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ホラー中編小説【香りに関する一考察】 第三章

阿佐野桂子


  


第三章

能代家幻想

 タクシーで走り去る雅紀の後頭部をしっかり確認してから僕は引率の中田先生に電話を入れた。先生には事の次第を詳しく説明する必要はない。「御心配掛けましたが無事羽田に向かいました」とそれだけでいい。
 僕と先輩は緊張から解き放たれてマンションまでの道をゆっくりと歩いた。東京の桜はすっかり葉桜になっている。北海道に桜前線が到着するのは後一ヵ月弱かかる。
 桜前線北上と聞くといつも桜の木が津軽海峡を大股で歩いて渡って来る場面を想像してしまう。そして白鳥達は日本の桜を見ることなくシベリアへ帰って行く。
 マンションの部屋に戻るとずっとベッドの下に隠れていた姉さんがこれ以上ないくらいの不機嫌な顔で待っていた。僕はマグ・カップを洗うと改めてコーヒーを入れ直した。
「今日はつまらない話に付き合って貰ってすみません」と僕は先輩に頭を下げた。
「あいつが将来能代興産を継ぐと思うと心配です。まあ、それまで能代興産がどうなっているか分かりませんが」
「あら、母さんからの電話では伯母さんの息子の拓也をお爺さんが教育しているらしいわよ。父さんも雅紀より拓哉の方がいいだろう、これからどんどん難しくなる会社の経営には拓哉の方が向いているって」
 会社の将来がどうなっても構わないけど、と姉さんは付け加えてくしゃくしゃになった服を気にし出した。甘やかされて育った姉さんは経営感覚ゼロだ。
 雅紀は高校を卒業したら能代興産のどこかの部門に就職するだろう。父さんもそうせざるを得ないし、僕と姉さんも雅紀が東京に出て来られると困る。
「お爺さんは認知症を発症しているんじゃなかったっけ?」と先輩。
「雅紀の頭の中ではそうなっているんでしょう。爺さんは元気過ぎる程元気ですよ。次の市長選では箱物好きな今の市長の対抗馬に助役を担ぎ出すつもりでいるらしいです。地方議会の先生方を政治家と呼んでいいのかどうか微妙ですが、助役が当選すれば爺さんの傀儡政権誕生です。権謀術策が好きな人はそうそう呆けません」
 おや、それは随分と生々しい話だ、と先輩が苦笑した。
「それで、お母さんは?」
「精神科で入退院を繰り返している母ですか? 佐藤さんが二年前に直接会った筈ですが」
「ああ、佐藤さんがね。確かに会ったそうだ。あの人は無駄に行動力があって困る。アンケート調査員のふりをして堀井さんの家にも行ったらしい。まあ、好奇心を押さえられない気持は分からないでもないけど、その話は後にしよう。街中心部から能代さんの実家までは車で一時間くらいの距離だって? 佐藤さんと負けず劣らず好奇心が強いお母さんに車の運転をさせて君達の実家に行ったそうだね」
「ええ、母は不意の訪問に驚いたそうですが、同じ大学の同郷の同級生で同じ部活と知って家に上がって貰ったそうです。母はその日自宅にいて、雅紀は留守。いいタイミングでした。なにしろ佐藤さんはお母さんと一緒でしたから、始めは僕が彼女に対して不始末をしでかして乗り込んで来た、と思ったそうですよ」
 佐藤さんが実家を後にしてすぐ、僕は母さんから電話を貰った。お父さん呼ばなきゃいけないかしら、と思ったくらいびっくりしたそうだ。アポなしで急襲する佐藤さんの方が悪い。
 ただの同級生と分かって安心した母さんは佐藤さんのお母さんと気が合って、今では佐藤さんの家を訪問する仲だ。連休中は温泉旅行を兼ねて網走や釧路まで足を伸ばしている。
 母さんが病院を出たり入ったりしているのならそんな事は不可能だ。母さんが旭川に出掛けて行く、イコール旭川の病院に転院した、の根拠がこれだ。

