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【幽霊のかえる場所】 第三章

阿佐野桂子


 

第三章


いざ出陣


 ロンドンを往復した時と変わらず僕は飛行機が嫌いだ。福岡行きのルートは陸・海・空とある中で賀茂さんが新幹線を選択してくれたのはラッキーだった。
 経費は『バイオ・ハザード』社持ちなのだから飛行機が一番だが、空港のチェックで明らかに凶器扱いになる金属製の杭は持ち込めない。危険人物扱いされるのがオチだ。
 つまり必然であってラッキーでも何でもないのだが、より地に足がついた新幹線に乗り込むことが出来た。僕が知っている頃の新幹線と比べたら鼻面が長くてスタイリッシュな車体だ。
 弁当を一つ買い込んだ賀茂さんは座席に座るなりスマホで福岡の地図を眺めながら弁当を食べ始めた。
 僕はすぐ隣に座っていたのだが、ジャージにウエストポーチ姿の女性が弁当をかきこんでいる姿はかなり異様だ。自然と他の乗客が賀茂さんの隣に座ることはなく、僕はゆっくりと座席を専有することが出来た。
 『バイオ・ハザード』社に現われた時は女子大生のようなリクルートスーツをきちんと着ていたのに今のこの落差はどうしてだろう。
CAの時だってそれらしい格好をしていたのに……。
 とここではたと気付いた。どちらも賀茂さんはその時霊体だったのだ。だから「それらしい格好」をして現われた。むしろジャージ姿の方が本当の賀茂さんだ。それとも今が賀茂さん流の戦闘服なのだろうか。
「なに、馬鹿なこと考えてんの。女性の服装をあれこれ言うもんじゃないわよ。これから吸血鬼の心臓に杭を打ちに行こうって時よ。動きやすい格好が一番じゃないの。それにジャージは洗濯してもすぐ乾くしね」
「それにしたって中学校時代のジャージじゃなくてもいいんじゃないですかね。霊能者ならそれなりの定番コスチュームがあるじゃないですか。巫女さんの格好とか陰陽師の格好とか」
「そういう格好はこれから行う吸血鬼退治の仕事向きじゃないわね」
 賀茂さんは弁当と一緒に買ったお茶のペットボトルをぐいぐい飲み干しながら横目で僕を見た。おっしゃるとおりですが、相変わらず偉そうな態度だ。
 ちなみに僕と賀茂さんの会話は声になっていない。頭に直接響いて来るのだ。ただでさえ怪し過ぎる賀茂さんが吸血鬼退治などと一人で声に出していたら他の乗客が車掌に連絡に走っている。
「スマホで見てたんだけど、福岡も区があるのね。東区、博多区、中央区、南区、城南区、早良区だって。私、福岡は初めてなんだけど、田中っちは福岡のこと、知ってる?」
「僕が九州に行った時は大分、熊本、長崎を回ったんですが、通過点でしかなかったもんで、分かりませんね。博多駅は乗り換えで利用しただけでまったく記憶にないです」
「ふーん、じゃあ、あなたにナビを頼むのは無理ってことね。調査表によると早良区辺りに住んでいるみたいよ。早良区って、どこ?」
 賀茂さんは女によくある方向音痴らしい。スマホの小さな画面を一分間いじっていたが、「どうなってるんだか、もう」という言葉と共に早々に放り出した。静かになったと思ったら居眠りの始まりだ。到着までは五時間あるから寝ていてくれた方が有り難い。

神使いのミツミネ

 幽霊になって一番の利点は直射日光を気にしないで済むことだ。最近はUVカット製品のお陰で日中も出歩けるようになったが、昔の吸血鬼は昼夜逆転の生活を送らざるをえなかった。
 一般的には日に当たると燃え尽きてしまうと思われているようだが、僕等は日光過敏症で、様々な皮膚トラブルを発症するが燃え尽きたりはしない。湿疹や痒みに悩まされるので敢えて日光を浴びようとは思わないだけだ。
 日光アレルギーは人間にも発症する。ただ僕達吸血鬼族は百%発症する。僕等の先祖は地球より暗い星から飛行船でやって来た種族の末裔ではないか、と高橋に言ってみたが一笑に伏されたことがある。
「だって、コロンビアにはプレインカ時代のものと推定される黄金のジェット機模型やジャワ島にはロケットのレリーフがあるんだ。ずっと昔に異星人が地球に来ていた痕跡があるんだぜ」
 その時の高橋は「またまた、オーパーツなんか持ち出しちゃって。ただそう見えるだけだろう」という反応の薄いものだった。彼の抱く異星人のイメージはエイリアンやプレデターの範囲を出ていないようだが、むしろそっちの方が怖い。
 京都を過ぎたあたりから賀茂さんは窓に頭をくっつけて完全に寝落ちしたみたいだ。代わってミツミネが豆柴どころかハムスター並みの小型サイズでウエストポーチから顔を出した。
 てのひらサイズの柴犬ではあるが本体は神使いの狼だ。一匹で五十戸を守護すると聞いたことがあるからかなり強力な神使いだ。日本狼は絶滅したがスピリットはまだ日本を守護しているようだ。
「保子は可哀相な子なんだよなあ」とミツミネが人語で喋り始めた。神使いならさもありなんだが、賀茂さんが可哀相な人という印象は僕にはない。年下なのに命令口調だ。
「口調がきついのは今まで悪霊ばかり相手にして来たせいさ。お願いだから消えてくれない、何て言葉で消えてくれる悪霊はいないからねえ」
「そりゃそうだ。で、それが可哀相なのか?」
 いや、そうじゃなくて、と言うとミツミネは黒豆みたいな目で賀茂さんをちらりと見た。
「賀茂家の娘は代々霊能力者だ。あんたのような吸血鬼には分からないかも知れないが、常に悪霊と係わらずにはいられない能力を持っているのは辛いことだぞ。何も感じない、何も見えないのが一番いいに決まっている。感じない、見えないからこその安全がある」
 霊能力を持っているからこそ却って悪霊を引き付けてしまうのだろう。キング原作の『シャイニング』では輝き(シャイニング)を持った少年が悪霊に狙われる。
「本来ならば保子こそ守ってやらなくてはならない存在なのだがな、さっき見た吉次郎も正樹も保子を利用することしか考えていない。自分達は蚊帳の外にいて保子を使って金儲けをすることしか考えていない。除霊の料金を引き上げるのが二人のもっぱらの関心事だ。見えない側の人間が考えそうなことだな」
「つまり、賀茂さんに集って暮しているってことか。しかし、祖母と母親がいたじゃないか」
「おまえの目は節穴か? 赤い目を隠すために黒いコンタクトで誤魔化しているから見えません、何て言うなよ」
 お、ばれていたか、と思ったが、現時点ではそこは問題ではなかった。
「え、ひょっとしたら……」
 てのひらサイズの柴犬がニターッと笑った。
ひょっとしたら、もしかして、これは勘だけど、祖母と母親はこの世の人ではないのか。
「生きている人間が水平移動するか? 保子が祖母と母親と話している場面を見たか?」
 見ていない。それに吉次郎と正樹は祖母と母親の存在をまるで無視していた。男二人には見えていなかったのだ。つまり僕と同じ幽霊。
「祖母と母親は文字通り陰ながら保子を見守っているんだな。保子自身は存在を感じてはいるが目視できない。なぜなら二人は悪霊ではないからな」
 悪霊は見えるが見守ってくれる存在は見えない。理不尽だ、という気がする。
「仕方がなかろう、それが賀茂家の女に生れた運命だ。しかも、長生きできない。やはり霊に係わると命を削られるようだな」
「犬神は守ってはくれないのか?」
「霊力の源は犬神だが、だからと言って何をしてくれるものではない。あれは力そのものであってだからどうこうしようとする意志ではない」
 そんな面倒なものを背負って生きているのは迷惑以外の何ものでもない。僕だったら勘弁してくださいよ、と思うだろう。特別な力などいらない。普通が一番。と、吸血鬼の僕が言うのは説得力がないだろうが。
「じゃあ、ミツミネが賀茂さんに拾われたのは意味があるのか? 犬科繋がり、とか」
 ケッとミツミネが鼻に皺を寄せた。どうも違うらしい。ミツミネが言うには神使いとは言え、修行が必要なのだそうだ。そして現在が修行中。
「おい、子犬の時お漏らしたのを誰にも言うなよ」
 てのひらサイズの柴犬が釘を刺してきた。はいはい、と僕は頷いた。吹聴したくても他に知り合いの神使いはいない。福岡太宰府天満宮の神使いは牛と聞いているが、牛と世間話をしている暇はなさそうだ。
「ところで、おまえ、本当にアウトロー吸血鬼の居所が分かるのか?」とミツミネが聞いてきた。
 御心配はごもっともだ。霊の存在は関知できても賀茂さんとミツミネは吸血鬼の気配までは探り出すことは出来ない。吸血鬼は霊ではないからだ。
 組成は幾らか違うかも知れないが、実体のある生き物だ。それが証拠に人間との間に子を成す事も可能だ。だいたい、悪霊と吸血鬼を見分ける為にわざわざ僕が付いてくる破目になったのではないか。
「それは任せておいてくれ。必ず見つけてやるさ」
 とは言ったものの、アウトロー吸血鬼とは言え同類だ。それを葬るのはいささか気が咎める。僕の役目はそいつを見つけ出すだけだ。始末は賀茂さんとミツミネが勝手にやればよい。僕は社命でナビゲーターをしているだけだ。
「O型Rh nullだかなんだか知らないが、人間とは面倒な生き物だな」
「ips細胞でありとあらゆる臓器の再生が出来るようになったら人間も僕達のように不老不死になるかも知れないよ」
 確かに、とミツミネは頷いた。「ただし、それまでに人間が愚かな所業で自滅しなければの話だ」

