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ホラー中編小説【香りに関する一考察】第一章

阿佐野桂子


第一章

二卵性双生児

 その頃僕達が住む北海道の地域は既に雪で覆われていた。人声も車の音も雪に吸われてしんとしていたはずだ。三が日は除雪車が走る地響きしか聞こえない。
 生れたのは旧市立病院の産婦人科だが、新築された市立病院には産婦人科はあるが子供は産めない。午前中一日おきに派遣医師が来るだけで、市内に唯一の個人病院で生むか、隣りの市の市立病院で生むしかない。
 病床数も減ったし、分娩室も新生児室もない。産婦人科の医師の確保が難しく、そもそもの設備投資を諦めてしまったらしい。受付を覗くと「当産婦人科では中絶手術は行いません」と貼り紙がしてある。
 一方、個人病院はそれを見越してか二階に産室がある立派な病院に改築した。市内には三軒の産婦人科個人病院があったが、今残っているのはこの一軒だけだ。
 僕は二卵性双生児で、僕が後から出て来たから弟ということになっている。姉さんが言うには胎内にいた頃じゃんけんをして、姉がパー、僕がグーを出し、勝った姉が先に出ることに決まったそうだ。
 世の中には胎児の時の記憶を持って生まれてくる子がいて、言葉を喋れる時期になるとお母さんのお腹の中にいる時は云々と話すそうだが、大体はその後記憶をなくす。姉さんは今でも胎児の時の記憶を持っている、と主張している。
「それって、本当?」と聞くと完全に僕を馬鹿にした姉さんの返事が返ってくる。
「あんたはお腹の中にいた時からぼんやりしていたからね。母さんが胎教とか称して音楽を聞かせてくれたの、忘れた? 普通の母さんならモーツァルトとかのクラッシックだろうけど、デヴィッド・ボウイだったじゃない。『As The World Falls Down』が流れていたよね。ボウイの声は温もりがあっていいけど。それに読み聞かせはマザーグースの訳の分からない童謡ばっかり。ハンプティ・ダンプティがどうしようと知ったこっちゃないっちゅうの。ひょっとして今の母さんは第二形態で、実体は映画の『ラビリンス』に出てくるゴブリンだったりして?」
 それは三年後に次男の雅紀が生まれた時の母さんの行動を覚えていたからに過ぎないのではないか、と思うが、一言言うと十倍の言葉が降ってくる姉さんには迂闊には言い返せない。
 じゃんけんはともかく、姉さんは真先に現世への道を開いたのだから僕は姉さんに感謝しなければならないらしい。彼女のお陰で僕は楽に産道を通って出て来れたのだ、と言われても僕には実感がない。
 子供の時は女の子の方が成長が早くて脳の回転も早いそうだ。小学校までの僕は姉さんより背が低く、足も遅かった。これが一卵性双生児ならそんなに差はつかなかっただろう。
 姉さんは町内では最強のお姫様だった。口がよく回り、活発で見た目はテレビに出てくるどんな子役の女の子より綺麗だった。将来はどんな美人さんになることやら、と近所でも評判の器量よしだった。
 次男の雅紀を加えれば三人の子持の両親は他の二人が親戚からの預かりっ子で、姉さんだけが実子みたいな扱いをしていた。服を選ぶのも姉さんが最初で、僕は二の次。雅紀などは三の次で僕のお下がりだ。
「ねえ、今日は何が食べたい?」と聞くのは姉さんに対してであって、僕と雅紀はたまたま姉さんのリクエストが僕らの食べたいものと合致した時だけ今日食べたいものを食べることができた。
 しかし僕らは家庭とはそういうものだと思って育って来たので何ら抵抗感を感じずに過ごして来た。圧倒的な美は誰をも黙らせる。
 世の中には幼児を偏愛するロリコンと呼ばれる人種が存在することを知ったのも姉が過去二回誘拐されそうになったからだ。
 保育園に通っていた時と小学校二年の時、姉さんはロリコンに声を掛けられて危ない目に遭った。
 一度目は公園で遊んでいる時に見知らぬ若い男に連れ去られそうになった所を他のお母さんに助けられた。この時は僕も一緒だった筈だが、僕には記憶がない。
 二回目は「お婆ちゃんの具合が悪くなったのでお母さんに頼まれて迎えに来た」の常套句で車に乗せられそうになったのだが、姉さん自らが俊足をいかして近所の家に逃げ込んで助かった。
「だって、お婆ちゃんはもう死んじゃってるじゃない」という姉さんの言葉に母さんは「なんて賢い子だ」と更に溺愛を深くしたと共に、「何で朔耶の傍についていてやらなかったんだ」と僕がお説教をくらった。
 僕は姉さんのボディ・ガード扱いだ。数分違いの弟でも男の子は女の子を守らなければならないらしい。
 二回目の誘拐未遂事件のことはさすがに僕もよく覚えている。天地が引っ繰り返ったとはこのことか、と思うような騒ぎだった。
 犯人は一年後に幼稚園児を殺害して?まったが、僕はいつも姉のさん傍にいるように厳命された。
 姉さんはその事件があってから外へ行く時はいつ木綿の白い手袋をしている。母さんがなんで手袋をしているのか、と聞くと「手を引っ張ったオジチャンの手がぬるっとしていて気持ち悪かったから」と答えた。
 それ以降、母さんは何も言わずに毎日洗濯した綺麗な手袋を姉さんに渡してやっている。学校へもトラウマという言葉を持ち出して許可を得た。
 

エゴイストの匂い

 可愛らしかった少女が大きくなると昔の面影はどこへやら、という例もあるそうだが、姉さんは中学、高校へと進学してもそうならなかった。
 顔は丸顔から卵形になり、切り揃えられた前髪の下にはアーモンド形の目。鼻は高くはないがすっきりと鼻筋が通り、薄くて口角の上がった唇はまさにクール&ビューティ。
 姉さんのお供で札幌に出掛けると男だけでなく女の視線もびしびし突き刺さる。若い男は声を掛けたそうな素振りを見せるが、中学の時にバスケ部に入部して姉さんの身長を超えた僕が傍にいるので実際には声を掛けてこない。多分、僕と姉をカップルだと思っているのだろう。
 姉は168㎝で成長が止まったが僕は185㎝あり、自分で言うのもなんだが、しなやかな筋肉の持ち主だ。顔もそこそこイケテいる。腕を組んだ良く似た雰囲気のカップルにあえて声を掛けるやつはいない。
「あんたが一緒にいると誰も声を掛けて来ないじゃない。つまらないなあ。一度ナンパされてみたいのに。ちょっと離れて歩いてくれない」と姉は不満げだ。
「姉さんはナンパされたいのか。街で声を掛けて来る男なんか碌なのがいないよ」
「そりゃあそうだけど、話し相手があんただけなんて、つまらない」
「じゃあ、雅紀も誘えば良かったじゃないか。あいつ、爺ちゃんから貰ったお年玉で香水を買いたがってたよ」
「雅紀はさあ、まだ子供じゃない。中学生と一緒にショッピングなんて、考えただけでもうんざり。それにあいつ、いざという時に役に立たなさそうじゃない」
 いざという時には僕を盾にするつもりでいるらしい。腕を組んでいるのも雪道転倒防止のためだ。地下街に入った途端に組んでいた腕を離した。
「それにさあ」と姉が足を止めたのはファスト・フード店の前だった。甘い匂いと脂の臭いがむわっと押し寄せて来た。
「それにさあ、香水って、何よ。まだ中学生のくせに」
 そう言う姉さんからはシャネルの『エゴイスト』の香りがする。本来は男性用だが、女性にも人気のある香水だ。
 中学生まではジバンシーの『イントゥ・ザ・ブルー』だったが、廃盤になったので今は『エゴイスト』が姉さんの定番の香りだ。ラスト・ノートのバニラの香りを嗅ぐと不思議と腹が空く。
「中学生だって今は香水を使う時代なの。小学生だって薄化粧して学校へ来るらしいよ。商魂逞しい化粧品会社が子供用の化粧品を販売している。姉さんだって化粧まではしないけど、香水をつけているじゃないか」
 最近はちょっとした体臭でさえ臭いと言われる。僕のいるクラスでも男子生徒の大部分が香水を使っていて、女子の化粧の臭いと相俟って異様な空間になっている。
 担任は教室に入った途端に制汗剤や色々な香りの相乗効果で一瞬くらっとするそうだ。そのうち校則に化粧・香水禁止が加わるかもしれないが、それでも生徒達、特に女子は化粧を止めないだろう。
 恒例では高校を卒業する前に化粧品会社の社員が講堂に女子を集めて化粧講座を開催する。化粧は「社会に出る時のみだしなみ」なのだそうだ。それが中学・高校在学中に前倒しなって化粧品会社は喜んでいるに違いない。
 僕の香水遍歴はカルバン・クラインの『シーケーワン』から始まってエリザベス・アーデンの『グリーン・ティ』、ブルガリの『オ・パフメ』、現在はエルメスの『オードランジュベルト』を使っている。どれも男女兼用で使える爽やか系の香りだ。
 ファスト・フード店に入るのかと思っていたら姉さんはまた歩き始めた。雅紀の香水かあ、と呟いている。姉さんが雅紀に興味を示すのは珍しい。香水というキーワードがあったればこそだ。
「それで、あの子はデパートで香水を買うつもりでいるの? 馬鹿じゃない、ネットで買えば半額か、三分の一の値段で買えるよ? テスターを買えばもっと安いし」
 姉さんの『エゴイスト』も僕の『オードランジュベルト』もネットの「訳アリ、テスター品」で買った物だ。箱が潰れていようと汚れていようと開封されていようと、中身には変わりがない。
「でもさ、香水初心者の雅紀は実際にテイスティングしてみないと選びようがないじゃないか。始めから指名買いはできないよ」
「そりゃそうだ」と姉さんは頷いた。
 姉さんも僕も気に入った香りと出会う為にそれなりの失敗を繰り返している。初めはボトル買いから始まって、今は一㎜の量り売りで香りを確認して、それからボトル買いをしている。
「姉さんはもう百本近くの量り売りの香水を持っているじゃないか。どうせ使わないんだから雅紀にやれば? そしたら雅紀自身が勝手に選ぶだろう」
「そうだけどさ、あんたが今使っている香水だって一㎜三百円くらいしたじゃない。結構いい値段じゃないさ。それにたまにテイスティングし直すと、あれ、これって案外いい香り、って思う時もあるし」
 つまり一㎜の量り売りでも雅紀にはやりたくない。そういう事だ。
「あんたの使い残しの『シーケーワン』でもあげたら? 初心者向けだよ。その代わり誰かと被る可能性大だけど」
 はいはい、誰かと被っていて悪かったですね、と内心傷ついた。クラスの男子の三分の一は『シーケーワン』だった。
 香りが被るのは恥ずかしい事で、その為に香水製造元はオリジナルの香りを作り続けているらしい。
「何でもいいけどさ、ラストにムスクが香るのだけは使わせないでよ。わたし、ムスクの香りが立った香水は嫌いだからね。後、パチョリとベチバーも駄目。この二つの香りがしたら、雅紀の食べている物の上で吐いてやる」
 実際ウチの姉さんならそれくらいの事はしかねない。調香師のように鼻が利くわけではないが、嫌いな香りの調合を調べてみたらムスクとパチョリとベチバーが使われているのが判明したのだそうだ。ベチバーは男性用香水ではよく配合されている香りだ。
「人と被らない香りなら『ポール・スミス・メン』なんかどう? 最初は青臭いけどミドルとラストはアロマティックだよ。ああ、面倒臭い。なんで私が雅紀の香水を考えなくちゃならないのよ。ジャンヌアルティスの『CO2プールオム』でいいんじゃない? 中学生が買うにはお手頃価格だし、ホームセンターにも置いてあったわよ」
 そのジャンヌアルティスを姉さんは以前、トイレの芳香剤として使っていた。他所ではいいかも知れないが、ウチに帰ったらトイレの臭いだなんて、幾らなんでも雅紀が可哀相過ぎる。
 みんな海外ブランド物にしか目が行かないが、日本製でも千円台で結構いい香りの物がある。姉さんがデパートの化粧品売り場で店員さんに捕まっている間、僕は日本の化粧品会社が販売している香水をテイスティングして歩いた。
 そもそも男性用の香水は少ない。狙い目は女性用のシトラス系だ。僕が女性用香水をテイスティングしていると店員さんが「彼女さん用ですか」と声を掛けて来た。
 彼女さん用ってなんだよ、と思いながら曖昧な返事をしてテイスティングを続ける。店員さんはぴったりと貼り付いて離れない。
「朔太郎、なにしてんの? まだ雅紀の香水探しをしてんの?」
 売り子さんにフル・メイクアップされた姉さんは一世を風靡した世界的モデルの山口小夜子そっくりだった。僕にひっついていた店員さんが一瞬息を呑んだ気配が僕にまで伝わって来た。
 美しさにおいて姉さんは最強だ。いや、最凶か。前髪を目の上で切り揃えているのは自分がそうすれば最高に美しくなることを知っているからだ。
 美男美女の好一対と言いたいところだが、生憎美女は実の姉さんだ。しかもつけている香水と同じ様にエゴイストだ。僕を執事か下僕としか思っていない。
 フルメイクのうえ、さらに化粧品の無料サンプルを貰った姉さんは香水売り場から僕を引き離した。ぴったりひっついて来た店員から逃れる丁度いいタイミングだが、雅紀の香水を選んでやる気はなさそうだ。