雅紀の風景

 父さんは溺愛する朔耶姉さんが東京に出てからずっと気落ちした母さんが活気を取り戻して安心している。もし佐藤さんのお母さんという友達が現われなかったら、自分も東京に移り住む、と言いかねない人だ。
 母さんの実家は埼玉なので、やりかねない。僕の家が少しばかり歪なのは母さんのせいでもある。僕と姉さんは大学を卒業しても実家に帰るつもりはないのだから、母さんはいい加減子離れするべきだ。
「佐藤さんのお母さんと能代君のお母さんが友達になったって話は佐藤さんから聞いたよ。縁とでも言うのかな。佐藤さんの行動力に感謝すべきだろね」
 先輩がコーヒー飲んでいる間、姉さんは服を着替える気になったらしく、収納棚から黒の長袖のTタイプロングワンピースを取り出すと脱衣所に向かった。
 雅紀のせいでベッドの下に身を隠さなくてはならなかった姉さんにとって今日は我慢ならない日だったに違いない。動作がいちいち荒っぽい。
「それにしても、雅紀君にはびっくりしたよ。まさか管理会社を呼ぶとは思わなかった。隣は単身赴任の男性、と聞いた時は鬼の首を取ったような顔をしていた。入学する時、二部屋借りたんじゃなかったの?」
「ええ、最初はそうでした。でも姉が一人は嫌だってごねるもんだから、すぐ解約しちゃったんですよ。実家にいる時も姉は僕の部屋に入り浸っていたから始めから一部屋で良かったんですけど、双子とは言え性別が違うから母も気を利かしたつもりなんでしょう」
「それを雅紀君は知らなかった。だからわざわざ管理会社の人を呼んで、お姉さんが存在しない事を証明したかった訳だ。彼がお姉さんは死んだと思い込むようになったのはいつ頃なのかな」
 それはやはり誘拐未遂事件からだろう。あの事件で三人の女の子殺された。サイコパスが起こした陰惨な事件だ。連日ヘリが上空を飛んでいたのを思い出す。その頃まだ幼かった雅紀は被害者の中に姉さんの名を入れ込んでしまったのだろう。
 その日から雅紀にとって姉さんは存在しない人になった。姉さんは小学校二年生の時に死んでいる。網膜に映っていても意識しなければ見えない。
 母さんが一度、埼玉に帰省した時に買って来た精巧な人形を殺された姉さんと信じ込んで暮していると思っている。実際は生きている姉さんが雅紀を無視するから余計妄想が助長される。
 僕の説明に先輩は眉を顰めた。雅紀に対して実に不人情な家族だと感じたに違いないが、死んだものとされた姉さんだっていい気はしない。僕だっていつも探るような目付きをしている弟にはうんざりしている。
「ご両親は雅紀君に診察を受けさえようと一度も思わなかったんだろうか。家の中がぎくしゃくしていたら困るだろう」
「確かにそうです。食事時、姉の前に並べられた料理を陰膳だと思い込んでいるような弟がいたらうんざりです。しかし、それ以外は実にまともです。他所で姉は死んでいる、何て話はしませんしね。他の家族が姉が生きているように振舞っているなら、調子を合わせておこう、と考えていたようです。診察を受けさせなかったのは母の意向です。母は、その……、雅紀を可愛がっているようには見えませんからね」
 根本には母さんのえこひいきがある。僕だって姉さんのナイトとしてやっと存在が認められているだけだ。
 北海道と東京という距離が僕に母さんの批判を容易にさせる。姉さんとその付属の僕、二人と雅紀の溝を作ったのは母さんだ。診察を受けるべきは母さんだろう。それを見て見ぬ振りをしている父さんは駄目オヤジだ。