アウトロー吸血鬼

 終点が近付いて他の乗客の動きが慌しくなった頃に賀茂さんも目を覚ました。腫れぼったい目をして「うぉ〜」と座席で伸びを姿は三十歳の女性としては色気ゼロだ。
 しかも小豆色のジャージにウエストポーチ。新幹線を一歩降りた途端に警察に職質をかけられても僕だって納得する。何と答えるのか聞いてみたい。「吸血鬼退治に」。即、交番行きだ。
 博多駅の構内で迷っている間に賀茂さんのスマホが鳴った。聞き耳を立てているとどうやら『バイオ・ハザード』社からのようだ。
「福岡在住の中村って名の吸血鬼が迎えに来てくれてるそうよ。うろうろしないで今いる場所でじっとしてなさい、ですって。情報もくれるらしいわよ」
 なるほど、それは手間が省けて結構。しかし誰が聞いているのか分からぬ環境で、吸血鬼などと単刀直入なワードは謹んで欲しいものだ。
「中村、ですって、な・か・む・ら。あんた達は何で渡辺だの小林だの高橋だの中村だの日本人の姓トップテンに入ってる姓ばかりなの?」
「その方が目立たないじゃないじゃないか。武者小路だの御手洗だの変わった姓だと余計人目を引くからね。目立たないように生活するのが僕等の信条なんだ」
「ふーん、そんなもん?」と言った賀茂さんは僕の口調の変化に気付いていない。
 『バイオ・ハザード』社から案内人が来ているって? それならもともと僕は必要ないのではないだろうか。
 その中村に任せればいい。僕はすぐさま東京に帰りたくなったが、てのひらサイズのミツミネがまた僕のパンツに噛み付いて逃亡を許してくれなかった。
 五分ほど待っていると中村が現われた。白髪の高齢者だ。厚めのコートを着て足元は革靴。ちょっと見は退職した温厚な大学教授だ。
 中村は一月だというのにジャージ姿の賀茂さんの姿に驚いている。
「これはまあ、元気なお姿ですなあ。幾ら若くてもそのお姿では寒いでしょう。私は『バイオ・ハザード』社から賀茂さんのお世話をするよう命じられています。そこら辺の店でもう少し暖かい服をあつらえましょう。は? ジャージで充分です、と? いえいえ、そう言う訳には行きません。せめて上着でも着ないと風邪を引きますよ、お嬢さん」
 僕はロンドンから帰った時と同じTシャツとストレッチ・ジーンズ姿のままだ。賀茂さんの服より僕の服を何とかして欲しかった。
 幽霊は生身ではないのだからどんな服装でもいいだろう、と思っているかも知れないが、三十年近く同じ格好はさすがに飽きる。それにミツミネに齧られてジーンズの裾がぼろぼろだ。
 賀茂さんは「お嬢さん」という言葉に一瞬喜んでいいのかどうか複雑な表情を浮かべたが、代金は中村持ちと知って服を買ってもらう気になったようだ。
 手近な店で黒のスカジャンを購入して羽織ったが、益々とんちんかんな外見になった。もともとファッションセンスがゼロなのか、まるで関心がないのか、中村も判断に苦しんでいる。
 そう言えば、と僕はここで再認識した。中村には僕とミツミネが見えていない。本当は二人と一匹連れなのに中村は賀茂さんが一人で博多くんだりまでやって来たと見えているのだ。
 博多の駅を出ると大きなビルが林立する大都市だった。中村の説明では九州最大の都市で大阪市に次ぐ人口を要する。
「さて、福岡のどこから御案内しましょうか。『マリンワールド海の中道』はどうですか。2107年4月にリニューアル・オープンしたばかりです。歴史的なものに興味があるなら香椎宮や筥崎宮、櫛田神社などいかがです。そうだ、高い所が好きなら福岡タワーがお薦めですよ」
 中村は完全に観光と思っている。情報をくれると言っていたが、これでは単なる観光案内だ。『バイオ・ハザード』社の下請けの会社の誰か、とでも言われたのか。こんな役目なら気楽でいい。
「あら、見所沢山ね。どこにしようかな、っと。そうそう、私の小学校時代の友達が結婚して早良区に住んでるのよね。今勧めてくれた名所旧跡の中で早良区にあるのはどこかしら」
「おや、お友達がいたのですか。それでは福岡タワーが早良区です。福岡のシンボルが集るシーサイドエリアです。見所沢山ですよ。さっそく御案内しましょう」
 何も知らない中村は目的地が決まって安心したように微笑んだ。外見と同じく温厚な高齢者なのだろう。彼がどのような部署に属してしているのか大いに興味を引かれる。
「ちょっとその前に友達に電話させてくれないかしら。彼女とどこかで会いたいんだけど、急に来ちゃったから都合を聞いてみなくちゃ」と賀茂さん。本当に友人がいるならもっと速く連絡している筈だ。
 賀茂さんは僕達と離れるとスマホでどこかへ電話をした。いや、電話している振りに決まっている。事情を知っている僕から見れば臭い演技だ。
「ごーめんなさい、中村さん。私の友達、黒田って言う名前なんだけど、博多に来てるならウチに来なさい、って言うのよ。駅まで車で迎えに来てくれるんですって。福岡タワーも付き合ってくれるそうなの。で、今夜は泊っていきなさい、って言ってくれてるんだけど、なにしろ彼女、五人の子持で、今、六人目がお腹の中にいるらしいのよね。そういう人の所に泊まるには気を使うじゃない? だから悪いんだけど中村さん、なるべく駅の近くのビジネス・ホテルを予約しておいてくれないかしら。案内してくれる気持は有難いけど、友達にも合いたいし」
 立て板に水の嘘にも気付かずに「それはお友達が優先ですね。旧交を温めるのが一番です。では私はホテルを予約しておきましょう。博多どんたくの最中なら宿も取りにくいのですが、今は空いているでしょう。後で連絡しますから電話番号を教えてくれますか」と実に紳士的だ。
 中村とはここで別れた。いったい何のために呼び出されたのか自問自答しているに違いない。アウトロー吸血鬼を退治することは秘密事項だ。
「とにかく早良区ね」と賀茂さんの言葉に従って僕等はタクシーで福岡タワーに到着した。海浜タワーとしては日本一だそうだ。僕が五十年前に九州旅行に来た時にはこんな高い建物はなかった。1987年の設立だそうだから、当然だ。
 全長234m、正三角形のタワーの123mの位置にある展望室からは福岡市内と博多湾が見える。料金は意外と安い。
「あら、綺麗な景色。ミツミネ、ウエストポーチから出て見てみなさいよ。海が近い展望室っていいわね」とひとしきりはしゃいだ後、「どう、ここから他の吸血鬼の気配を感じる?」と聞いてきた。幾ら何でもそれは無理だ。
「賀茂さんが新幹線で寝ている間にスマホで調べさせてもらったんだけど、早良区は福岡市では一番面積が広くて、南北に長いんだよ。福岡タワーがあるのが北部、それから南下するとかなりローカルな雰囲気の場所になるみたいだね」
「つまり、私達は早良区の北の端っこにいるってこと?」
 かなりざっくり言えばそういうことになる。しかし早良区の端から端までローラー作戦で探す必要はない。犯罪者が雑踏に紛れるように僕等はあえて人口密集地に住んでいる。
 人口密集地に住んで獲物を探し、死体は山か海かダムに捨てるだろう。僕はタワーの上から町並みを見下ろした。何となく僕のアンテナに引っかかる場所がある。
 僕が始めて早良区にやって来て一日町を巡ってみて部屋を借りるとしたらこんな所、と感じる場所だ。
「あ、田中っち、博多湾の方角に悪霊がいるんだけど、どうする?」
「いたとしたって今は吸血鬼退治の方が優先でしょうよ」僕は賀茂さんを急かせてタワーを降りた。後は勘で捉えた怪しい場所に行ってみなくてはならない。
「そう? なかなか捨て難い悪霊っぷりなんだけどな。ほら、ミツミネだって逆毛を立ててるわよ」
 未練がましい賀茂さんに目的地を告げてタクシーを拾わせた。途中からはゆっくりと速度を落として貰う。
 首に発信機を付けた野生動物をアンテナで探し出す方式だ。とにかく吸血鬼を捕獲しようとするなら昼間のうちだ。
 運転手は中年の太った男だった。珍妙な格好をした女が僕の指示に従ってあっちだ、こっちだと細かく指示してくるのをミラー越しに疑いの目で見ているのがひしひしと伝わって来るが、構っている暇はない。
 二時間近くうろうろした挙句、やっと僕のアンテナが発信機を捕らえた。大通りから一本入った通りでバー、スナックが建ち並ぶ一角だ。「彼女」はその中の一軒の二階で「寝て」いる。
「お客さん、博多は始めて? 住所を教えてくれてたらこんなに時間かからなかったのに」
 タクシーの運転手は余程うんざりしていたのか嫌味を言ったが、うろうろしたお陰でメーターが上がったのだから上客と感謝すべきだ。メーターに表示された運賃は僕一人ならぎょっとする額だった。
 運転手に嫌味を言われ、賀茂さんにも文句を言われるかと思ったが、掛かった費用は『バイオ・ハザード』社持ちのせいか「お釣はいらないわ」と平然とした顔で運賃を払った。と言っても、そのお釣り、二百円ですけどね、賀茂さん。
「あの運転手、何か嫌な感じだったわよね。ずっとミラー越しに見てたの、気付いてた? 私が泥棒かなんかで盗みに入る家を下見してる、みたいな?」
 そうじゃなくて、賀茂さんのアンバランスさに胡散臭いものを感じていたんじゃないですか? ああいう商売の人達は結構人種を見ているもんですから、とは口に出しては言わなかった。
「それで、アウトロー吸血鬼はどこにいるのよ」
 僕が運転手査定に答えなかったので賀茂さんは口を尖らせた。最初は気圧されたが、こうして行動を共にすると実に分かりやすい性格だ。
 そこの、と僕は紫色の看板のスナックを指差した。「二階で彼女は寝てますよ。吸血鬼が夜の商売。定番と言えば定番。昔は吉原で遊女でもしてたのかな。適当な時期に肺結核に罹った振りをして死んで、また歳と顔を変えて遊郭に潜り込む。昔の遊女は死んだら投げ込み寺に捨てられたそうだから、却って好都合だったのかもね」
「彼女、ってことは相手は女性?」
 賀茂さんは意外そうな顔をしたが、吸血鬼でも男もいれば女もいることを忘れて貰っては困る。女だからと言って感情移入されても困る。中には外見少女で実年齢は僕と同じ五百歳の奴もいるのだ。
「こういう雑多な人が訪れる水商売はO型Rh nallを見つけるには都合がいいだろうね。他には占い師とか。さて、僕としては気が進まないけど、陽のあるうちにお邪魔しますか」
 ミツミネがてのひらサイズの柴犬から本来の精悍な狼の姿に変化した。鋭く白い牙は僕の犬歯よりはるかに丈夫そうだ。賀茂さんはウエストポーチから折りたたんだ杭と御札を取り出して伸ばすと右手に握り締めた。
 僕はスナックの扉をすり抜けると一階の店舗部分に足を踏み入れた。他のスナックと同じようにカウンターとボックス席。トイレの向かい側にビーズの暖簾が掛かっているスペースがあって、そこが二階に上がる階段になっている。確かに彼女はここにいる。
 いったんスナックの外に出るとミツミネを呼んだ。幽霊は物理的現象を起こせない。イコール、扉を開くことが出来ない。ここは神使いのミツミネの丈夫な顎で鍵を破壊して貰うしかあるまい。
 ミツミネが玩具を壊すように鍵をあっさりとねじ切ると先頭を切って賀茂さんが中に踏み込んだ。次に二階への階段を素早く上り詰める。
 二階の階段の正面は引き戸になっている。随分と無用心だな、と思いながら首だけ入れて覗き込むと衣装が散らかった八畳間にマミー型シュラフがころんと転がっていた。
 僕がアパートにいる時に使っていたのと同じメーカーの四万円以上する本格的登山用のシュラフだ。棺桶を持ち歩く時代でもなかろう、とネットで冬用に購入した物だ。同じ吸血鬼同士、考えることは同じだ。
 扉を通り抜けて彼女のシュラフの上に屈み込んで寝息を確かめた。胸は上下していないが心臓は普通の人間の十分の一くらいで鼓動している。
 目は開いたままだ。コンタクトを外した赤い目は虚無の深遠を見詰めているようだ。僕は初めて客観的に自分の寝姿を見た。普通の人間が見たら「生ける屍」と恐れるのは無理もない。
 彼女は何年物の吸血鬼なのだろうか。『バイオ・ハザード』社に属さずに孤独なハンティングを続けて来た彼女は確かに人間から見れば凶悪な殺人鬼だ。
 数百年或いは数千年、生き延びる為に暗闇の中で人を殺し続けて来た。それが罪と言われても咎める気持ちは僕にはない。
「賀茂さん、ミツミネ、苦しまないように一気に仕留めてやってくれ。僕は一階で待っている」
 ミツミネがシュラフに飛び掛かって押さえつけ、賀茂さんが御札を額にぺたりと張り付けた後に杭を振り上げる姿を目の端に捕らえた僕は急いで階段を降りた。
 吸血鬼相手に御札はないだろう、と思っていたが、御札は魂を消去する効力があるそうだ。後は塵から創られたものは塵に帰る、か。