真っ赤なルージュ

 それから二人して本屋のある階に移動して大学受験案内と各種学校案内を一冊ずつ買った。今回札幌まで出て来たのはこれが目的だ。
 僕らの住んでいる市では売り場面積の半分はコミックと文房具で占められている本屋が一軒あるだけだ。
 姉のウィンド・ショッピングに付き合った後、二方向がガラス張りのコーヒー・ショップに腰を落ち着けた。
 爺ちゃん世代は親との同伴でなければコーヒー・ショップに入れなかった、と聞かされたことがある。映画館も禁止。今は市内に映画館自体がなくなった。
 「純喫茶」なる喫茶店があったそうで、じゃあ不純喫茶があったのか、と聞くと「同伴喫茶」なる隣の席と仕切られた訳の分からない不純喫茶店があったらしい。
「朔太郎、あんた、高校を卒業したらどうすんの」と席に着いた途端に姉さんが聞いてきた。
「今日のお薦めコーヒーを二つ」と店員さんに注文してから僕は姉さんに向き直った。オーダーも僕の役目だ。
「さあ、どうしようかな。父さんと母さんは大学まで行かせてくれるつもりらしいけど、二人一遍に受験料と入学費と学費を出すのはきついんじゃないの」
「それを言ったら専門学校へ行くのも同じじゃない。まあ、専門学校は四年も通わないからその分負担は少なくて済むだろうけど」
「双子が生まれた時から覚悟はしてるってさ。片一方だけ高卒、って訳にはいかないからって」
「それはそうよね。双子は平等だもの」
 姉貴風を吹かしているくせに平等とはよく言うよ、だ。
「それにウチは貧乏じゃないし」と期せずして声が揃った。
 爺ちゃんが能代興産の創業者だ。炭鉱が全盛期の時代、中空知で会社を創業した。土木関係・住宅施工・電気・プロパンガス・ガソリンスタンドを経営している。一時はスーパーも何軒か持っていたが、全国展開の大型スーパーが進出してからスーパーからは撤退した。それでも市内を歩いていると一日に一回は能代興産と車体にペインティングされたバンとすれ違う。
 今は会長職に退いて市議に専念している爺ちゃんの代わりに父が社長を継ぎ、母は専務で、忙しく働いている。
 つまり僕のウチは地方限定の小金持ちだ。子供二人を同時に進学させるくらいの余裕はある。姉さんは東京に出たがっている。
 問題は学力だ。専門学校なら一般教養的な試験や面接だけで入学できる学校もあるが、大学となるとそうは行かない。市内には道立の三つの高校があり、一つは工業高校、二つは普通科だ。
 僕と姉さんが通っている学校は一応進学校だが東大を目指せるほどではない。進学する先輩の殆どが道内の大学に進学し、東京の有名私立大学に進学するのは数人しかいない。
 僕と姉さんは大学案内と各種学校案内を交互に眺めながらコーヒーを飲んだ。姉さんが時間を掛けて眺めているのは大学案内で、どうやら大学に進学したいらしい。
「まず始めに各種学校にするか大学にするか決めたほうがいいんじゃない?」と水を向けると即座に大学、と答えが返ってきた。となると、両親は僕にも同じ大学へ行け、と言うに違いない。
 理由は簡単で、「双子が違う大学へ通うのはおかしいでしょう」だ。人生の大事な岐路に双子だから、を持ち出されても困るが、すべては姉さん次第で、僕の意見が通ったためしはない。僕にだって大学を選ぶ自由くらいはありそうなものだが。
 僕と姉さんは高校では上の中ぐらいの成績だ。全国レベルで考えると六大学は無理で、それよりランク下の大学を目指すことになる。
 姉さんは途中で白のダウンジャケットを脱いだ。下は黒のロングニット・ワンピースだ。唇の真っ赤なルージュが一層引き立つ。僕は見慣れているからいちいち感動はしないが、コーヒー・ショップの男性店員二人が姉さんの横顔に視線をロック・オンしている。
「大学に行くとして、あんたはどういう学部に行きたいの?」と言う姉さんの手は某大学のページで止まっている。箱根駅伝にも参加している大学だ。僕らの学力からすれば「受からないでもない」範囲だ。父と母の母校でもある。
 まあ、無難かな、と思う。僕の選択肢の中に入っている大学だ。他に二つ、三つ候補がないではないが、姉さんが決めたことには逆らえない。
「そうだね、経営関係かな」と答えると姉さんが嫌な笑い方をした。
「なに、あんた、父さんの後を継ぐ気でいるの」ときた。僕は能代興産を継ぐ気などまるでない。爺ちゃんの息の掛かった北海道の地方都市で地縁、血縁に守られ、縛られながら暮すなんて真平御免だ。
「まさか。同属企業で若社長なんて嫌だね」
「でも、そうしたら会社はどうなるのよ」
「雅紀に継がせたらいい。雅紀は工業高校へ行くつもりでいるらしい。跡継ぎに相応しいじゃないか」
 空知地方の高校はどこも定員割れで競争率1・0を切っており、余程のことがない限り志望校へ入学できる。
「へえ、雅紀は工業高校へ行くつもりなの、知らなかった」
 知らなかった、じゃなくて、知ろうとしなかった、が正しい。姉さんは雅紀を下宿人くらいにしか思っていない。その点、僕は雅紀と男兄弟らしい距離感で話ぐらいはする。
 雅紀に言わせれば姉さんはいつも上の空で何か考えているように見えても何も考えていない、と手厳しい。
「兄貴はこれからもずっと姉さんの金魚の糞でいるつもり?」と痛い所を突いてくる。
「双子なんだから仕方ないだろう」と答えると「ふん」と鼻息だけが返ってきた。
「姉さんが結婚したら兄貴までついて行くつもり? 結婚相手に妹がいたらその妹と結婚して四人で暮らしそうだね。で、兄貴は嫁さんより姉さん優先だから愛想を尽かされて離婚ってケースだ。それでも兄貴は姉さんの所に居候し続けて、今度は姉さんが離婚に追い込まれる。そうやってずっと二人きりの世界が続いて行く。知ってるだろうけど、姉さんとは結婚できないよ」
 この暴言の後、僕と雅紀は一ヵ月口をきかなかったが、姉さんは僕と雅紀が一ヵ月口をきかなかったことさえ気付いていない。
 その後、またもとの兄弟関係に戻って深入りしない程度に学校や学校での友達の話はしている。ただ東京の大学へ行きたいというそれだけのふわふわな姉さんより堅実なのは確かだ。
 

姉・能代朔耶

 コーヒー・ショップを出た僕達は美味いと評判のベーカリーでパンを山ほど買って夕方岐路に着いた。
 札幌駅からは旭川行きの特急に乗り、途中で降りてバスに乗り換える。駅前商店街はシャッター商店街で薄暗い。
 市議の爺ちゃん達は駅前の賑わいを取り戻そうと画策しているが、今まで核となっていた地元のこじんまりした百貨店が二店舗も撤退してしまった商業地区は二度と復活しないだろう。客足は全国展開の郊外型大型スーパーに集中している。
「なんだかさ、いかにも衰退してます、って感じだよね。北海道第二の都市の旭川が人口三十六万、それに比べたら札幌は百九十万で道内の人口の三分の一が札幌市に住んでいるらしいじゃない。今も道内の過疎地から人口が流入してる。稚内とか根室とかも過疎が進んで、ロシア人が入植していても気が付かないんじゃない?」
 まさか姉さんが言うほど鈍感ではないだろうが、このまま高齢化が進めば消滅集落が増え、もとの原野に帰る可能性は否定できない。
 僕等の住んでいる空知管内はもとは炭鉱の町だった。それが国策による廃鉱で人口が十分の一になってしまった所もある。
 爺ちゃんが高校生だった頃には「一生安心して働けます!」と炭鉱会社からスカウトマンが来ていたらしい。危険な仕事ではあるが、住宅・光熱費は無料で冬場の暖房の石炭も無料配布された。いわゆる炭住というやつだ。その辺のサラリーマンより稼げたし、退職後の年金もいい。
 炭鉱閉鎖とともに人口が急激に減り、学校の統廃合が始まって、爺ちゃんが卒業した高校も今は廃校になっている。
 炭鉱に関しては最後まであった太平洋炭礦が平成十四年に閉山している。
 現在は釧路コールマインと名称を変更し、日本唯一の坑内堀石炭生産会社になっているが、こんな事を覚えていても大学入試の試験問題には出ないことは確実だ。
 空知管内の市町村はこぞって再生プロジェクトを立ち上げたが、殆どが不成功に終っている。新規参入の会社もないではないが、昔の炭鉱全盛期の稼ぎには到底及ばない。
 僕達の住む市にはそもそも就職の受け皿がない。大学もない。となれば若者がいなくなるのは当然だ。札幌か東京を目指すしかない。
 最終のバスの中は僕と姉さんの二人きりだった。十八歳以上になると全員と言っていいほど車の免許を持っている。バスに乗るのは年寄りと中・高生くらいだ。バスの運行路線も不採算路線の廃止、運行便の縮小見直しが始まっている。
 僕が物思いに耽っている間、姉さんはショルダーバッグから取り出したウエット・ティシュで化粧を落している。
 殆どの女子が薄化粧して登校して来るのになぜスッピンに拘るのか、その辺の感覚は僕には分からない。姉さんには姉さんのこだわりがあるのだろう。

