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黒猫

 女はS県のある街のマンションに暮らしていた。勤め先の自動車メーカーのオフィスに近いから住むことにしたその町で、会社の帰りに、よく、そこらあたりにいる猫たちを見かけたなかに、大きな黒い牡がいた。

 黒猫はその界隈のボス格のようで、ほかの猫たちに一目置かれている様子だった。よく喧嘩もするらしく、いつも体のあちこちに傷があった。
 ペットフードなどをやっていたので、多少なついてきたようだった。黒猫というのは警戒心のつよいもので、ほかの毛色の猫のようには簡単にひとになつかないが、マンションの塀の上に寝そべっているのを見かけるようになったので、女は、おはよう、などと声をかけるようになった。それでも、こっちを一瞬じろっと見るだけで、いたって無愛想だった。

 そのうち、マンションの1階に住んでいた女の部屋のベランダによく来るようにはなった。

 一年くらいたった頃、女は黒猫が痩せてきたのに気づいた。なにか重病なのだということがわかった。部屋に入れてやると、いやがらずに入ってきたが、体中蚤がたかっていて、異臭も漂い、その体を洗ってやるまでが大変だった。すでに末期の有機体を察知した微細な生き物たちが押し寄せてきているのだった。

 黒猫との暮らしが始まった。

 毎日、勤めに出るとき、黒猫も外に出てきた。女が帰宅すると、猫も家に入ってきて、彼に与えた4畳半で寝るのだった。

 さっそく近所の獣医に連れていった。腹部の癌だ、半年もたないと言われた。

 そんなになっても、黒猫は誇り高く、女に撫でられはしても、膝に乗ってきたり、女の寝るベッドに来たりはしなかった。テレビを見ていると、隣に寝そべったりはしていた。

 衰えはますます進んでいった。やがて、餌も食べなくなった。もう表にも出て行かなくなっていた。

 ところが、ある朝、目が醒めると、隣に黒猫が寝ている。そんなことは初めてだ。撫でてやると、笑みを浮かべるような表情で、心地よさそうにしている。いよいよ死期が近いのだと女は感じた。

 その晩、いつものように会社から女が戻ってみると,猫の姿が見えなかった。

 いつも窓は全部閉めて出かけるのに、どこから逃げたのだろう。調べてみると、バスルームの隣の洗面所の窓を、出かけるときに閉め忘れていたのだった。1.5メートルは越す高さにある窓なのに、残っていた精一杯の力で飛び上がって、そこから外に飛び降り、誰にも見つからないところに死に場所を求めて行ったのだ。

 今朝甘えてくれたのが、彼のお礼だったのだと女は思った。動物は潔いと思った。


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