幽霊はみんな負の残滓

「田中っち、顔色が悪いよ。やっぱり同類を殺されるのはいやなもん?」
 中村が用意してくれたシングルルームのベッドに腰を掛けた賀茂さんはずっと黙ったままの僕に声を掛けてきた。
 ユニットバスでシャワーを浴び、浴衣に着換えた賀茂さんは中村が気を利かせて差し入れてくれた弁当とペットボトルのお茶で一息ついたところだ。
 福岡土産の八女茶と博多織桜ポーチ、千年の眠り梅酒、長浜将軍ラーメン八食セットもフロントに預けてあった。本当に中村は何も聞かされていないのだな、と思うと余計気が沈む。
 ミツミネは元の普通サイズの柴犬に戻って床に置かれた皿からドッグフードを食べている。ホテルの人間が見ても神使いであるミツミネの姿は目視できない。
「さすがに天逆鉾から作られた杭ね。胸に当るか当らないかってところで彼女、あっけなく灰になっちゃった。だからさ、杭を心臓にグサリ、血がどばーっと吹き上がるシーンはなくて済んだのよ。ミツミネが跳びかかった瞬間はびっくりしてたみたいだけど、御札の効力で魂は既に抜けていたから断末魔の苦しみはなかったと思う」
 多分、賀茂さんは沈み込んでいる僕を慰めようとしてくれているのだろう。世間的に言えば彼女は血を求めて殺人をも辞さない不老不死の悪鬼だ。
 滅ぼされて当然だろう。しかし、それは彼女がそうしなければ生きて行けなかっただけなのだ。僕は『バイオ・ハザード』社に居所を見つけたが、彼女は一人で生きる道を選んだ孤高の吸血鬼の一人だ。
「同類を失ってしまった気持は分かるけど、孤高は美化し過ぎじゃないのかなあ。単に意固地だったとか、根っからサイコさんだったの可能性も高いわよ。もっとスマートにやれば出来るはずだったのに彼女は吸血鬼の評判を落すようなことしかしなかったじゃない」
 賀茂さんが僕の思念を横取りして架空のゴミ箱にぽいと捨てた。人間の間に吸血鬼の評判なんてものがあること自体問題だが、仮にあるとしたら、まあ、そうなるだろうねえ、と十歳も年下の賀茂さんの言葉に納得。
「さあ、もう寝るからね。幾ら幽霊だからってシングルベッドに一緒に寝ようなんて考えないでよ」
 ドッグフードを食べ終えたミツミネはベッドの足元で番犬然として丸くなっている。眠る必要のない僕は「はいはい」と返事をして部屋を出た。
 いつでも僕を消去してしまう力を持つ霊能者との同衾はこちらから御免蒙りたい。今夜は朝が来るまでホテルの中を徘徊して霊感あり人間を脅かしてやろう。
 朝、と言ってもビジネス・ホテルのチェックアウト直前に目を覚ました賀茂さんは爆発したセミロングの髪もそのままで急いで小豆色のジャージに着換えた。
 東大志望の幽霊君もジャージ姿だった。ジャージは幽霊及び霊能関係者の必須アイテムなのだろうか。どちらも身軽であることは確かだが、センスが悪い。
「福岡にはもう一人吸血鬼がいたわよね。さっさと片付けて次の都市に行きましょうよ。私が睨んだところでは昨日博多タワーから見えた悪霊の傍にいるような気がするんだよね。とにかく、行ってみようよ」
 僕に異存はない。賀茂さんはカウンターで中村からの土産を宅配便で送ってくれるように手続きをした後、またタクシーを拾った。
 福岡タワーが近付くにつれて昨日は悪霊の醸し出す黒いオーラとは別に同類の気配が感じられるようになった。
 吸血鬼の存在を隠す程のオーラを放つ悪霊は吸血鬼より恐ろしいのではないか。僕は現在幽霊と呼ばれるモノだが、幽霊は嫌いだ。 
 ロンドンの幽霊は見掛けと違って意外と策士だったし、東大万年受験生の霊は品がなく、飛行機の中に出現した霊は悪意に満ちていた。
今のところ、心優しいフェアリーのような霊には会ったことがない。
「あのさあ、田中っち、幽霊はみんな負の残滓でしかないのよ。フェアリーみたいな幽霊なんている筈ないじゃん。とっくに成仏してるわよ」
 ふーん、成仏って言うんだ、やっぱりここはジャパンだ。小さな感動を覚えた僕にミツミネが馬鹿にしたようにワンと吠えた。
 博多タワーに到着した後は前回と同じようにタクシーでうろうろする。疑心暗鬼のドライバーに賀茂さんは現在の運賃分の金を先に支払った。
 その賀茂さんの見立てでは悪霊の傍に吸血鬼ありだ。港の近くの倉庫と思われる場所で二人の意見が一致した。精算してタクシーを降りる。
「本当にここでいいんですか。お客さん、観光客ですよね。この辺、見所もお土産屋もないですよ」と念を押す運転手の顔はどうしてだか半泣きだ。
 運賃を受け取った運転手はピットを出るレーシング・カーみたいに一気に加速して倉庫の前を離れた。昼間でも長居したくない場所があるなんて、やっぱり「ここ」には何かある。
「あの運転手、肝心な事は言わずに行っちゃったね。お客さん、ここは有名な心霊スポットですがいいんですか? とか一言あってしかるべきなのに」
 後から降りて来た賀茂さんは口を歪めたが、今の髪の毛爆発状態とファッションセンス・マイナスの女が怖かったのかも知れない。どこから見ても賀茂さんは「危ない人」に見える。
 その「危ない人」がウエストポーチから御札を一枚取り出した。最初に悪霊の方をやっつける気でいるらしい。
「田中っちが最初に中に入って気を引いておいて。油断した隙に御札を貼るから」と言われた僕は嫌々ながら倉庫の扉を擦り抜けて中に入った。
 倉庫の中に入ると闇より更に黒い物が一番奥に蹲っているのが見えた。禍々しいとしか表現できないそのものは驚く程の俊敏さで顔の前まで迫って来るとヌチャと音をたてて僕を飲み込もうとした。
 ひえっ、と情けない声が思わず僕の口から漏れた。その途端、倉庫の扉が内側に蹴倒される派手な音がして、賀茂さんがすっと僕の傍に近寄ると人間の格好をした黒い塊の額と思しき所にぺたりと御札を張り付けた。
「よっしゃ、一丁挙がり!」と賀茂さんの頼もしい、いや、オヤジっぽい声が響いた。「ミツミネ、良くやったね。あんたは頼りになる子だこと」
 その通りならミツミネと二人でやればいいのに、最初に僕を魔窟に放り込む気が知れない。僕は非力な吸血鬼の幽霊にしか過ぎないのだ。今できるのは壁抜だけだ。
「次ぎはお目当てのアウトロー吸血鬼だね。私が想像するに、そいつは悪霊のお零れを当てにして倉庫に通って来てるんだろう。鮫のお腹にくっ付いているコバンザメみたいにさ」
「あの……、吸血鬼は悪霊より弱いってこと?」
「決まってるじゃないの。現に田中っち、飛行機もろとも殺されかけたじゃない」
「じゃあ、悪霊のお零れに与るのは危ないでしょうが」
「鮫はコバンザメを襲ったりはしないよ?」
 吸血鬼にとっては屈辱的な発言だが、言い返せない。特技はと聞かれたら不老不死、サングラスかコンタクトを外してじっと見詰めれば相手が眠ってしまうことくらいだ。
「今回の吸血鬼は面倒臭がりなやつなんじゃないかしらね。悪霊に憑依されて急に死にたくなった人間を狙った方が簡単でしょう。ほら、上を見てよ。古いのから新しい物まで、明らかに首吊り用の縄がぶら下ってるわよ」
 賀茂さんの指が天井を指している。それから、ほら、と今度は床を指した。床には赤錆びたカッターナイフが転がっている。
 ここは事件事故が異常に多い心霊スポットだ。死体が転がっていても「またか」で終わりだ。心霊スポットして有名になればその道の好事家が間断なく訪れる。ネット社会では噂は瞬時に拡散され、いつまでも残る。
 人間とは不思議なもので、あそこはヤバイと噂されればされる程覗きに行きたがる。最速のジェットコースターに乗りに行くぐらいの単純な好奇心だろうが、ジェットコースターで死んだ例もあるのを忘れてはいけない。
「アウトロー吸血鬼は多分、この辺の倉庫番をしている筈よ。巡回して来るのを待ってやっつけてやろうかしらね。ミツミネ、扉を元に戻しておいて。田中っちは標的が現われたら教えてくれればいいから倉庫の前で待機しててくれない?」
 鉄製の枠の大きな扉がテープの逆回しのように元に戻った。この一人と一匹で霊は見えるが吸血鬼は見えない、なんて事があり得るのだろうか。しかも「標的」だって。賀茂さんはアサシンか。そのうち「私の後ろに立つな!」と一喝されそうな気がして来た。
 「札一枚 額の辺りの 寒さかな」。心臓を取り戻したら渡辺主任のように『マンスリー・バンパイア』紙に投稿してみよう。季語もちゃんと入っている。フダをサツと読まれては困るのでルビを振って貰おう。
 現在幽霊状態の僕だが、根っ子は吸血鬼だ。倉庫の前の日の当らない場所に陣取って生涯初の俳句を推敲している間に一時間くらいは経ったようだ。
 来た、と感じた後に重い靴の足音がした。男に違いない。僕は倉庫の扉へ腕を突っ込んで賀茂さんに合図を送った。
 狩る側から狩られる側になった太った男が何も気付かずに僕の前を通り過ぎた。後は昨日の夜と同じ賀茂さんとミツミネ任せだ。僕に出来ることは何もない。
 倉庫から出て来た賀茂さんはちょっと疲れて見えた。寝不足とは思えないから、二日続けての除霊と吸血鬼退治でエネルギーを消耗したのだろう。
 霊能力者がエネルギー・チャージする方法を僕は知らない。ミツミネは神使いだから疲れることはないだろう。一番疲れるのは人間の賀茂さんだ。
 博多でもう一泊しようか、と提言しようと口を開きかけた時に賀茂さんのスマホが鳴った。相手を確かめた賀茂さんの顔が更に疲れて見えた。
 電気系統には強いので賀茂さんのスマホの会話は筒抜けだ。電話して来た相手は兄の正樹で、常連の上客が来ているので帰って来い、と言っている。
「あのさあ、勝手な事言わないでくれる? 私は出張中よ。そう、野球チームのある都市を巡って東京に戻るのは一番最後。上客って、樫村さんでしょ。あの人にはもう霊は憑いていないわよ。はあ? 何でもないと所で転ぶって? そりゃ単なる運動不足よ。そう言っておけばいいじゃない。それじゃあお金が貰えないですって? あんた、あの人からもう五百万円も貢がせちゃってるでしょ。いい加減で本当の事を言ってやったら……」
 あ、と言う言葉を最後に電話が切れた。強欲な正樹君は妹の言い分を聞かずに樫村さんとやらに御札を十万円で売りつける算段をしている。
 あーあ、と賀茂さんが溜息をついた。こんな時、同居している祖母と母は助けにはならない。なぜなら二人も霊だから物理的に働きかけて賀茂さんの力になることが出来ないからだ。
「保子、いい加減、正樹と吉次郎を追い出してしまえばいいじゃないか。私が一ッ跳びして東京にいる二人に噛み付いて来てやろうか。なんなら追い出してやってもいいぞ」
 ミツミネがホワイトニングしたような真白な牙をにゅっと伸ばした。僕のパンツに遠慮なしに噛み付いた狼だ。実行しかねない。
「ミツミネは厳しいね。でもあくまで内々の問題だから自分で解決するよ。つまらない事に霊力を使ったらあんたの修行の妨げになるしね。ほら、毛を逆立てていないでウエストポーチに入りなさい。これから札幌に行くからね」
 部外者には分からない家庭内事情があるようだが、これから札幌とは早過ぎないか? それに札幌は今の時期、冬真っ盛りだ。特に今期は厳冬だとテレビで天気予報士が言っていた。
「この倉庫の前じゃタクシーは拾えないね。スマホで呼んでも拒否されそう。少し大きな道まで出て、博多駅に行こう。それからまた新幹線に乗って東京まで戻って函館北斗行きの新幹線に乗る、ってのはどうかな?」
 飛行機に乗れたら楽なのだろうが、凶器を隠し持っている身としては地を這って進む選択肢しかない。順調に行っても函館に着く頃には日付が変わっている。
「函館北斗まで行けばまた『バイオ・ハザード』社から迎えが来ているそうよ。寝る場所の確保と名所案内をしてくれるらしいよ。雪祭りの前だから何とかホテルを取れそうだって。何でそんな手筈になっているのかって? 昨日の夜、あんたがビジネス・ホテルの中をうろうろしている間に博多での仕事は明日で終って、次ぎは札幌に行くって、『バイオ・ハザード』社に連絡を入れたからよ」
 ホテルをうろうろ、の箇所に若干の嫌味を感じたが、賀茂さんがシングルを占領しているのだから仕方あるまい。賀茂さんが会社と連絡を密にしているのが意外だった。
「田中っち、私の事をスタンド・プレイヤーだと思ってるでしょう。確かに一人で動いているから好き勝手しているように見えるかもしれないけど、私、血液型A型だからね。これでも几帳面なのよ」
 霊能者が血液型性格判断を信じているのは意外だった。血液型性格判断は科学的ではないと言われている。話題にしているのは日本と韓国ぐらいのものだ。しかし、血液型が分化したのにはそれなりの理由があった筈だと元血液検査技師の僕は考えている。
 博多駅に到着して東京行きに乗り込んだ。新幹線のダイヤは今や通勤列車並みだ。僕が大学生をやっていた頃には既に「こだま」と「ひかり」を合わせれば十五分置きに東京・大阪を往復していた。
 賀茂さんはまた駅弁を一つ買うと席に座った途端に食べ始めた。下りの時と同じ様に賀茂さんの隣に座ろうとする乗客はいない。
 敢えて「変な人」ビームを放って隣の席に誰も座らせない魂胆なのかも知れず、お陰で僕はゆっくりと席を確保でき、賀茂さんは隣に気を使うことなく熟睡できる。
「賀茂さんは大分草臥れているようだけど、霊能力者のパワー・チャージはどうやってするんだ?」と僕は一つ目の質問をした。僕は現在幽霊なので心労は別として疲れ知らずだ。
「吸血鬼は疲れるのか?」ミツミネが質問返しをして来た。
「疲れるのとは違うな。必要血液残量が減って行くって感じかな。残量ゼロになった時点でばったり倒れて終わりだ。その前に血液を補充するか、仮死状態に入る用意をしておかなくちゃならない。体の中にメーターがあって常にそれを意識している」
「車と同じか。ある時突然ガス欠で止まってしまうのか」
 ミツミネは器用に吻をひん曲げた。神使いはガス欠にはならないだろう。彼等は霊体であって実体ではないような気がする。ガス欠で倒れている神使いがいたら見てみたいものだ。
「まあ、そんなイメージでいいよ。僕等はだから血液残量に気をつけている」
「うーむ」とミツミネが唸った。「悪霊退治はかなりのエネルギーを使う。それに加えて今回はアウトロー吸血鬼まで加わっている。見掛けは元気そうに見えても疲労が溜まっているようだな。霊能力者とは言えただの人間だ。移動中の僅かな時間でも眠れば少しは回復するようだが」
 賀茂さんにはポパイのホウレン草のように便利なグッズはないということか。それなのになぜ今回吸血鬼退治まで引き受けてしまったのだろう。僕の第二の質問だ。
「保子はああ見えて可哀相な子だと言ったろうが。父親と兄の、特に兄が強欲でな、保子を打出の小槌としか考えていないのだ。電話番をする以外は二人して交代でパチンコとやらに入れ込んでいる。日に十万も負けて帰って来るのはザラだ。他にアンダー・グラウンドの賭場にも出入りしておる。その上、高い車に乗りたがり、腕時計も舶来品でなければ気が済まぬという屑だ」
「そんな男達は追い出してしまえばいいじゃないか」とミツミネが吐いたと同じ科白が僕の口から出た。いい年をした元気そうな大人二人を養う義務などない。
「普通はそうだな。私もそう思っている。しかし賀茂家では霊能力を受け継ぐのは女のみ。つまり人間世界では所帯主は父親だが、実質の当主は保子だ」
「今は当主が家族全体の面倒を見る時代ではないだろう。賀茂さんの霊能力に頼ってばかりいないで自分で働いたらどうなんだ。」
 目に膜が掛かったような無気力な吉次郎と正樹の顔を思い出すとむかむかして来た。平日の昼間だというのにワイド・ショーをぼんやり眺めていたのはそんな理由があったからか。
「それはそうだがな、保子が除霊で稼ぐ額を知ったらどんな男でも怠け者になるだろうさ。
稼ぐと言っても、保子が額を決めたのではないぞ。二人して値段を吊り上げている為だ。どこかの宗教法人のように、教祖は無欲でも幹部連中がお布施を懐に入れて贅沢な生活をしているのと同じだな。今回の『バイオ・ハザード』社の契約でも一件につき百万の値をつけたのは正樹だ。二十人の吸血鬼相手で二千万円の金になるが、その報酬は賭博の借金返済に回されることに決まっている。支払い期限は二月末だそうだ。」
 アウトロー吸血鬼を始末する仕事を賀茂さんが無償でやっているとは思っていなかったが、一人につき百万円は安いのか高いのか。吸血鬼一人をこの世から消す相場感が僕には掴めないでいる。ただ、賀茂さんが急いでいる理由だけは分かった。
「ジャパンの法律では賭博での借金は返済しなくても良かったんじゃないか?」
「正樹もそう強弁したが、怖いお兄さんに今付き合っている女を拉致されては払わない訳にはいかないだろう。もっとも二千万用意できなかった時には女を見捨てるつもりでいるらしいから気楽なものだ。焦っているのは保子ばかりと言うことさ」
 人間の女一人の相場も分らないが、付き合っている女はまだ若いので怖いお兄さんにとっては色々使い道があるそうだぞ、とミツミネが嫌そうに顔を顰めた。女の使い道などと言う言葉を聞くだけでこちらの気分も悪くなる。
「ミツミネは神使いなんだろう。その女を連れ戻してやったらどうなんだ」
「連れ戻してもまた担保にされるだけさ。それに女は正樹に惚れているらしい。殉教者気分でハイになっているのかもな。そうだ、いい事を教えてやろう。その女はO型Rh nullだ。どうだ、吸血鬼にとっても使い道のある女だろう。保子は女の血液型までは知らないがな」
「本当か? では女を拉致した男はアウトロー吸血鬼なのか?」僕はウエストポーチから顔を覗かせているミツミネの体を引きずり出すとぎゅっと握った。
「痛いじゃないか。こら、手を離せ。拉致した奴はただの人間だ。血を絞り取るより他の事を考えてているさ。今は利息分と称してイメクラとか言う所で女子高生の格好をして働かされている。田中、イメクラって何だ?」
 指に噛み付いたミツミネを僕は賀茂さんの膝の上に投げ落とした。
「神使いが知らなくていいワードだ。そうか、賀茂さんは辛い立場にいるんだな」
 膝の上で器用に反転したミツミネが「だから、保子は可哀相だと言ったろう」と吠えた。