弟・能代朔太郎

 姉さんが父さんの出身校を受験するつもりだ、と宣言すると大学で知り合って結婚した両親は大賛成してくれたが、雅紀は何も言わなかった。雅紀にとっては予定調和でしかないのだろう、と思える態度だ。
 そして次の年の春、僕と姉さんは志望校への合格通知を受け取った。二人分の入学金やら初年度の授業料を加えると、この辺では大きめな中古住宅が買えそうな額で、さすがに僕も親の負担を心配したくらいだ。それに住む場所も決めなくてはならない。
「あのさ、今更聞くのも何だけど、お金は大丈夫?」と聞くと「覚悟はしているわよ」と答えが返って来た。
 大学の入学手続きも住居探しも一緒に上京した母さんがみなやってくれた。
「計算してみたんだけど、普通の賃貸マンションを借りるより、最低限の電化製品が付いているマンスリー・マンションを四年間契約した方が安上がりよ。長期契約だと割引してくれるそうだしね」
 僕達が受験勉強をしている間、母さんは母さんなりに調査していたらしい。東京に着くとさっさとマンション管理会社に連絡して大学に近い部屋を決めてしまった。しかもすぐ隣の二部屋だ。
「幾ら双子とは言っても同じ部屋って訳には行かないものね」との母さんの言葉に姉さんは頷いているが、僕としては改めて二人の子供を一遍に東京に出す親の負担に申し訳ない思いで一杯だった。甘やかされて育った姉さんは当然といった顔をしている。
 入学式には父さんもやって来てビジネスホテルに滞在し、場所も建物も変わってしまった母校を一日見て周り、その後母さんと一緒に帰って行った。
 父さんは恐縮していたが、姉弟の東京での生活費月十万円は厳しいに違いない。
「いくら父さん母さんだってできない事はしてくれないんじゃない? してくれるって事はできるって事よ」という理屈で姉さんは両親の経済的負担に無頓着だった。当然のように折畳み携帯に代わるスマホも買って貰った。
「お金がないっていうなら、東京の大学へ行きたい、って行った時点でNOって言う筈よ。札幌の大学へ行きたいって言っても学費や住居費がかかるのは同じじゃない。双子の片一方だけ大学へ行かせて、もう片方は高卒で我慢しなさい、何て、言う筈ないわよ。二人は一蓮托生なんだから。ね、朔太郎、そうじゃない?」
「一蓮托生? 同時期に生まれたけど乗っている葉っぱは違ってたんじゃない?」
 雅紀は近親相姦みたいな良からぬ事を想像しているらしいが、あまり近過ぎて見慣れたせいか異性を感じない。
 それに動物は本能的に自分とは違った遺伝子を持った相手に惹かれるそうだ。兄妹やら姉弟の恋愛を描いた小説やアニメは僕にとっては絵空事の世界だ。
 オリエンテーションだの部活勧誘だのの一連の行事が終って僕はバスケ部に、姉さんは映画研究部に入部した。
 大学ともなるとバスケで推薦入学したやつがいて僕より高身長の者などざらだし、そもそも意気込みが違う。それでも体を動かしたい僕はバスケ部に決めた。
 姉さんは文系のどのサークルからも声を掛けられ、特に演劇部からは部長自らの勧誘を受けたが、断わって勧誘のパンフレットだけで映画研究部に決めた。
 面倒臭がりで高校で帰宅部だった姉さんは僕を偵察に差し向けた。
 ドアを開けた初っ端から映画監督の作品論を滔滔と語っている男がいる。『スター・ウォーズ』を見て「わお!」なんて言っている程度では済まされない雰囲気だ。
「あの男の人はなに?」
 僕は部室にいた上級生らしい女の人に小声で尋ねた。
「ああ、川原君? あの人のお父さんは映画関係の会社に勤めているんだって。ウザイよね」という頼もしい返事が返ってきた。
「なんだよ、今田、ウザイはないだろう」すかさず川原君が反撃。
「新入生が来たっていうのにあんた、うるさ過ぎ。熱く語りたいなら東工大とか日大とかムサビに行けって。なんでウチの大学にいるのよ」
「しょうがないだろう、偏差値で振り分けられたんだから」
 川原さんは堂々と言い返した。
「今からでも遅くないよ。転入の試験でも受けたら?」
「自慢じゃないが、僕の学力は受験生だった頃より低下している」
 他の部員が笑いを噛み殺しているところを見ると、これは喧嘩ではなく、関西のどつき漫才みたいなものらしい。
「君、そう言えば、誰?」とショート・カットにパンツ姿のボーイッシュな今田さんが顎を上げて僕を見た。今田さんは小柄なので必然的に僕を見上げる格好になる。
「能代朔太郎。映画研究部に入部しようと思って来てみたんだけど」
 十畳ほどの部室には事務用の長テーブルと事務椅子とテレビが置いてあって、壁際に並んでいるラックにはレンタル落ちしたDVDが雑然と並んでいる。
「のしろ? どういう字を書くのかな」
「能力の能に代打の代。朔太郎は荻原朔太郎と同じ字ですけど、詩は書きません。一月一日に生まれたので朔という名をつけたそうで、姉は朔耶。双子です」
 僕はいつも他人にする時の紹介を一気に述べた。他の部員三名と川原さんが双子の言葉に反応した。いつも他人は双子に反応する。
「へえ……。じゃあ、片割れも君と同じように背が高いの? ひょっとしてモデル並みとか?」
「いえ、二卵性ですから身長は僕より低いし、見分けがつかない程そっくりじゃありません。姉は英文科に入学しました」
 やっぱり双子は選ぶ大学も同じなんだ、と川原さんは世間が双子に抱くイメージそのままの言葉を返して来た。同じ大学かもしれないが、僕は経営、姉は英文だ。
「で、姉弟で入部希望? 今年の入部希望者が少なくて困っていたところなのよ。二人入ってくれると有り難いんだよね。あんまり部員が少ないと廃部にされちゃうから」
 はあ、と僕は曖昧に答えた。
 入部希望は姉さんで、僕はバスケ部だ。しかし、僕のレベルでは二軍以下で、空のコートで勝手に遊んでいろ、のクチに違いない。
「そこの入部希望の紙に名前と住所と携帯番号を書いておいて。現在部員は三年生の熊男の川原君と私と、今日はバイトで来てないけど、土屋と小林っていう男子、それに、そこにいる二年生の五人と幽霊部員が二名。四年生は春になると卒論とか就職活動で出てこなくなるから現在の部長はそこの川原君。副部長が私。後、顧問は大学院生の早瀬先輩」
 誰が熊男だよ、と川原さんが抗議しているのにも構わず今田さんが早口で部員紹介をしてくれたが、一遍に覚えられそうもない。
「あのさ、映画研究部と言っても研究してる訳じゃないから。皆でそれぞれDVDを持ち寄って映画を見ましょう、って程度だから、気楽にしてね」
 川原さんと今田さんが強烈な印象を残したのは確かだ。パズル並みの講座表を見て履修すべき講座を決定し、教務課を行ったり来たりしていた僕はやっと大学に入学した実感を味わう事ができた。
 

