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YOASOBIの「狭さ」

 今回はYOASOBIの曲に付き纏っている奇妙な「狭さ」について書いてみたいと思う。
 初めに前提として言っておくが、僕は一ファンとしてYOASOBIの曲は大好きだし、音MADの原曲としてたびたびお世話になってもいる。批評対象として見ても、とても偉大な作家であると考えている。僕は語ることのできるほどの見識を持っていないが、音楽的な見地からは賞賛すべき点がたくさんあるはずだし、タイアップ作品の特徴を的確に掴む能力、「小説を音楽にする」という手法を通したジャンルの越境も評価されてしかるべきだろう。
 しかし、ここではそうした賞賛の言説とは距離を置いて、歌詞とMVの分析から僕の考えるYOASOBIの音楽性に迫りたい。簡単に言うと、YOASOBIの曲には独特の「狭さ」のようなものがあって、それは現代日本の病巣をダイレクトに体現しているように思えるのだ。
 僕が思うYOASOBIの特徴は二つある。一つは「露悪的なタイアップ作品への依存」であり、二つ目は「当事者性の肥大した厨二病的感性」だ。二つ目は一つ目を前提として成り立っており、一言でまとめるとYOASOBIの音楽性は「原作やタイアップ作品の本質を厨二病的に読み替える」というものに尽きる。
 一つ目に関して、まずYOASOBIの曲は概して(内容的には)タイアップ作品や原作小説をどれだけ正確にコピーできているかで評価が決してしまう。もちろんこれはYOASOBIの長所でもあって、原作の要素を適切に抽出し、リスペクトと個性を込めて歌に乗せていくのは誰にでもできることではない。しかし、「アイドル」や「勇者」からそれぞれ「推しの子」と「葬送のフリーレン」を引き算して楽曲が成立するかと訊かれれば、そんなことはないと僕は答えざるを得ない。
 これは近年の日本の音楽市場の傾向に繋がる問題だ。例えば2023年現在のyoutube上のJ-POP再生回数ランキングは、一位が米津玄師「Lemon」、二位が米津玄師×DAOKO「打上花火」、三位がOfficial髭男dism「Pretender」となっているが、これらはいずれもドラマや映画の主題歌として制作されたものだ。これらに限らず、「一年のヒット曲」を振り返ればそこには映画・ドラマ・アニメの主題歌がかなりの領域を占めていることが分かるだろう。誤解しないで欲しいがタイアップ自体を悪く言いたいわけでは決してない。だが、それらの音楽的見地からの評価を横に置いておくと、「タイアップ作品や原作小説の本質をどれほど的確に、作家の個性を交えて表現できているか」で評価が決し、(特にyoutubeのコメント欄などで)「作品に合わせつつ個性を失わないの凄い」という類の称賛ばかりが飛び交い、原作の要素と歌詞とを上手に結びつけられた者がポイントを獲得するという不毛な現象が起こっているのだ。
 YOASOBIの曲もこの潮流に含まれるものと考えてよい。しかしYOASOBIはここから一捻りしていて、タイアップ作品と結び付けて評価するユーザーたちを良くも悪くも利用したメタ的な楽曲を発表している。そのためのギミックの一つとして、YOASOBIのMVにはタイアップ作品のキャラクターが平然と登場する。「怪物」「祝福」「アイドル」「勇者」のMVを見れば、それぞれ「BEASTARS」「機動戦士ガンダム 水星の魔女」「推しの子」「葬送のフリーレン」の登場人物たちがそのままの姿で躍動しているのを目にすることができる。明らかにYOASOBIは自分たちの曲がタイアップ作品との結び付けで評価されることを自覚していて、その大喜利ゲームに勝てるように露悪的に原作への依存度を高めているのだ(この傾向は本家OPのMAD動画と見紛うようなEve「廻廻奇譚」にも指摘できる)。
 次に、僕が主に述べたいのはこちらの方なのだが、YOASOBIはある種の「狭さ」を持った人間観をもって歌詞を作っている。これはYOASOBIの人間観が貧しいといった批判とは別問題で、簡単に言えば「ボクとキミ」、そして絶望的な「セカイ」しか存在しないセカイ系的、厨二病的な世界観を前面に押し出している。もちろん、「たぶん」「あの夢をなぞって」「大正浪漫」「祝福」などの反証を挙げることは可能だ。しかし、少なくともYOASOBIの代表曲として認識されている「夜に駆ける」「怪物」「アイドル」に関しては、この厨二病的な感性が根底にあるように思えるのだ。
 YOASOBIのデビュー作となった「夜に駆ける」は、身も蓋もなく言ってしまえば「世界に絶望した男女が自殺を選ぶ」という流れになっている。星野舞夜による原作「タナトスの誘惑」は、単にタナトスに誘惑される女性と主人公が死を共にするという話だが、これをYOASOBIはさらにセカイ系的な捻りを加えて解釈している。つまり、原作ではわずかにしか触れられていない、主人公の男女の外部にある「絶望的な世界」(「タナトスの誘惑」では主人公がブラック企業に勤めているという設定で示唆されているだけだ)が、「触れる心無い言葉うるさい声」「騒がしい日々」「変わらない日々」といった歌詞で補強されているのだ。YOASOBIが良くも悪くも原作小説やタイアップ作品をどれだけ的確に表現できるかを重視していることは先ほど述べた通りだが、その「再現」の回路は「「キミとボク」と「セカイ」」という二分法によって成り立っていて、これがYOASOBIの作家性の大きな中核を形成している。
 次に2021年にアニメ「BEASTARS」の主題歌として制作された「怪物」は、「夜に駆ける」のラストの「死」を「生」に反転させたものと考えればよい。僕は「BEASTARS」という作品を全く知らないのであまり踏み込んだことは言えないが、本質的な回路は「夜に駆ける」と同じものを備えていると思う。主人公は、「間違いだらけの世界」で、「君には笑ってほしい」「もう誰も傷付けない」「僕が僕でいられる」ために生きる。ここでも、「「キミとボク」と「セカイ」」という単純な図式を見ることができる。
 そして、このYOASOBIの世界観がこれ以上ないほど的確な使われ方をしたのが、アニメ「推しの子」の主題歌である2023年の「アイドル」だ。漫画「推しの子」は、芸能界に蠢く人々の群像劇を「芸能界の人間/ネット民・オタク」という単純な対立図式を基に駆動させていく作品であり、その二分的な世界観はYOASOBIと大いに通じるところがある。「アイドル」が半年も経たずにYOASOBI最大のヒットに上り詰めた一因に、この組み合わせの適切さが存在しているのは間違いない。
 ここでのYOASOBIは「推しの子」ではなく原作小説の読み替えに注力している。まず両作品の違いとして、「推しの子」はアクアやルビーたちが業界で活躍していく展開にウエートが置かれているのに対し、「アイドル」及び赤坂アカによる原作小説「45510」でクローズアップされているのはアニメ第一話のキーパーソン・星野アイ(アクアたちの母親で、伝説的なアイドル)であることが挙げられる。「45510」はアイと同じグループで活動していたアイドルの視点から、彼女の「完璧さ」とその内奥にある「皆と仲良くしたい、という本音」が描かれる作品だ。主人公のアイドルがアイの「本音」の記録を消し去ってしまうラストには、自分の信じるものを偶像に押し付けて偶像本体の個性を無視してしまうファンへの痛烈な批判がある。
 「アイドル」はこの展開を、視点をアイに戻して読み替えた。「孤高のアイドルとその本音」というモチーフ自体は継承されているが、その本音が単に「アイドル仲間と仲良くしたい」ではなく「子供(アクアとルビー)を愛したい」というものに変更されている点にポイントがある。つまり、仲良くする対象がアイドル仲間から家族へ、よりドメスティックなものに変化しているのだ。このセカイ系図式に持ち込むためにYOASOBIは(原作小説を改変して)アイの子供たちへの愛情にクローズアップしたと言える。
 同じ2023年の「勇者」にも少し触れておきたい。タイアップ作品である「葬送のフリーレン」は、1000年以上生きる魔法使い・フリーレンの旅を通して、「推しの子」とは対照的な「外に広がりを持つコミュニティ」を体現する作品だ。さすがに「アイドル」ほどの独善性は影を潜めているが、しかしYOASOBIはフリーレン一行の関係をややドメスティックに偏った関係として解釈している。つまり、根底にある本質的な感性自体は「アイドル」と全く変わっていない。