『エゴイスト』の香り

 姉さんは脱衣所から戻ると僕が座っているソファーの後に立って肩に手袋をした片手を置いてきた。『エゴイスト』の香りがふわっと僕を包み込む。先輩の目が猫みたいにすっと細くなった。
 僕と姉さんは美男美女の好一対だろうが、ご心配なく。僕と姉さんは対等ではない。王妃が跪くナイトに接吻の為に手を与えた、くらいの感覚でしかない。
「私を死人扱いする雅紀の話はもう沢山。先輩、さっき佐藤さんが堀井さんの家を訪問した、って言ってましたよね?」
 え? ああ、そうだね、と姉さんの白い手袋から目を離した先輩が深く息を吐いた。二回も中絶手術をして、三回目は子宮外妊娠で入院。女子にとっては最大限興味あるゴシップだ。
「佐藤さんはカウンセラーになるよりゴシップ誌の記者が適職かもしれないね。自分が興味ある事柄には誰彼構わず突進する」
 僕と姉さんは一緒に笑った。勝手に能代家に突撃したのは心外だが、母さんが一緒に旅行までする友達が見つかったのなら許してやってもいい。
「今時アンケート調査員を名乗っても普通は門前払いだね。結局は家を見て来ただけらしいけど、お金には不自由してない感じがしたって言っていたよ。外見から家計の内情までは分からないだろうけど、別にマンションを借りて堀井さんを住まわせるくらいだから貧乏ってことはないよね。大学も卒業するまで面倒をみてくれるそうだ。もっともその後は知らん、の但し書付だけど」
 一人暮らしを始めた堀井さんはやっと継母との確執から開放されて落ち着き、バンドの連中とも切れて、マンションと大学を往復する日々が続いている。早瀬先輩と一緒に尋ねた時は手料理が出て来た、と先輩は嬉しそうに語った。
「彼女も今年から四年生だからね。真剣に将来の自分を考えなくてはならない。早瀬先輩と僕とで相談に乗っているよ。遊んでいても単位は落としていないからね」
 映研にはよく顔を出していたから、登校はしていたのだろう。姉さんはハッピー・エンド的展開に不満そうだった。殆どの人にとっては他人の不幸は蜜の味。エイズにでも感染して苦しめばなお良し、だ。
 瑕疵のない完璧な家庭や家族関係なんてなく、その不安やら不満が噴出するのは千差万別だよね、と先輩は言葉を続けた。
「堀井さんの場合は継母に対する異物感より父親に対する不満の方が強い。途中参加の継母さんにはそれなりの距離を置いて接しているけど、実父の配慮が不足している。男だから母親みたいに細かい所まで踏み込めないのはしょうがないけど、最近どうだ、の一言くらいは掛けて続けてあげるべきだったね」
 もっとも僕が父親になったら年頃の娘にどう話し掛ければいいのか自信はないけど、と先輩は頭をわしわしと掻き毟った。
 僕の家も瑕疵ありだ。母さんが姉さんだけを溺愛するから雅紀は姉さんを消し去った。小学校二年の時に姉さんは両手首を切断された姿で河川敷に今も横たわっている。
それ以後、姉さんが目の前にいても雅紀には姉さんが見えない。
「ちょっと電話をしてもいいかな」と先輩が立ち上がった。「早瀬先輩が久し振りに君達に会いたがっているんだ。ここに呼んでもいいかな」
 どうぞ、と姉さんが僕の代わりに答えた。積極的に誰かの訪問を許す姉さんを初めて見た。心境の変化か、それとも社会参加の意識でも芽生えたのだろうか、と僕が驚いている間に先輩は使い込んで古びた携帯を持って一度玄関の外に出た。
 二人の先輩が揃う。堀井さんのケースと同じだ。嫌な予感がした。雅紀が愚にもつかない話を吹き込んだからだろうか。姉さんが既に死んでいるなんて話を誰が信じる?
 早瀬先輩が到着する間、姉さんは僕に命令して宅配ピザを注文させた。そういえば今日はコーヒーばかりがぶ飲みしていて昼食を食べていない。途端に腹が空腹を訴えた。
 ピザが届くと姉さんは手袋をしたままの手でフォークを器用に使うとピザを食べ始めた。僕と先輩は垂れてくるチーズを気にしながらご相伴に預かった。他人と一緒にマンションで食事をするのは初めてだ。先輩は姉さんのフォーク使いに感心している。
 早瀬先輩が現われたのは一時間経った頃だった。雅紀が乗る飛行機はもう出発したに違いない。あれから電話が来ないという事は、無事搭乗したと思われる。
 弟がいなくなってほっとする僕は不人情な兄だ。しかし男兄弟なんて元々あっさりした関係だろう。せいぜい「やあ」と手を上げるくらいだ。それに雅紀の状態を考えると歓迎する気には到底なれない。
 先輩はインターフォンが鳴ると素早く立ち上がってドアの外に消えた。早瀬先輩と何事は話し合っているが、よく聞えない。やがて二人が室内に入って来た。