美貌の双子姉弟

 自分で講座を選ぶのも、階段状の大教室で講義を聞きのも新鮮だった。高校にも単位があったらしいのだが、在学中は高校が決めてくれているので意識しなかった。大学では自主的に講座を選択して単位を取らなくては卒業できない。
 川原先輩はどこの大学でも必須の「日本国憲法」を落したそうで、出席はするが大教室の一番後ろで突っ伏して寝ている。
 今田さんによると寝ている先輩を起こすと不機嫌な熊みたいになるので声を掛けてはいけないらしい。
「あの人、また単位を落すんじゃない?」と姉さんが珍しく他人の心配をしている。
「いや、他の人に聞いたんだけど、出席日数さえ満たしていればレポートは何とかなるらしい。いざという時は他の誰かのレポートの助詞と語順を変えて提出するんだって。教授にも厳しい人とそうでない人がいて、今講義している先生は鷹揚なタイプらしい」
「そんな簡単な科目を何で落しちゃったのよ」
「必須科目だってことを見落とした、とか言ってたよ。大学では自分で教務課にこれとこれを受講します、って申請しなけりゃならないからさ。僕だってオリエンテーションの説明だけでは理解できなかったからね。教務課は新入生と単位を落した学生でごったがえしてたよ」
「私のはちゃんとしてくれたでしょうね」
「勿論。だって一般教育科目は共通だからね。でも専門科目になったら姉さんが自分で選択して履修届けを出してくれよ。僕には英文の方まで分からない」
 姉さんがちらっと不快そうな表情を浮かべた。
 はいはい、どうせ僕もついて行かなきゃならないんでしょう。面倒な事はいつも僕任せだ。教授が入って来て黒板に板書を始めたので僕と姉はお喋りをやめた。
 大学の構内はだだっぴろい。おまけに建物が何棟もある。一、二年生の使う棟は殆ど決まっている。後は学部棟で三、四年生が使うものらしいが、僕は科目ごとに教室を移動することにすっかり神経を尖らせていた。
 迷路とパズルの組み合わせだ。他の学生がぞろぞろと移動する方向へ行けばいい、ってもんじゃない。
 高校とは大違いだ。大袈裟に言えばすべてが自己判断。同じ科目でも登録した講座以外を受講したら単位にはならない。
 ぴりぴりしながら午前中の科目を終えてやっと探し当てた学食へ着いた時には神経的にくたくただった。僕の後をくっついて来るだけの姉さんは勿論、疲れていない。
「朔太郎、見てよ、まるでレストランみたいじゃない。キャンパスの芝が綺麗だね」とはしゃいでいる。
 キャンパスという言葉にも少しイラッとした。学内でいいじゃないか。キャンパスなんて言う方が却って田舎者っぽい。しかし姉さんは僕の気分などお構いなしだ。
「へえ、購買部もあるんだ。購買部も書籍部も学生は二割引らしいから後で寄ってみようよ。あんた、六法全書買い忘れたでしょう。小六法でいいから用意しておけ、って先生が言ってたよね」
「図書館で日本国憲法のところだけコピーすればいいんじゃない?」と僕は苛々しながら答えた。日本国憲法には著作権などない筈だからネットからダウンロードだってできるだろう。
 学食はアメリカの学校みたいにビュッフェ方式だった。僕は姉さんの指示で二つのトレーを持たされていて、姉さんが自分の好みでトレーを埋めている。好みは同じだからいいんだけど。
「そう? あんた経営学部でしょう。後々必要になるんじゃない?」
「その時はその時で考えるさ」
「いつも用意周到なあんたが、その時は、だなんてびっくり発言だね」
 姉さんは日当たりの良いガラス張りの席に腰を落ち着けた。姉さんが言うように芝生が綺麗だ。北海道でも雪が消えて秋撒き小麦が丘陵を緑に染めている頃だろう。
 ビニール・ハウスの中では稲が芽を出していて、あちこちでトラクターの重低音が響いている時期だ。桜が咲くのは五月の連休頃だが、ここではとうに散っている。
「よう、能代君、隣にいるのは双子の姉さんか。美男美女で目立つやつらだ」
 僕が感慨に耽りながら食事をしている間にいつの間にか川原先輩が僕らの正面に座っていた。
 熊男と呼ばれるのはどことなく体型がクマのプーさんに似ているからだろう。今田さんもどうせ呼ぶならプーさんにしてあげればいいのに、と僕は思った。ただの熊男ではどうしても道民としては羆を思い浮かべてしまう。
 森の中で熊さんに出会ったら、かなりの高確率で死を覚悟しなくてはならない。僕の住んでいる地域では少し山に入ると『羆出没注意』の看板がある。
 知床では内外の観光客が羆の写真を撮りたくて異常接近したり、餌を与えて注意を受けている様子がテレビで放映される。道民から言わせれば、そういう奴らは羆に襲われて死んでも自業自得だ。餌をやりたいなら登別の熊牧場にしてくれ。
 能代興産の若い社員は鹿とぶつかって車が大破した。幸い本人は無傷で済んだけれど、自然を舐めるなよ、と言いたい。人間は素手では犬一匹にでさえ敵わない。
 熊男こと川原先輩は人畜無害なプーさんだ。もっとも幽霊より生きている人間の方が怖いらしいから見た目だけでは分からない。
「先輩が『日本国憲法』の講座にいるからびっくりしましたよ。しかも寝てるし」僕が言うと姉さんが僕の脇腹を突付いた。単位を落すのは大学ではデリケートな問題だ。
「あ、気が付いてた? 僕さ、新入生の頃、単位の取り方がイマイチ分からなくて、後で気が付いて教務課に行ったんだけど、もう締め切りました、って言われてさ。二年生のときに取っておけば良かったんだけど、その時はすっかり忘れちゃっていて、教務課から呼び出しくらっちゃってさ。で、今に至るってわけ」
 先輩はぽっちゃりした手で天然パーマらしい髪を掻き毟った。凡ミスを結構気にしているみたいだ。
「大体さ、一般教育科目なんて無駄だと思わない? せっかく大学に入学したのに一年は高校の時と同じ科目だよ」
「一年生からじっくりと専門科目を教えるべきだ、って議論もありますよね」と姉さんが口を挟んだ。そういう議論はずっと前からあるがいまだに実現していない。
「そういう意見もあるわな。でも講師によって授業内容が違うから。能代君は生物学とった?」
 ええ、と僕が姉さんの代わりに答えた。姉さんは僕任せで今のところ、自分の選択科目の全容を把握していない。
「講師は誰よ。田中?」
 僕はボディ・バッグからスマホと取り出し、自作の時間割を確認した。
「田中先生ですね」
「じゃ、僕の時と同じだ。あの先生の専門はクマムシだ。生存条件が悪い時には何年でも冬眠できて、水や空気がなくても生きていける、って最強の生物だ。放射線にも強いんだそうだ。その研究成果を一年間聞かされた」
 げっ、一年ですか、と僕は尋ねた。授業内容の紹介に確かクマムシの事が書かれていたが、まさか一年間同じ話とは。
「お陰で当時は生物部のやつよりクマムシ通だったな、今はすっかり忘れちゃったけど。俺、高校の時から心理学に興味があったから高橋先生の授業を受けたけど、あの先生は駄目だな。自分が書いた本を学生に買わせて、後はその本を読み上げるだけだ」
 僕は再び時間割を確認した。良かった、高橋じゃない。
「なに、二人とも心理学取ってるの? 橋元先生、ってか。あの先生の授業は凄いよ。専門が犯罪心理学だからな。初日にまず性格テストみたいなものをやらされて、それから血塗られたスライド・ショー。一年間授業を受けた後は、みんな聖杯から血を飲む夢を見るらしい」
「マジですか!」
 いや、嘘だ、と先輩はニッと笑った。
「まあ、そういう伝説ができるくらい暗くて陰惨で楽しい話を講義してくれるって噂だ。これは今田からの情報だ。池内先生の授業はオーソドックスだと聞いている。オーソドックスとはつまり、高校で既に習った事の繰り返し、ってことだ。同じ講座でもこれだけ違う。専門課程に進んだら先輩からの情報を聞いてから先生を選べよ。じゃないと、一年を棒に振るよ」
 成る程、部活に入るとこういう利点があるのだな、と納得。ホラー好きの姉さんは橋元先生の講義を期待しているに違いない。
 僕は明るいラブ・ロマンスが好きだが、姉さんは子供の頃から暗くて残酷な話が好きだった。 
 童話には結構残酷な話が多い。グリムのシンデレラでは二人の姉は靴のサイズに合わせるためにそれぞれ爪先と踵を切断しているし、結婚式では白鳩に目をくり抜かれている。
 白雪姫の話でも継母は三度も殺害を試み、最後は結婚式の最中ずっと真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされた。
 主人公の「心優しい」はずの娘は王子様と楽しげに踊っているだけで姉や継母の助命嘆願をしていない。
 橋元先生の講義がどんなものか、本当はまだ分らないが先輩の言うとおりなら姉は満足するに違いない。
 それから僕等はどこの出身? などという他愛のない会話を続けた。北海道、と言うと「訛りがないねえ」と感心している。
 テレビでは北海道らしさを出すために「なまら」とか「したっけ」とか使っているけど、爺ちゃんの世代はともかく、北海道入植第四世代の僕等は標準語で喋っている。
「川原先輩は?」と聞くと大阪、と答えが返って来た。大阪なら関西弁バリバリのはずだが、先輩は標準語だ。
「大阪っていうと、関西弁って言われるけど、関西でも京都と大阪では違うしさ、同じ大阪でも住んでいる地区で微妙に違うんだよね。東京に来ても、その君達が言うところの関西弁で通すやつもいるし、東京弁を必死になってマスターするやつもいるし。あのさ、英語のリスニングみたいに一年二年経つと耳が東京弁に慣れちゃってさ、自然と東京弁を話し始めるってわけ。語尾に『じゃん』とか付けちゃって。僕は東京に流され派。夏休みに帰ると地元に残った同級生にドン引きされるよ。東京に魂を売った、みたいな」
「魂を売った、は大袈裟じゃないですか?」
「いや、そういうもんなのよ、大阪は東京に対抗意識があるからさ。関が原で豊臣家が勝ってたら今頃は日本全国名古屋弁、って小説読んだことない?」
「ずっと前に名古屋弁が標準語、っていうパロディ小説、読んだことあります」と姉さんが答えた。
 あ、そうだ、と先輩がポンと手を打った。
「リスニングで思い出したけど、お姉さんの方は英文だったよね。LL教室があるじゃない。あそこ、学部関係なしに一年生でも誰でも使えるから。今田は史学だけど、年中通っているみたいだよ。覗いてみて、今田がいたら使い方を教えて貰えば」
 これまたお得な情報をゲット。高価な英会話教材を買わなくても済む。大学の施設をフル活用すれば授業料も高くはないのかも知れない、という気がしてきた。
 部会はいつも木曜日だから必ず来てね、と言って先輩は席を立った。昼食は、と聞くと講義を早めに抜け出して済ませてしまったそうだ。一年生の僕等にはまだ講義を抜け出す勇気がない。
 僕がトレーを片付けて無料のコーヒーを二つ持って席に戻ると姉さんはリップクリームを塗り直していた。大学生になっても化粧はしない。その代わり日焼け止めクリームはしっかりと塗っている。
 若い時に無用心に太陽光に晒されていると歳を取ってからシミになると主張して、校舎の外に出る時は曇りの日でもUVカットの白い手袋をしている。
 ただし、これは対外的な言い訳で、誘拐事件以来、地元では「誘拐されかかった子」としての姉さんの白手袋は有名だ。大学に入学してからは数セットある手袋を自分で洗濯している。
「川原先輩ってちょっと変わってない?」
「なんでよ」
 僕は姉さんに紙コップを差し出した。お代わり自由のコーヒーの常で味は落ちる。
「だって、あの人、この席に来る前にずっと購買部にいて、こっちを見ていたのよ。まるで、そうね、観察しているみたいに」
「川原先輩が? 何で僕達を観察しなきゃならないんだ」
 さあ、と姉さんは不味いコーヒーに顔を顰めながらも一気に半分ほど飲んだ。不味い上に管理温度も低い。
「どうせ姉さんに見惚れていたんだろう。気が付いてた? 教室に入った時、空気がざわっと揺れたよ」
「そりゃまあ、世間は双子にはいつも興味津々よね。しかもあんたは身長が185㎝あるから余計目立つし。ひょっとしたら私も185㎝くらいになってたのかな」
「二卵性双生児のうち四割が男女の双子だってさ。性格も成長速度も違うらしい。姉さんがまだ成長して185㎝になるってことはないと思うよ。姉さんが185㎝あったら今とは違う人生を歩むことになるかもね」
「なにそれ、バレー部にいるとか?」
「いや、パリコレのモデルやってたかも。山口小夜子の再来とか騒がれてさ」
 髪、短く切ってパーマでもかけようかな、再来って言われるのが一番いや、と姉さんは僕を睨んだ。
「キリストの再来とか、みんなインチキじゃない。画家だってさ、ピカソの再来なんて言われたら嬉しくないんじゃない? ピカソを超えた、ならいいけど」
「はいはい、分かったよ。変な理屈を捏ねるなって。パーマなんてかけるなよ。僕の中では小学校からずっと姉さんは前髪パッツンの日本人形なんだから、僕のイメージを壊さないで欲しいもんだね」
「あんたの為にこの髪型をしているんじゃないんですけど。伸びたらカットするだけだから一番楽なのよ」
 さっきから山口小夜子のワードに反応した隣のテーブルの女子がちらちらと視線を送って来ている。
 どこの学部の何年生か知らないが、明日、彼女は姉さんと同じ髪型で登校するだろう。でも彼女の顔形で前髪パッツンにしてもちびまるこちゃんか平面こけし人形になるだけだ。
 僕等が他愛のない話を終えて立ち上がった時、その彼女が「あの……」と声を掛けて来た。なんだか必死な感じだ。
 姉さんがセミロングの髪をふわりとさせて振り向いた。姉さんの背後の席に座っていたので姉さんからすれば初見の相手だ。
「あの、さっきから話し声が聞えていたもんで自然と耳に入っちゃったんですけど、二人とも北海道出身?」
「そうだけど」と双子らしくユニゾンした。
 ああ、良かった、と彼女が持っているバッグをぐっと握り締めた。ひょっとして彼女も道産子か?
「私、旭川出身なんです」
 へえ、と期せずして再びユニゾン。
「授業が始まったはいいんですけど、知り合いもいないし、まだ友達もいないし。心細くて。橋元先生の心理学を取ってるって聞えました。私も橋元先生なんです。一緒に行っちゃ駄目ですか」
 彼女の名前は佐藤。道内ではダントツに多い姓で、一クラスに三人くらい佐藤がいる。出身校は旭川の進学校だ。偏差値は僕らの高校より上だ。
 これは後々聞いた話だが、佐藤さんの父親は司法書士をしていて、一人娘に法学部に行くことを厳命したそうだ。で、何校か受験してこの大学に入学した。
「法学部なら法学を取らなくていいの?」と姉さんが聞くと「どうせ専門科目になれば法学漬けですから」と焼けのやんぱちみたいな答えが返って来た。
 本当は心理学がやりたくて、転部も考えている。FBIのプロファイリングに感化されているようだ。確かにあれは面白い。
 日本では場数を踏んだ刑事の勘だが、過去の犯罪の事例をデータ化して捜査官全員に共有させる。
「それって、お父さんに怒られない?」
「怒るかも知れませんが、一人っ子ですから、最終的には『死んでやるぅ』とか言えば許してくれます」
 一人っ子の佐藤さんは今まで「死んでやるぅ」で自分の意見を通してきたみたいだ。いつも姉さんの後塵を拝してきた僕にとっては羨ましい限りだ。
 僕が姉さんの意向に反して「死んでやるぅ」とごねても、「じゃあ、死ねば」の一言で終るに決まっている。
 それから僕等は同じ科目の時は行動を共にするようになった。部活はまだだと言うのでついでに映画研究部に連れて行った。友達・知人を作るなら部活だ。
 中には在学中に司法試験合格を目指すようなゴリゴリの勉強家が集る部活もあるが、好きな映画を見て好き勝手に感想を言い合っているような緩い部活の方が気は楽だ。
 僕と姉さん、それに佐藤さんは気軽に話せる相手を見つけて新入生が罹ると噂の五月病も軽くやり過ごした。
 大学院修士課程に在籍中の早瀬先輩のお陰もある。早瀬先輩は川原先輩を通して新入生と二年生に声を掛けて新緑の高尾山に連れて行ってくれた。
 参加者は僕ら、佐藤さん、二年生からは三名、それに川原先輩と今田さんだ。未だに会っていない三年生の土屋・小林の両名は連休中もバイトに行っている。
 大学院生と聞くとそれだけでびびってしまうが、早瀬先輩はいつも自分の失言を気にしているような気弱でシャイな人だった。
 身長は175㎝くらいありそうだが猫背で痩せていて、四角い顔にはまるで似合わない銀縁のメガネを掛けている。声も小さくて「は?」と聞き返すと「すみません、すみません」を連発する。
 川原先輩情報では子供の頃は吃音で、「おまえ、なに言ってんだか分かんねえ」とからかわれたのがトラウマになっているらしい。そのくせ「嫌です」「駄目です」ははっきり言う。
 この二語を発したら本当に駄目なんだそうだ。二年生の女子が興味本位で「つきあってください」と申し込んだら言下に「駄目です」と断わられたそうだ。その二年生の女子は今回参加していない。
「見掛けは押しに弱そうだけど、早瀬先輩はきっちりした人だから、困らせるようなことは言うなよ」と川原先輩からアドバイスを受けている。
 初めて会った早瀬先輩は僕と姉さんを見ると一瞬顔を赤くした。色白だから余計目立つ。姉さんを見て人は誰でも一瞬息を止める。
 僕のような新入生にとって大学院生は雲の上の存在だが、人である限り大学院生でも姉さんの顔を見たら息を止めざるを得ない。
「あ、あの、こ、こちらの方が、し、新入生の能代さんですか?」吃音が復活してしまったようだ。
「はい、二卵性双生児で、姉が能代朔耶で、僕が朔太郎です。」
 高尾に向かう駅のホームで僕は自己紹介した。姉さんはいつものように渉外事項は僕に任せっきりでホームの人の流れや自分の爪を見たりしている。
 一方、早瀬先輩の専攻が心理学と聞いている佐藤さんは始めから食いつき気味だった。聞きたいことが山ほどあります、と顔に書いてある。
「二卵性双生児……、き、興味深いですね。い、いや、失礼。もう聞き飽きているでしょうけど、双子の研究は今でも興味を引かれる話題ですから。ウチの学内で一卵性双生児が二組いるの、ご存知ですか」
 いえ、知りません、と僕は答えた。新入生のオリエンテーションにはいなかったような気がする。
「ああ、そ、そうですか、そうですよね。学内は広いし、一人で歩いていたら気が付きませんよね」
「それで、双子伝説で良くあるケースで、片一方がもう片一方のフリをして授業を受けてるとか、デジャヴを楽しんでいるとか?」
 僕は冗談のつもりで言ったのだが、早瀬先輩は「いえ、いえ、そんなことはありません」と真面目な顔で答えた。僕らの場合は二卵性の男女だからデジャヴを楽しんだりはできない。
 双子の話はそれっきりで高尾を散策している間には一度も話題に上らなかった。僕等も定番すぎる質問にはうんざりしているので丁度いい。佐藤さんは早瀬先輩にぴったり付いて転部の相談をしている。
「すみません、すみません」と何回も聞えるから早瀬先輩も詳しい手続きについては知らないようだ。その代わりゼミの話となると吃音も直って佐藤さんの好奇心を満足させている。
「心理学とか精神分析とか何の役にも立たない、ってレクター博士が言ってなかった?」
 姉さんが早瀬先輩に声が聞えない距離で僕に話し掛けて来た。
「レクター博士、って誰だっけ」
「ハンニバル・レクター博士。『羊たちの沈黙』の。我等がヒーローの名を忘れちゃったの?」
「ああ、あの人ね」
 僕等の中では実在する人物だ。彼の殺人行動を読者は理解できる。
「でも、博士は精神分析医じゃなかった?」
「小説では途中で人物紹介の設定が変わったよね。始めは天才的な外科医じゃなかった? クラリス捜査官を虐めるやつを開頭して脳味噌食べてたじゃない。脳味噌って美味しいのかな」
 美人の姉さんの口からこんな言葉が出ると僕はいつもぞくぞくする。
「どこかの国じゃ生きている猿の頭を開けて食べるらしいから、美味しいのかもね。或いはまったく無味だけどソースで味付けして食べるとか。反道徳的なことをしているってことに痺れるんじゃないの? 外人さんは魚の目玉を食べる日本人に震撼しているらしいよ。」
「私は目玉なんか食べないわよ」
「おいおい、二人で何て話をしてるんだか。物騒な双子だな。隙を見せたら脳味噌を食われそうな気がしてきた」
 後続で僕等の会話を聞いていたらしい川原先輩は坂道で息切れしてハアハアと息を荒くしている。
「御心配なく。二人とも医学部じゃないですから。レクター博士みたいに手際よく開頭できませんよ。僕がやるとしたらせいぜい金属バットで頭をグシャです。飛び散った脳漿を啜るくらいです。スマートじゃないですよね」
 おえ、っと川原先輩がふざけて舌を出した。
「レクター博士がアンチ・ヒーローになれたのは戦争中に妹を殺されて食べられちゃったトラウマがあるからですよね。普通のシリアル・キラーならただの異常者ですよ。『セブン』っていうブラッド・ピット主演の映画はもう見ましたか? あそこに出てくるシリアル・キラーは宗教かぶれの異常者だし、ショーン・コネリー主演の『理由』っていう映画の殺人鬼も宗教絡みの異常者ですよね。キリスト教関係って何でシリアル・キラーが多いんでしょうね」
「それは一神教だからじゃないの、能代君」と川原先輩の隣を歩いていた今田さんがこれまた息を切らしながら答えた。ハイヒールで登れる山、と聞いていたが、山はやっぱり山で登りはきつい。
「じゃあ、イスラム圏内も結構シリアル・キラーがいるとか?」
「さあねえ、イスラム圏の犯罪は日本ではニュースにはならないからどうなのかな。確率的にはいるんじゃないの? でもコーランを茶化したり、漫画を書いただけで命を狙われるらしいからねえ。啓示を受けたイスラム教徒がシリアル・キラーでした、なんて映画は欧米でも作れないんじゃない?」
 もっともだ、と思ったらしい姉さんは頷いた。
 連休中のせいか、五月の高尾山は人でごったがえしていた。僕の故郷の市の夏祭りでもこんなに人出はない。ずらっと夜店が並ぶけど、余裕で歩ける。僕達はお互いを見失わないように団子になって頂上に向かった。
 五月の連休中、早瀬先輩は映画研究部の部長だった頃から新入生をどこかに連れて行ってくれるらしい。先輩ならではの心遣いだろう。
 今田さんに聞くと去年は小江戸と呼ばれる川越に行き、時の鐘の音を聞いてから喜多院を拝観したそうだ。東京にはお洒落な巨大施設が沢山あるが、先輩のチョイスは渋い。
 ずっと早瀬先輩の傍に付いていた佐藤さんが「お宅はどこですか」とお宅にまで押し掛けそうな勢いで聞いていたが、先輩は東京出身で自宅から通っている。
 アパートならともかく、さすがに家族のいる自宅までは押し掛けられないだろう。メール・アドレスを襲えて貰ったくらいで良しとしなければならない。
 帰りは途中から一人減り、二人減りして新宿駅に着いた時は僕と姉さん、佐藤さんの道産子三人組みだけになった。佐藤さんは新宿から西武線に乗り換えるらしい。
「学生課でさ、とにかくセキュリティ万全の部屋を紹介してくれって言ったらどうしようもなく中途半端な駅のアパートを紹介されちゃってね」とぼやいている。
「東京ってなんでこんなに複雑な路線図になってるんだろう。私、まだ学校とアパートの往復しか分からないよ。地下鉄なんて、もうまったく分からないし」
 分らないのは僕だって同じだ。北海道から上京したばかりでは何もかもがちんぷんかんぷんだ。中央線の終点が高尾だと、今回初めて知った。
「それで早瀬先輩から転部のことで何かアドバイス貰った?」
 人ごみを避けてホームの端に移動してから僕は佐藤さんに一日中べったり先輩に引っ付いていた成果を聞いた。
「そもそも転部希望者が少ないらしいのよね。でも転部できないことはないらしくて、試験を受ければいいんだって。一年から二年に進級する時が一番いいんですって」
「へえ、試験があるんだ」
「そうなのよ、学内試験を受けるんだって。その過去問題集が書籍部で売ってるらしいのよね。連休が明けたら、書籍部を覗いてみなくちゃ。それに教務課にも相談してみなさい、って」
 そこまで教えてくれたら充分だ。僕は姉さんが英文に転部しろ、と言い始めないか戦々恐々としていたが、姉さんは何も言わなかった。
 僕は英語が苦手ではないが、好きではない。第二外国語では中国語を選択している。これからのビジネスは中国相手だよね、などと殊勝な考えからではない。アルファベットから離れたいだけだ。
 僕等は西武線に乗る佐藤さんを見送ってから山の手線に乗り込んだ。まったく、ホームが沢山あって紛らわしいたらありゃしない。