九州から北海道へ

 東京に着くまで完全電源オフだった賀茂さんは僕に起こされると仇敵に会ったように睨み返して来た。寝起きの悪い人間の典型的なパターンだ。
 不機嫌な顔のままは賀茂さんは列車を降りるとどこかへ電話し始めた。髪は相変わらず爆発状態だ。霊能者のイメージは眼光鋭い才女だったが、僕の先入観は見事に砕かれ続けていた。
 外見は下手をするとホームレスすれすれだ。電話をしている横顔はごく普通だが、爆発頭が総てをマイナスにしている。CAさんの時はそれなりの格好をしていたので制服効果で凛とした女性に見えていたが今やその輝きはない。おまけに時々独り言を言っている。僕が警察官だったら即、職質を掛けるだろう。
「これからすぐ北海道新幹線に乗るわよ。函館北斗駅で山田という名の中年女性がピック・アップしてくれるそうよ」
「到着する頃外は真っ暗だろうなあ。今頃の時期の北海道は午後四時には日が暮れてしまう。おまけに最高気温でもマイナスだ」
「あれ、田中っちは北海道も行ったことあるの?」
「ずっと若い頃にね。青函連絡船しかなかった時代だ。その頃はまだSLが走っていて、網走の先の斜里町まで行って海を見てきたよ。九州に行った時は八月、北海道に行ったのは二月だった。その土地の一番厳しい季節に行くのが僕のやり方なんでね」
 ふーん、と興味なし、の鼻息が返って来た。
 車内販売の弁当を食べた賀茂さんはスマホで暫らく音楽を聞いていた。お好みは邦楽ロックのようだ。僕が聞き覚えがあるのは「六三四」「和楽器バンド」「上妻宏光」。それと分かるのは同じCDを持っているからだ。
 肩をちょんちょんと突いて「ONE OK ROCKとか聞かないの?」と聞いたらイヤホンを着けている人独特の大声で「なに?」と聞き返された。
 通路を挟んだ隣の席の男が怪訝な顔で賀茂さんを見て来た。大勢の居る中で幽霊会話モードでない賀茂さんに話し掛けるのはやはり御法度だ。
 東京を離れて仙台付近を過ぎると外の風景には雪が混じるようになって来た。車内の温度は一定に保たれているのだろうが、雪を見たせいだろうか、少し冷えて来た気がする。
 いつの間にか座席で丸まって寝てしまった賀茂さんに毛布の一枚も掛けてやりたかったが、僕には何も出来ない。ミツミネもウエストポーチの中で大人しくしている。新幹線は津軽海峡を渡って北海道に上陸した。