サーちゃんとターちゃんとマーちゃん

 早瀬先輩は相変わらず気が弱そうだった。彼を見たら誰でも一度はからかってみたくなる。映研の一年生にも丁寧な言葉を使うが嫌な時はやけにきっぱりと断わる。僕にとっては興味深い人物だ。
 早瀬先輩は部屋に入るなり、「遅くなってすみません」を連発した。僕等は街角で一時間待っていたのではなく、部屋でピザを食べていたのだから謝られても困る。すみません、を連発するのは強権的な親に育てられたのだろうか。だとしたら可哀相だ。
 部屋は他人を迎え入れいる用意がないのでソファーは二人に明け渡し、僕と姉さんはベッドの縁に座った。きちんとベッド・メイクしておいて良かった。
「遅くなってすみません。途中で佐藤さんに会って話を聞いていたものですから」ソファーの背凭れに体を預けようとしない早瀬先輩。すみません、も度が過ぎると滑稽になることに気付いていない。それにしてもなぜここで佐藤さんが出て来る。
「実はね、佐藤さんに埼玉に行って貰ってたんだ。彼女はほら、突撃取材が好きだからね」
 早瀬先輩の代わりに川原先輩が喋り始めたが、僕には話の道筋が見えないので「はあ」とだけ答えた。
「佐藤さんと能代君のお母さん同士が仲良し、って聞いたから、彼女に埼玉のご実家を訪ねて貰ったんだ。お母さんの実家は埼玉、って以前言ってたよね」
 言ったかどうかは忘れたが、埼玉であることは確かだ。いかに行動力がある佐藤さんでも埼玉の実家まで行く理由が分からない。単なる好奇心か。
 それにしても、こういうのはプライバシーの侵害に当たらないのだろうか。北海道の実家に行ったり、埼玉の母さんの実家に行ったり、一体、何をしているのだ。
「まあ、そう険しい顔をしないでくれないか。佐藤さんは確かにでしゃばり過ぎだ。でも佐藤さんが伯母さんの家を尋ねて分かったこともある」
 姉さんは僕の予想に反して冷静な顔をしている。化粧をしていなくても姉さんは綺麗だ。
「お母さんの名前を出したら伯母さんは好意的に家に入れてくれたそうだ。伯母さんの名前は鈴木量子。田村姓の人と結婚したら柔道のやわらちゃんと同じ読みになってしまった、って笑っていたそうだ。君達のお母さんは鈴木明子。これ、間違いないよね?」
「ちょっと待ってください。伯母は確かに量子ですが、埼玉にはいません」
 まあ、聞いてよ、と川原先輩が僕を宥めた。
「お母さんは能代さんと結婚して北海道で暮している。出身地は埼玉。でもなぜ伯母さんまで北海道にいる必要がある? 君のお母さんの姉、鈴木量子さんは東京の短大を卒業した後、数年会社勤めをして田村さんと結婚した。旦那さんの田村さんからすれば量子さんの実家に住んでいるから『サザエさん』のマスオさん状態だね。子供は男の子が一人。もう大学を卒業して就職している。名前は拓哉君だ」
 ああ、その名前なら知っている。爺ちゃんが能代興産を継がせるつもりでいる従兄だ。確か経理部、だったような気がする。顔を思い出せないのがもどかしい。
 ここまでの話、朔耶さんは納得? と川原先輩が尋ねると「勿論」とこの上なく簡潔で涼やかな答えが返って来た。人のウチの親族を確認して何の意味があるのか。
「お爺ちゃんも父さんも能代興産を誰にも継がせる気はないよ。まだ何とか頑張っているけど、赤字に転落する前に見切りをつけるつもりでいるわよ。負債を抱えて倒産だけは避けたいものね」
 僕の頭の中に残ったのは赤字と倒産という文字だけだった。能代興産はそんなにジリ貧なのか。それでは拓哉も継ぐ気にはなれない。それで埼玉に戻ったのか。
「ねえ、あんた、拓哉君の顔を覚えている? 小学生の頃、伯母さんが富良野のラベンダーを見たい、って二回連れて来たけど、それ以外は会っていない。大人になった拓哉君の顔、私だって知らないよ」
 姉さん、何言ってんの、と反論しようとしたが、拓哉の顔がどうしても思い出せない。姉さんが知らないと言うのなら僕が知らなくてもおかしくはない。
「つまり、能代君、北海道には拓哉君はいないんだ。ついでに言うと、雅紀君もいない」
 川原先輩の横のソファーに座った早瀬先輩が眼鏡の奥の小さい目で僕を見た。おや、今日は珍しく吃音が出ずに話が出来る。
 しかし、雅紀が北海道にいない、とはどういう事だ。あいつは市内の工業高校に通っていて、修学旅行の帰路の途中で、既に新千歳空港に着いている頃だ。
 ちょっとこれを見てくれる? と早瀬先輩が新聞のコピーと思われる紙をロー・テーブルの上に置いた。ちらっと見ただけで見当がついた。幼女誘拐殺人犯が逮捕された時の記事だ。ついでに、こちらが当時の別の新聞の記事、と言って早瀬先輩が再びロー・テーブルの上にコピー用紙を滑らせた。
 一枚目の記事より大写しではっきりと顔が見える。ジャンパーを頭の上から被って顔を隠しているが、隠れているのは髪形だけで、若い男だとすぐに分かる。
 どこと言って特徴のない顔で、当時テレビの取材では「ごく普通の人で、まさかあの人が」が犯人を知る大方の感想だった。中には「あの人は中校生ぐらいの時から自分の部屋に子供を集めて遊んでやっていた。今思うと、その時から子供を狙っていたのだろう」と語る御近所さんもいた。
 母さんはその度にテレビのチャンネルを変えていたが、ワイド・ショーは連日幼女殺人事件を取り上げ続け、僕の家ではしばらくテレビは御法度になった。無事生還した姉さんに再び恐怖を与えないように配慮したからだ。
 殺人事件フィーバーとでも呼べそうな報道が鎮火した後はぽつりぽつりと裁判の結果が報じられるだけになった。
 どんな事件でも三ヶ月経てば人の関心は薄れて行くが、被害者の家族の心は傷ついたままだ。姉さんは未だに手袋をしたままだ。
「先輩、今更当時の新聞のコピーを見せる意味は何ですか。僕はともかく、姉さんが」
「とにかく、記事をじっくり読んでみて。紙媒体が捏造で信用出来ないと言うならネットで検索してもいい。ノート・パソコン、持ってるよね?」
 川原先輩が僕の言葉を遮って立ち上がると僕の手にコピーを押し付けた。姉さんはライティング・デスクの上に置いてあるパソコンを起動した。
 僕は自分が置かれている状況が分からないままに仕方なく記事を読んだ。幼女の手首に執着して切り落とし、冷凍庫で保管していた男の記事だ。
「被害者の名前をじっくり眺めてくれないか」
 いいですよ、と僕は言って名前を読み上げた。第一の被害者は大友由香ちゃん。当時五歳。第二の被害者は。
「姉さん、何で新聞に雅紀の名が載っているんだ。能代雅紀? 嘘だろう。弟は死んじゃいないよ。それに犯人は女の子ばかりを狙っていたんだろう」
