推し
推しが好きだ。
そりゃそう。
とはいえ「推し」という存在に対する好きという感情ってちょっと誤解されてないかと思うことがままあり。というわけで私的な感覚の話を書き残します。あくまでこれは「私の場合」。でも特別独特なものでもない、よくあるお話のはずだから。
まず私にとって推しとは
「理想の投影先」
なのだと思う。
(正直まだしっくりきた言葉は見つかっていない。かろうじて自分の感覚に近いものというと今のところこれなので、当面はこれをベストアンサーとするつもり)
その証拠といっていいのか、自分に似たタイプが推しになることってまずない。
例えば、
裕福な家庭の出身である
家族円満である
両親がいる
感情のコントロールができる
知能の遅れが(おそらく)ない
空気が読める(暗黙の了解が理解できる)
ピンときやすい特徴といえばこんな感じである。
私とは正反対だ。ちょっと面白いくらいに。
私とは正反対の、成功版の人間って感じで、眩しい。
それでも、嫉妬みたいな負の感情は、彼らを見ていても不思議と生じないのだ。
本音を言うと、とても羨ましいとは思うのだが、それでも生まれるのは愛おしいと思う気持ちだけだ。
推しに対して生まれる好感情とは多分それのことだ。
(ちなみに私はアロマンティック/アセクシュアルであるので、恋愛感情は生まれようがない。そのため、例えばリアコ、ガチ恋と呼ばれるファンの気持ちは代弁できないしするつもりもない。)
ところで、私は元来かなり狭量な人間であるにもかかわらず、推しに関することにだけはいやに寛容になれる。
抑うつ症状が付きまとう日々に疲弊しているし、経済的にそう豊かではなくても、不思議と愛おしいと思う余裕は損なわれない。羨ましさからついケッと白けてしまうこともない。
なぜだろうか。
「信頼」だと思う。
つまるところ、生きることへの信頼をリストアしたいのだ。
持たざる人間である自分。
生まれたときから劣っていた自分。
生きたって、仕方なかった自分。
思い返せば、周りの人間も多分そんな感じだった。
親も兄弟も、あとは度胸さえあれば、多分もう生きることは選んでいない。皆疲れ切っていて、だから、相手にも自分にも丁寧でいられない。そうする意味ないから。結果的に常に緊迫している。
閉塞的な生活。
生きるってなんだ?
信じるに値する行為か?
生きない方がよくないか。
その方が、合理的だし。
そこに推しが現れる。
視界がさぁっと開けるような感覚だった。
え、これって、生きた方がいい人だ。
私はどうでもいいとして、この人生きてほしい。
生まれたての赤ちゃんを見ているときの感覚に似ている。
戸惑いと愛おしさで、身体がポカポカして、宙に浮いているような。
「この世界に幸せって有り得たんだ。」
私はそのことに心から安心するのだった。
幸せって実現し得るんだ。お家にお金があれば、発達の遅れがなければ、機能不全家族のもとに生まれなければ。私はもう無理だけど、そういう条件を満たせば、再現できるんだ。
その意味で推しは希望だ。
それに、親や兄弟やその他の人間に殴られずに、身体的でなくともなんらかの虐待を受けることなく育った人間が楽しく生きられないのなら、そんなのって嘘だ。
嘘であってほしい。
だって、そんな世界で一体誰が幸せになれるんだろうか。
どんなに恵まれても幸せになれないなら、いよいよ生まれてこない方がいいじゃないか。
人間なんて、いない方がいいじゃないか。
私が下方比較の対象になっていることだって、報われないじゃないか。
その意味でかなり切実に、モデルが必要なのだ。
だから、推しには両手におさまりきらないくらいの幸せを手に入れてほしい。
お金はありったけ稼いでほしいし、仕事に恵まれてほしいし、パートナーがいた方が幸せなら素敵な出会いがあってほしい。そして証明してほしい。
生まれてくることの正しさを。
私はそれを側から眺めながら、フワフワと眠りにつく。起きたら夜が来てしまうことを知っていながら。
いつかの配信で親が子どもに売春させる映画か何かについて、「非現実的」と言った君のことを、心から愛おしいと思った。
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