いんで見て貰えませんか」
 雅紀の誘導で男四人がぞろぞろと部屋に入った。ワンルーム・マンションで姉さんの隠れる場所は浴室かトイレか収納庫くらいしかない。
 社員の男がシャワーを点検している間に雅紀はトイレと収納庫を覗き込んでいる。いつの間に雅紀は策士になったのだろう。先輩は雅紀の行動力に圧倒されたのか、東京タワーを降りてからずっと口を開かないでいる。
「シャワー、何ともないみたいですけど」とお湯を出したり水を出したりしていた社員がブスッとした声で僕等を見た。
 これも良くあるトラブルの一つなのだろう。脱衣所の洗濯ハンガーに吊るしてある白い手袋に一瞬目をやったが、それに関しては何も言わなかった。
「そうですか、じゃあ、たまたまかな。不動産管理会社の人が何ともない、と言うのならOKです。それとですね、同時期に入居した隣の部屋の女の人が夜中に頻繁に出入りして煩いんですけど、注意して貰えますかね。少なくとも夜の十二時時以降は静かにして欲しいんです」
 社員の顔が険しくなった。これもマンションでは良くあるトラブルだ。いい加減聞き飽きているに違いない。社員はクリアファイルを開いた。
「同時期に入居した女の方ですか? それはないと思います。ここは長期入居の方に多くご利用いただいていますが、お隣は単身赴任の男の方です。でもまあ、出入りの音が煩い、とおっしゃるなら、注意するように言っておきましょう」
 で、それ以外に何か文句があるか、という顔で僕等を見た。
「お願いします。あ、それから、今日はわざわざ来ていただいて、有難うございました。これから気を付けます」
「身分を証明する物がないと、ウチとしましては勝手に鍵を開ける事は出来かねますので、これからは気を付けてください。ご自身で合鍵を作る場合は当社にご一報ください。鍵が幾つもあると管理が難しくなりますので」
 そう言うと管理会社の社員はクリアファイルに綴られた紙の一枚に印を付けてから帰って行った。
「兄貴、これでクレーマー認定確実だね」と雅紀が意地悪そうに僕を見た。先輩は珍しく険しい顔をしている。
「二人とも突っ立ってないで、座れば? コーヒーでも飲みたいからね。で、兄貴、姉さんはどこだ。隣の部屋だ、何て言うなよ。不動産屋の社員が今、隣は男が住んでいる、と言ったばかりだ。留守番してると言ってたよな。この部屋にはいない」
「買物に行っている」僕はベッドの下に身を隠している姉さんの姿に目をやらないように努めながら答えた。早く雅紀と先輩を追い出さなくては。雅紀はロー・テーブルの前に座り込んだ。
「買物だって? 嘘を言うなよ、兄貴。姉さんは、いや、人形は一人では動けない。兄貴は人形を抱えて講義に出席してたらしいじゃないか。他の学生からは随分と気味悪がられただろうね。同じ時間に別の講義を受ける時は人形を教室の一番後ろに置いてから自分の講義を受けに行く。まったくご苦労なことだ。佐藤さんから聞いた話では大勢学生がいれば変わったやつも多少はいる。四年間ずっとゾウの被り物をして過ごしたり、スーパーマンのマントを羽織っていたやつもいたらしい。ねえ、そうですよね、川原さん」
「まあそうだね。始めは物笑いの種にされるけど、その内、見ている方が慣れてしまう。それに能代君の場合は亡くなった双子の姉さんがいる、って映研の皆に話しておいたからね。そういう話はすぐに広まる。いや、ネットで調べればすぐに分かるか。せめてもの供養に形見の人形を抱いて一緒に大学へ来たんだな、そっとしておいてあげよう、という気になる人の方が多いだろう」
 いい人ばかりで良かったね、と雅紀が皮肉を込めた目で僕を凝視した。
「と言うか、基本的に他人には関心がないんだろうね。それが益々兄貴の妄想を強固なものにした……。せっかく東京まで出てきたのに地元にいた時とまったく変わっていない」
 雅紀は立ち上がるとキッチンに置いてある二つのコーヒー・カップを一瞥した後にケトルに水を入れて沸かし始めた。
 湯が沸くまで沈黙が続いた。ベッドの下には姉さんが隠れている。雅紀の言葉をどんな気持で聞いているのだろう。気の強い姉さんがベッドの下にいること自体が屈辱だろう。
 ベッドの上に座ると姉さんが足首を物凄い力で握ったので僕は一瞬体中の毛がぞわっと立ち上がるのを感じた。姉さんは物凄く怒っている。
 湯が沸くとインスタント・コーヒーを入れようとした雅紀は不揃いなマグ・カップを三つ見つけ出してそれにコーヒーを入れた。三つとも何かの景品に付いていたカップだ。雅紀はカップを運んで来るとまたロー・テーブルの前に腰を下ろした。