雪国の吸血鬼

 函館北斗駅前は何もなかった。函館を目指す人にとっては、また将来札幌まで開通すれば通過点でしかない駅だ。新駅にはよくある光景だ。それでも広い駐車場があり、建設中のホテルが見える。
 賀茂さんのスマホに駐車場で待っている、と連絡が入った。『バイオ・ハザード』社のナビゲーターだろう。凍った道で数回引っくり返りそうになった賀茂さんはよちよち歩きで目的の車まで辿り着いた。
「冬の北海道へようこそ。てか、あんた、何て格好してるのよ。これだから内地の人は駄目よね。北海道を舐めてるでしょう。やだやだ、見てるこっちの方が凍死しそう」
 車にもたれていた山田さんはドアを開けるとベンチ・コートとスノー・グリップを投げてよこした。繋ぎのスキー・ウエアを着た山田さんはすらっと背が高く、おまけに美形だった。
 ベンチ・コートを着込んだはいいがスノー・グリップをどうしたらいいのか悩んでいる賀茂さんのスニーカーに手際よく装着してやっている。
「これで一応にっちもさっちも動けません、て状態はなくなったけど、グリップ付でもアイスバーンにうっすら雪が積もっている場所は滑るから、注意して歩いてよ。歩幅は狭く、ペンギン歩き。本社からのお客さんを骨折させたり頭を打ったりさせたくないからね」
 山田さんも事情を知らされていないようだ。
こんな美人、東京でもめったにお目に掛かれないよなあ、とうっとりと眺めていると賀茂さんから蹴りが入った。
 外は駅周辺から放たれるオレンジ色の街灯以外は漆黒の闇だ。闇の中を細かい雪が真っ直ぐに地面に落ちている。夜のドライブは冥府に続く道を走っているように神秘的だ。
「今晩は函館のホテルに泊まってね、予約はしてあるから。はあ? 札幌に直行出来ないかですって? これだから内地の人は。メルカトル図法で地図を見ると九州と同じ大きさくらいだろうと錯覚するだろうけど、道内で飛行機が飛んでるくらい広いんだからね。函館から札幌まで汽車で四時間はかかるのよ。まさか雪道を夜通し運転しろ、何て言わないよね」
 山田さんが微笑みながらぶっとい釘を刺して来た。さすがに賀茂さんも気圧されて「はい、函館までで結構です」と殊勝に答えている。これで函館のホテル泊決定だ。
 函館で同じホテルに宿泊した山田さんは次の日僕達を札幌中心部まで連れて行ってくれた。『バイオ・ハザード』社からどんな指令を受けているのか、博多の時と同じ様に「白い恋人」から始まる北海道土産を山のように準備してくれていたが、鮭を銜えた木彫りの熊は定番過ぎてギャグにしか思えない。
「札幌には一泊するんでしょ? ホテルの予約は取っておいたから。それでどこを見物したいとか、リクエストはある?」
 スキー・ウェアに大きなサングラス姿の山田さんは車の中で札幌の地図を広げた。観光ガイドも引き受けてくれそうだが、賀茂さんは観光しに来たのではない。
「どうせ来るなら雪祭りの時が良かったのにね。私はもう見飽きちゃったけど、内地の人には楽しいみたいよ。まず時計台に行って、それから道庁赤レンガ庁舎でも見る?」
 いえ、その、と賀茂さんが博多の時と同じフレーズでやんわりと観光案内を断わった。
「南区に友人がいて、その子が迎えに来てくれる予定なんですけど」
 昨夜ホテルで確認したアウトロー吸血鬼が潜んでいる場所だ。時計台より南区の情報が欲しい。
「南区ねえ。面積は広いけど殆どが山林よ。あそこは熊が出るのよね。冬は冬眠しているから大丈夫だけど、最近は冬眠しないでうろうろしている熊もいるんだって。あなたの友達は南区のどの当たりに住んでるの?」
「小別沢です」「へえ……。じゃあ、お土産はホテルのフロントに預けておく、って事でいいわよね。」
「はい、お願いします。それから、札幌の街を一望出来る場所を教えて欲しいんですけど」
「一望? 迫力あるのは大倉山展望台かな。ジャンプ競技をやる場所だから眺めは最高よ。後はJRタワー展望台とか、旭山記念公園かな。お友達が車で迎えに来るなら大倉山展望台に連れて行って貰うといいわよ。何かあったら電話してね」
 そう言うと山田さんは賀茂さんに名刺を渡した。覗いてみると「タトゥ・アーティスト」と書いてある。山田さんの正体を知っている身からすると微妙な職業だが、流行っているに違いない。
 僕等はタクシーを拾って山田さんお薦めの大倉山へ向かった。駐車場からはドーム型のエスカレーターに乗ると展望台に行ける。オリンピックミュージアム、大倉山クリスタルハウスがあるが、観光が目的ではないから賀茂さんは目もくれない。
 展望ラウンジからは札幌ドーム、北海道大学など、札幌を代表する建物や石狩湾が一望出来る。雪の中に広がる街は博多とは異次元の風景だ。一切の生活臭が雪に吸われて無人都市を見ているようだ。
「田中っち、札幌とは面白い街だね。普通は中央区と言ったら中心街だと言うのにこんな山がある。有名な定山渓温泉も南区だって。南区って、いかにも吸血鬼が潜んでいそうじゃない?」
 賀茂さんは雪の反射に目を細めながら四方を眺めていた。確かに南区はアウトロー吸血鬼が棲むにはうってつけの場所だ。死体を捨てる場所は幾らでもある。
「さっき山田さんに小別沢に行く、とか言ってたけど、もう特定してるのか?」
「いや、スマホで地図を見ていて適当に言っただけ。田中っちはどこが怪しそうだと思う?」
 何だ、適当な地名を言っただけか、と呆れたが、賀茂さんには霊の居場所は分かっても吸血鬼の棲んでいそうな場所を言い当てる能力はないのだから仕方あるまい。
「やっぱり定山渓温泉の付近だろうね。不特定多数が出入りする場所は穴場だからね。後一箇所は歓楽街ススキノかな。調査票には何て?」
「中央区って書いてあるだけ。展望台も中央区で、歓楽街も中央区。落差があり過ぎだよね。何でもっと細かく特定してくれないんだか」
「移動するからじゃない?」
「はあ、なるほどね」と賀茂さんが眼下の景色に目を凝らしながら上の空で答えた。ここでまた悪霊を見つけ出して貰っては余計な手間が掛かる。
 賀茂さんの目には某事故物件サイトのように炎マークでも見えているのだろうか。僕も一応幽霊だが、悪霊の存在までは感じる事は出来ない。もといたアパートで自殺兼他殺の霊に会ったのは偶然に過ぎない。
「とにかく、定山渓方面へ行こうよ。そこが終ったら一旦ホテルに戻って体を休めてから次の日にススキノへ行く。ススキノで片をつけたらそのまま新幹線で戻ればいい」
 賀茂さんが悪霊を見つける前に僕は急いで行動計画を提案した。ミツミネがウエストポーチから顔だけを覗かせてふふん、と鼻を鳴らした。
 非難されようとも、悪霊退治は僕の管轄外だ。それに賀茂さんにとって一文にもならない仕事だろう。ボランティアをやっている場合ではない筈だ。
 もう少し確かめさせてくれない、と言う賀茂さんを急かせて展望台を降りるとまたタクシーで定山渓に向かった。今回はベンチ・コートに身を包んでいるので賀茂さんもそう「変な人」には見えない。
「お客さん、北海道は初めてでしょう」と運転手が話し掛けてきた。「スノー・グリップ着けてるのは観光客ぐらいなもんだもん。道内の人は冬靴履いてるからね。冬靴ってのは底が滑り止め加工された靴でね、雪が降らなくなったら夏靴に履き替えるんだわ。夏靴は雪の降らない土地の人が履いている普通の靴のことね。車のタイヤも靴と同じで冬タイヤと夏タイヤがあって二種類のタイヤを持ってるんだよね。タクシーはお客さんのリクエストでどこへ行かされるか分からないから初雪が降る前にタイヤを交換してんのよ」
「じゃあ、雪が降らない地域に住んでいる人達より手間が掛かりますね」
 お喋り好きな個人タクシー運転手を相手に賀茂さんも話に乗っている。
「手間も掛かるし、お金も掛かる。冬の灯油代聞いたらびっくりすると思うよ。内地の人はコタツや小さなストーブでいいかも知れないけど、こっちでは各家庭で大型の灯油タンクを設置していて、灯油配達の人が月に一回給油して歩いてるのさ。灯油の値段が高い時には溜息が出るね」
「そう言えば、どの家の横にもタンクがありましたね。あれが灯油タンクなんだ」
「昔は薪とか石炭だったけど、今は灯油になっちゃったね。ウチでも四十年前くらい前には石炭を焚いていたけど、今は石炭を扱っている店自体がなくなっちゃったから。でもさ、ストーブの煙突掃除をしないで済むようになったから楽だね」
 車は時々轍で軽く尻を振りながら東京では考えられないようなスピードで飛ばしていた。運転手の話では夏は八十キロ、冬は六十キロが北海道速度なんだそうだ。恐ろしい。しかも追い越しを掛ける。
 運転手は客が相槌さえ打てば北海道開拓史から延々と喋り続けそうな中年の男だった。観光客相手なら絶好のガイド付タクシーだ。
 僕は話を聞きながらアウトロー吸血鬼が潜んでいそうな場所を考えていた。有名な温泉街には大勢の人間が訪れる。最近は「お一人様」の女子旅も多いと聞いている。狙うには絶好の相手だ。
「お客さん、宿は決まってるの?」と運転手がバック・ミラーを見ながら賀茂さんに聞いている。「いえ、日帰りのつもりですから」と賀茂さん。こういう宿帳に名前を記帳しない人間ほど狙い目だ。
「最近一人旅の女の子って結構多いよね。日本は安全だとかスマホがあればすぐ連絡がつく、何て思っているらしいけど、それってどうなんだろうね。アメリカ映画じゃ、そういう女の子がシリアルキラーの被害者になってるよ。ちゃんと誰かに行き先言っておいた?」
「自分の身は自分で守れますから」
 賀茂さんの答えはこれまた被害者が言いそうな言葉だ。ただのお喋り好きの運転手だとばかり思っていたら変な方向へ向かっている。
「自分の身は自分で守る? お客さん、格闘技の心得でもあるの。それともアメリカみたいに護身用の銃でも持っているとか? 多分格闘技の心得も銃もないよね。もし私が殺人鬼だとしたらどうする? あれ、怖がらせちゃったかな。怖がらせついでに『サクラメントの吸血鬼』と呼ばれた男の話をしてあげようか。名前はリテャード・チェイス、被害者を射殺した後に腸を引きずり出してヨーグルトの容器で血を掬って飲んだんだって。英和辞典で調べたらチェイスには追跡とか狩猟とかの意味があるんだよ。これって偶然かな」
 賀茂さんの隣で運転手の一方的な話を聞いている僕は実に嫌な気分になった。こいつはただ単に女を怖がらせて喜んでいるタイプなのか、それとも本物のサイコ野郎なのか。
 期せずしてウエストポーチから顔を覗かせているミツミネと目が合った。「馬鹿者、お前の目は節穴か」とミツミネが僕を睨んだ。途端に車の中が一気に鉄臭くなった。こいつはサイコパスではない。同類だ。
「賀茂さん、言いにくいことなんだけど、いいかな?」と僕は恐る恐る声を掛けた。「どうやらこの運転手、やばいよ」。
 それからの賀茂さんの動きは早かった。「ちょっとおじさん、朝、ホテルで食べた物の食べ合わせが悪かったみたいで、気分が悪くなっちゃって。どこか横道に入って一旦車を止めてくれませんか」
 横道ねえ、と言った運転手の声が喜悦で弾んで聞えた。同じ吸血鬼としては汗顔の至りだ。僕もどうしようもなく血に飢えた時には獲物を前ににやにやと弛緩してしまうのだろうか。
 横道に入った途端にミツミネがドアを蹴ると同時に運転手の襟を咥えて引きずり出した。賀茂さんが額に御札をぺたりと張って杭を突きつける。
 博多で言っていたように血は飛び散らなかった。杭が胸に触れた途端、運転手は声をあげる暇もなく灰になった。あまりにあっけなくて、もし僕が死にたくなった時は賀茂さんに頼もうかな、と思ったほどだ。
「私には吸血鬼の気配は分からないんだから、田中っち、ちゃんと気を付けてよ。それより帰りはどうしよう。まさかこんな場所で歩き、って訳にも行かないからこのタクシーを借りて戻ろうか」
 雪の上の元吸血鬼の灰を足で蹴散らしながらはや帰り道の心配をする。実に超現実的だ。
「集落が近い所で乗り捨てればいいんじゃないか。車内に事件や事故の痕跡が残っていなければ謎の運転者失踪事件、で終わるだろう。運転手には家族がいるのかね」
「独身みたいよ」と調査表を確認しながら賀茂さんが再び車に乗り込んだ。家族がいなのなら好都合だ。死体なき失踪。多分、不思議には思っても大きな騒動にはならないだろう。
 ミツミネがするりと車に乗り込んだのを見て僕も後部座席に座った。運転席には賀茂さん。
「え、賀茂さんが運転する? 免許持ってるの?」
「持ってるわよ、一応。ペーパー・ドライバーだけど、ミツミネは狼だし、田中っちは幽霊だから車の運転はできないでしょう。この際、運転出来るのは私しかいないじゃない」
 どのくらい長い間ペーパー・ドライバーなのか知らないが、その人物が生れて初めて雪道で車を走らせる。
 賀茂さんがハンドルを握っている間、僕はすっと南無阿弥陀仏と唱え続けた。ミツミネや僕の為ではない。生身の賀茂さんの為だ。