 三曲(四曲?)のみを根拠にYOASOBIの本質を厨二病だと断じるのは危険かもしれない。先ほど述べたようにどちらかというと反証の方が多いので、厨二病とセカイ系はYOASOBIという作家の広い特性の中の一側面でしかないだろう。しかしそうだとしても、厨二病とそれ以外を比べて圧倒的に厨二病の曲が支持を集め、音楽に縁の無い層にまで浸透していることには、無視できない意味があるように思われる。かつて宮台真司が主張したように、現代社会は小規模で閉鎖的なコミュニティの集合でできており、コミュニティ内部での正義を構成員同士が主張し合って違う社会同士の不毛な争いが引き起こされる。この構造に無自覚に乗っかって、閉鎖的な集団にこもることを肯定する作品は一定数あり、大きな支持を得ている‥‥‥そう、「夜に駆ける」や「アイドル」のように。
 YOASOBIはこの構造におそらくは自覚的だが、自覚的であるが故に、あえてドメスティックな「狭い」関係を無批判に賛美する人々に受けるような曲を作り、良くも悪くも結果的にそれがヒットするという現象を起こしているのだ。
 そして僕は個人的には良いか悪いかで言えばこれはあまり良いことではないと考えている。「夜に駆ける」「怪物」「アイドル」には、(完成度の高い作品であることは大前提として)ネット社会の一番良くない部分がそのまま表れてしまっている。「アイドル」でドルオタのネット民を批判しながら、本質的にそのようなネット民たちと同じことをYOASOBIはしてしまっているのではないか、と僕には思えてしまうのだ。
 YOASOBIがそこから脱出するためには、例えば「推しの子」の閉鎖的なアイドル業界を批判的に描いたり、「葬送のフリーレン」の開かれた関係をピックアップしたりするような新しい視点が必要だ。ネット民の共感は得られないかもしれないし、商業的に失敗するかもしれない。というか、YOASOBIの個性が大きく失われてしまう結果にもつながりかねないだろうから、僕の言っていることはいわゆる「アイスクリームに「冷たい」と文句をつける」ことかもしれない。しかしそれでも、僕はYOASOBIに、ドメスティックな関係を歌う曲以外でJ-POPにセンセーションを巻き起こしてほしいと思う。それは今日のネットで進行しているコミュニティ同士の不毛な争いへのささやかな抵抗になるはずだ。


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