「ターちゃん、ほら、パソコンを見て。当時の事件がネット上に今でも残っている。マーちゃんは殺されたのよ。これは紛れもない事実よ」
 姉さんは僕達がまだ小さい頃の懐かしい呼び方で僕を呼んだ。ターちゃん、マーちゃんは殺されたのよ、と。
「マーちゃんは男の子だったけど、ちっちゃくて可愛らしくて、母さんが私達にお揃いの色の服を着せてたから、いつも女の子と間違われていた。犯人はマーちゃんを女の子だと思って誘拐したのよ。私は近所の家に逃げ込んだ。ターちゃんは男の子だから放って置かれた。犯人に連れ去られたのはマーちゃん。その時のびっくりした表情を今でもはっきり覚えている」
「僕等はあの時、三人一緒にいたのか?」
「いつも三人一緒だったじゃない。マーちゃんは一人置いて行かれるのが嫌な子だったからね。犯人はまず私の手を取った。でも年齢的にお気に召さなかったようね。それで私より年下で女の子みたいな格好をしたマーちゃんを攫って行ったのよ。私は助かったけど、マーちゃんは誘拐されて殺された。殺した後に男の子だと気付いた犯人はマーちゃんの手首だけ川に捨ててしまったそうよ。ほら、パソコンで検索しても出てくる『○○○幼児連続殺人事件』、ちゃんと読んでみて。幼女じゃなくて幼児と書いてあるわよ」
 僕は姉さんからノート・パソコンを奪うと一気に記事に目を通した。被害者の一人はやはり能代雅紀。雅紀が殺された? そういえば、川原先輩は女の子の幽霊が見えると言っていた。女の子と間違われて殺された雅紀の幽霊かだったのか?……。
 僕はノート・パソコンを掴むと部屋の隅に投げ飛ばした。その音にいつも超然としている姉さんが一瞬怯えた顔をした。
「朔太郎君、君の記憶では誘拐されかけたのは朔耶さんだった。しかし、実際に誘拐されて殺されたのは雅紀君だった。君のお母さんはね、長男の君に何で雅紀君を守れなかったんだ、と言い募ったそうだ。無残な事件だったからお母さんが普通の精神状態ではいられなかったことは確かだ。朔耶さんはお母さんの大のお気に入りだから責められない。感情をぶつける相手は君しかいない。これは埼玉から葬儀に駆けつけた伯母さんから聞いた話だ。その叱責ぶりは傍から見ていても理不尽で狂気じみたものだったらしい。まだ小学生二年の男の子にだよ。残酷な話だ。おまけに雅紀君そっくりの人形を作らせてまるで雅紀君が生きているように振舞った。生きている時はあまり顧ることなかった雅紀君だが、自責の念に駆られたんだろう。一年ぐらい精神科に通院したようだけど、今は現実を受け入れて、当時の君に対する態度を反省しているそうだ。君にとってはプレッシャー以外の何物でもないよね。そりゃそうだ、今度は君が雅紀君が生きているように振る舞い始めたんだから。鏡を見たら違う顔が映っているようなものさ。始めは雅紀君の死を信じられない母の顔、次ぎは雅紀君の死をなかったことにしてしまった君の顔。ねえ、殺人事件というものは残された家族にどんなショックを与えるか、考えもつかない状況を生み出してしまう。君とっては朔耶さんと雅紀君は同時には存在しえないんだ」
 でも、と僕は反論した。ついさっき工業高校で修学旅行中の雅紀と会ったばかりだ。雅紀は姉さんが死んでいると躍起で立証しようとしていた。あれは僕の幻覚なのだろうか。姉さんはなぜ隠れたのか。
「君が雅紀君と会う、と連絡をくれたので僕は慌てて現場に駆けつけた。だって実際には存在し得ない人物が来る、と言うんだ。心配にもなるだろう。予想通り、君は高校生になった筈の想像上の雅紀君と喋っていたよ。最後に電話していたが、どこか適当な番号に電話を入れてワン切りしたんだろうね。その間、早瀬先輩が埼玉まで直接田村量子さんに会いに行った佐藤さんから能代家に起こった悲劇を聞いていたんだ。お母さんは昔、君にとった態度を非常に反省している。どうか許してあげてくれないか。そして、現実をしっかり見て欲しい」
「じゃあ、姉さんはなんで隠れたりしたんですか」
 僕の言葉は震えていたと思う。頭がぼうっとして来たのが分かる。
「それは、さっきも言ったように、雅紀君と朔耶さんは同時に存在し得ないからだ。お姉さんは雅紀君人形を抱えたままベッドの下に身を隠していたんだ」
「ねえ、ターちゃん、あんたは私と話す時だって右腕に抱えた人形越しに私に話掛けてきた。他の人から見れば会話は成立して見えていたでしょうけど、あんたが話をしていたのは私だと思い込んでいる雅紀の人形よ」
 もう、どこでこんなにこんがらがってしまったんだろう、と姉さんはサーちゃんと呼ばれていた頃のように地団駄を踏んだ。
「ターちゃんがこんなふうになったのはすべて母さんのせい。それなのに、今は反省してる、ですって? 佐藤さんのお母さんと仲良しだって? いい気なもんね。本当に反省してるならターちゃんとしっかり向き合ってきちんと説明してやるべきじゃない? 雅紀の人形だって捨ててしまえば良かったのよ。ねえ、早瀬先輩、毎日雅紀の人形と三人で暮している私の気持、分かりますよね? 脱衣所にずらりと並んだ白い手袋。見ているだけでうんざりよ」
 どこかに雅紀君が両手を切断されて死んでいるという真実の記憶が紛れ込んでの行動でしょうね、と早瀬先輩は綺麗な女の人に答えている。その女の人は細長い白い手をしている。ここに居るという事は、早瀬先輩か川原先輩の親しい人なのだろう。
 姉さん、先輩方にはもう帰って貰ったら? 雅紀の話をこれ以上聞きたくないんだ、と努めて穏やかに提案した。雅紀に興味を示さなかった姉さんまでが今更何で雅紀の名を連呼しているのだろう。大事なレア香水でも取られたのだろうか。
「雅紀は北海道に帰ったんだ。それでいいじゃないか。次に会う時は爺ちゃんの葬式の時ぐらいだ」
「そうね、雅紀は帰った。この先、二度と会うことはないでしょうね」
 姉さんの雅紀に対する薄情振りは相変わらずだ。姉さんと双子で生れた僕は姉さんの守護者としてこれからも生きて行くことを期待されている。でもやっぱり二人でCA、は無理がある。税理士を目指してみようか。
 その日から三日間、四十度の熱を出して寝込んでいたそうだ。記憶がはっきりしないが、料理が苦手な姉さんが与えてくれたのはカップの春雨スープと経口補水液だけだった。
 三日間ベッドの横でマットレスを敷いて寝ていて体が痛くなった、と嫌味を言われたし、姉さんが食べ散らかしたコンビニ弁当の後片付けをさせられた。どんだけ薄情なんだか。
 それでも三日間休校して付き添っていてあげたんだからね、と言われた。僕がいなくちゃ一人で大学へも行けないくせに、相変わらず偉そうだ。