転生願望

 大学の夏休みは長いが僕と姉さんは帰省しなかった。早く東京に慣れようと渋谷、新宿、池袋、原宿などの繁華街や新しい東京の新名所を歩き回った。
 始めは毎日が祭りのような人の多さに酔ったけど、そのうち慣れた。塊として捉えればなんてことはない。女の人はみな美人に見え、若い男は全員格好良く見えたが、そう見えるだけだ。東京という場所に掛かっている魔法だ。
 佐藤さんは北海道に帰省した。電話で転部の話を持ち出したら、帰省命令が出て旭川に帰っている。転部が認められなかったら「死んでやるぅ」を連発するに違いない。
 実際、戻って来た時はおやじさんの説得に成功していた。一般科目以外にも転部に向けての試験準備で普通の学生以上に勉強している。
 心理学部では民間資格の認定心理士の資格が取れる。それをどう生かすのか僕には分らない。カウンセリングの仕事にでもつくのだろうか。FBIの心理捜査官になれない事だけは確かだ。
 自分のことは差し置いて、姉さんに大学を出たらどうするつもりか聞いたら、CAになるつもりでいるらしい。
「CAって、キャビン・アテンダント?」
 姉さんくらいの美人ならCAもいいだろう。だけど、CAはサービス業だ。姉さんがサービス業向きとは思えない。
「でなかったら、総合商社の秘書かな。英語を生かして海外を飛び廻る」
 姉さんの将来のビジョンはこの程度だ。CAにしろ秘書にしろ、海外を飛び回りたい気持があるらしい。しかし今時は英語ぺらぺらの連中ならいくらでもいる。
「北海道って、行けども行けども原野って所が沢山あるじゃない。カナダからの帰国子女から聞いたんだけど、中心部を外れたら森林地帯ばっかりなんだって。ちっとも面白くないよ、って言ってたけど、私はどこまで行っても森林、って風景を見てみたいな。死んだら転生するかどうか分からないけど、もし転生するなら森と水の綺麗な所に生まれたいんだよね。中東やアフリカの人には悪いけど、砂漠地帯には生まれたくないな。衛生的に問題がある汚い水を確保するので一日が終わる、なんてどう考えても無理」
 大学を卒業したらどうするのかは考えていないが、転生先のことは考えているとは姉さんらしい。
「その時は朔太郎、あんたとは姉弟の双子では生まれたくないな。あんたと一緒が嫌いとかじゃなくて、ある日ばったり、あかの他人として出会いたいの。なんだか懐かしい人に出会ったなあ、って感じ。年齢も性別も顔も違うけど、もしかして前世でお会いしましたか、って言ってみたくない? その時は勿論、森と水が綺麗な所でね」
「はいはい、分かりました。でもせめて国くらいは指定して欲しいね。やっぱり日本? それともカナダ?」
「森と水が綺麗な所は他にもあるんじゃない? だからその時の為にも現世で次の転生先を見つけておきたいのよ」
 呆れた姉さんだ。転生ありきで現世の大学に入り、CAだか秘書だかをするつもりでいるのか。映画鑑賞なんかしていないでオカルト専門のサークルに移った方が良くはないか。

