なまえのない思いを何と呼ぼうか

文字が紡ぐものが大好きだった。
物語でも、ひとの生活でも、歴史でも。

物心ついた時がいつだったかなんて、当たり前のように覚えていないのだけれど、
とにかくいつも文字がそばにあった。

一緒に絵がついている時もあったし、
絵に文字がついている時もあったし、
表紙以外は全部文字の時もあったし、

とにかく、いつもそばにあった。

でもいつからか、
文字は生きるための情報を読み解くための記号でしかなくなって、
読書は苦しい時間をやり過ごすための方法でしかなくなって、
そうしてだんだんと私の手元に残らなくなっていった。

学生時代をたくさんの文字と共に過ごした時期から、はや20年。
今頃になって、またそばにいてほしくなって、
こんなことを始めてみます。

ひとの紡いだ文章で、涙することがとても増えた。

それはただ訃報を伝えるだけのニュース記事の時もあれば、
知らない誰かが不意に呟いた日常のワンシーンの時もあり、
本当に自分でも何に感動したのか、もしくは悲しくなったのか分からないまま泣いていることすらある。

これは……あれか、単に歳くっただけか。
いやでも昔から人には理解されないポイントでよく泣いてたな、とも思うし。

まぁ、涙腺は緩い。
冬場の窓辺が知らぬ間に結露で濡れてた、くらいの気軽さで泣く。

とはいえ『文章を読んで』泣くことが増えた、と限定できる程に、
最近私の心にグサグサ刺さるコラムや呟きと出会えている。

何気なく泣いていると、泣くこと自体にはきっと意味はないのだろうなと思い至る。
こころが揺れて、それに反応したからだが涙を流したくなったから流しているだけという感じ。
凄いもので、こころは揺れるだけなのにそれに対応するからだは様々な手段を駆使してくれる。
涙するときもあれば笑うときもあり、
眉間にシワを寄せさせたり、天を仰がせたり、
思考を停止させてみたり、
どこから思いつくのか、いろんなリアクションをとってくれる。

いや、思いつくのは私のあたまだけど。
理解はしていても、凄いなぁと感心する。
人というのは本当に精巧に作られている。

ともあれ。

こころ揺さぶるものに出会えるのは、きっと幸せなことなのだろうと思うようにしている。

見知らぬ誰かが愛する人を亡くし、かなしみと共に2人の思い出をなぞって形にしたものでも、
その人のこころの芯を文字にして紡いだコラムでも、
誰かが受けた心の傷や、それに対しての怒りの吐露でも、
そしてそれらが決して私にとって前向きなものでなかったとしても、
わりと丁寧に毎回こころ揺さぶられている気がする。

これだけ頻度が高いのだから、こころを揺らしてくれてありがとう、と思えるような自分で在ることはきっと大事なことなのだろう。

それぞれの気持ちにいちいち名前なんてつけられないほど、
いろんな人の文章で、私のこころは日々揺れる。

そうやって揺れるたびになんとなく、
文字たちがまた少しずつ寄り添ってくれるような気がする。

私もだれかのこころを揺らすものを書きたい、などという思いは一片もない。
言い切れてしまうのが悲しいほど、ない。

でも、揺らしてくれた文章へのお礼をどこかに残しておきたい。

こうやって、自分のこころと文字とだけ真正面から向き合う時間を作れば、
少しは恩返しになるのではないか。

……そんなことはきっと全然ないのだけれど、
そう思うことにしておく。

その方が、人生が楽しくなるのです。

みかんが届いていた。たくさん食べなくちゃ。

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