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大漠波新「のだ」から2020年代のボカロを考える

 ちょっと前に「のだ」というボカロ曲が(一部で)話題になった。コメ欄とかで必死で考察している人には申し訳ないのだけれど、僕はあまりこの作品を評価できない。できないがしかし、この「のだ」はボーカロイドの十五年強の歴史全体のクリティカルポイントを考える上ではそれなりに良い素材になってくれると思う。以下、「のだ」という作品の功罪について書いてみたい。
 簡単にこの曲の背景について説明しておくと、「のだ」は大漠波新によって2023年11月6日、ニコニコ動画(及びyoutube)に投稿された、ずんだもん・初音ミク・重音テト歌唱のボカロ曲だ。特筆すべきは「無色透明祭」という、「アーティストが持つ話題性や知名度ではなく純粋に音楽のみを楽しめる機会をつくるために「匿名」で投稿することをテーマとした音声合成ソフトの投稿祭」への参加作品であることだ。つまり「無色透明祭」の趣旨通り、新人の投稿作品が多くの支持を獲得した好例として「のだ」は位置づけられる。
 もっとも、今回内容にしたいのはそうした背景ではなく歌詞とテーマについてだ。簡単に言うと、「のだ」は(歌詞の面では)ボーカロイドの欺瞞を暴き出した上で、それをどう乗り越えていくかということをテーマにしている。歌唱を担当し、MVにも登場するずんだもん・初音ミク・重音テトは、それぞれキャラクターとして歌わされたり使われたりすることの苦悩を歌う。ずんだもんも、ボーカロイドとしてのミクとテトも、ニコニコ動画他の二次創作のフィールドで散々原形を変えられて遊ばれた存在であり、派生形がネット上に氾濫状態になっていることから来るアイデンティティ不安を「何がありのままなのかわからない」と歌う。しかし最終的には、「これがありのままなのだ」と本当の自分をさらけ出し、「こんな姿をずっと愛してほしい」と視聴者に呼びかける。
 この作品のテーマ自体はボーカロイドという営為の本質をある程度適切に捉えたものと言える。「ボーカロイドの真の姿は何なのか」という問いは、初音ミクの誕生から十六年が経った今、どうしても出てくる問題だ。東浩紀のデータベース理論を参照するまでもなく、初音ミクのビジュアルや形態、設定は相当に散乱している。製作者が必要最低限の設定しか付けていないこともあり、曲によって初音ミク(に模された主人公)がどのような存在として描かれているかは大きく異なっている。発売時の姿こそがミクの真の姿だと言うことはできるが、僕のようなボカロの黎明期を知らない消費者からすれば、「初音ミク」と聞いて思い浮かべる姿は聞いた曲により人それぞれになってしまうはずだ(僕の場合はDECO*27の「ヒバナ」だ)。その形態の多様化を「初音ミクのアイデンティティ不安」として描き出そうとしたのが「のだ」というわけだ。
 コメント欄はその野心的な試みへの賞賛と考察で埋まっている。僕も同感だ。しかし、その試みが実を結んでいるかということになれば、どうもあまり上手く行っているとは思えない。「のだ」はボーカロイドの「ありのまま」を明らかにしようとしながら、そもそも現状把握の時点で全くボカロの現実に追いつけていないというのが僕の感想だ。簡単に言うと、

