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フリー素材鑑賞の世界〜呪縛からの解放〜

私は限界インハウスUIデザイナー。過去お世話になった、フリー素材をあらためて鑑賞する話をしていく。


陳腐を味わう

デザインの暴力

私はあまり裕福な家庭に生まれなかった。実家から脱出しデザイナーを始めて、こんなオーダーがあった。「もっと高級感を出して!」

知らねえよ!なんだよ高級感って!リゾートホテルのパンフレットの作成だったが、リゾートホテルに泊まった事もないし、当時、修学旅行以外で旅行をしたことがなかった。

仕方がないので、土日に東京から京都へ自費で旅行に行き、その辺のホテルに宿泊してみた。すると、パンフレットに載っている部屋がいかに高級なのか実感が湧いた。デザインはまとまったが私の感想はこうだ。いけすかない!

お金をもらっている以上文句は言えないが、毎日暗い地下鉄に乗りゴキブリが蔓延るボロアパートと会社の往復をし、精神的にも病んでいく。そんな生活の中で高級な物に接する機会なんてない。

そんなある日、ある場所に行く。驚安の殿堂ドン・キホーテ。安さ、安さのオンパレード。黄色!赤!黒!ピンク!蛍光色!高級感を感じさせる物なんて何もない。自分の繊細な感情・弱さを吹っ飛ばしてくれる。

色彩・フォント・レイアウト…視覚情報デザインの暴力。いけすかなかろうが何だろうが、やったれ!どんな手を使っても売り込めや!とバシッとしばかれた。感極まって涙が出そうだった。そんなショック療法で、そのままデザイナーを続けることができた。



夜の歌舞伎町は楽天

ドン・キホーテの暴力のおかげで、ゴキブリホイホイアパートから普通のアパートに引っ越し転職もした。

相変わらず暴力的で安っぽい物は好きで、しばらく中華料理店と風俗店が立ち並ぶ池袋北口周辺に住んでいたくらいだ。もちろん近所にドン・キホーテがあった。黄色!赤!黒!ピンク!蛍光色!落ち着く…

知人にもそういう刺激を好む人が多く、中華料理を食べに歌舞伎町に行った。ユニクロのフリースに適当なスニーカーを履いて。


UIデザイナーに転身したので、歌舞伎町の感想は「楽天だな〜」と思った。

暴力的だ。目が痛い。

そして、訳が分からないコピーの嵐。頭も痛くなってきた。こうやって疲れさせて、お金を使わせる高等テクニックなのかもしれない。(しかし、我々一行は美味しい中華を堪能して何事もなく解散した。)

高額な金額を使わせたいはずなのに、安っぽいデザインを出してくる。不思議で興味深い。


陳腐

あえて言ってしまえば、安の殿堂ドン・キホーテ、池袋北口周辺の街、歌舞伎町のデザインは陳腐である。

大量生産・大量消費、資本主義に毒され、効率!合理化!成果!成長!というカルト宗教に惑わされている。品がなく、洗練されておらず、みっともない。デザインとは真逆の所にあるように思える。

ここで前回の、自然主義に立ち返って見る。

鑑賞する態度として、2つの「自然」主義を挙げた。

  • 醜い人間の営みも含めて鑑賞する

  • 人間の営みからの解放の象徴として、素朴な趣を愛でる


私の、ドン・キホーテの暴力的なデザインの鑑賞について考えて見る。

〈醜い人間の営みも含めて鑑賞する〉

圧縮陳列でゴチャゴチャしてて息が詰まりそう。客のマナーが悪く治安が悪い、BGMがうるさい、BGMがなくても客の声がうるさい、カテゴライズがいい加減で目的の商品が見つからない、長時間探し物をすると体調が悪くなる、視覚的にも聴覚的にも余白がなく、余計な装飾が多く情報過多。これぞまさに「激安ジャングル」売る側も買う側も遠慮がない。

あそこは、買い物ではなく情報を浴びに行く場所だ。特に何の身にもならない情報を。そして、それが心地良くもあり、気分を害する醜いものでもある。その相反する感覚を楽しむ装置。それがドン・キホーテだ。

〈人間の営みからの解放の象徴として、素朴な趣を愛でる〉

また、品・常識・節度をわきまえろ、空気を読めという、社会の圧力への痛快な反抗とも取れる。社会が想定するモデルから外れて生きてきた人にとって、それは社会から押し付けられる価値観・呪縛からの解放でもある。

実際、ドン・キホーテはそこまで安くない。しかし、ディスカウントというコンセプトが貧乏人の心に刺さる。ここで言う貧乏とは経済状態のことだけではない。親ガチャで爆死したとか、社会不適合者であるとか、関係性・精神的に貧困状態であるとか…だから治安が悪くなるのだろう。しかし、その因果を考えれば、社会の爪弾き者の憩いのオアシスとして機能していると言える。

ドン・キホーテに行くだけで、自分の民度が下がったような感覚がする。言動に特に変化はないのだけど、あくまで気持ちの面で、マイナスの感情が内側ではなく外側に向く感じがする。ジャングルに居ると、野生的本能を刺激されるのかもしれない。そして、ちょっと元気になる。


