『ユリシーズ』の名詞句②

『ユリシーズ』といえば、「内的独白」であり、地の文の中に人物の心の中の言葉が織り込まれる。今日は、文学的観点からまとめてみる。(なお、より詳しくは橋本陽介『越境する小説文体』をご覧ください)

 『ユリシーズ』の「内的独白」部分を見ると、①人物による言語化される前の知覚 ②意識的な思考 の二つが織り込まれていることがわかる。ジョイスがその形式をまねしたとする『月桂樹は切られた』では、人物の知覚が断片的名詞句として表されている。

Le garçon. La table. Mon chapeau au porte-manteau.retirons nos gants; il faut les jeter négligemment sur la table, à côté de l’assiette; (中略)Mon pardessus au porte-manteau; je m’assieds;(p.11)
 ガルソン。テーブル。帽子を外套掛けに。手袋を脱ぐ、テーブルの上に、皿のそばに無雑作に投げてやらねば、(中略)外套を外套掛けに、ぼくは腰をおろす、(二八頁)

「ガルソン」「テーブル」などと、いちいち目にしたものを頭の中で言語化してあるいていたら、うるさくてしょうがない。前言語的知覚を断片的名詞句にしているのである。

 『ユリシーズ』では、前言語的知覚から意識的・言語的知覚に滑り込む形式がよく用いられる。


①Bald head over the blind. ②Cute old codger. No use canvassing him for an ad. Still he knows his own business best. (p.56)
①ブラインドごしに禿頭。②抜け目のないへんくつ爺だ。新聞広告を勧誘したってちっとも話に乗ってこない。とにかく自分の商売をよく呑み込んでるよ。(集英社文庫版、一四七頁) 

①Bald head over the blind.は、人物が知覚したことを表しており、②から先はその知覚したものをからの連想(「内的独白」)になっている。

伊藤整の翻訳 

『ユリシーズ』を早くに翻訳したことで知られる伊藤整は、この人物の無意識的知覚と、意識的な独白の訳し分けに無自覚である。

 クライヴ・ケンソオプの室からの富裕な若々しい叫び声。蒼白い顔。彼等は腹をかかへて互に寄り合ひながら笑ふ。ああ、息が絶えさうだ。オオブレイ、この話をお母さんへ穏かに話したまへ。死にさうだ。リボンのやうに裂けたシャツをはためかしながら、踵まで下つたズボンを穿いて、裁縫師の鋏を持つたマグダレンのエイヅに追ひかけられて彼はテイブルのまはりを躓きながら跳ねまはる。煮た果物を塗られて驚いた犢の顔。俺はズボンを脱ぐのはいやだ。ぢや俺と眼廻り牛をして遊ばないか。
 中庭の夕暮を驚かす開いた窓からの叫び声。マ・スユウ・アアノルドの顔を被せられ、胸あてをした聾の庭番が、草の茎の震へを注意深く見ながら、窓の蔭つた芝生の上で草刈機を推す。(『詩と現実』二巻、一四三頁)

 まず、「クライヴ・ケンソオプの室からの富裕な若々しい叫び声。」は外界から伝わってくる音であり、人物スティーヴンがそれを知覚したことを表している。これは非言語的な知覚を表す文である。次の「青白い顔」は曖昧で、叫び声を聞いたスティーヴンが思い浮かべていることであるが、言語化しているかは定かではない。「彼は」からこの段落の終わりまでは内的独白部分で、スティーヴンが頭の中で言語化している文である。
 その内的独白部分に「煮た果物を塗られて驚いた犢の顔。」という断片的名詞句が出てきていることに注目しよう。

 こんな内的独白を日本語でする人がいるだろうか?私以外の人が心の中でどんなふうに考えているかしらないが、たぶんしていないのではないか?

 なぜか。

 「犢の顔。」という名詞に対して、「煮た果物を塗られて驚いた」と長い修飾語をつける形は整いすぎており、頭の中の言語を模倣したものとして不自然なのだ。

 ここでは「躓きながら飛び跳ねまはる」様子から「犢の顔。」に連想がつながっているので、認知の順番を考慮した内的独白にするならば、「犢みたいな顔が煮た果物だらけだ」のほうが近いだろう。

 このように、伊藤は無意識的知覚と意識的な独白を、どちらも「長い連体修飾語+名詞」の形に翻訳しているのだ。「長い連体修飾+名詞」で独白をするとは思えない。むしろ、整えられた書き言葉である。


 換言すれば、伊藤の『ユリシーズ』は、言語化された内的独白と言語化されていない知覚を表す文の訳し分けに無自覚である。その結果、明らかに人物が頭の中で言語化しているコンテクストの中に、内的独白としては不自然な断片的形式(主に断片的名詞句)が入り込んでいるのである。

 ジョイスの断片的名詞句という形式を、整っていない思考を表すものとして使っている。ところが、それを翻訳した伊藤の文章は、きわめて整えられた形式になっているのである(続く)

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