雪の札幌

 車を乗り捨ててしばらく歩き、定山渓の手前の温泉地でタクシーを拾い、札幌の街に到着した頃には僕は吸血鬼の車に乗り合わせた事より、ぺーパー・ドライバーの運転で心底ぐったりしていた。
 賀茂さんは何とかやり遂げた。吸血鬼退治より快挙ではないかと思ったくらいだ。下手に事故でも起こしたら何で個人タクシーを運転しているのか、と問い詰められていたに違いないからだ。
 いやその、運転手が吸血鬼だったので退治しましたが、帰りの手段が思いつきませんで、と弁解したって誰も信じてはくれないだろう。
 外国では反キリストとしての吸血鬼の存在を信じている人はいるかも知れないが、日本では漫画かライトノベルかゲームの中でしかお目に掛かれない。
 聖書では「血を飲んではいけない」の禁忌がある。禁忌があるという事は飲んでいる人々がいた、という証拠だ。牧畜民族と農耕民族の違いだろうか。
 山田さんが用意してくれていたホテルに辿り着いたのは夕方だった。フロントに預けられていた北海道土産を前回と同じ様に宅配便で発送して貰う手続きをする。どうせ父親の吉次郎と兄の正樹の口に入ってしまうのだろうに、せっせと自宅に土産物を送る賀茂さんは孝行娘なのか、馬鹿なのか。
「ちょっと、馬鹿はないでしょうが。そりゃあ、父と兄貴の口に入っちゃうけど、祖母と母だって目で楽しむ事は出来るわよ。それに博多織桜ポーチと熊の置物は私の物よ」
 足柄山聖天堂には熊に乗る金太郎の石像がある。足柄山ならその熊はツキノワグマだろう。もしヒグマだったら金太郎は熊と相撲を取れたのだろうか。
 ヒグマ相手では無理そうだな、と自分でも愚にもつかないシチュエ—ションを考えている間に部屋に着いた。同じシングルでもビジネス・ホテルよりは快適そうだ。風呂もユニットバスではない。
 ホテルのバイキングで夕食を済ませた賀茂さんは風呂に入った後、すぐにベッドに倒れ込んだ。吸血鬼退治より車の運転で相当疲れたようだ。幽霊の僕でさえ神経が疲れたのだから賀茂さんが鼾をかいて寝てしまったのを笑う事は出来ない。
「ミツミネ、お前、今まで賀茂さんの運転する車に乗った経験はあるか?」
 まだソファーの上に鎮座しているミツミネに声を掛けた。ミツミネは賀茂さんにシャワーで体を洗われ、その後ドライヤーで毛を乾かして貰って毛並みのいい血統書でも付いていそうな豆柴に変身している。
「保子の運転する車か? いや、十年一緒にいるが初めてだな。兄は分不相応なでかい車に乗っているが、保子は自分の車を持っていない。持っていなければ運転する機会もなかろう?」
 東京に住んでいれば交通網が整備されているから車に乗る必要はないと言える。
「一度除霊に失敗した事があってな。いや、失敗ではない。もともと霊など憑いていない神経症の依頼者だったのだが、そいつが群馬の山奥から迎えに来たのはいいが、除霊がうまく行かなかったと激怒して保子を放り出してな、帰るのに難儀したのが車の免許を取った理由だ。霊の仕業ではないと説いて聞かせても聞く耳持たずの嫌な奴であったよ。」
「へえ、そういう事があったのか。でも自分の車を持っていないのなら免許を持っていても意味がないじゃないか。正樹は車を貸してくれないのか」
「正樹は例え妹だろうが人に車を貸す男ではない。その代わりレンタカーを借りられる、と保子は言っていたぞ。これまでレンタカーを借りる機会はなかったがな。何でもゴールド免許だそうだ」
 そりゃペーパー・ドライバーならゴールドでしょうよ、と突っ込みたかったがやめた。ミツミネがゴールド免許の何たるかを知っているとは思えなかったからだ。
「話を聞いていると賀茂家の男は禄でもない奴だな。稼ぎ頭の妹の心配はしてやらないのかな。僕ならさっさと追い出してしまうけど」
「うむ、私も保子にそう言っているのだがな」
 豆芝は鼻面に皺を寄せた。心中穏やかではない、と見受けられる。
「前も話したとおり、賀茂家の能力は女のみに受け継がれる。男子が生まれても余計者でしかない。余計者と気付いた時に男のとる行動は二つ、自立の道を探すか、寄生するかだな。吉次郎と正樹は寄生する方を選択した。易きに流れたという事だが、余計者には余計者なりの屈折した感情があるのだろうな。保子もそれを知っているから無碍には出来ないのだよ。なまじ霊能力など持っていると苦労をするな」
 それならどこかの代で繁殖をやめればいいではないか、と思うが人間はそうはいかない種族だ。死んでしまうからこそ子孫を残す。
 同僚の高橋は不老不死のくせに家庭を持とうとする。挙句に子供が自分より先に老いて死んで行くのを見届ける破目になる。僕は愁嘆場も面倒も御免だ。
 賀茂さんの鼾が止まって静かな寝息に変わった。霊能力者の見る夢はどんな夢か、ちょっと興味をそそられる。
 幽霊の僕と同じ様に多分ミツミネにも睡眠は必要ないだろうが、会話が途切れたままなので僕は目を瞑って北海道にもう一人いるアウトロー吸血鬼の居場所を推理してみた。
 タクシー・ドライバーとは意外な職業だったが、密室或いは個室に人間を誘い込むのはいいアイデアだ。山田さんのようにタトゥー・アーティストも悪くない。一対一になるのが望ましい。
 その条件をクリアする職業としてヒプノセラピストはどうだろう。ヒプノセラピーとは催眠療法の事で、吸血鬼ならわざわざ催眠術を習わなくても目をじっと見るだけで相手は確実に眠ってしまう。
 札幌は人口二百万に迫る国内第五位の大都市だ。ヒプノセラピストの一人や二人はいる筈だ。賀茂さんのベッド・サイドからスマホを借りて調べてみると四十件近くヒットした。その中から名字ランキングに入っている姓と住所をチェックしてみたが僕のアンテナに引っ掛かるものがない。
「もぐりもいるぞ」ハズレだろうかと思ってがっかりしている僕に再びソファーに鎮座しているミツミネの声がした。
「喫茶店やバー、スナックの経営者で親しくなった客に手相を見てやる輩がいるではないか。無料でヒプノセラピーを持ちかける奴がいるかも知れないな。好奇心で引っ掛かる客も中にはいるだろう」
 マジックを売り物にしている店もあるから可能性はある。中心部からちょっと離れたビルの地下で営業している。ススキノの可能性はこの際、捨てよう。僕はスマホに北海道全体の地図を表示させてみた。
「『バイオ・ハザード』社の調査では札幌に二人だそうだが、場所を移した可能性もあるな。僕は小樽近辺が気になるんだけど、ミツミネはどう思う?」
「私には吸血鬼の居場所など分からない。だからおまえを連れて来たのではないか。おまえが何かを感じたのならそこへ行けばよい」
 へえ、僕を信用しているのか、と聞くとミツミネは視線を逸らしてケッと鳴いた。まったく扱いにくい神使いだが、豆柴の姿でいる時は結構可愛い。