ハード・ロック系ゾンビ

 僕等が二年生になるとトコロテン式に四年生になる今田さんが副部長を止めた。四、五回しか会ったことがない土屋先輩と小林先輩も部活からは卒業だ。
 土屋先輩は家からの仕送りが少なくてバイトに専念。卒業後は故郷に帰って地方公務員になる予定でいる。
 小林先輩は母子家庭なのでバイトで一年稼いで入学金を作ってこの大学に入学した。入学後の学費を稼ぐ為に深夜のコンビニでバイトを続けている。
 昔風に言うなら苦学生だ。こちらは高校の教師を目指している。奨学金は後からの返済が大変なので貰っていない。就職後も奨学金の返済で苦労するなんて、本末転倒だ。
 今田さんは学芸員を目指している。みんな将来を見据えて建設的だ。で、川原先輩は、というと、なに学部か聞くのを忘れていたが、単位不足で四年では卒業出来なさそう、というので部長に留まっている。
「先輩、バイトもしていないのに何で単位を落すんですか」
 新三年生の堀井さんが部室で開かれた「追い出しコンパ」で酒に酔って絡んでいる。早瀬先輩に交際を申し込み、言下に「駄目です」と拒否された子だ。酒に酔っていなくても性格は悪そうだ。
「まあ、人それぞれあるからね」
 今田さんが当たり障りのない言葉で誤魔化し、川原先輩は天然パーマの頭をがしがし掻き毟った。頼りないのか大物なのか、もはや分からない。
 ともかく万事鷹揚な川原先輩が部長を続けてくれてくれるのは安心だ。副部長は空席になり、三年生と二年生は新入部員の獲得に奔走することになった。
 僕はバスケ部にも入っているが、入部した時と同じ様に気が向いたら体を動かしに行くだけで、二軍でさえない。スポ根が嫌いな僕にはいい距離感だ。
 新入部員の勧誘、とはいってもワードで作ったチラシと小さな看板を持って人ごみをうろちょろするかブースで新入生が足を止めるのを待っているくらいだ。
 男子は姉さんの美貌に吸い寄せられるようにやって来るが、ぴったりと傍に付いている僕を恋人かなにかと勘違いして諦めの表情で去って行く。
「朔太郎、あんた、別の場所で勧誘したら? あんたがいると男子が集らないじゃない」
 大勢の新入生が他の部の前で足を止めているのに、映画研究部、略して映研だけが閑散としている。
「姉さんこそ場所を移したら? 姉さんの顔を見た女子は寄って来ないよ」と言い合っていると「能代姉弟が浮世離れした顔しているからよ」と堀井さんが突っ込んで来た。
「姉さんは山口小夜子だし、弟はモデル並み。声を掛けられたって誰でも二の足を踏むわよ。美貌もここまで来ると却って胡散臭いと思わない?」
 胡散臭いと言うなら髪はベリー・ショートでハード・ロック系の格好をしている堀井さんの方が余程胡散臭い。噂ではインディーズのロック・バンドの追っかけをしていて、体の見えない部分にも複数のピアスをしている。
 堀井さんはそれ以上のことを言いたかったようだが、まあまあ、と川原先輩が止めた。
「映画研究部って言ってもさ、ただ映画を見て好き勝手言い合っている部だし。そもそも存在意義ないですよね、って話だよね。文芸部みたいに文芸誌を発行してるわけでもないし。やあ、毎年のことだけどオカルト研究部って結構人気あるね。あいつ等、今年の夏休みに四国にユダヤの秘宝を探しに行く、ってのを売りにしてるよ。楽しそうだねえ」
「部長のくせになに言ってんですか。部長のお父さん、映画関係者なんでしょう? ショート・ムービーの一本くらい作ってみたらどうなんですか。それを上映したら部員が集るかも知れませんよ」
 堀井さんの言葉はきついが一理あるような気がする。ただ映画を見るだけなら一人でレンタルDVDを見ているのとさして変わらない。
「ショート・ムービー作るって? そんなの演劇部がやってるって」
「じゃあ、映研の理念ってなんですか」と更に堀井さんが突っ込む。
「ええ?……。映画を見るのに理念なんか必要なの?」
「だって先輩、時々映画論を吹いていたじゃないですか」
「あ、あれは若気の至り。今はどんな駄作でも楽しみを見つけられるようになったからね」
 禅僧のような答えに堀井さんが漫画みたいにがっくりと首を垂れた。川原先輩はやはり頼もしい。
「文芸部のやつらは将来小説家とか詩人になりたいってのが集ってるじゃない。演劇部は俳優になりたいとか、舞台監督になりたいとか。僕はそういうガチなのが好きじゃないんだ。映画好きが集まってただ映画見てる、そういうのがいいんだよね。それは創部の時から変わらないみたいだよ。初めて部長になった人は今、映画評論家になってるけど」
「じゃあ、部長も将来映画評論家を目指しているんですか」とハード・ロック系ゾンビ状態から復活した堀井さんが幾分期待を込めて尋ねた。
「いや、そういう目的を手段にした……、あれ、手段を目的に……、どっちでもいいけど、何々の為に何々をする、ってのは僕は嫌いなんだよ。映画が好きだから映画を見る、ただそれだけ」
「大学を卒業する目的の為に単位を取るのも嫌い、ってことですね」
 単位取得という点を突かれて川原先輩が今度は熊のプーさんのゾンビになった。
 堀井さんは厳しいことを言うが、未だに退部しないから根っ子では映研の緩さを楽しんでいるに違いない。先輩にずけずけと物を言えるのも映研ならではだ。