もう一人の『エゴイスト』の香り

 僕と姉さんは何事もなかったように大学へ通っている。両先輩の知り合いの綺麗な女の人は隣の部屋の単身赴任者が引越したのを機に隣に入居して来た。背は168㎝くらいでセミロングの髪。前髪を日本人形みたいに切り揃えた山口小夜子に似た美人だ。
 彼女も僕と同じ大学に通っていて今年三年生になる。英文科の学生で、姉さんと同じ様にCAになるか、語学力を生かした仕事につきたいらしい。
 姉さんとは初対面だったのに気が合って、学校ではいつも僕等と一緒に行動を共にしている。偶然だろうけど、彼女も香水は『エゴイスト』を使っていて、僕は時々右隣にいるのが姉さんか彼女かどちらなのか分からなくなることがある。
 性格や行動まで姉さんそっくりで、まるで一卵性双生児みたいだ。唯一異なる点は姉さんのように白い手袋をしていないところだ。細くて長い指が綺麗だ。
 姉さんは彼女の名前も出身地も知っているが、僕には何も教えてくれない。知っているのは自己紹介の時に「サーヤと呼んでね」と言われたので、子供みたいで気恥ずかしいけれどサーちゃん、いや、サーヤさん、と呼んでいる。
 表札で確かめようと思ったが表札は出ていなかった。サの字の付く名は沢山ある。さくらさんとか、さやかさんとか、さつきさんとか。サーヤならさやかさんだろうか。
 東京では女性の一人暮らしを悟られないように表札を出さない人が多い、と聞いている。
 サーヤさんと出会ってから姉さんには言えない秘密が一つ増えた。姉さんが風呂に入っている間、サーヤさんの名を口の中で転がしながら彼女の甘美な夢想に浸っている。
 頭の中がセミ・オリエンタルの名香と呼ばれるロシャスの『ビザーンス』の紫色で満たされ、最後は高級石鹸の香りを放ちながら輝き、小爆発する。
 僕なら姉さんみたいに春雨スープと経口補水液だけの雑な扱いはしない。ハンバーグだってオムライスだって作ってやれる。
 結婚相手は彼女しかいない。彼女なら口が悪い姉も文句は言わない筈だし、侍従の役を超えた無私の愛を分かってくれる。夢想するだけなら罪ではない。
 姉さんはどこかの若社長の秘書になって、妻の座に納まればいい。そして、できるなら双子を産んで欲しい。きっと誰もが振り向く美貌の双子になる。デヴィッド・ボウイのようなオッド・アイなら夫婦の家に居候を決め込んだ母さんが猫可愛がりするに違いない。