小樽の麻利亜さん

 次の朝、僕は小樽行きを提言した。小樽運河の風景が僕好み、イコール吸血鬼好みだ。
三方を山に囲まれた古くからの港町で、人口は十二万人ほどだが札幌から約四十キロの距離にあり、札幌まで獲物を狩りに行くにも手頃な場所だ。
 文句を言われるかと心配していたが賀茂さんはあっさり目的地変更に同意した。山田に電話をして宿の手配と土産物の礼を言っているのが聞えた。意外に律儀だ。
 小樽へはやはりタクシー利用だった。一刻も早く仕事を片付けたいらしい。なにしろまだ五箇所残っている。
 『バイオ・ハザード』社からの成功報酬二千万を二月末までには手に入れなくてはならないのだから、気が急くのは当たり前だ。
 自分の負債ではないにしろ、借金に追われている霊能者を初めて見た。いや、そもそも霊能者を身近に見るのも初めてなのだ。
 室町時代から生きていれば、中には仏陀の生まれ変わりだの、下生した弥勒だの、再臨のキリストだの称する人物の噂を聞いたこともあるが、近づこうと思ったことは一度もない。
 僕の信条は目立たずひっそりと暮す、これに尽きる。僕だけではない。おそらく世界中の同類が同じ考えに違いない。インタビューを受けているのは映画の中だけだ。
「田中っち、小樽には石川啄木の銅像があるんだよね?」
「それは函館ですって。石川啄木が北海道に住んでいたのは短い期間でね。函館で死んだんじゃないのに何で銅像が建っているんだか」
「まさか、啄木と面識があった、なんて言わないわよね?」
「会ったことはないけど、知人たちの間では傲慢で『借金魔』、と言われていたそうだから、嫌な奴だったのかもねえ。働いても暮らしが楽にならない、と嘆いている歌があるけど、遊興費に使っていたらしいよ。今で言うキャバクラ通いみたいな」
「ふーん、短歌を読む限りでは傷つきやすい繊細な人のイメージなんだけどな」と賀茂さんは溜息をついた。
 啄木は文学少女が一度は嵌る人物だ。今の僕なら寺山修司を推す。霧の深い波止場でマッチを擦る歌はきらびやかな三島の「憂国」とは違って悲しく深い問いを僕等に投げかける。
 渡辺主任のお気に入りは藤原清輔の「ながらえばまたこの頃や忍ばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき」といういかにも不老不死の吸血鬼好みの歌だった。気が付かなかったが主任はストレス抱えていたのかも知れない。
 小樽はハイカラと懐古が調和している街だった。運河を潰してしまわなくて本当に良かったと思う。降り積もった雪がこの街を更に美しくしている。
 暫らく感慨に耽った後、僕はアウトロー吸血鬼のいそうな場所の探索を始めた。街の中心部から少し離れた個人経営の喫茶店、或いはバー。
「どう、いそうな場所の見当はついた?」と賀茂さんが聞いてきたので、僕は古いビルの一ヶ所を指差した。
「あの地下のバーが多分、仕事場だ。でも住んでいる所は別だな」
「じゃあ、またタクシーを拾う?」と賀茂さん。
「いや、営業を終えて歩いて帰れる距離に住んでいると思うよ。いちいちタクシーに乗って帰っていたら不経済だからね。この近辺を少し歩いてみようか」
 傍から見たら女性観光客が一人で道に迷ってふらふらしているようにしか見えない。しかもスノー・グリップを装着しながら時々足を滑らせている。
 札幌在住の山田さんが「冬靴を履いている道産子でも時々滑る。シーズン中何人も救急搬送される」と言っていたが、アイスバーンの道はまるでスケートリンクだ。
 この時ばかりは幽霊でいることに感謝しなければならない。僕の足は見掛けは地に着いている様だが地面とは絶妙な距離を保っている。
 運河でも一体、二体と見掛けたが、住宅地に入ると数体の幽霊と遭遇した。いずれも害意のない大人しい自縛霊達だ。とは言うものの死んだ時の様子を再現しているので気持のいいものではない。
 賀茂さんはこれらの自縛霊にちらっと目を向けはしたが根本、無関心だった。これ等の自縛霊は視える人にとってはぎょっとする対象ではあるが、放って置いてもその内消える。
 幽霊になって日が浅い僕には霊のことはよく分らないが、「その内」が数年か、数百年かはその幽霊の個性によるらしい。
 僕がロンドンで遭遇した霊はたまたま子孫の危機を感じて活性化し、たまたま移植適合者である僕に目をつけただけ、と言われたが、目をつけられた僕にとっては大いなる災難だ。たまたま、で済まされた僕の立場がない。
 道端、或いは古いマンションの一室でぼーっと佇んでいる霊の存在を感じながら、僕は吸血鬼の住んでいそうな場所を捜し続けた。とある七階建ての比較的新しいマンションがアンテナに反応する。
 入口はオートロックだが、幽霊にとってはロックなど無きに等しい。ガラスの扉を擦り抜け、感の命じるままに五階までエレベーターで上がった。電気系統は幽霊にとって障害にはならない
 508号室の扉を擦り抜けてまず最初に目にしたのは2Dkの窓際に佇む女の幽霊だった。定番の貞子スタイル。白い服は大量の血液で染め上げられている。
 勿体無い、と僕は思った。服を赤く染めるくらいなら僕等の同類に寄付してくれればいいものを。無駄に流される血が惜しい。
思わず二、三歩近付いたがふと我に返った。彼女は幽霊だ。フレッシュなボディではない。
 ひとまず無視して寝室らしき部屋を覗くと三十前後と思われる茶髪の男がベッドでうつ伏せに寝ていた。
 窓際には女の幽霊、それプラス僕、と二体の霊がいるのに何も感じないみたいだ。霊感なしのアウトロー吸血鬼。まあ、霊感ありの僕みたいな吸血鬼はそうそういないだろうが。
「確かにアウトロー吸血鬼がいたよ。しかも女の幽霊付きだ」
 再びマンションの入口に戻った僕は賀茂さんにそう報告した。女の幽霊とアウトロー吸血鬼との間には何の関係もなさそうだ。事故物件とは知らず家賃の安さにひかれて入居してしまったものと想像される。
「また霊と吸血鬼のダブル? でも今回の霊は悪霊じゃないみたいね。事件性も感じないし。精神的に不安定になって自殺しちゃったのかな。今は寂しい、悲しいの気持だけ。後数年したら消えると思うよ」
 僕達はオートロックが解除される機会を伺いながら女の霊について話しあった。殆どの霊は事件事故の記憶が人々の脳裏から薄れると共に消滅してしまうらしい。
 暫らくするとこのマンションの住人と思われる人物がマンションの中に入った。賀茂さんも後ろからするりと入る。後はいつもと同じだ。僕はエントランスで賀茂さんが戻るのを待った。
「はあ、疲れた疲れた」とぼやく賀茂さんを見ると後に下を向いた白いロングドレスの幽霊が憑いている。彼女は508号室の自縛霊ではなかったのか。なんで賀茂さんの後ろにいるのだろう。
「三十代男子のアウトロー吸血鬼に抵抗でもされたのか? ミツミネ、お前、ちゃんと賀茂さんを補佐しなくちゃ」と言い掛けたところで当のミツミネに吠えられた。
「ちゃんと、とは何だ。私の力を甘く見るな。アウトロー吸血鬼は灰になった。保子が疲れたのはその女の幽霊のせいだ」
「はあ? その女の幽霊が何だと言うんだ。悪霊にでも変わったのか」
「ある意味悪霊より性質が悪いかもな。その女は執着霊になった」
「執着霊って、賀茂さんに憑いたのか?」
「いや、お前にだ」
 僕は一分近く頭の活動が止まったような気がした。「お前」とはこの僕のことか。何で! 
「まあ、聞いてよ。田中っちが部屋に入って来た瞬間にこの霊、……麻利亜さんが一目惚れしちゃったんですってよ。何でも小学校以来の一目惚れなんですって。麻利亜さんにとって田中っちは運命の人、いや運命の霊だって直感したらしいの」
 僕はあまりの展開に吐きそうになって慌てて口を押さえた。これは性質の悪いジョークなのだろうか。しかし女の霊、もとへ、麻利亜さんは長い黒髪をばさっと顔の前に垂らしたまま体をもじもじさせている。
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕はアラフォーの吸血鬼の幽霊ですよ。最近お腹に脂肪がつき始めているし、顔も普通って言うか、中の下くらいで、麻利亜さんに好かれるポイントなんてない筈ですけど?」
「で・も・こ・の・み・な・ん・で・す」
「ど、どこが」
「や・さ・し・そ・う・な・と・こ・ろ」
 一語ごとに区切るのは元々なのか幽霊になったからか。飛行機の中にいた三次という名の悪霊は饒舌だったからこれは麻利亜さん独特の会話方法なのだろう。まどろっこしい限りだ。
「今までずっと変わり者と言われ続けていたので、優しそうと言われたら悪い気はしませんが、僕はちっとも優しくありません。横断歩道でお婆さんが渡るのに難儀していたら手を引いてあげるくらいはしますが、だから優しいとは言えないでしょう」
 自分でも何を言っているのだ、と顔が赤くなるのを感じた。元のてのひらサイズに戻ったミツミネがウエストポーチの中から顔を出して興味津々で僕と麻利亜さんを交互に見ている。
「じゅ・う・ぶ・ん・や・さ・し・い・と・お・も・い・ま・す」
「しかし、だからと言って麻利亜さんに優しく出来るかどうかは分かりませんよ」
「そ・う・な・ん・で・す・か?」
 まあまあ、と賀茂さんが間に割って入った。入ってくれた、と言うのが正確な表現だ。賀茂さんをエントランスの一番端に引っ張って行った。幸い麻利亜さんは憑いて来ない。
「賀茂さん、冗談は止めてくれませんかね。僕は確かにチョンガー(古い!)だけど恋人がいなくて寂しいってタイプじゃない。いや、むしろ独りの方がいいんで。彼女を御札で消してもらえないかな」
「消すのは簡単よ。でも少し付き合ってあげれば。臨時の幽霊で本体は吸血鬼だって説明はしたわよ。でも田中っちに一目惚れしたって言うその心根が可愛いじゃない。精神的に不安定な所はあるけど、よく見たら美人の部類に入るし、この際、付き合っちゃえば?」
 耳に快い説明ではあるが、賀茂さんが疲れた原因は麻利亜さんの説得に労力を費やしたからと思われる。
「付き合っているうちに田中っちの嫌な部分が見えてきて自分から離れて行ってくれるかもしれないしさ」
 嫌な部分って、どこですか!と僕は思わず声を荒げた。好きで幽霊になっているのではないし、好きで賀茂さんのお供をしているのではないのだ。
「えっと、いつも他人事みたいなところかな」
「完全に他人事ですよ!」
 僕は頭にきて言い返した。僕は静謐な『バイオ・ハザード』社を愛している。ジェントルな吸血鬼集団の一員であることに誇りを持っている。今の状況は不本意以外のなにものでもないのだ。
「他人事かも知れないが、お前の心臓は今、休眠状態にある。早く取り戻したければ保子の手伝いをするしかあるまい」とミツミネ。
 それはそうだが、だからと言って初めて会った女の幽霊と付き合わなくてはならない特例条項まで呑めというのか。
「か・も・さ・ん」
 いつの間にか僕の横に立った麻利亜さんが不穏な空気を察してか、細い声で賀茂さんの名を呼んだ。
「わ・た・し・の・こ・と・で・け・ん・か・に?」
「いいえぇ、とんでもない、喧嘩なんかしてないわよ。田中っちは四十歳近くまで女性と付き合った経験がないからどうしていいのか分からないんですって。今もさ、指輪でも買ってあげなくちゃ、とか言ってるから、それはちょっと気が早すぎるんじゃない、って女性との付き合い方のアドバイスをしてたところなの」
「ゆ・び・わ・は・ま・だ・い・い・で・す」
 麻利亜さんの霊体が薄くなったり濃くなったりした。多分、はにかんでいるのだろう。 
 たった今会ったばかりなのに指輪はないだろうよ、と賀茂さんを睨みつけたが、賀茂さんの頭の中では僕と麻利亜さんの交際は既成事実化されていて、はや次のアウトロー吸血鬼狩に向いている。
 『ロード・オブ・ザ・リング』ではないのだから旅の仲間が増えても困る。幽霊ならなお更だ。
 僕と麻利亜さんは既に次の調査表を手にしている賀茂さんを追って、ガラスの扉を擦り抜けてマンションの外に出た。
「そ・と・に・で・る・の・は・ひ・さ・し・ぶ・り」と麻利亜さんが太陽の光の中で嬉しそうに言った。そりゃあ、自縛霊でいるよりいいでしょうよ。
「ところで麻利亜さん、君、なんで自殺なんかしたんですか。そんなに血を流すなんて、一体どんな死」と言い掛けて僕は口を噤んだ。麻利亜さんの髪が逆立ち、急に冷たい風が吹いてきたからだ。触れられたくない事に触れてしまったらしい。
「あ、ごめん。デリケートな問題でしたね。無理には聞かないから。その内、気が向いたら話してくれればいいです」
「そ・う・し・ま・す」
 髪が風で持ち上がった時、彼女の顔が見えた。細面で色白。化粧気はないが、つい最近ロック歌手と結婚した女優さんに似た美人さんだった。幽霊とは言え、なぜ僕なんかに一目惚れしたのか。謎だ。
 賀茂さんはどこかに電話した後、いつものように大通りに出て無造作にタクシーを止めた。いよいよ次なる地を目指す。
「函館北斗駅まで行ってくれる?」
「ええっ! 函館北斗駅までですか?」
 タクシー業界では思いがけない長距離客を「おばけ」と呼んでいる。今、この運転手は名実共に「おばけ」を運ぶ。運転手は無線で会社に函館北斗、と報告した。
「運転者さん、函館北斗までどのくらい掛かるの?」「距離ですか」「時間と料金」
 運転者はおおよその時間と料金を賀茂さんに伝えた。賀茂さんはそのおおよその料金を運転手に先渡しした。これで踏み倒される心配はなくなった筈だ。
「慣れない雪道を歩いて疲れちゃったの。しばらく寝るから駅に着いたら起こしてくれる? 今日中に新幹線に乗りたいのよね」
「どうぞ安心して寝ていて下さい。目的地に着いたら起こしますから」
 言葉通り、賀茂さんはすぐに寝てしまった。
ミツミネが言ったように本当に体力を削っているのかも知れない。
 霊感のない人が見たら後部座席は賀茂さん一人だが、今回は麻利亜さんと僕との三人掛けでちょっと窮屈だ。僕が助手席に移ると運転手が車を発進させた。
 賀茂さんは麻利亜さんの膝に頭を乗せて眠っている。非常に不自然な格好なのだが、運転手席からは見えない角度だ。
 僕が見ているとミツミネもウエストポーチから出てきてでれっとした顔で麻利亜さんの肩の上に乗っている。
 「精神的に不安定で自殺した」らしい彼女だが、こうして一人と一匹が無邪気に寝床にしている姿を見ると、喋り方はまどろっこしいいが、生前はいい人だったのだろう、と思えてくる。
「た・び・を・し・て・い・る・ん・で・しょ・う。つ・ぎ・は・ど・こ・へ・い・く・ん・で・す・か」と麻利亜さんが聞いて来た。
「さあ、まだ賀茂さんからは聞いていないですけど、東京、大阪、名古屋、横浜、広島がまだ残っていますよ。行ったことありますか?」
 麻利亜さんは北海道からまだ出た事がないそうで、色々な都市に行けるのはとても楽しみだ、と独特の口調で伝えて来た。
「え、修学旅行で東京とか京都とか行かなかったんですか?」と聞くと、幼い時から体が弱くて修学旅行には参加できなかった、と残念そうに言った。だから皆と旅をするのはとても楽しみだ、と。
「それは良かったですね。でも僕等の旅は名所旧跡巡りじゃないからつまらないかも知れませんよ」
 そんな事は全然構わない。他の街を見るのが楽しみなんです、と麻利亜さん。
 まだ若い女性が一度も本州に行ったことがない方が驚きだ。格安航空のお陰で昔よりずっと安上がりで旅行が出来る。僕が北海道に上陸したのは青函連絡船がばりばりの現役だった時代だ。
 函館北斗駅に着くと賀茂さんはウエストポーチからお金を取り出すと料金の精算をし、再び北海道新幹線に乗り込んだ。青森・函館間の降雪で一時間ほど遅れての出発だ。
「次ぎはどこへ行く予定なの?」と聞くと広島—大阪—名古屋—横浜—東京の順に片付けて行く予定だ、と告げられた。山場はやはり大阪と東京だろう。
 どうせなら福岡まで行ったついでに広島—大阪—名古屋—横浜と回って来た方が効率的に思えるが、賀茂さんには彼女なりの考えがあるのだろう、と思うしかない。
 問題は僕には広島、大阪、名古屋に土地勘がない事だ。周遊券で九州を回った時に大阪で一時降車して箱寿司を食べた思い出しかない。
「広島については殆ど何も知らないんだけど」と言うと、賀茂さんは「ノー・プロブレム」と答えた。どうせまたナビゲーターが迎えに来てくれているのだろう。