白い手袋の朔耶

 昼になってレストランに行くと佐藤さんと今田さんが一緒に昼食をとっていた。今田さんに合うのは追い出しコンパ以来だ。
「佐藤さん、新入生の勧誘に来なかったね。こんな所でお茶してるなんて優雅過ぎない?」
 姉さんが早速佐藤さんに苦言を呈した。佐藤さんがお茶している間、僕と姉は先輩VS堀井のゾンビ対決を見物させられていたのだ。
「そんな事ないよ。レストランにも新入生が沢山来るからね。ほら、チラシ、なくなってるでしょう。各テーブルに配って歩いたのよ。学生が必ず来る所、他にどこだと思う?」
 考えている間に佐藤さんが勝手に答えた。
「それはね、ここと、正門とトイレ。正門前は他の部活の連中が鈴なりになって勧誘してるから勝ち目がないじゃない。でね、誰でも立ち寄るトイレの前にチラシを貼って、レストランでスマホ持ちで待機してるのよ」
「学内は張り紙禁止じゃなかった?」と姉さん。
「基本的にはね。職員から何か言ってきたらその時はすみませーん、って剥がしに行けばいいじゃない」
 転部には「死んでやるぅ」で対処し、トイレの張り紙には「すみませーん」で済ます。何事にも積極的な佐藤さんらしい。
「部活勧誘の時期は職員さんも大目に見てくれるわよ。ただし、きちんと剥がさないと怒られるけど」と今田さん。
 去年、僕等は勧誘される方だったから気付かなかったが、部員獲得は部の存続に係るから上級生はそれなりに必死だ。
「ウチの部はさあ、何かを必死でやろうって部じゃないから、もともと存在意義はないんだけど、大学に来て友達が作れない人っているでしょ。そういう一人ぼっちの人って五月とか夏休みとか長い休みになると欝になりやすいのよね。そういう人の為の謂わばシェルター的役割を果たしたい、っていうのが初代の部長の考えらしいんだよね。映画を見るのが嫌い、って人は殆どいないからね」
 初代部長って、映画評論家になっている人ですか、と聞くと、そうよ、知ってたの、と今田さんが驚いている。ついさっき聞いたばかりだ。
 時々テレビに出てくる、タレント扱いの映画評論家で、へらへらした感じが嫌いだったけど見方が変わった。いい人じゃないか。
「結構孤高を保っているような感じの人の方が折れやすいのよね。能代姉弟と初めて会った時は孤高って感じだったな。二人の世界で閉じちゃって。双子だから仕方ないけどね」
 心理学部に転部した佐藤さんが研究対象を見るみたいに僕と姉を見ている。僕と姉さんの世界が閉じているの件で姉さんが身じろぎするのが感じられた。
「まあ、立ってないで座れば。その前に朔耶さん、コーヒーを四つ持って来てくれないかな」
 言い方は優しいが上級生の言葉は絶対だ。姉さんが「えっ?」と小さな声をあげた。姉さんは口は出しても自分では動いたためしがない。渉外はすべて僕の担当だ。
「僕が持って来ます。姉さんは先に座っていて」
 姉さんが当然のように席に座ると、今田さんが何か言いたそうな複雑な表情で僕を見た。姉さんの尻に敷かれている情けない弟に見えているのだろうが、これが能代家のルールだ。
「川原君、なにしていた?」
 僕がコーヒーを持ってテーブルに戻ると今田さんが僕に尋ねた。二人は付き合っているのかと思ったこともあるが、一年も観察していればさっぱりさばさばした関係だと分かる。
「堀井さんと二人でブースの中で新入部員の勧誘していましたよ」と僕は姉さんにコーヒーを渡しながら答えた。
「理念がどうので喧嘩し、最後は単位のことで川原先輩をやり込めてましたけど」
「はーん、堀井さんは性格も服装もちょっと問題アリの人物だからね」
 今田さんの言葉に残り三人が笑った。
「あの人、一年の時はどこにいるのか分からないくらい目立たない人だったんだけどね。
いつもぽつねんとしていて、そもそも声を掛けたのが川原君で」
 ええっ、と再び三人の声が揃った。
「マジですか、今の格好からすると考えられませんけど」
「浮いてるのは今も同じだけど、ベクトルが違うだけでね」と今田さんが佐藤さんに向かって苦笑した。
「川原君、ロック・バンドの出演する、ほら、インディーズに場所を提供してる店があるじゃない。それに一度だけ引っ張って行かれたそうなんだけど、どうも察するにバンド連中の玩具にされてるみたいなんだよね」
「玩具って、今田さん、あの……」
「男が女を玩具にする、って言えば決まってるでしょう。他の人の耳にはいれたくない話なんだけど、もう二回、妊娠中絶してるんだよね。その度に産婦人科に行くのに付き合って承諾書を書いてやっているのが川原君。もう、馬鹿としか言いようがない。さすがに二度目の後はピルを飲めって言ってるそうだけど」
 大学生にもなればそういう類の話はちらほら聞くが、まさか、だ。姉さんは眉間に縦皺をくっきりと刻み、佐藤さんは今にも過呼吸になりそうな息をしている。
 そこまで世話を焼くからには川原先輩は堀井さんが好きなのか、と思ったら恋愛感情はこれっぽっちもないそうで、理由はただ「放っておけないから」。
「河原君って、根本的にお人好しだからさ、他の案件も抱えていて、それで単位を落しちゃったってわけ。所詮は他人のことだからそんなの見て見ぬ振りで済ませばいいじゃない、っていつも言ってるんだけどさあ」
「『日本国憲法』を落したのもそのクチですか」
「え? まあ、そうね。実は単位落してないのよ。ただ、新入生の中でちょっと問題がありそうな子がいたんで三年の講義の二単位を落して『日本国憲法』の講座に行ってたんだよね。落した単位の方はさ、夏休みに集中講座を受ければ何とかなるから。大学もなるべく効率良く学生に四年間で卒業して欲しいから集中講座とか補講とか色々用意してくれてるの」
 そう言えば、夏休みにも拘らず授業を受けている学生がいたなあ、と僕はぼんやりと思った。
「あの、川原先輩がわざわざ一年生の講座に来てたのは、まさか、私の為ですか」
「佐藤さんの為? まさか。あなたはしっかりしていて問題児にはなりそうもないよ。『死んでやるぅ』は親にだけに効果がある言葉でさ、大学にいるその他大勢にとっては相手にもされないよ。実際に校舎の上から飛び降りでもしたら尾鰭足鰭が付いて学校の怪談になるだけ。毎夜、校舎から飛び降りる白い影が見える、なんちゃって」
「じゃあ、川原先輩が集中講座覚悟で心配してる相手って誰ですか」と佐藤さんが身を乗り出した。僕も大いに興味がある。そんな剣呑な気を放っていてやつはいないような気がする。いたら僕だって気が付く筈だ。
「さあね、私は鈍感だから気が付かないし、気が付いたとしても無視するけど。川原君ってさあ、霊感だか第六感だか知らないけど、時々ピピッてアンテナに引っ掛かるんだって。心理学部にいるより教祖様でもやってる方が似合うと思わない?」
 川原先輩が心理学部だったとは、丸々一年経って初めて聞いた。熊のプーさんは法学部だとばかり思っていたのだ。佐藤さんも初めて知ったみたいだ。同じ様に驚いている。
「ウチは早瀬先輩の時から心理学部の三年生が部長を勤めることになってんの。いない時は法学部が代行。佐藤さん、あなた、三年になったら部長になってよ。能代姉と能代弟は経営と英文だから資格なし、ってことで」
「現在、堀井さんの他には三年生は他に四人いますけど」
「太田さん、中村さん、海野君に牟田君でしょ。残念でした、女子は文学部、男子は経済学部だから資格なし。映研の将来は佐藤さんに掛かっているってこと。でもさ、川原君は公認心理師の資格を取る為に大学院の修士課程まで行くそうだから、早瀬先輩に代わって後見人になってくれるから安心して。川原君、見掛けによらず面倒見がいいから」
 えっ、川原先輩、大学院まで行くんですか、と佐藤さんが声を高くした。
「そう、民間資格の認定心理士じゃなくて2017年施行の国家資格の公認心理師を目指しているらしいからね。修士課程で専門科目履修が条件みたいよ」
 公認心理師の言葉に佐藤さんが食い付いた。公認心理師がどんなことをやるのか僕には分からないし興味もないが、同じ心理学部にいる佐藤さんにとっては重要なワードらしいことは食い付き具合を見ても確かだ。
「お、佐藤さん、川原君が公認心理師を目指しているって聞いたら顔つきが変わったね。また親に『死んでやるぅ』って言って大学院まで行かせて貰う?」
「いや、それはちょっと……。転部するって言った時も大騒ぎでしたし、これ以上親に学費を払って貰うのも何ですし。大学を卒業したらさっさと旭川に帰る、ってのが条件ですから」
「川原君もいつまでも仕送りできない、って言われてるらしいけどね。大学院に行くにあたってはバイトを二つくらい掛け持ちするぐらいの覚悟はしているみたい。まあ、院生になれば取得単位が少なくなって、毎日大学へ顔を出す必要はないみたいだけど」
 そうですか、と佐藤さんは溜息をついた。司法書士をしている親の経済状況は悪くはないだろうが、これ以上はさすがに我儘を通せないといったところか。
「上級生ともなると色々考えているもんですね」
「当たり前じゃない。四年生ともなればもう就職のことも考えなくちゃならないし卒論もあるし。みんな結構カリカリしてるのよ」
 ところでさ、と今田さんが話題を変えた。
「能代姉は何でいつも手袋をしてるの? 何か気になるんだけど」
「日焼け止めです」と姉さんが答えたが、それなら教室の中でもしているのは不自然だ。この際、はっきり言った方がいい、と僕は判断した。それで昔、誘拐されそうになったことを話した。
「犯人に手を掴まれた時の嫌な感じが未だに忘れられないそうなんです。だから今でも知らない男に手を掴まれそうになるとパニックを起こします」
 息を詰めるようにして聞いていた今田さんと佐藤さんは姉さんの白い手袋をじっと見詰めた後に、手袋と同じくらい白い顔に視線を戻した。
「子供の頃にそんな恐怖体験をしていたとは思わなかった。伊達メガネみたいなファッションかと思ってた。小学校の二年の時? そりゃあトラウマになるよね。それで朔太郎君が朔耶さんをいつもガードしてるってことね。そうか……。誘拐されそうになった経験なんて、そうあるもんじゃいないものね。辛い事を思い出させちゃって、ごめんね」
 じゃあこの話はこれでお終い、と言って今田さんは席を立って歩き始めたが、手を振って佐藤さんを呼び寄せた
 それからは遠くなったので声が聞き辛くなったが、ちらっと振り返ったので僕と姉さんのことを話しているらしいことは分かった。
 姉さんは席に座ったまま白い手袋をした両手を握り締めていた。僕は姉さんがいつの日か手袋を脱いで僕に見せてくれる日を待っている。きっと綺麗な手に違いない。
 

『エゴイスト』な朔耶

 姉さんはいつも僕と一緒だ。勧誘のチラシを渡すと女子は僕の横にいる姉さんを見て驚く。姉さんがチラシを渡した男子は僕を見て一気に敵愾心を抱く。
「あんたが傍にいると男の子が寄って来ないじゃない」
 札幌にいた時も同じ様な科白を聞いた。じゃあ、僕から離れれば、と言うと「それは嫌」と我儘な言葉が返って来る。
「姉さんが男の人の手が怖いのは分かってるけど、三年生になったら学部が違うんだから、今より一緒にいる時間はもっと少なくなるよ。それにこれから就職もある。CAになるんだろう? ひょっとしたら結婚もあるかも。僕は姉さんの就職や結婚まで付いて行けないよ。それに、僕には僕の人生もあるし」
 二年前に雅紀が言っていたようなお互いの結婚生活にまで付いて行くような状況にはなりたくない。永遠に姉さんを守るなんて、無理だ。幾ら双子だって僕は僕、姉は姉だ。
 僕達以上にシンクロしている一卵性双生児だってそれぞれ別の人と結婚している。まったく同じ条件で育った一卵性双生児にも個性はあるのだ。
「誘拐されそうになった時、あんたはぼーっとしているだけで助けてくれなかった。どんなに怖かったか、あんたには分からない」
 低い声で呟いた姉さんの顔は重力が逆転したみたいに釣上がった。ヒステリー発作寸前だ。こういうのを世間では分離不安とか呼ぶのだろうか。
 僕も常に姉さんが右隣にいて、定番となったかすかな『エゴイスト』の香りがしないと姉さんがこの世からいなくなったように不安になる。でも姉さんに代わってコーヒーの注文から履修届けまですべて僕がやっている分、人並みの事はできる。
 僕はチラシを握ったまま硬直している姉の腕を取って芝生の中に植えられている立木の下まで引っ張って行った。
「姉さん、高校まではいつも同じ教室で弁当の時間も一緒だった。でも大学に入ったらいつまでも同じにはならないよ。僕等は双子だけど、選び取る人生は違うんだ。できるだけ傍にいるつもりではいるけど、死ぬまで、とはいかない」
 姉さんは特殊な事情を抱えてはいるが、いつかは克服しなければならない。僕が先に死んでしまうかも知れないのだから、侍従なしでもやって行かなくてはならない。
「そうだ、練習として川原先輩と付き合ってみる、っていうはどう? シックス・センスがある、みたいな事を今田さんが言ってたじゃない。そっち方面に興味がある姉さんには適役じゃないか。それに外見は熊のプーさんだけど、見方によれば愛嬌があるとも言える」
 川原先輩という具体的な名前が出て、姉さんは少し落ち着いた。
「私と背丈があまり変わらない男子と並んで歩くのは嫌よ。それに、川原先輩は堀井さんの彼じゃないの?」
「そんなことないよ。心配してる、ってだけ。さっき今田さんがそう言ってたじゃないか。面倒見のいい人ってこと。シックス・センス持ちで心理学部なら最強じゃない。きっと面白い話を聞かせてくれるよ」
 姉さんは興味を示し始めたようだが、「あんたと一緒じゃ駄目?」と往生際が悪い。さすがに僕だって最初から二人でデートして来い、という気はない。
「川原先輩だって急に姉さんがデートを申し込んだら引っくり返るだろうね。いくら同じ部員だって姉さんは学内一の美人だからさ。始めの一回くらいは僕も付いて行くよ。ならいいだろう?」
 部室で川原先輩を捕まえて「一緒に横浜へ行きませんか。僕らまだ地理に疎いんで先輩が一緒だと助かります」と頼むとあっさりと承諾してくれた。
「僕も横浜には詳しくないけど、横浜って言えば山下公園とか?」
 ちょっと待っててね、と先輩はパソコンで場所をプリントアウトした。姉さんがこれから一人で行動するための練習と知ったら先輩はどう思うだろう。
 