「なあ、兄貴、一緒に帰らないか。今ならまだ羽田まで間に合う。空席の一つくらいはあるだろうさ。地元に戻って診療を受けたらどうだ。大学では変人で通ってもその先はないよ。人形を抱えた男を雇ってくれる所なんてない。気味悪がられるだけだよ」
 姉さんがまた僕の足首を強く握った。雅紀の言い成りになるな、と警告している。姉さんを否定する弟は僕の弟ではない。
「川原さんはどう思いますか」と雅紀が先輩に声を掛けた。僕の正面のソファーに座ってずっと天井を見上げていた先輩が僕の足元に目をやってはっと息を呑んだ。姉さんの手がベッドの下に引っ込むのが感じられた。
「それはどうだろう。お母さんは時々退院して来るんだろう? そもそもの原因はお母さんだ。お母さんは能代君を見たら条件反射みたいにお姉さんを思い出す。バッティングはまずい。それに家には朔耶さんを思い出す物がまだ残っているんだろう? そういう場所に能代君を戻すのは良くない結果を招くような気がするけどね」
「確かに、家には姉さんが二年生だった頃に使っていた部屋がそのまま残されています。誘拐された時に背負っていた形見のランドセルもそのまま勉強机の上に置いてあります。退院して来た時の母さんは一日中部屋に籠って小学校の時間割を眺めて教科書を揃えています。火を付けたり、凶暴になるって事はないですから退院して来ても問題はないんですが、しばらく経つと兄貴はどこだ、って捜し始めます。姉さんの傍に兄貴がいない、けしからん、という訳ですよ。二卵性とは言え、双子に生れた兄貴の悲劇ですかね」
 それじゃあ、やっぱり家に帰るのは無理じゃないか、と先輩はベッドの下に目をやりながら冷えた手を温めるようにマグ・カップを両手で包み込んだ。
 先輩にはベッドの下に姉さんが隠れているのが見えている。まずい、と思ったが、先輩は雅紀に指摘するつもりはないようだ。僕は雅紀を部屋から追い出す事だけを考えていた。
「せっかく大学に入学したんだ、能代君も中途退学はしたくないだろう。こちらでカウンセリングを受けたらどうだろう。僕も一応心理学部だ。良いカウンセラーを紹介出来ると思う」
「そうかもしれませんね。でもカウンセリングにお金が掛かりませんか。ウチの経済状態では兄貴を東京に出しているだけで精一杯なんですけど」
 ははあ、一番の理由はそれか。姉さんと僕を大学へ通わせる費用が惜しい。高校を卒業したら雅紀は将来の社長として能代興産に就職する。何の役にも立たない二人に投資する気にはなれないのだろう。
 ならはっきりとそう言えばいいのに。もっとも雅紀が仕送りを止めろ、と言っても姉さん第一の母さんが許す筈がない。僕は黙ったまま二人の会話を聞いていた。
「費用の事は心配しないでいいよ。これでも多少のコネクションはあるからね。能代君は大学を退学したくはないと思う。それに、お姉さんもね。お姉さんが……、この場合、空想上の、という意味だけど、お姉さんも大学に残りたがっている。能代君はお姉さんの言い成りになっていると思っているかも知れないけど、本当は能代君がお姉さんを引き摺っているような気がする」
 先輩の顔は雅紀にではなく、僕に向かっていた。ベッドの下の姉の手がまた僕の足首をぎゅっと掴んだ。先輩の顔は『羆出没注意』の看板の前で羆の足跡を見つけた人のように固まっていた。
 雅紀がちらちらと時計を見ている。出来るなら修学旅行の一員として帰りたい気持の方が勝っているのだろう。先輩に僕を任せたい気分が顔に出ている。スマホを弄り始めたのはマンションから羽田までの最短ルートを検索しているに違いない。
 案の定、では川原さんにお任せします、と言い出した。母さんと僕を病人扱いしておきながら、最後はお任せします、だ。
「佐藤さんからも兄貴の状態について時々連絡を貰っているんですけど、カウンセリングを始めるなら川原さんからも連絡を貰えますか。父とも今後の相談をしなくちゃならないので、お願いします」
 ええ、いいですよ、と先輩が答えたが、姉さんの手を見たせいか歯切れが悪かった。
 一度帰ると決めた後は雅紀の行動は速かった。なにが兄貴の状態、だ。僕と先輩が大通りまで送って行くと手を上げてタクシーを拾った。

第三章へ続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?