広島仁義なき戦い

 広島で僕等を迎えてくれたのは見た目四十代の斉藤さんだった。仁侠映画の先入観で着物を着た「あねさん」の登場を期待していた僕からすればごくごく普通で残念だったが、聞けば最近東京から転勤して来たばかりだそうだ。
 その新米広島人によると広島市にも八つの行政区があると言う。旧市内は中区、東区、南区、西区で、分かり易くはあるが行政の適当なセンスが伺えるネーミングだ。
 新市内と呼ばれる地区は安佐南区、安佐北区、安佐区、佐伯区の四つで、これまた安易なネーミングだ。原爆ドームは中区にある。
「広島に来たんだから原爆ドームは必ず見て行ってね。それから厳島神社もね。それから尾道へ行く?」
 もみじ饅頭が入っていると容易に想像される紙袋を賀茂さんに渡しながら『バイオ・ハザード』社の指令で、観光に来たと信じている斉藤さんが尋ねて来た。この人も霊感なしの吸血鬼だ。
「始めに広島で一番高いビル行きたいんですけど」と賀茂さん。○○と煙は高い所に昇りたがる、と言うが、賀茂さんの目的は僕にアウトロー吸血鬼の住処の見当をつけさせる為だ。
「一番高いビルなら190mのシティタワー広島だけど上は分譲マンションなのよね。リーガロイヤルホテル広島何かどう? 33階がダイニング・バーになってるわよ」 
「あ、じゃあ、そこお願いします。広島ってどんな街なのか見てみたくって」
「広島って聞くと東京の人のイメージだと原爆と『カープ女子』と牡蠣ともみじ饅頭のイメージしか浮かばないんじゃない?」と斉藤さんが笑った。彼女も広島に赴任するまではその程度の知識しかなかったそうだ。
「後は『ポルノグラフティ』の出身地が因島ってとこかな。『鋼の錬金術師』ってアニメの主題歌を歌ってたじゃない。いい曲を歌うグループだと思ってCDも持ってるのよ」
「あ、『ハガレン』ですね。私、焔の錬金術師のロイ・マスタングのファンなんです。雨の日は無能、何て、いいキャラしてますよね」
 あの二人は何を話しているのでしょうか、と麻利亜さんが聞いてきた。
 僕に聞かれてもアニメを見ないので答えようがない。ハリー・ポッターみたいな話じゃないんですか、と言うと賀茂さんが僕を睨んできた。違うらしい。
「冬は大したイヴェントがないからホテルも空いてると思うの。これから電話して一部屋予約しておくから、今晩はゆっくり夜景でも楽しんで。明日の朝、迎えに来るから」
 斉藤さんはまだ練馬ナンバーの車で僕達をリーガロイヤルホテル広島まで送ってくれる途中、ドレス・コードに抵触しない小奇麗なスーツとパンプスを買ってくれた。営業担当の吸血鬼はどこの街でも親切で愛想がいい。
 どうせ朝になれば「友達が…」の決まり文句で観光地巡りを断わるのだろうが、「どうも、有難うございます」と賀茂さんは殊勝に頭を下げた。
 ホテル33階のラウンジバーからの夜景を眺めながら僕は神経を研ぎ澄ませた。広島県はさっき話題に上がっていた因島を始めとして島の多い県だ。隠れ場所としてはうってつけだが、やはり木は森に隠せ、が定石だ。
 僕が勘と思念を凝らしている間、賀茂さんはオレンジジュースと軽食で寛いでいた。そう言えば、賀茂さんがアルコール飲料を飲む姿を見ていない。仕事モードだからか、元々飲めない体質なのか。
「つまらない詮索をしてないでちゃんと探してよね。私がお酒を飲まないのは体質的なものよ。体が受け付けないの。他の人みたいにお酒でぱーっと鬱憤を晴らせたらいいんだけど」
 賀茂さんはオレンジジュースを酒みたいにちびちび飲みながら溜息をついた。このなかで酒が飲めるのはミツミネだけだ。
 ミツミネはジンベースのカクテルを舐めている。酒精を吸っているだけなので見た目の量は減っていない。狼がカクテルを飲むとは世の中も変わったものだ。
 一方麻利亜さんはラウンジバーの窓際をハイテンションで渡り歩いている。客の中の一人がぎょっとして麻利亜さんの姿を目で追っていたが、途中でシカトを決め込んだ。白のロングワンピースにべったりと血をつけた霊とは、そりゃあ係わりたくないに決まっている。
「やっぱり中区の商店街にいると思うよ。ネカフェにいる筈だ」
 ラウンジを一回りして来た麻利亜さんがネカフェって何ですか、と聞いて来た。彼女の動向を目の端で追っていた霊感持ちの客が僕の姿を認めて更に体を強張らせていたが、「いや、ここはやはりシカトで乗り切ろう」と決めたようだ。
 ネカフェっていうのはね、と僕は麻利亜さんに説明してあげた。インターネットに接続する環境が自宅になかった頃はわざわざ出かけ利用したものだが、今はここで寝泊りしているネットカフェ難民がテレビで取り上げられて問題となっている。
「麻利亜さんはあのマンションに住んでいたんでしょう? 自分の住む部屋があるだけ幸せですよね」と言うと、ええ、まあ、パパが家賃を出してくれていましたから、と憂鬱そうに答えた。いったいどっちのパパだろう、と気になる。
「ネットカフェに潜伏してるの? じゃあ、明日の朝早く片付けちゃいましょ」
 賀茂さんは一転きりりとした顔でオレンジジュースを飲み干した。必殺仕置き人かアサシンか、とにかく賀茂さんに狙われたアウトロー吸血鬼はここで灰となる運命だ。
 斉藤さんの用意してくれた部屋はやはりシングルで、賀茂さんとミツミネがベッドを占領し、僕と麻利亜さんは一晩中好きな作家やら映画やらについてお喋りをしていた。意外にもホラー趣味だ。ホラー趣味の人が幽霊になるのはどんな気分なのだろう。
 まだ薄暗いうちに起きた賀茂さんはスーツ、パンプス、ベンチコート、スノー・グリップ、もみじ饅頭を宅配便で自宅に送り、ジャージに着替えるとウエストポーチをしっかりと体に巻きつけた。
 スマホで調べると広島市の中区には十軒近くのネット・カフェがある。僕は今までネット・カフェに入った経験がないので知らなかったのだが、沢山の漫画が置いてある。
 六軒目の店で「彼」を見つけた。見た目は二十代になったばかりの若者だ。他の吸血鬼のように黒のコンタクトは付けていない。
 最近は青や金色のコンタクトの人間もいるから赤い目をしていても怪しまれずに暮しているのだろうが、僕の歳くらいの吸血鬼が赤い目のままでいたら不審者認定だ。
「ちょっと、ボク、いい話があるんだけど、外で話さない?」
 ネット・カフェの連中が他人には無関心だとしても、さすがにこの場で退治するのは躊躇われる。賀茂さんはとろんとした目をした若者を店の外に連れ出した。
 若者にとっては鴨が葱を背負ってきた状態だ。その辺の路地に連れ込んで。さっそくジャック・ザ・リパー状態に持ち込む算段だろうが、今回ばかりは相手が悪い。
 吸血鬼退治って、どんな方法でやるんですか、と好奇心あらわな麻利亜さんが賀茂さんの後に付いていったが、僕は遠慮した。殺人鬼でも同類であるには変わりない。
 暫らく待っていると麻利亜さんが 複雑な顔をして戻って来た。彼女も吸血鬼小説の影響で、吸血鬼が苦悶の表情で灰になる場面を想像していたのだろうが、思いの外スプラッタでない場面に気抜けしたのだろう。
 僕から見れば麻利亜さんの方が余程スプラッタ状態だ。黒い服を着て死ななかったのは、幽霊になるのが想定済みだったのだろうかと疑いたくなる。彼女がなぜ自殺したのか、方法はなんだったのか、未だ教えて貰っていない。
 狭い路地から出て来た賀茂さんは充分な睡眠を取っている筈なのに疲れているように見えたが、スマホを取り出すと実家と『バイオ・ハザート』社に連絡を入れた。もみじ饅頭はまた父親と兄の腹に納まってしまう。
「さて、朝一の新幹線で大阪に行くよ。これからが一つの山場だよね。まったく、何で大阪に五体ものアウトロー吸血鬼がいるんだか。田中っち、ちゃんと見つけ出してよ」
 こうして僕達は朝一の新幹線で大阪に向かった。

第四章へ続く


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