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「名探偵コナン 100万ドルの五稜星」から「ポスト黒鉄のコナン映画」について考える

※念のため、ネタバレ全開なのでまだ観ていない人は読まないでください。


 「名探偵コナン 100万ドルの五稜星」を公開初日の夜に観てきた。僕は小4の頃からのコナンファンで、評価に色眼鏡が入ってしまうかもしれないが、「コナン映画」として考えればまあまあ面白い作品だと思う。もちろんストーリー的にふざけるなと突っ込みたくなる部分はいくらでもあるけど、この種の粗雑さは当シリーズでは今に始まったことではないので、(コナンファンなら)最初から欠点探しを目的として観ない限りは満足できる作品だと思う。
 「面白かった、はい」で済ませられる(というか済ますべき)映画なのだが、30年弱も続いているコナン映画全体を考えてみる上で、案外この作品は要石的な作品に(良くも悪くも)なる気がする。少し考えたことをまとめてみたい。

「黒鉄の魚影」の次作として

 僕がこの作品を見ている間中考えていたのは、(多くの人がそうだろうが)去年のあの作品を経てしまったコナン映画はどうなるのか、ということだった。
 おそらく、「黒鉄の魚影」を見て、コナンを多少なりとも知っている人なら誰もが、「これはとっておきの切り札を使っちまったな」と思ったはずだ。メインヒロインよりも人気のある(泣)灰原を実質的な主役に据えることで、コナン映画史上最大のヒットを成し遂げたのが前作だった。
 それだけに皆、次作であるこの作品をどう展開するのか(「黒鉄の魚影」を超えられるのか)、意地悪な期待と共に劇場へやって来たと思う。そして、僕のような「俺たちが楽しめればいいのだ」というコナンファンは満足して帰宅できたと思う(レビューサイトを見る限りはそうだ)。
 なぜか。もちろん、最後のアレのせいだ。キッドの父である黒羽盗一が工藤勇作の兄弟であることが半ば明示され、作中コナン達と終始同行していた刑事は盗一の変装だったと明かされて映画は終了する。劇場内が明るくなってから、早くも興奮気味の声で考察合戦が始まったことを覚えている。
 逆に言うと、最後のアレがなければ、この作品はどうなっていたか分からない。詳しくは書かないが、確かにストーリー自体が過去一レベルでひどいことは間違いない(何ならアニメ放送されたプレストーリーの方がしっかり謎解きしている)。ミステリー要素の空疎さ粗雑さを原作の伏線で全部カバーしようと試みた、例えるならあんこの不味さを苺の甘さで全部打ち消そうとしている苺大福がこの「名探偵コナン 100万ドルの五稜星」だ。
 これも今に始まったことではなく、「異次元の狙撃手」あたりから徐々に見られた傾向だ。そしてその傾向が、「100万ドルの五稜星」ではかなり純化されて引き継がれている。

そもそもコナン映画とは何か

 ここでコナン映画の役割の移り変わりをざっと振り返ってみたい。最初の「時計仕掛けの摩天楼」が公開された1997年、コナンはまだ黒の組織関連の動きも少ない中堅推理漫画だった(原作ではまだせいぜいテキーラが登場したくらいだ)。だからその番外編として、原作ではお目にかかれない爆破や爆破や爆破、ロマンスを提供する劇場版のフィールドが作られたわけで、実際初期作品はそうして機能していた。
 しかし原作でFBIが出てきた2003年あたりから、原作の動きもだんだん派手になってきて、映画の方は倦怠期を迎えてしまった。そこで素材の新しさにフィーチャーし始めたのが2004年前後からで、飛行機(銀翼の奇術師)、豪華客船(水平線上の陰謀)、海賊(紺碧の棺)、音楽(戦慄の楽譜)、ホワイトアウトのパクり(沈黙の15分)、サッカー(11人目のストライカー)、亡国のイージスのパクり(絶海の探偵)と続いた。
 しかしこの路線も今ではマンネリ化している。そこで運営が最終手段として持ち出したのが、原作の伏線をサービス的に作中に紛れ込ませるという視聴者受けのする手法で、おそらくそれが最初に使われた「異次元の狙撃手」では当時原作の争点となっていた赤井秀一=沖矢昴説がほぼ確定される演出が挿入された(そして狙い通りにファンを騒がせることに成功した)。‥‥‥それでも「異次元の狙撃手」は謎解き面にもそれなりに重心が置かれていたが、今、本来はサービス的なものだったはずの「原作の伏線」が、今では謎解きとどちらがメインか見分けがつかないほどの重いものになってしまっている。子供がおまけ目当てでお菓子を買って食べずに捨ててしまうというのと同じ現象が、コナン映画でも起こっているのだ。
 要するに近年のコナン映画は、ストーリー面での改革を半ば諦めた制作陣が、自虐的に無内容なストーリーを原作の伏線でカバーし続け、これに対し観客側もストーリーに期待することを半ば諦めて、視聴者サービスを楽しみにして劇場に足を運ぶ、という流れを構築している。制作陣と観客の間で一種の共犯関係が作られているのだ(ストーリー面での幼稚園児でも分かる批判をレビューサイトにドヤ顔で書き込む人を除いて、だが)。

自虐としてのファンサ

 そして重要なのは、この共犯関係が露骨なまでに純化された「100万ドルの五稜星」が、「黒鉄以後のコナン映画はどうあるべきか」の答えとして提示されてしまったことだ。つまり制作陣は、灰原という最強のカードを切ってしまった今、ファンサで作品を成り立たせるしかないという告白をこの作品でしているに他ならないのだ。
 もちろん、これを悪いことと一概に言い切ることはできないだろう。ファンサービスに特化することによりコアなファンを確実に留める効果を上げていることは間違いないし、だから「100万ドルの五稜星」が駄作だという話でもない。しかしそれでも僕は、こうした事実上無内容な作品でお茶を濁すのはどうなのかと思ってしまう。「コナン映画」としてではなく「映画」として面白い作品が観たい「とも」思ってしまう。
 別に僕はコナンを社会派推理コンテンツに改造しろと言いたいわけではない。ただ、クレしんで言えば「オトナ帝国の逆襲」のように、様式美的な展開の中にメッセージ性(?)のようなものを一つまみ入れてもよいのではないか。

「面白いコナン映画」ではなく「面白い映画」

 過去作をそういう観点で見直したとき、一番「映画」として面白いのは「ベイカー街の亡霊」だろうが(日本の社会構造への批判めいた描写がある)、「100万ドルの五稜星」の中にもその種のポテンシャルは潜んでいたように思う。
 例えば謎解きの核になる函館のお宝探しは(ほぼ「ゴールデンカムイ」のパクりだが)伝奇色を濃くしようと思えば濃くできるだろうし、聖が医者になるという夢や剣道への情熱を捨てて宝を破壊する計画に邁進する様に、服部が遺憾の意を述べるシーンがあるが、これも深掘りすることはできるだろう。
 何が言いたいかというと、コナン映画は「黒鉄の魚影」を経てしまった今、単にストーリー+観客サービスで終わるのではなく、ストーリー+a(+観客サービス)を目指すべきではないか、ということだ。その+aが、友情努力勝利といったありふれた陳腐なテーマであっても、空疎なストーリーを観客サービスで誤魔化すよりはずっと「開かれた」作品になるだろう。
 どんなコンテンツでも、狭いファン層を相手にし過ぎる作品は(商業的には成功しても)作品としてはある種の痩せを見せてしまう。これはコナン映画にとっても、「ポスト黒鉄」の今、一考を要する問題だと思う。


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