キッチュ

キッチュとは、俗悪・いんちき・安っぽい・通俗的なものを指す言葉。

1939年の時点では、前衛を意味する「アヴァンギャルド」に対して、「キッチュ」は後衛を意味する言葉だった。(アヴァンギャルドとキッチュ (“Avant Garde and Kitsch”)ークレメント・グリーンバーグ)
前衛の例:アンディーウォーホル

しかし、大衆文化が芸術界で大きな存在感を放つようになって久しくなる、1960〜80年代になると、キッチュにたいして肯定的な見方と否定的な見方が混在する。


ジェフ・クーンズ

パーティを彩る動物型のバルーンという安価で軽やかなモチーフが、鏡面仕上げのステンレススチールによる巨大な彫刻となって現れるとき、低俗さと高級さ、純粋さと魅惑、はかなさと永遠という対極的なコンセプトが作品の中で重なり合います。

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1805

クーンズの作品は両極端の反応を受けている。「(『バルーン・ドッグ』は)最高の存在……非常に永続性のあるモニュメント」(エイミー・デンプシー編『Styles, Schools and Movements』2002年、Thames & Hudson)、「テクニカルな名人芸と目玉が飛び出すくらいの視覚的爆発で喝采を浴びた」(美術評論家ジェリー・サルツ[11])と絶賛する人々がいる一方、『ニュー・パブリック』誌(en:The New Republic)のマーク・スティーヴンスはクーンズのことを「彼は退廃した芸術家だ。自分のテーマや制作時の流儀をありふれたものにしたり、他と区別したりする以上のことをしようという創造性に欠けている。彼は趣味の良くない金持ちに仕える一人でしかない」と、また『ニューヨーク・タイムズ』紙のマイケル・キメルマンは「1980年代の最悪のものの特徴である、ある種の自己PRな売り込みやセンセーショナリズムの最後の痛ましいあえぎ」で「わざとらしく」「チープで」「厚顔無恥にもひねくれている」と切り捨てている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA

このように、人によって対照的な評価をされる。センセーショナルな物は面白いから仕方がない。


平成レトロ

センセーショナルといえば、Z世代という言葉もセンセーショナルだと思う。1990年半ばから2010年代生まれの世代をそう言うらしいが、範囲が広すぎるし、Z世代は〜Z世代は〜と言う人は、どう考えてもおじさんなのでアテにならない。

ここは素朴派に倣って、堅苦しい評論から解放されてみよう。平成レトロは好き?かわいい?ただそれだけ。年齢や性別、立場、他人の評価は関係ない。

平成は1989年1月8日〜。平成レトロは平成に流行した、POPでおもちゃみたいな様式。この中に「キッチュ」と言える要素を含む物もあると思う。


キッチュと低品質は違う

ここまでの話で、安っぽい・キッチュ・陳腐という事と、品質は別問題だということが見えてきたと思う。

キッチュが何かといえば、「ウチらのやってることに、なんか文句ある?」という態度だと思う。

キッチュの定義として「陳腐である」という表現もされるが、この点については注意する必要がある。単に陳腐なだけでは、それをあえてキッチュと呼ぶ必然性はないからである。あまりにも陳腐であるがゆえに、周囲の注目を集め、独特の存在感を呈するもののみがキッチュたりうる。

キッチュとは、「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」であろう。もしくは、「見る者」にとって異文化に属するものであったり、時代を隔てたりしている必要がある。「見る者」の日常性に近すぎると、新鮮味のない、陳腐な存在でしかなく、そもそも注意を引くこともない。キッチュの観点から言えば、「普通」であることは、キッチュとしての美的価値が不足していることを意味する。また、キッチュは、時間的な隔たりという点では、レトロ、懐古趣味と関連していることがある。

また、キッチュは、世界各地の伝統的・近代的な民芸品、人形、仮面、像、図像、幼児の玩具などに見られる。たとえば、マトリョーシカ、祭りの出店の面、庭に置かれるノーム(こびと)の人形、多神教の図像などである。赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴となる場合もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A5

ギャ…ギャルだ。ギャルの精神だ。ジェフ・クーンズはギャルなんだ、多分…。


フリー素材の態度

責任は負わない

さて、前回も書いたが、フリー素材の良さの一つとして、提供者の方の「作ったから、勝手に使えば?」という素っ気ない態度がある。

素材を利用することによって発生したトラブルについては一切責任を負いかねます。

https://www.irasutoya.com/p/terms.html

当たり前といえば当たり前だが、変なクレームを入れる人を未然に防いでいる。何でもかんでも責任を追求する世の中にはいい加減嫌気がさしていた所だ。


お客様でもなければ、神様でもない

消費者は「お客様」として、神様のように扱われると言う文化がある。しかし、フリー素材に関してはこれが適用されない。神様はどちらかと言えば提供者。この逆転した構図が好きなのだ。

何からも注文や文句を受け付ける必要がない、自由な環境で作成された物であるからこそ、素朴派の芸術と同じように、かわいさ・無邪気さ・純真さ・抜け感を感じる。

フリー素材のこのような態度には、ドン・キホーテや平成レトロやキッチュなデザインを愛でる精神に感じた、社会から押し付けられる価値観からの解放と同じ好感を抱く。


次回は、フリー素材の提供者が、なぜ素材を提供するに至ったのか、その経緯や思想をそれぞれ見ていきたい。


参考


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