『地中海の庭』の香り

 授業中以外、僕等はいつも一緒だ。学食もトイレも一緒だ。映研にも入部して後輩の男子の熱い視線を集めている。川原先輩は「美男美女がいるお陰で映研入部希望者が増えた」と言っているが、そんなに嬉しそうではない。
 誰かがカウンセリングを受けるとかいう話はたち切れになっている。それが堀井さんなら僕等には関係ない話だ。彼女は「構ってちゃん」に過ぎない。
 先輩の考えでは映研は友達が出来ない人のシェルターみたいなものだから、美男美女が目当てでやって来る「目的が不純な」学生は他の部を当ればいいそうだ。実際、姉さんもサーヤさんもそういう有象無象に対しては冷たい。
 授業が終わると僕はいつものように姉さんを迎えに行き、サーヤさんとも合流する。三人揃ってマンションに帰り、時々はどちらかの部屋で一緒に夕飯を食べるが、二人とも料理は苦手だ。
 結局僕は三人分の料理をしなくてはならないが、姉さんとサーヤさんの好みは完全に一致しているので、いちいち気を使わずに済む。
 香水好きな人間は人と香りが被るのを嫌がるものだが、姉さんは同じ『エゴイスト』の香りのサーヤさんを上手く受け入れている。それどころか、サーヤさんがエルメスの『地中海の庭』はどうかしら、と言うと同調している。
「朔太郎もたまには香水をチェンジしてみれば?」などと言い出す始末だ。
 エルメスの『地中海の庭』はフルーティーで男女兼用で使える香りだ。でも長い間姉さんのトレードマークだった香りが変わるのは僕としては姉さんを失うような寂しい気がする。
 僕の右隣はいつも『エゴイスト』の香り。その香りを嗅ぐとお腹が空く魔法の香りだ。その香りがなくなったら僕はどうやって姉さんを認識してよいのか分からないくらいだ。
 強硬に主張したお陰で姉さんは『エゴイスト』を使い続けることになった。代わりにサーヤさんが『地中海の庭』を使っている。心配性なのでボトルを三瓶ほどキープしたそうだ。
 ついでと言っちゃ何だけど、と言って僕には『オーデ・メルヴェイユ』を一瓶プレゼントしてくれた。トップはシャープだけど、段々と温もりのあるウッディな香りに変化する。最近は廃盤になる香水が多いが、今のところはエルメスの定番香水だ。サーヤさんには悪いが、実家の香水専門冷蔵庫の中にはこの香水もストックしてある。
 三人でいると香水の話が尽きない。
 サーヤさんも実家に沢山の香水を置いて来ているらしい。資生堂の御当地香水もコレクションの対象で、和装に似合う金沢の梅の香りの香水もお気に入りだ。
 中学生の時は資生堂の『禅』を、高校生の時にはイブ・サンローランの『オピウム』を香らせていたそうだ。
 さすがに高校生で高級なお香の香り、オリエンタル・ノートの『オピウム』は重い。それからトム・フォードの『ブラック・オーキッド』になって、イブ・サンローランの『シネマ』になって、現在はシャネルの『エゴイスト』だ。
 三人してボウイに合う香水を考えてみたりした。美形のロック歌手で俳優もこなしたボウイには案外さらりとした香りがいいかも知れない。
 ジバンシーの『キセリュズ』とか、ロシャスの『フルール・ドゥ・オウ』とかロエベの『アグア・デ・ロエベ』とかだ。
「あんたはいつも不可能な選択ばかりする」と姉さんが文句を付けた。飽くまでイメージなんだから可能、不可能は関係ないんじゃないか?
 『キセリュズ』と『フルール・ドゥ・オウ』は現在廃盤になっていて、『アグア・デ・ロエベ』も希少品だ。ネットで見つけたら高くても即買だ。廃盤になった香水が好きだった人は次の香水捜しに苦労する。
 大好きだった人が急にいなくなったら誰でも困惑する。ネットで探し回って高くても購入するか、似た香りを求めて遍歴する。どこかで納得しなければならないが、それがまた限定香水だったら悲劇だ。だからボトルを買い溜めする。
 サーヤさんの母親は歌手のボウイは知らなかったが、『戦場のメリー・クリスマス』で、あの人誰、と心惹かれたそうだ。美しい男は人の心の中に香りを残す。
 悪いけど、ビートたけしの香水までは想像できない。外人さんのアウトローには香水が似合っていても、日本人のアウトローには香水が似合わないような気がする。
 ハイクラスで知的な経済ヤクザならヴェルサーチでも使っていそうだが、あくまで先入観に過ぎない。爽やか系の『ヴェルセンス』でも香らせていたらギャップ萌えだろう。
 ビートたけし世代は線香花火や蚊取り線香の香りが似合う。或いは夏祭りの夜店をイメージした香り。彼等の父親が使っていたであろう昔ながらのヘア・トニックと猥雑な香りのミックス。
 外国のカーニバルではなく、日本の夜店、花火大会を想起させる香りをリクエストしたら、調香師はどんな香りを完成させるのだろうか。外人さんの調香師ならやっぱりオリエンタル調の香りだろうか。
 名優アル・パチーノはシシリアン・レモンの香り。ちょっとばかり背が低くても男も惚れる男だ。歳をとっても益々魅力的になった。『ミッドナイト・ガイズ』で共演したクリストファー・ウォーケンもカッコいいオジサンになった。
 他人から見たらこんな下らない話でも一日中話していられる。
「白人さんにとっては中東もアジア諸国も一纏めにしてオリエントじゃない。線香を焚いていたらオリエンタル? 日本人はどっちかと言うと無味無臭の文化だよね。まあ、強いて言えば檜の香りかな。ゲランの『ミツコ』は日本女性をイメージして作られたらしいけど、ちょっと発想が違うわよね。着物を着ていれば花魁とか芸者ガールに見えるのかな。未だに富士山、腹切り、芸者ガール? 毎日どこかで腹切りショーでもしてるのか、って」
 相変わらず姉さんは辛辣だ。そのくせ、オリエンタルな香りを嫌いではない。
「そう言えば『HUJIYAMA』って言う名の香水があったわよね。能代家の二人は買ってみた?」
 興味はあったが姉さんも僕も手を出さず仕舞いだ。値段が安かったせいもある。香水は値段と香りが大体のところ比例する。好みは別として、高級ブランドの香水は信頼が置ける。
「ねえ、サーヤさん、北海道にいる頃、時々札幌まで遊びに出掛けたよね。あの時、雅紀に買ってやった香水、何だったっけ?」
「朔太郎ったら、サーヤがそんなこと知ってる訳がないじゃない。私とサーヤを混同しないでよ。あんたって人は相変わらず記憶がばらばらな人ね。雅紀にはジャンヌアルティスの『CO2プール・オム』よ。それに、あんたの死蔵コレクションから選んであげたんで、新しく買ってあげたりはしなかったじゃない。その後は、私達東京に出て来ちゃったから、今は何を使っているのか知らない」
 雅紀の話になるといつも機嫌が悪くなる姉さんがそっけない声ときつい目付きで答えた。姉さんの前では雅紀の話は御法度だ。
「そう言えば、堀井さん、最近香水を変えたみたい」
 芝の見える学食の席でサーヤさんが自販機で買ったブラック・コーヒーを飲みながらさり気なく話を逸らした。
「へえ、川原先輩が何メートルも先からでも匂うって言ってた『ギュペシルク』は止めたの?」
 姉さんの頭の中では堀井さんイコール『ギュペシルク』で固定されている。
「そう、今はカルバン・クラインの『エタニティ』よ。名香の殿堂入りしたふわっとした嫌味のない香りよね。『ギュペシルク』は真夏にはちょっと煩い香りだけど、その点『エタニティ』は万人受けする大人しくて上品な香りでしょ。同じ香水をつけていてもその人の体臭によって変わるけど、あれは『エタニティ』の香りだと思う。何か思うところがあったのかな、って」
 彼女の行状は映研の二年生以上の人は皆知っている。家を出て精神的に落ち着いたから卒論や就活を真剣に考え始めたのだろうが、人間はそう簡単に変われるものだろうか。
 

