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小説「テレキャスタービーボーイ」について

 ボカロの「テレキャスタービーボーイ」のノベライズを読んだ。僕は原曲のそれなりのファンのつもりなので、この本には満足な読書体験をもたらしてもらえた。しかしその一方で、原曲とも併せて考えて引っかかってしまうものがあるのも事実だ。考えてみる価値のある作品だと思う。
 原曲であるすりぃ「テレキャスタービーボーイ」は2019年に発表され、さらに翌年MVをリメイクしたlong.verがyoutubeほかに投稿されている。youtubeでは4500万回以上再生されている人気曲であり、あとがきを読む限りでは少なくとも一年前からノベライズの構想があったようだ。
 小説の内容は、原曲を多少聞いたことのある人間なら「あぁ……」と合点がいくようなものだと思う。コメント欄などでジェンダー問題をテーマにした作品ではないかという考察を多く見かけるが、ほとんどそれの答え合わせに近い話になっている。おそらくMVに出てくるのと同一人物と思われる二人の登場人物(飛鳥と楓月、二人ともそれぞれジェンダーバイアスに悩んでいる)が、周囲の無理解に直面しながらも共にバンド活動にいそしんでいく、というのが大まかな筋だ。
 別に小説としてのこの作品の評価に文句をつけたいわけではない。学校内での「男らしさ」の押し付け合いから、日本の前時代的な家庭制度まで、さまざまな形の「バイアス」を射程に収めている視野の広さは素直にすごいと思うし、視点を二つに分けている割に展開に混乱がない。正の字に関する描写など部分的に光る表現も結構あった。
 その上で僕が引っかかってしまったのは、弾き語りの動画でそんな早くSNSフォロワーを集められるはずがないとか、バンドメンバーの名前の都合の良さとか、そういうことではなくて、「加害者」の描写に関してだ。簡潔に言うと、この作品においてはバイアスのディティールやその加害者の描写に全くリアルさがない。僕は当事者ではないから、決めつけるなと言われればそれまでなのだけれど、それでもどうしても違和感を拭い切れなかった。
 当作において「加害者」にあたる登場人物(楓月のクラスメートの中山や島田、飛鳥の母親など)は、主人公たちを「お前はおかしい」とはっきりと口にして追いつめる。彼らの無理解に触れるたびに、楓月や飛鳥は生きづらさに苛まれるという流れが繰り返される。
 しかし、性的マイノリティを本当に追いつめているのは別のものではないか、と僕は疑問に思う。ジェンダー問題が「一応は」知られるようになった今日、当事者たちに面と向かって「お前はおかしい」と吐く人間は多分そこまで支配的ではない(むしろそういう連中をXで集団で吊るし上げてリンチする三下の方が、よっぽど多い)。もちろんネット上なら話は別だが、現実世界で面と向かってひどい言葉をかける人間はそれほど多くはない。それでも問題がなくならないのは、多くの人が「自分は理解者だ」と思い込んでいるにもかかわらず、実のところ自分でも気付かないうちにリテラシーの全く欠けた発言をしてしまっているせいだ。具体的に挙げるなら、ジェンダー志向をカミングアウトしたときあからさまに気を遣ってしまうとか、「自分なら分かってあげられるから」と無理に告白を迫るとか、そういうことだ。多くの人が何気ない言葉の端々に無理解を滲ませているからこそ(その上で「自分はジェンダー問題の理解者です」という面をしながら生きているからこそ)、そこにあるのが「悪意とも言えない悪意」だからこそ、当事者たちは追いつめられているのではないか。
 少し脱線して一例を挙げるなら、中島たい子の小説「建てて、いい?」は、そうした「無意識の悪意、差別」をかなり的確に描くことに成功している作品だ。主人公の女性が、自分一人のためのマイホームを建てようと奮闘するが、その途中で「一軒家は所帯持ちが持つもの」という、男女格差に基づいた世間の固定観念に直面する。ここで「加害者」を担当する主人公の両親や不動産屋は、はっきりと主人公を断罪するわけではなく、何気ない会話の噛み合わなさをもって主人公を追いつめる。要するにここでは、表面的には理解していても人々の根本に刷り込まれてしまっている固定観念こそが、マイノリティを追いつめるのだという現代的な問題が描かれている。
 こうした視点が、「テレキャスタービーボーイ」にも必要だったと思う。確かに、中山や島田や飛鳥の母親は、「お前男だろ」「女なんだから結婚しなさい」と直接的に主人公たちを断罪する役でもよかったが、それよりも主人公との何気ない会話の中でポロっと無理解を露呈してしまう役回りだった方が、もっと的確な「マジョリティの暴力」たり得たのではないだろうか。「私は加害者です」と額に書いたような人間をマジョリティとして描いても、(三十年前とかなら先鋭的だったのかもしれないが)本当の意味で現代的な作品にはなり得ないのだ。本当に怖いのは、積極的に石を投げることもない代わりに石を投げることをなし崩しに肯定している「ふつうの人」なのだから。
 このリアル感のなさは、このノベライズが「自己批評」ではなく単なる「自己解説」に留まってしまっていることに由来している。完成度の高い小説「テレキャスタービーボーイ」だが、原作と違うフォーマットだからこそ描ける内容があったかと訊かれれば、残念ながらNOと答えざるを得ない。もちろん、ノベライズである以上元々「自己解説」のつもりで描かれた作品ではあるのだけれど、問題は原曲にあった課題を小説という手段で解決できず、そのまま持ち込んでしまっているということだ。
 原曲「テレキャスタービーボーイ」は、(歌詞の観点から見れば)マジョリティがどのようにマイノリティを追いつめているのか、全く示唆されていないことが難だった。歌詞の内容は要するに、「自分たちに価値観を押し付けようとする世間は無視して自由に生きよう」というもので、だからこそ加害者の声なんかには耳を傾けない(=加害者の描写を減殺する)という趣旨なのだろうけれど、それでもやはり独善的ではないかという感想は否めない。
 しかし、こうした欠点があっても、原曲の時点ではまだよかったのだろうと思う。なぜなら、歌詞の足りなさやしょうもなさを音の力で誤魔化すこと「も」、音楽の役目であるからだ(もちろん、そうではない作品もいくらでもある)。
 だが小説であれば話は別だ。小説ではそうした足りない要素についてもしっかり描写/説明する必要がある。そうでないと読者を誤魔化しきることができないからだ。しかし小説版「テレキャスタービーボーイ」は、原作と同じ「加害者の描写が欠如したマイノリティ文学」という図式をそのままコピーしてしまった。その結果、原曲ではあまり目立たなかった、「加害者に関する説明不足」という欠点が顕在化してしまっているのだ。
 繰り返すが僕は「テレキャスタービーボーイ」のファンであり、このノベライゼーションについても支持する立場だ。しかしだからこそ、この作品が二次創作の特性を利用した「自己批評」ではなく、ファン受けのいい「自己解説」を選んで終わってしまったことには、ここでこうして疑問を呈しておく。

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