『オードランジュベルト』な朔太郎

 晴れた日の土曜日に僕と姉さんと先輩はJRの関内駅で降りて山下公園を目指した。先輩は本当に横浜が初めてらしく、スマホで何度も道を確認している。
「今年の新入生、入部してくれそうな人は何人か見つかりましたか」
「今年は意外と盛況だったよ。他の部と違って目的意識が希薄なのが受けたみたいで、十人近く申込書にサインしてくれたよ。まあ、そのうちの何人かは幽霊部員になるかも知れないけどね」
 喜んでいいものかどうか判断に苦しむが、先輩は気にしていない。大学に入学したはいいが、環境も変り、友達もいない新入生の駆け込み寺みたいに部活を考えているからだ。
「朔太郎君はバスケ部にも所属していたんじゃなかったっけ? どう、バスケ部は」
「スポーツ推薦枠で入学した人が殆どですから、僕なんて補欠の補欠扱いです。その落ち零れ同士でコートが空いた時に遊んでます」
 いいポジションじゃないか、と先輩。
「僕は血眼ってやつが苦手なの。切磋琢磨って言葉も嫌いだな。一度だけ短歌研究会の部室を覗いてみたことがあるんだけど、作品を発表する度に批判の嵐でさ、お互いを潰しあっているようにしか見えなかったよ」
 しばらく歩いて山下公園に到着した。あ、氷川丸があるぞ、中に入れるってさ、と叫んで先輩は走り出した。まるで子供みたいだ。大学院まで進学しようとしている人には見えない。
 氷川丸を見学してからランドマークタワーの展望台に登った。『ゴジラVSモスラ』でモスラの亜種バトラに完成前に壊されたタワーだ。
 モスラとバトラの違いについて熱心に講釈してくれた。それはそれで興味深いが、生憎怪獣系の映画を見ていない僕と姉は聞き役に徹した。案外面白そうだ。
「横浜は見所一杯だけど一日じゃ短すぎるよね。またそのうち来ようよ。中華街も歩いてみたかったしさ。港町って、明るくて開放的で、いいよね」
「北海道でも小樽・函館は人気スポットですよ。内陸の町とは違った雰囲気があります。僕は留萌も好きな町ですけど、今は寂れる一方です。JR北海道は最終的には札幌を起点として函館、旭川、帯広の三区間しか残さないつもりらしいです」
 陽光を浴びて輝く近未来都市みたいな横浜とは大違いだ。バトラが本当に現われてこの気取った都市を破壊してくれればいいのに。
 途中のコンビニで買ったサンドウィッチを食べ歩きしながら僕等はまた出発地点の関内に戻った。歩いてみると結構な距離だ。
 姉さんは満足しているのか、疲れているのか、ずっと無口だった。これじゃあ、デートの予行演習にはならない。
「朔太郎君はいい匂いがするね。香水つけてんの?」と突然先輩が聞いて来た。
「あ、すいません、香りがきついですか」
「いや、きつくはないよ。傍に近寄らなければ分からないくらいだから。普段はさ、こんなに至近距離で話したことないだろう。だから気が付かなかったけど、柑橘系のすかっとしたいい香りだ。男がこんな事聞くのも照れくさいけど、何の香り?」
「エルメスの『オードランジュベルト』です。ちなみに姉さんはシャネルの『エゴイスト』。この香りがすると姉さんが僕の横にいるな、って分かります。高校の時からの定番の香水ですから」
 へえ、と先輩は僕の右横を眺めた。姉さんと直接目を合わせるのが気恥ずかしいのか、ちょっと視線がずれている。それでも普通の男が姉さんを見る時より数秒は長かった。
「エルメスにシャネルか。それって女性が欲しがる凄いブランド品だよね。高価なんじゃないの?」
 凄いブランド品ではあるけれどネットで買えば半額以下だし、ほんのり香らせる程度ですから、と説明した。
「堀井って子がいるじゃない。あの子、5m先からでも分かるような香水の匂いがするけど、どんな香水か分かる?」
 先輩の口から堀井さんの名前が出た途端に姉さんが顔を顰めた。今田さんから話を聞いてから彼女に対する印象は最低線だ。馬鹿な子、と姉さんが呟いたが先輩には聞えなかったようだ。
「ジャンヌアルテスの『ギュペシルク』ですね。ラストにバニラが香って、ボトルデザインもいいですよ。ただ、結構香るのでつけ過ぎには注意ですね。香水をつけていると自分の鼻が匂いを感じなくなって一日何回も付け直してしてしまうのが難点です」
「能代姉弟は香水に詳しいんだね。それじゃあ、今田さんが時々つけている香水の香りは?」
「クリスチャン・ディオールの『ディオリッシモ』じゃないでしょうか。スズランの香る上品な香水です。最近ネットでも品切れ続きの、古典的な香りです。『ディオリッシモ』を使っているなんて、香水の通ですよ。ファンは見つけたら値段が高くても即買いでしょうね。僕は同じディオールの『ディオレラ』と『ディオレッセンス』を一本ずつ実家の冷蔵庫にストックしてあります。ネットでもレア香水になっています」
 香水好きも凝ると専用の冷蔵庫で保管している。僕は急に実家の冷蔵庫が心配になった。雅紀が勝手に使っていないだろうか。
 売る気はないが、廃盤になって高値がついている香水も収蔵してある。在庫処分の時に千円で買ったエスカーダの『リリーシック』に現在一万円の値がついている。毎年若い女性向けの甘くてポップな香りを発売するエスカーダの中では上品な香りだ。
 ネットのオークションに出品したら確実に売れるだろうけど、レア香水を持っていることに意義があるのであって、明日食べるパンがない状況に陥らない限りは手放すつもりはない。
「たかが香水、されど香水ってことか。で、お姉さんは『エゴイスト』、君は『オードランジュベルト』かあ。香りで存在を確かめ合う、っていうのもアリなんだろうね」
 高校生の時の同級生の女子は彼氏が資生堂のヘア・トニックを使っていたので、別れた後もその香りを嗅ぐと元彼を思い出す、と言っていた。香りにはそこにいない人を想起させる力がある。
「朔太郎君は、経営、朔耶さんは英文。これは単純過ぎるけど、将来二人で香水屋さんを始めたらどう?」
 京浜東北線に乗ってから先輩が意外な提案をして来た。なるほど、と言いたいところだが、僕は自分が気に入らない香水を人に勧める気はない。甘過ぎるお菓子みたいなグルマン系の香水なんて嗅ぐのもお断りだ。
「趣味を職業にするのは難しい、と聞きましたが」とやんわり受け流した。僕はまだしも、好き嫌いの激しい姉さんが店頭に並べる香水は偏っているに違いない。
「香水が好きだから香水屋、ってほんと、単純」
 先輩と別れた後、予想通り姉さんが文句を言って来た。「調香師になれば、って言う方がまだセンスを感じるわよ」
「調香師? それは薬学部にでも行かなくちゃ無理じゃないか」
 大学には理系がない。そもそも理系に通いたいとも思わない。最近は香水屋も差別化を計る為に自作香水教室を開いていたりするが、多分、単純な香りだろう。そこまでする興味はない。
 機嫌を損ねたらしい姉さんは自分の顔が移る車窓にじっと目を向けながらだんまり戦術に入った。まったくエゴイストそのものだ。姉さんがCAになりたいだなんて、嘘に決まっている。

エゴイストの溜息

 四年生の活躍のお陰で新入生は十人も集った。たった一年の違いだが、まだ高校生の雰囲気を纏っている彼等と僕達は羽化前の蛹と羽化後の蝶ほどの差がある。
 おっさんみたいなのがいるな、と思ったら二浪だった。この大学のレベルで二浪ってどうよ、と思ったりするが、一度社会に出て働いて、学費を稼いでいた人かも知れないので迂闊なことは言えない。
 今年の五月病対策に早瀬先輩が用意してくれたのは鎌倉散策だ。三年生は堀井さんを除いて全員参加。二年生は僕と姉さん、佐藤さんだ。
 一年生の十名のうち、四名が参加。残りの六名は東京出身なので小学校の時に日帰りの鎌倉見物を済ませている。
 「極楽寺坂越え行けば長谷観音の堂近く、露座の大仏おわします」云々の歌をバスガイドさんに教わったが、児童達はサザンの歌で盛り上がっていたそうだ。
 こういうませた東京の子供の話を聞かされると少しイラッとする。僕なんか江ノ電と聞くだけで高揚してしまう。
 とは言うものの、参加しなかった六名の内、二名は入学そうそうだというのに短期アルバイトに出ている。東京の実家にいて家賃は掛からないが、各家庭の懐事情は厳しいみたいだ。
 今回、早瀬先輩と川原先輩は参加しているが今田さんは来ない。いつもジーンズ姿の、ボーイッシュでさばさばした今田さんの姿がないのは寂しい。姉さんも今田さんが気に入っている。
「今田さんは?」と聞くと「卒論の準備」と川原先輩の答えが返って来た。
「今田さんはズルをしない人だからさ、他の子がネットで集めた情報をコピペして卒論を誤魔化そうとしてるのが嫌なんだ。ネットを使わないわけじゃないけど、資料には直接当る主義でね。国会図書館やら郷土資料館に日参してるよ。鎌倉街道が卒論のテーマらしい。鎌倉には何度も来ているから、連休中は図書館にいるそうだよ。三年の夏休みには実際に上道、中道、下道を歩いてみたそうだ。ガッツあるよね。君達も三年生の中期頃になったら早いところ、ぼんやりでもいいからテーマを考えておいたほうがいいよ。単位を落としている僕が言うのも何なんだけどさ、大学の四年は意外と早い」
 相変わらず僕の右横に立っている姉さんがフウッと溜息を付くのが聞えた。
 それに、と川原先輩がぽんと手を打って新入生の注意を引き付けた。
「今や大卒なんてゴマンといる。大学をフル活用して資格の一つも取っておけよ。例えば経営学なら公認会計士、税理士、証券アナリスト、ファイナウウシャル・プランナー、社会保険労務士の資格に挑戦できる。勿論全部取れとは言わないけど、一つでも資格を持っていれば就職に有利だ。でないと、面接官に君は大学で何をしていたのだ、と言われる。ま、四年間遊びに来たと言うならならそれまでだけどね」
 今田さんがいたら「川原君もたまにはまともなことを言うじゃない」と突っ込むところだ。僕は経営学部に入学はしたが、まだこれといったビジョンを描いてはいない。まるで僕に対して言われたようで耳が痛い。
 ぞろぞろ歩き出した一行の一番後に付いて歩きながら、公認会計士と税理士についてスマホで調べてみた。どちらも国家資格で、超難関みたいだ。
「なに、川原先輩のアジにやられて資格取得を考えてるの?」姉さんが僕のわき腹を突付いて来た。
 姉さんはまったくお気楽だ。今田さんに聞いたLL教室には通っているが、僕と一緒でなければ行かない。お陰で日常会話くらいは聞き取れるようになったけれど、まるで姉さんの為に僕が勉強しているみたいだ。
「やられた、って表現は止めてくれないかな。大学をフル活用しろ、成る程な、と思っただけだよ」
「確かにね。殆どの子は大学に入学しただけで満足してるけど、少なからぬ授業料を払っているんだから、元は取らなくちゃね」
「そうだよ、呑気そうに見えるけど、川原先輩は教職課程取ってるし、今田さんは図書館課程の」と言葉を続けようとしたら「あんたもCAになれば?」と姉さんが驚くべき提案をしてきた。
「はあ? 何だよ、僕がCAって」
「CAは日本じゃまだ空飛ぶホステスみたいな仕事と思われてるけど、CAイコール女性と思っている方が変なんだよ。外国の航空会社じゃ男性のCAが幾らでもいるよ。乗客の安全に目を配るのも役目だからね。芸能人やスポーツ選手のお嫁さんになりたくて就職する訳じゃないでしょ」
 知っているが、姉さんの文脈に沿って行くと、同じ航空会社に就職して、同じ飛行機に搭乗ってことに? 幾ら何でもそう旨くはいかない。世間は姉さんを中心に回ってはいない。
 鎌倉散策、名所見物の筈が、いつの間にかワンゲル部みたいな坂道を登っていた。皆さん、遅れないでくださいね、と先頭を歩いている早瀬先輩の声が聞えた。我儘な姉さんにどう対処していいのか、ふと早瀬先輩に相談したくなった。

第二章へ続く


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