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原子力シリーズ①~日本の原子力導入~

こんにちは、QoiQoiの大橋悠太です。
今日は僕らが現在、作品制作のテーマに据えている「原発」について書いてみようと思います。
昨年から1年以上ずっと原発の事や放射能などに関して知識を集めていますが、アウトプットする機会がなかったので自分の頭の整理の為にもシリーズとして何回か継続していこうと思っています。

今回は日本の原子力発電の歴史を、なるべく分かりやすく! かいつまんで書いていけたらと思います。
近年はあまりイメージが良くない原子力ですが、日本が原子力を導入しようと動き出していた1950年代では受け止められ方は全く違いました。
原子力は確かに「明るい未来のエネルギー」だったのです。


目次
1、「平和のための原子力」
2、 中曾根康弘と正力松太郎
3、社会に受け入れられていった原子力
4、まとめ


1、「平和のための原子力」
――Atoms For Peace
日本の原子力発電の歴史はこの言葉から始まると言っても過言ではありません。上記の言葉は1953年12月8日、ニューヨークの国連総会で当時のアメリカ大統領・アイゼンハワーが行った演説での一節です。

我が国は、破壊ではなく、建設をしたいと願っている。国々の間の戦争ではなく、合意を願っている。自国が自由の下に、そして他の全ての国の人々が等しく生き方を選択する権利を享受しているという自信の下に生きることを願っている。(wikipediaより引用)

この演説の中でアイゼンハワーは原子力と核の技術を平和のために利用することを訴えました。その上で世界の原子力を管理する国際機関をアメリカ主導で設立し、核開発の加速を抑えようとしたのです。
同時に兵器としてではなく、新たなエネルギーとして活用できる”原子力発電の技術”を積極的に提供していく事も約束しました。
つまりは、核技術のビジネス転換を宣言した演説だったのです。

そしてその技術の提供先として当初から考えられていたのが、52年にサンフランシスコ講和条約によって全権を回復した日本でした。


2、 中曾根康弘と正力松太郎
このアメリカの動きに対して日本の中でいち早く動いた政治家がいました。それがつい最近”国葬”とするかどうかで賛否が起こった元首相・中曾根康弘です。
1953年当時はまだ改進党という政党の一野党議員でした。
その中曾根は、与党であった自民党の予算案成立に協力することを条件に、原子力予算案2億3500万円を認めさせました。中曾根は戦時中海軍将校で、戦争の原因となった日本のエネルギー問題を解決する狙いがあったと後のインタビューで話しています。
その後中曾根は技術科学庁長官として日本の原子力開発を主導していく立場になります。

そしてこの日本政府の原子力開発の動きを敏感に察知した人物がいました。
それが正力松太郎と言われる人物です。
あまり聞きなれない名前かもしれませんが、彼が社長を務めていた会社の名前は誰もが知っていると思います。現在の「読売新聞社」です。正力松太郎は1924年に小さな地方紙だった読売新聞社を買い取り数年で数万部を売り上げる全国紙に成長させました。
正力は戦後、日本テレビ放送網も設立。新聞とテレビという絶大な影響力を持つメディアを所有し、さらにお茶の間が熱狂したプロ野球の「読売ジャイアンツ」のオーナーでもありました。
そんな彼が目を付けたのが原子力でした。1955年から「平和のための原子力」というプログラムを読売新聞のトップ記事として大々的にキャンペーンし、テレビ放送やイベント含む半年以上の一大PRを開始します。
そしてその年の内に富山県から選挙に出馬し衆議院議員となり、翌年には日本の原子力委員会・初代委員長に就任。驚異のスピードで国の原子力開発の中枢に入り込んでいったのです。

正力は「5年以内に採算の取れる商用原発を建設する」と宣言して、原子力開発を推し進めていきました。
そしてその開発に資金力と技術力を持っていた三菱や東芝、日立など大手の会社が名乗りを上げ、原発のビジネス展開を見据えた研究がスタートしました。各会社と関わりの深い電力会社はそれぞれ別の会社が開発する原子炉を導入し、その結果日本には数十年の内に50基を超える原発が乱立することになります。
原発は開発当初から日本政府と財閥と、その技術を支える東大・京大などの教育機関を含む多くの利権が絡み合った一大ビジネスだったのです。


3、社会に受け入れられていった原子力
国のこれらの動きに対して当時の国民はどのような反応だったのでしょうか?
実は広島・長崎に原爆が投下された1945年から1950年代まで、日本国民は「【ピカドン】という新型爆弾が使われた」という事は知っていても、それが原爆ということも、放射能による危険性や被害があるということもほとんど知りませんでした。理由は当時のGHQが厳しく情報統制を敷いたからです。
一部の科学者や軍の関係者以外は知り得なかったために、原爆投下後の「黒い雨」の影響を受けた海産物などを食べ、広島や長崎の周りの県でも放射能被害が出たのでした。

そんな中1955年に開始された正力松太郎率いる読売新聞社による一大PRは、驚くほど国民に受け入れられていきました。
「未来のエネルギー原子力」は期待と共に受け止められ、「鉄腕アトム」や「ゴジラ」といった作品も大ヒット。
正力がアメリカ広報局と共に手掛けた読売新聞社主催「原子力平和利用博覧会」は日本テレビで大々的に報道され、全国10か所で260万人以上の動員を記録したのです。原爆が投下された広島の平和記念資料館でも、このイベントは開催されました。
こうした報道に対して懐疑的であったり、批判的な世論も存在したのは事実です。1954年の「第五福竜丸被曝事件」が記憶に新しかった当時、放射能の危険性や被害が少しずつ明らかになっていました。
しかし正力はそれすら「莫大な力を持つ兵器が、新しいエネルギーとして利用可能なのだ」として、新宿伊勢丹の原子力PRイベントで第五福竜丸の”舵”を展示するなど、強気に世論へ訴えかけました。
結果、唯一の被爆国であった日本の世論は55年から56年にかけて、一気に原子力容認へと変化していったのでした。

戦後復興を遂げようとする日本社会の中で「原子力」は、ある種、明るい未来への力の象徴として受け入れられていったのでした。


4、まとめ
いかがでしょうか?
今回はおおよそ1945年から1950年代をまとめてみました。
原発の歴史を紐解くと、かなり壮大な思惑と野望の絡み合ったストーリーが見えてきます。

少し難しい部分もあったかと思いますが、気になった部分や感想などコメントして頂けたら、詳しくお答えもできると思うので気軽にして下さいね!

次回はその後、多くの事故などが明らかになる中、日本での原発の受け止められ方の変化などを追ってみたいと思っています。
では今回はこの辺りで、またお会いしましょう。


QoiQoi 大橋悠太




QoiQoiプロフィール
2018年2月9日に大橋悠太と吉次匠生によって結成されたアートユニット。 当初はano(アノ)として活動していたが、2020年10月1日より団体名を改めQoiQoi(コイコイ)として新たな活動を始めている。

また、「想像力を創造する」を信念に演劇、映像、インスタレーションなどさざまな分野を飛び越え作品制作を行う。団体名のQoiQoiもquality of imaginationが由来である。 また、社会問題から個人の体験まで幅広い事象を可視化し、常に観客に「当事者性」を提示する作品作りが特徴である。

このnoteでは作品制作のことを中心に、被災地のことや原発のこと、その他考えたことなど、読んでくれている方へなるべく為になるような記事や僕らをより知っていただける記事を書いていくことを目指しています。
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