『エゴイスト』の強い香り

 今年の五月の連休は新入生を引き連れて三浦半島まで足を伸ばす予定だ。今回は企画した早瀬先輩は都合で来られないが、川原先輩が引率してくれる。
 先輩は方向音痴だし、そもそも大阪出身だからどこへ連れて行かれるのか、と川原先輩を知る部員は心配しているが、予定外の散歩もいいものだ。僕達三人は新入生の時と同じ様に春の小旅行を楽しみにしている。
 佐藤さんは連休中また病院の小児病棟のボランティアに行く予定を組んでいる。僕の実家や埼玉の伯母の家まで上がり込んだ女性週刊誌の記者みたいな迷惑な女だ。
 そのうち、お仕置きしてやろうか、と姉さんに囁いたら「そうね、思い切り怖がらせて私達の邪魔をさせないようにしないとね。お膳立てと撮影はいつものように私がするわ」と囁き帰して来た。
 一瞬『エゴイスト』の香りが強く匂いたった。
 佐藤レベルなら混雑した駅の階段から突き落とすくらいで充分だ。大勢の乗降客がクッションになってせいぜい捻挫くらいだろう。でも背中を押したのが誰なのか分かれば恐怖する筈だ。
 今まで姉さんが気に入らない相手に対して様々な意地悪を代行させられたが、刺客は相変わらず僕か? 
 姉さんは僕の記憶が曖昧だ、と言う。でも何が起こっているのか分からずにぽかんとした顔をしていた雅紀を突き飛ばして自分だけ、逃げた。
 あれは能代興産所有の空き地だった。目撃者は僕だけ。記憶違いとは言わせない。
 それで雅紀は鬼に捉まった。今でもはっきり覚えている。姉はその記憶を消去して平気でいる。或いは弱みを握られたくないから横柄な態度をとるのだろうか。
 小学二年生でまだ幼かったから、と言えばそれまでだけど、人に冷たいのは昔から変わらない。我儘を聞き、許容してやれるのは僕ぐらいのものだ。
 姉さんにとって残念なことに、僕にはサーヤさんという人が出来た。美貌に惹かれて「あなたには家事は似合わない。傍にいてくれるだけでいい」と言ってくれる男と一緒になればいい。
 さすがにアンチ姉さんの雅紀だって祝電くらいは寄越すんじゃないか? それで能代家は丸く治まる。

(了)

          
                            

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