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文章ってどうやって書くんだっけ?

 文章の書き方を忘れてしまって、思い出すために久々にnoteを書いてる。構成とかオチとか考えてないから自分でもこの言葉の連なりがどこに向かって行くのかわからない。ので、別に読んでくれなくてもいいよ。それでも書くのはなぜかというと書くことを思い出したいから。

 いつから書けなくなったかというと、北海道旅行でウポポイに行って感じたことを書こうとして、なんかうまくいかなくて投げ出しちゃってそれから書けなくなってしまった。あれは、なんかかっこよく書きたいっていう気持ちがあって、それがよくなかったのかもしれないな。今思うと。今みたいにこういう、なんていうの?ライ麦のホールディンくんみたいな文体?だとダラダラかけてるから。あ、一人称僕にしよ
 
 僕はは喋るのが下手くそで、笑うべきじゃないとこで笑っちゃったり、照れ隠しに露悪的になってしまったりして、だからほんとに大事なこと、大事だって思うこと,自分の心が動いたことは文章にするのがいちばんうまく伝わる気がする。それに記憶力が弱いから書かないと忘れていっちゃうし。ああ、ふわっとしてるな。
 noteで金儲けしたいという気持ちが全くないというにはそれなりに俗人だから投げ銭はすごく嬉しいけど、そーゆーのじゃない部分もけっこうあるんだよ。書くっていうことは考えることと行動することの間みたいな感じで、そういう部分を押し広げていって外側からみつめることで柔らかすぎず硬すぎず弾力のある心が出来上がる気がする。

 ああなんだっけ、なんだっけ、そう,書けなくなった原因はほかにもある。言葉で分かり合える友達ができたこと。それでインプットもアウトプットもしなくても満足できるようになったんじゃないかっていうね‥ここ数ヶ月読書とかアニメ見るのもおっくうみたいな感じになっちゃって。僕はずっと、あんまり人と分かり合えたっていう瞬間がなかったから、自分の抱えてたものををネットを介して繋がった友人に吐露してだいぶ楽になった。楽になってしまった。書きたいという衝動が失われた。リアルの充実とアウトプットしたい欲というのはトレードオフなのだろうか??

 そんかこたーない。そんなことはないんだよ。
世なのかにはちゃんとリアルにもネットにも友達がいて家族もいて仕事もして、それで読書もしてテレビも見てnote書いてる人もいる。リア充だからできませんなんてリア充に失礼だ。何が違うかっていうとたぶんそれはクセだ。

一昨日の夜本を1冊読んだんだ。紙が厚くて字が大きくてすぐ読める、いわゆる自己啓発本だけど、けっこうなるほどなって思うかともあった。これを読み終わるまでスマホの電源いれないぞ!って思って読んだら2時間ぐらいで読めてしまった。

すぐやる人になりたくて「すぐやる!」っていう本を読んだってこと。そして、「あ、すぐ読めるじゃん」って思うことにより僕は活字を取り込むことを思い出した。それでね、この本にも書いてあったんだけど、脳みそは楽に気持ちよくなりたいものなんだって。だからTwitterをざーッとみて他の人の思考の断片やお弁当や絵や豆知識なんかを見てると楽しいし、Twitterでなんか呟いていいねがつけばなんか気持ちよくなれちゃうし、そういうお手頃な快楽に依存してしまっていたんだと思う。
 Twitterは思考メモとして使えるかなって思ってたけど、古いツイートをどうやってみたらいいか分からないし、やっぱりあれは交流のためのSNSでnoteみたいに長く置いておけるものではないなーって。今ね,ひとり早朝にキーボードに向かってるんだけど、とても楽しい。自分の中にあって言葉になってなかったものが指先から出てくる。真っ白だったエディタが文字で埋まる。
今1500字超えた。ほらね、書いてみたら書けたじゃん!それにやっぱり楽しかった。やったね!あとはこれを習慣化できるかどうかだな。さあそろそろ朝ごはん作ろう。


えっいいんですか!?お菓子とか買います!!