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「アドロイド」から「ボカロとしてのAdo」を考える

 てにをはによる「アドロイド」を発売当日に買って読み通した。僕は歌い手のAdoのファンで、おそらく上の下には入るくらいの熱心なリスナーではないかと自負しているので、前提としてこの本の発売は正月とクリスマスが一緒に来るのに匹敵する慶事だった。
 その上で、ファンとしての感情を排してこの作品の批評をする。結論から言うと、「アドロイド」は紛うことのない傑作だ。ファン受けの良い楽曲の「自己解説」で満足せず、二次創作の特性を生かした「自己批評」になっている。「ボーカロイド」という営為を考える上で大きなヒントを与えているが、その一方で、新たな問題もまた浮かび上がらせている。以下、詳しく書いていきたいと思う。

「前世譚」への違和感

 Adoオタクとして語りたいことは山ほどあるが(個人的には彼女が「あたしゃ」と言っているのがポイントが高かった)、ひとまずそれは横に置いて話を始めよう。まず僕は、この作品の情報が公開され、「前世譚」として紹介されているのを見た時から、ちょっとした違和感のようなものを感じていた。というのも、Ado自身の歌に対する捉え方と一致しないように思えたからだ。Adoは自分の歌う歌が私小説的に解釈されること(当然それは、代表作の「うっせぇわ」を聴いて、Ado本人が乱暴な人間だと誤解している浅薄な人間のことだ)に対して度々違和感を表明している。僕は発売前の時点では、「アドロイド」が、歌の主人公たちの物語がAdoの前世として描かれる‥‥‥という内容だと勝手に想像しており、「これでは歌の主人公=歌い手という誤解を助長するじゃないか」と思っていたのだ。
 しかし、僕は間違っていた。確かに歌の主人公たちがAdoの前世として描かれる、というのは事実なのだけれど、思っていたよりも提示された概念は深くて、Adoが歌の主人公たちの同朋のような存在として描かれていたのだった。

「オートロイド」はボカロの比喩

 どういうことかを説明するために、ここで少し「アドロイド」の内容を紹介しておく。主人公の「アド」は、記憶をなくした状態で「エルゥエル島」に漂着する。そこは人間同様の感情を持つ機械仕掛けの「オートロイド」が暮らす島で、「アド」は「ウル」「メイ」「ラギ」「オド」というオートロイド(それぞれ「うっせぇわ」「レディメイド」「ギラギラ」「踊」に基づいている)と親しくなり、アド自身もその一員であることが分かる。オートロイドは人間とは違って(意志を持ってはいても)プログラムされた通りにしか行動できないが、アドは自然にオリジナルの歌を作るという(通常のオートロイドにはない)一種の才能を持っていることが判明する。さらに、弾みで鉄柵を溶かしてしまったことから、鉄を変形させる能力があることも判明する。
 その後、オートロイドを敵視する人間たちが島を襲い始める。まずアドは謎の集団に攫われて解体されかけ、脱出したと思ったら島全体が爆撃を受けているところに出くわす。混乱の中でアドは覚醒し、自身の鉄を溶かす能力を制御できるようになる。アドは四人と合流し、しばらくの邂逅の後、アドの正体が島を壊滅させるために開発された殺戮ロボットであり、それにとある少女の意識が付与された存在であることが明らかになる。二回目の爆撃が始まる中、アドは歌の能力、鉄の能力を利用して海から襲撃してくる殺戮ロボットを退けることに成功し、そのまま意識を失う。
 目覚めたアドはみんながよく知るAdoである。クローゼットでの録音中(それも、初めてのカバー動画「君の体温」の録音中!)にうたた寝をしていたらしい。そんな彼女が島での思い出のデジャブに襲われるところで作品は終わる。
 名前からしても明らかなことだが、この作品の「オートロイド」はどう見てもボーカロイドの比喩である。前述のとおりオートロイドはプログラムされたことしかできない(打ち込まれた歌詞しか歌えない)。そして、ここでは歌い手としてのAdoと、ボーカロイドとしての歌の主人公が(歌を作り出せるか否かという違いはあるものの)等しい存在として描かれている。つまりここでは(というか、「アドロイド」というタイトルが全てを表現しているのだが)Adoがボーカロイドに近い機械的な存在だという概念が提示されているわけだ。