・ボカロはどう頑張っても「歌わされている」
・ボカロのアイデンティティ不安は同時にボカロ文化の発展にも寄与しているから一概には批判できない

という二つの大きな問題を、「のだ」は見逃してしまっているのだ。
 この「のだ」におけるボーカロイド文化自体への批評は、はっきり言ってしまえば自分たちが安心して初音ミク(とずんだもんと重音テト)をポルノグラフィとして使えるようにするための言い訳程度のものとしか機能していない。「のだ」は、ボーカロイドたちが「ありのまま」と称して従来と大して変わらない姿をMVでさらす時点で満足して完結しているが、本当に暴くべき問題はもっと先にあるはずなのだ。
 ボーカロイドはバーチャル歌手としての性質上、都合よく男性に求愛する歌詞も、もっと言えば性的に求愛する歌詞も歌わせることができる。実際にボカロ初期の「ロミオとシンデレラ」「炉心融解」「マトリョシカ」といった歌詞はボーカロイドにご都合主義的な女性像(男性的なものの愛を求める無垢な少女)を重ねた作品だ。そして当然のことだが、ボカロには「のだ」にあるような、「ありのままの私を愛して」という歌詞だって歌わせることができるのだ。要するに、ボーカロイドがどんな歌詞を歌ったところでそれは作者が「歌わせている」に過ぎず、「ロミオとシンデレラ」的な性搾取以上のものではないのだ。「歌わせられている」という制約をどうやって越え、作者の欲望ではなくボカロの特性を前面に出した作品を作るか、というのが2020年代ボカロの課題だ。
 もちろん、この2020年代の課題をテーマに据えていないからダメだとか、そんな批判をしたいわけではない(あくまで、それを意識すればもっと可能性を開けるという程度のことだ)。しかし「のだ」は明らかにこの辺の問題を主題にしているにも関わらず、その本質にあまりにも無頓着だ。なぜなら、「のだ」においてミクやテトは終始「歌わせられている」だけなのだから。
 大漠は、「ボーカロイドの真の姿は何なのか」という問題に、単にありきたりな答えを歌わせるのではなく、それが分裂するキャラクターの一つでしかないという諦念を表明させるか、あるいはもっと衝撃的な「真の姿」(ノッペラボーとか実体がないとか)を暴露させるべきだったのではないか。元と大して変わらない姿をもって「ありのまま」とし、それを答えにしてしまうのは、「ミクには可愛くいて欲しい」という勝手な願望以上の何物でもないし、「皆が求める姿」を体現しているに過ぎないだろう。
 そしてもう一つ、初音ミクや重音テトに「ありのまま」がないからこそボカロが発展してきた、という歴史にも、やっぱり「のだ」は無頓着だ。ボカロがここまで発展した背景には、初音ミクに厳格なキャラクター設定がなく、クリエイターが思い思いのキャラを投影することができたという事情(まさに「のだ」がテーマにしている事情)がある。もちろん、そのボカロ発展の歴史を「ボーカロイドのアイデンティティ不安」として批判的に読み替えたのが「のだ」なのだけれど、それに対して一解釈に過ぎない「ありのまま」の姿を押し付けることが批判力を持つとは思えない。
 そもそも「メルト」以降、ボーカロイドを一人の等身大の人間として歌わせる曲(それはつまり、ボカロが人格を持ったという設定で歌手としての思いを歌う作品でもある)が膨大に生まれたからこそ、キャラクターの分裂が激しくなっているのであって、その現状を捉えないで「ボーカロイドの真の姿」などを描けるはずがないのだ。ボカロのキャラクターの散逸を両義的に評価した上で、改めてそれを批判的に見つめる視点が大漠には必要だったはずなのに、それがない。
 ピノキオピーは「ミクが何を歌っても「歌わされている」に過ぎない」という問題について、「匿名M」の中で「まあ全部、言わされてるんですけど。」と自嘲した。あるいはDECO*27は一貫して初音ミクに女性差別的な像を投影してきた作家だが、ミクを「マネキンが着飾ったに過ぎない存在」に見立てることで、嘘っぱちでありながらそれゆえに何物にもなれる可能性も秘めた存在として両義的に描いた。両者はいずれも、「ボカロに歌わせる」という限界の先を見据えて作品を作っている。
 だが残念ながら大漠がそうしたクリティカルポイントを正確に把握しているとは言えない。これは「のだ」だけでなく他の大漠の多くの作品に言えることで、例えば「あいのうた」は、「のだ」と同じテーマに挑んでいるが、最終的には(消費者の欲望を反映した)ミクとテトの百合展開に軟着陸している。マジカルミライ2024の公募楽曲として制作された「はじまりのうた」も、ボカロ史の通覧を試みていながら、そこには「砂の惑星」や「愛されなくても君がいる」のような優れた視点や深い問題理解はほぼ存在しないと言っていい。
 話を戻す。「のだ」は2020年代のボカロの限界を正しく捉えられなかった結果、「ありのまま」を暴き出すことに失敗しているばかりか、消費者の勝手な願望(ミクやテトに可愛い少女でいて欲しい)を温存する結果につなげてしまっている。僕は「のだ」の「ボカロの真の姿」を主題に据えた挑戦自体には、敬意を表したいと思う。その一方で解決策として提示されているのは、ボーカロイドの一形態に過ぎない姿を「ありのまま」として提示する、あまりに鈍感な結論に過ぎない。ここではあまりに大きな問題が、ボカロが「歌わせられる」存在にすぎないという問題が見過ごされている。もし、「のだ」を「優れたメタフィクション」「作者天才」とだけ脳死で評価して、本当に取り逃がしている問題から眼を逸らしてしまうのなら、ボカロの明るい未来は期待できない。

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