「人間のようなボカロ」ではなく「ボカロのような人間」

 Adoがボカロのような存在だという比喩は、彼女の幅広い歌を歌いこなす活動を振り返ってみればとても自然なことだ(「うっせぇわ」と「会いたくて」と同じAdoが歌っていることを考えてもらえれば真意は伝わるだろう)。だが、ボーカロイド文化全体で考えてみたとき、この概念は批評性を帯びてくる。それは、ボカロを人間に近づける努力だけが試みられてきたボカロシーンに、人間の方がボカロに接近するというカウンターを突き付けていることだ。
 今までボカロ界では、「ボカロがシンガーとしての人間的な感情を歌う」という内容の歌詞(「初音ミクの消失」「のだ」)、あるいはボーカロイドを無垢な存在として解釈する内容の曲(「ロミオとシンデレラ」「テレキャスタービーボーイ」)が多かった。それに対して近年のボカロPたちは、ボカロを人間的なものと機械的なものの混在した存在として捉えるカウンターに大童になってきた(「ヴァンパイア」「神っぽいな」)。
 この風潮に対し、ピノキオピーはボカロの側が人間に近づくという発想に縛られており人間中心的なものではないかという疑問を呈している(1)。僕も、あくまでボカロが「歌わせる」装置であることを忘れて、都合のいい視聴者への思いを歌詞にして満足している「初音ミクの消失」や「のだ」のような作品には、申し訳ないが身勝手なマッチョさと思考停止しか感じない。だが、「アドロイド」はボカロ側ではなく人間側からのアプローチをとりあえずは体現したと言っていいだろう。
 つまり、どんな歌も変幻自在に歌いこなすAdoを一種のボーカロイドとして描くことで、人間の側からボーカロイドに近づくという努力が「アドロイド」では試みられているわけだ。これは「人間」と「ボカロ」の関係を考える上で大きな手掛かりになるだろうし、同じように情報社会論の立場から人間中心主義に疑問を呈する落合陽一の「デジタルネイチャー」あたりと接続して考えることもできるだろうが(2)、僕には一つ引っかかってしまったことがある。

Adoに「歌わせる」存在の不在

 それは、「アドロイド」が、Adoと歌の主人公との関係には大きく踏み込んでいても、彼女と歌を作る人間との関係には全く踏み込んでいないという点だ。当然だが提供してもらった歌詞を「歌うだけ」であることはAdoの大きな特性である(yama、P丸様。といった歌い手・ネット出身のシンガーの多くに言えることだが、エポックさで突出しているのはAdoだ)。しかし、「アドロイド」においては、Adoに歌を「歌わせる」存在は全く示唆されない。そのことに、僕はこの作品の良し悪しとは別に物足りなさを感じてしまった。
 Adoが歌を歌う時、おそらくそこには三層の構造が存在している。作詞者ーAdoー歌の主人公という構造だ。例えば「ギラギラ」なら、てにをはーAdoーラギという三つの段があると考えられる。「アドロイド」はこのうちAdoと歌の主人公の関係にフィーチャーし、両者を等価に描くことで人間の方からボーカロイドに接近する可能性を示した。しかし、もう一つの作詞者ーAdoの関係は全く顧みられていないのだ。
 もちろん、Adoや他のオートロイドにプログラムを施し、侵略する存在としての人間が設定されてはいる。しかしそれはあくまで物語上の都合による仮想敵のようなものであって、創作として何かを生み出しているわけではない。無論、人間の侵略者=作詞者というようなメタファーをやったら名誉棄損以外の何物でもないだろう。しかし、「歌わせられる」存在としてのウルやラギの対極に、「歌わせる」側としてのボカロユーザーや作詞者を対峙させなかったことで、この作品は可能だった射程をかなり短くしてしまったのではないかと思うのだ。
 (歌う存在としての)Adoと、(歌わせられる存在としての)ウルやラギたちとの関係を描いたのは、「アドロイド」の大きな達成だ。しかしAdoをボーカロイドと等しい存在(「歌わせられる」存在)として描いたとき、そこには「歌わせる存在」としてのボカロPや作詞者との対立が浮かび上がってきてもいいはずなのに、恐ろしいほどその辺が空っぽだ。

100%ではない自己批評

 僕は思う。もう少しのさじ加減で、「アドロイド」はボカロユーザーたちを深く批評で貫く作品になれたのではないか。オートロイドたちを侵略する人間に、機械に自分たちのマッチョをくすぐる歌を歌わせることに対するフェティッシュのようなものがあれば(描かれていれば)、「アドロイド」は前人未到の自己批評になり得たのではないか。
 多分、この作品は最後の最後で、いわゆる「安全な痛さ」に逃げてしまったのではないかと思う。ボカロPたちが採用しがちな「人間のようなボカロ」ではなく「ボカロのような人間」という概念を提示したはいいが、ボカロに自分たちのマッチョを肯定してくれるような歌を歌わせる消費者たちを批評的に抉りだす可能性には背が向けられた。要は「ボカロはどうあるべきか」はしっかり描かれてはいても「人間はどうあるべきか」が不十分なのだ。
 もちろん、「ボカロのような人間」を提示した手柄だけでも、「アドロイド」は脱帽すべき作品だと思うし、本当はないものねだりをして上に書いたような批判をすることも間違っているのだろう。しかし一つの重大な問題が、ほんのわずかな距離で指先をかすめてしまったことは確かなのだ。これは作品が良い、悪いという問題とは違う。もし続編が出ることがあるならば、「ボカロを使役する人間」の側の自己批評をこの作品に期待したいと思う。

(1)「スピン/spin」第7号、河出書房新社
(2)落合陽一の「デジタルネイチャー」は、人間が機械を(感覚的に)身体の一部も同然のものとして使うようになることで、近代的な人間中心主義からの脱却を図る概念だ。「アドロイド」に登場する、機械のような存在(ボカロ)として歌うAdoは、まさしく「デジタルネイチャー」の人間と機械の融和を図るコンセプトに符合している。実際落合自身も、ボーカロイド文化に対して「不完全であるがゆえに完全」だとメディア社会学者の立場から言及している。

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